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「研究所のレッスン、調整、修正、鍛錬」 No.298

○ヴォイトレの特殊性☆

 

 声がほかの習い事と違うのは、すでにもの心ついたときから使ってきているものだからです。つまり、日常に行っていることを見直し、変えていこうとするからです。

 無意識にやってきているものとして、新たに見直すとしたら、他の例とは、ウォーキング講座や話し方講座のようなものでしょうか。でも、茶道でも武道でも、元はそういうものだった。

 こういう類のことは、新しくやることよりも面倒です。これまでの習慣で、知らないうちにがんじがらめになっているからです。求めることやレベルによって、調整、修正、鍛錬とそれぞれに違います。

 例えば、ことばをしっかりと読んだことのない人なら、早口ことばから始めてもよい。しかし、それが日常でできているアナウンサーなら、そのメニュは、これまでのくり返しにしかなりません。そしたら、イタリア語でオペラの1フレーズをやるようなことに挑むのが、声や、ひいては発音にもよいかもしれません。

 ここにこないと、絶対に一人ではやらない、思いつかない、わけのわからないこと、それを求めて人につく。自分でできないことをしないのなら、レッスンの意味がありません。自分でできることはできるだけ自分で、その方が、ここをより活かせるのです。

 

○「こういうときにどうしたよいか」という質問☆☆☆

 

 質問に対しては、一つの答えを与え、「それでできる」と思わせることが、もっとも当たり前に行われています。これは必ずしもよいとは思いません。例えば、何も答えないで表情で表すとか、こうしたらよいと、いくつかの事を、できたらわけのわからないくらいに、たくさん答えるとか、この私のように、ですね。

 そうすればよい、それでやるとよいということが、それでしかできない、それしかやらないという方向に行くとよくありません。それでできるはずが、それでできなくなったとき、行き場がなくなりかねないからです。

 一流のアスリートは、専門となるスポーツをする前に、別の種類のスポーツをしていることが少なくありません。錦織圭(テニス)はサッカー、朝原宣治(陸上)はハンドボール佐藤琢磨F1レーサー)は自転車、鈴木桂治(柔道)はサッカー、澤穂希(サッカー)は書道、プロ野球ピッチャーの前田、大谷、藤波は水泳など。

 これは種目でも同じで、けっこう多種目やる人が伸びます。より違ったことを学ぶこと、その複数の経験から気づくことが多いということでしょう。手段などというのは無限にあるモノなのです。

 私は、多くのトレーナーと会ってきましたから、よく、その人の方法やメニュの根拠を尋ねました「私の先生がそう言っていましたから」「本に書いてありました」と堂々と言うトレーナーも珍しくありませんでした。

 ですから、方法やメニュについて、メールなどで聞かれても、一つの正解を与えたくないのです。それが、これを始めた目的です。

 

○修正能力

 

 レッスンでは、次回に結果をみて修正できます。できないから失敗ではなく、それでうまくいかないということがわかれば、それでよいのです。ただし、1回くらいで結果としてみるわけにいかないから、時間や回数もかかります。レッスンの回数でできることもあれば、本人のトレーニングの時間がなくては、何ともならないこともあります。まともなことは、その2つが伴わなくては進みません。やったことをヒントに、次回に、その人により合った手が打てるのです。トレーナーが、その修正能力が高くなくてどうするのかということです。修正能力こそ、学ばせることだからです。

 ただ、どの時点で修正をするかも、我慢比べのようなところがあります。最近は、毎回、小さく修正して効果を実感させないと、トレーナーが信用されません。しかし、本当は、そういう指摘に依存するのでなく、本人自身がくり返しのなかで気づいて修正することでしか本当の力はつかないのです。自ら気づく、発見する力が問われているからです。修正することより修正する能力をつけるのが大切なのです。

 正確な知識や理論よりもイメージが大切なのは、まさに一般的な正解を排除するためです。☆自分の外に正解を求めてどうする、こういう当たり前のことがわからなくなっているからです。それを伝えるのがトレーナーなのに、その邪魔をしてはなりません。トレーナーのやさしさがお節介となり、レッスンが歓談の場となるのは避けたいものです。

 

○技術的なことのアドバイスや批判

 

 技術論や理論のレッスン、あまりそのようにしたくないのは、そんなことでよくならないからです。その暇に練習をした方がよい。これを読むより練習すること。優先順を間違えてはなりません。それは、「技術に頼るのは必要悪」と説明してきたとおりです。とことん行き詰ることが大切なのです。

 それに気づかない人には、いくら言ってもわからないと思うのですが、不平をもってやめるとなったら元も子もないから、いつか気づくように猶予期間を設けるようにしました。このQ&Aもその一環です。そういう間、他のトレーナーにお任せすることも多いのです。技術論のやり取りほど不毛なことはないからです。

 

○間違い☆

 

 多くの人は、間違いを正そうとか正しく覚えようとかして、技術を知りたがります。でも、相当にやらないことには間違いも生じません。本当の間違いはそう簡単に生じません。完全な間違い、いや、おかしいというところまできたら、トレーナーは、やむをえずストップする、これほどわかりやすい例はありません。学べるスタンスができるまでの許容範囲は広いのです。ほとんど何をしてもよいくらいです。出し尽す前に絞り込むからあとが伸びないのです。☆

 極端に言うと「喉を壊すから間違い」といっても、そうは壊さないし、壊せないものです。「壊したら間違い」も、「壊したら厄介」なくらいでしょう。壊しても元に戻ることが大半です。もちろん、わざと余計な苦労をすることは勧めません。

 本人が「間違った」と言うことでも、その経験から学ぶことが多ければ、長い人生で生涯かけて続けていくことなら、マイナスよりもプラスが大きいことになります。

 だからこそ、短期投資、ローリスクハイリターンのような伝え方をしてはいけないと思うのです。技術を教えてはいけません。それを求める人ばかりでは、そういう教え方ばかりになります。

 他人よりも自分に目を向けること、自分を知ることです。

 主体的とは、自分が声もヴォイトレも変えていくことです。それができるようになるためにレッスンがあるのです。批評家、評論家は、何年経っても声がよくならない。でもトレーナーになる。技術で学ぼうとすることが間違いであり、人は技術で間違うのです。私の経験したこと、学んだことです。

 

○声についての分析

 

 自分を知るのは大切ですが、分析などのデータや誰かの所見は、それを鵜呑みにしないようにしましょう。私もときに、そういうものを私自身や希望者にも使ってみます。自己申告の診断でも何とかそれらしい結果が出ます。使い方によってはヒントになります。

 自動車の免許更新でも適正チェックみたいなのが出されますね。でも、程度の低さや不甲斐なさなどは出てこないですね。占いとも似ています。誰が何のために作ったかとことも思うことがありますが、そこで時間をかけて、質問をつくった人と対話するのは無駄なことではありません。少なくとも自分では考えない問いからみえてくる自分もあるからです。それらをもちろん自分で、自分の判断シートをつくればよいのです。

 

○声の器

 

研究所や私やトレーナーは、最初は外にあるきっかけの一つにすぎません。それを利用して大きく変わればよいのです。そこでのメリットやリスクも、やる前に個別に説明しています。人によって違うからです。

 変わるとか変わらないというのでなく、大きく異なるほどに変わるのは、自分が決めるということです。変わろうと思わなくても変わっていくのが理想です。変わっても元と違うものにはなりません。いや、なってもよいでしょう。ヴォイトレで表面的にどのように変えても本人の声なのです。スーツを着て敬語を使っても、一声聞くと、その人のままなのです。いつでもやめられるし元に戻れるのです。

 それが異なったものとなるのは、相当な修行のレベル、年月と練習量がいります。それを誰も強いません。

 あなたの日常が変わらないのに大きく変わることはありません。小さく変わっていくのでもよいのです。変わるというのが怖いのなら、だからこそ変わると使っているのですが、それは器が大きくなるということにすぎないのです。その大きさを、私もそれなりの人もみています。声の器のことです。

 

○トレーナーとの関係性をみる

 

 ヴォイトレは、今のあなたの声をそのままよしとするか、メニュやノウハウで少しばかり大きくするか、無理に変えて別のものにする、などそれぞれです。トレーナーにもよります。同じトレーナーでも相手によって異なるものです。   

 私は、第三者としてみていますから、わかるのですが、トレーナーは、生徒との関係性については、自分を合わせてしまうため、どういうスタンスに自らと相手がおかれているのか、ほとんどみえていません。私も、スタジオに入ってしまうとそうなります。同じゲームのプレイヤーとなっているのです。このことのよし悪しは、「トレ選」で何回か触れてきました。関係を築くのでなく、その関係性をみる第三者が必要だと述べてきました。

 

○未熟と周辺の声☆

 

 あなたの今の声も無理に変えたくせ声も、違っているのではなく、未熟なだけ、器が小さい、いびつなだけで否定するものではないのです。声優のアニメ声の一部などは、まさに無理に別のものとして使っているものの代表例です。男性のファルセットも、そうなっている人がいなくもありません。

 問題は、それが中心か周辺か、本人の中心に近い周辺か、本人と離れた周辺かということです。それによって、しぜんとよくなるケースにも、なかなかうまくいかないケースにもなります。☆周辺になるほど無理がきます。しかし、そこを周辺として中心を知ればよいのです。中心に修正していくか、周辺も中心に含まれるように器を大きくしていくか、レッスンで両方を兼ねられたら理想的ですが、多くは、修正までもいかない調整で終わります。☆

 ところが、多くの人は自分の真ん中に中心をとらないで、他人の歌や声に合わせようとします。時にオペラ、ミュージカル、合唱などでは、あたかも本人以外に正解や基準があるように思ってしまいます。トレーナーも、本人が望むのだから、それを正しい目標とします。すると可能性が狭くなり限界が早く来るのです。

 それは、周辺を中心と思って深めようとするからです。これは、不利な勝負です。無駄とは言いませんが、最終的には、報われにくいし、努力の効率もよくない。しかし、表向きの器用さで選ぶ日本のレベルでは、早く形をつけやすく認められやすいノウハウになります。深まらないが早くできるということで、売り物になりやすい。初心者が飛びつきやすく、トレーナーにしても教えやすい。それだけに、用心すべき点です。

 それは、例えると、早口ことばで滑舌をよくするみたいなメニュです。私たちも入門用に使っていますが、それを2週間やると、大抵は淀みなく話せるようになります。なったところで大した力となりません。

 表現力としては、全く変わっていないし、声も変わっていない。ただ、つっかかっていたところがつっかからない、それで達成感があります。素人のなかで感心される手品セットのようなものです。

 それを、プロのマジシャンの一歩とみるのか、素人芸とみるのかは、その人のその後の歩みによります。そもそも手品セットで売られていることに限界があるのです。マジシャンでなくとも、その種は少し学んだ人には知られているからです。

 でも、人前で、自分も楽しみながら人を楽しませることはできます。小さいながらもエンタテインメントです。映画の「バクダット・カフェ」を想い出します。でも、それはプロ並みの大掛かりなマジックに進化しました。

 つまり、手品を、仕掛けを知ればできるツールとみるか、相手の心理からコミュニケーションまで学び、自分の身体でのパフォーマンスとして磨かなくてはできないものとしてみるかでは、全く違います。ヴォイトレも似たようなものです。が、案外と、「その手品セットいくらですか」みたいな質問がくるのです。

 

○ものの考え方、教わり方

 

 ヴォイトレで、トレーニングとかメニュとなると本来は個別になるものです。本などで具体化すると、一般の人や初心者が一人で使って大丈夫、安全第一で、大半の人に早く少々効果あり、と市販薬のようなものとなってしまうのです。

 そこは、個別のレッスンで深めていくしかありません。私は千以上のメニュと、その組み合わせを使っていますが、本当は、2つくらいでよいと思っています。それを気づかせるのに2つを何十にも変化させているのです。

 あるいは、他のトレーナーのものでもよいと思っています。本人がやりやすかったものを使うこともあります。

 要は、メニュでなく、それをどう使うかなのです。いくつかのメニュで使い方を賄うこともできます。

 お寺は信仰の入り口になりますが、対象とはなりません。どこから入っても、お寺でなくても仏像がなくても、信仰はもてます。制度や形にしたものの功罪をよく知るべしです。

 私たちの接する人のなかには、カラオケ好みで上手になりたい人といった、一般的な方々と対極にある人もいます。普通のヴォイトレのメニュでは、その範疇に入らない人も少なくありません。一方で、CD付きの私の拙書で間にあう人もいます。レッスンを求める人にも、いろいろといらっしゃるのです。

 

○一般的なヴォイトレで欠けている要素☆

 

 両手(隻手)を叩いてどちらの手が鳴ったか、という公案があります。声も、少しずつ表層を剥いでいかないと芯は出てきません。特に女子アナやアニメの声優さんは、表層の上に塗料を塗ったような感じですから、けっこう大変です。今の日本の社会では、メッキが厚く柔軟性に欠けた声だらけです。

 そういう人は、ここに来るのです。なぜなら、声優の教室や声楽のトレーナーでは、次のことが欠けていて、うまく対処できていないことが多いからです。ざっと挙げると次のような要素です。

1.声の芯(通る声)

2.強い声 大きな声(声量)

3.耐久性のある声、ハスキーでも使える声(タフさ)

4.太い声 低い声(個性的な音色、太さ、低さ)

5.柔軟で表現力のある声(応用力)

6.一声でその人とわかる声(個性)

 

○組織と人の育成

 

 一般的に、人が群れて、それに酔っているようなところに行くと、人は仲間になりたいと思い、しばらくは同調するものです。しかし、だんだん鬱陶しくなり、離れるか無視するのか選択を迫られてしまうのです。子供たちの成長、青少年の自立もその表れです。宗教や音楽、スポーツ、ときには、政治や市民運動など、集団のあるところでは、こういう状況がでます。祭りなどでもそうかもしれません。そこはピークで納めないとだらけてしまうのです。それゆえ、どんなことも内実を失わず続けるのは難しいものです。

 人として、誰もが集団や組織を羨ましくも思ったり、逆に、そこに関わり拘束される鬱陶しさを感じたりして過ごしているものと思います。

 そういう組織を判断するには、どうするのかという問題もあります。どの時代でも、コミュニティは似た問題を抱えているものです。

 ですから、研究所という装置、体制も、自らの体系や組織を否定できるところまでつくって、実行できるくらいのものでありたいと思うのです。組織でなく、個対個のよさを最大限に尊重するように改革してきました。

 伝統の重みで潰れたものを見ると、それは守りに囚われて、創る力、そのために破壊する力をつけるのを怠ったからです。そういう人材を育てたり受け入れなかったからでしょう。何事も、守りに集中して自己保身に囚われては、本末転倒なのです。

 

○活かす

 

 トレーニングは、自分を活かすのに使うものです。要は、今、小さく活かすのか、将来大きく活かすのか、なのです。

 自分を活かせぬように使う人も多いのです。それなりに大変でもあるトレーニングを、「すぐに少しよくなってお終い」のようなトレーニングと比べて否定する、でも、そのくり返しで同じようなところをぐるぐる回っている人が多いのです。腰を据えなくては何事もものになりません。ときに、若干ですが、一時、自分を殺しかねないようなものを乗り越えて活かしていく人もいるわけです。そのくらいのリスクと覚悟のいらないものにあたることがないのに、自分が大きく変わると思うこと自体がおかしいのです。そのあたりはセンスの問題です。つまり、対し方、使い方の問題なのです。

 

○自ら創る

 

 かつて、そこでアーティスト放任主義で、私の覚悟が伝わらなかったあたりに、私の若さや未熟さがあったのですが、本質をつかむのに時代は関係ありません。もう少しで深くなるところに、浅く楽なロープが降りてきたら、それを助けとばかりにつかまる人もいるわけです。

 この本質は、私がそう思っているだけで、それが通じていない以上、相手には本質として存在しないのですから、みえなければそこであきらめるしかありません。もっとパラダイムシフトを、つまり体系や型を揺らして本人が自ら創り上げていく手伝いを、具体的に身を挺して求めていくことが望まれたのかもしれません。

 当時から、声もせりふもヴォイトレも、本人自ら創っていくものとの思いは変わりません。多くの人は、固定観念からか、発声法は教えられるべきもの、声はこう出すべきもの、正しい発声があってそれを学ぶものということで囚われてはよくないのです。

 そこで私は、自分の方法にこだわらず、本質にだけ焦点をあてました。声楽というものも取り入れて、道標とするようにコラボしたつもりです。それをポップスや役者、声優ほか、一般の人のヴォイトレにもステップとして入れました。これは、今、考えても画期的なことでした。オペラの基礎を学べば、ビジネスマンの声もよくなるみたいなことだからです。しっかりつかめたら、それは当たっています。声に加え、歌においては、オペラ―イタリア歌曲、ナポリターナ、カンツォーネワールドミュージック―邦楽を一本の声の流れにおいたことも特筆したいことです。

 

○最初に会って行うこと

 

 声については、その人の求めるものを具体化にしていくことに尽きます。こうしたい、ああしたいと言いつつも、かなり曖昧で都合のよいことばかり求めてくる人も少なくありません。それを実現可能な方向にまとめていこうにも、さまざまな矛盾が出てくることがあるのです。それを問うと、「そこまで考えていない」とか、「どちらもすぐによくなりませんか」とか、前提を覆すほど無理なことになるので、そこからもう一度、一緒に整理することになります。方針は、レッスンと同じくらい大切なものです。

 特に、最初に本人が望んでいると言っていたことがずれてきたり、全く違ってくることも多いのです。これは、プロの人も同じです。

 これまでと全く異なる声を出すとしたら、当然、これまでの声へのリスクもあるし、大体は今の声も確定していないのです。簡単にうまくいくはずがありません。今の実力を安定させるという、リスクヘッジしてから、次の挑戦に入らなくてはならないことが多いのです。仕事を続けていらっしゃるのならなおさらです。

 

○できるということ

 

 これまでできなかったことをできるようにするというのは、これまでやったことのない人がやったことのないことをやれるようにするのと違うことが、あまりにもわかっていません。やったことのない人は、何でもやったら、他の人の平均レベルまで(一応、日本人の平均にしておく)いきます。(ほとんどヴォイトレやその本は、そこを対象にしています)

 しかし、うまくできなかったことに対し、特別のやり方や、メニュや、ノウハウがあって、すぐに解決できるなどというのは、信じないことです。ヴォイトレがそのためのものとするなら、早く解決したように思えて、そこで終わってしまうことが多いからです。あるいは、できたとしたら、それは、できなかったことでなく、これまでやっていなかっただけのことです。本当にできていなかったことをできるようにするのにトレーニングがあるのです。それには時間がかかります。感覚と身体が変わる必要があるからです。

 

○点検

 

 ヴォイトレのメニュのほとんどは、せりふや歌のなかでの一つのフォームでの取り出しによる点検にすぎません。ですから、根本的な解決になりません。解決するには、体、呼吸の強化、鍛錬も含め、全体の器を大きくするしかないのです。メニュが役に立つとするなら、それを何千回と使って身につけていくプロセスがあってのことです。

 ですから、私は、声のプロに対しても、日本人は、ほぼ器が不足しているゆえの問題と喝破しました。

 歌やせりふの声そのものから、その実力、基礎のパワーを、具体的には、声の芯、共鳴、フレーズのコントロールの力としてみます。そして、その弱さを、一フレーズで聴いての差として取り出したのです。そこを、日本のカラオケのチャンピオンがもつことは稀です。日本人にみえにくいところ、あまり重点をおかないところだからです。

 あるもの、ないものをはっきりさせて、ないものをつけさせるというのは、本当の基本トレーニングです。足らないから補充するのが、実践応用トレーニングです。

 そのあたりを、声でなく、声ではピンとこない人が少なくないので、プロ歌手には歌のなかの声で説明するわけです。そのときに本人が好きなアーティスト、そういう見本になる人が、声として実力があれば、わかりやすいことが多いのですが、いなければイメージして入れる、あるいは、あえて先に応用トレーニング(今の声の確実性を詰めていくこと)にすることも多々あります。そうなりたいのは本人であって、私たちがどうこうさせたいのではないのですから当然です。

 

○発声はどう変わるのか☆☆

 

 発声を学ぶと、これまでのことが、一時できなくなることもあるのですが、これまでのことが必要なら、変えるなと言うわけではありません。これまでのこともできるように、いえ、これまでのことが、より簡単に楽にできるように変わるところからでよいのです。プロセスでは多少、いろんなことがあると思いますが、結果として、よりよく出せるようになればよいと思います。

 そのあたりは、経験を踏まえ、バランスや優先順位、さらに確かなこと、わからないことさえも整理して正直にアドバイスしています。

 私の経験上、一直線でよくなるようなことは、今の状態の調整や使い方でのアドバイスに留まるので限度があります。根本的に変えるなら、若干、好転反応でありませんが、一時、とっつきにくかったり悪い状態になることがあるのです。考えてみれば、当たり前の事で、そうでなければすでにそのように自らがして、よくなっているのです。壁があるから、先に行けないのを超えるのですから。

 

○欠点と違和感

 

 結果として、できていった人をみるほど、欠点を取り除くのに急ぐのはよくないと思うのです。意識が変わり、日常が変わるだけでも、声は変わります。次に大きく変わる準備をし始めます。

 メニュは、型としてありますから、ときに、これまでの自分にそぐわない動きを強います。だからこそ、そこに意味があるのです。レッスンメニュには、違和感があるのがよいのです。

 最初、受付けなかった曲がいつの間にかとても好きになる。トレーニングのメニュにも、そのような時間的な変化が必要です。新しいもの、不慣れなものには違和感があってあたりまえです。すぐにそのメニュが馴染むというのは、これまでの歌をくり返しているようなもので、大して勉強になっていないのです。一つ次元の高い感覚に自ら変わることこそが大切なことなのです。

 

○どんなメニュがよいのか☆☆

 

 それでは、どんなメニュがよいかということですが、シンプルで、できるはずと頭では思っているのに、声が思うままにならないようなメニュがよいでしょう。それをくり返していると、比較的しぜんに、これまで馴染んだものを乗り越えられます。メニュができることはどうでもよくて、それを使っていることで、感覚、息、声などが深化することに意味があるのです。曲を覚えてメニュがこなせたと思わないことです。ヴォイトレなら声、声づくりのためにメニュがあるのですから、声の響きや質、柔らかさやしぜんさでみることです。

 

○メニュやトレーナーのやり方が合わない

 

 自分のやり方で限界を感じて他の人につくのなら、すぐに自分で判断しないことです。レッスンには、自分のやっていたことのない、できるだけ、すぐには合わない、ピンとこないやり方を使ってみることに意味があると思います。

 自分自身で、トレーナーも、メニュも、好きなのを選ぶのは、自主性がないよりあった方がよいというレベルでは大切です。

 私も、「好きなメニュでやってください」と言います。しかし、もし、これまでと同じことを同じレベルでくり返しているのでは、あるいは、メニュややり方が表向き違うだけで、レベルとして同じものなら、ストップをかけます。合っていてやりやすいものばかりのくり返しでは、大して変わりません。それは、もっともしぜんで理想的なプロセスですが、日常レベルと変わらないなら相当の時間がかかる、それなのに他の人並みに変わらないことも多いでしょう。

 本人はいろいろ工夫しているつもりでも、これまでやってきたやり方しか、大体は、使っていないものなのです。トレーナーにつくからこそ、今までやっていないやり方、知らないやり方を学ぶチャンスなのです。合わないのは、気にしないことです。

 合わせなくてもよいこともあります。歌い方というのもそうでしょう。曲が変わっても、大体は、同じようにしか歌えません。それは自分に入っているものしか使えないからです。合っているもの、それらは、やってきたことだからです。そうでないようにも歌えるように言えるようにレッスンするわけです。もちろん、強味をさらに強くするのと、これまでにないところや弱点を補うのとは異なります。その優先度や比率は、よくよくトレーナーと相談して考えるべきことです。

 

○できないことを教える

 

 すぐれたコーチというのは、その人自身のできないことまで教えてくれます。難易度が高くなっていくようなスポーツ、例えば、スケートや体操で、コーチがトップアスリートよりもできるのなら、コーチが出場したら金メダルでしょう。歳を取ってできなくなるのではありません。すぐれたコーチは、自分のできないことをできる人を育てているからすぐれているのです。そのイメージ力と実現の手段と選手を選ぶ眼をもっている、タイプによっての才能の伸ばし方を知っているから、名コーチなのです。そのコーチがいなければ、そういう選手は生まれなかったというのがコーチの真の実力、そしてコーチ冥利です。

 歌手が教えて歌手が育たないわけではありませんが、日本では、声楽家、邦楽家以外は、プロデューサーが選び抜いて、何とか実績をつくってきたというところです。

 ですから、私としては、トレーナーは叩き台、その人を超える人が出れば、まずはそこからだと思うのです。

 

<レッスンでのQ&A>

 

Q.本当に正しいやり方を知りたいです。

A.本質的なことは、言ってもそう簡単に伝わらないけれど、何回もくりかえしていると、感じられるようになります。しかし、接していなければ、避けていては、せっかくのチャンスも活かせません。

 誰もが続けていくと固まってくるので、ここでは私がそれをかき回す役となっているのですが、かき回すにも段階や準備がいるのです。

 

Q.どの声だけが使えるのか知りたいです。

A.なぜ、そんなに整然としたものを求めるのでしょうか。無理無駄を省きたいのはわかりますが、ここは一人ではできない無理無駄をするところとして使って欲しいのです。今の自分で限定したらもっと狭くなります。今の声でどの声が使えないなど決めつけるのはもったいないです。ありったけ出し、さらに出し、そこから考えても遅くないでしょう。

 

Q.教えても効果の出ない人がいます。

A.私のところでは、トレーナーは教えるというよりは、サポートする、支える役割と考えています。効果というのを具体的に目的として掲げていくことにも慎重です。あまり教えようとか何とかして効果を出そうと考えると、目先に走りがちになるからです。周りの人がちょっとよくなったり、あまりよくならない人が少しいたりというのは、効果というほどのものでもないように思います。すぐに効果は出なくても、何かが変わっていればよいからです。普通の人のレベルに足らない人を普通よりも上げるのと、普通の人のレベルの人をトップレベルにするのとは、全く違うことです。

 

Q.プロになるには、コードや音楽理論がいりますか。

A.使い道によっては必要ですが、歌い手なら、不要です。あまり、それに囚われてはなりません。理論に対して人はその知識に偏り、伴奏がうまい人はそこにこだわり、もっと大切なことに気づかないことが多々、あるのです。何かをもっているがために、もっと大切なことを見失っていることを恐れるべきです。

 

Q.歌は、ピアノで正しく学べと言われました。☆☆

A.歌は歌に学び、ピアノで学ぶものでないと思いますが、「楽譜で正しく」というのと同じように「ピアノで正しく音をとれ」ということなのでしょう。歌の響きは、ピアノという打楽器、打鍵してから響きが伸びるものと、少々違うのです。

 歌はビブラートや音の高低の僅かなズレで演奏のなかに埋もれず、くっきりと声の線をみせるべきです。平均律からの脱却を言っています。つまり、合唱のように一つの音に溶け合うのが目的ではないということです。大きく外れる人は合わせなくてはいけませんが。

 

Q.スランプについて、どう乗り越えますか。☆☆

A.「お前ごときでスランプと言うな」これは、あなたに対してではありません。自分自身に対して思ってきたことです。一流アスリートやアーティストのスランプの話を聞いてみてください。

 できたことができなくなったのがスランプですから、私などにはスランプは来ないのです。そんな私が、一流の仕事をしている方々からアドバイスを求められるのです。

 「一流のオペラ歌手は、生涯、発声法を変え続けています、そして、スランプを乗り越えます」というような例を出します。つまり、スランプは壁なのですから、これまでのプロセスを反省する機会です。次のレベルに行く前の総点検、そして、新たな力を得る機会と思うべきです。

 

<レッスンメニュのQ&A>

 

Q.メニュは何のためにありますか。☆☆

A.メニュは、声の動きとしての基本のフォーム、これを型といいます、それをつくるためであり、また、それから自由になるための型ということです。これまでもバスケットやボールや素振りなどで説明してきました。

 型というのは、形と違ってフォーム、動きの一定というものです。その人にとってシンプルになるようにレベル設定します。難しすぎると、こなすことで精いっぱいになります。第一の目的は感じること、そして認識することです。☆

 姿勢なら、写真でチェックするのでなく、立ったときの状態、少し肩のあたりを押してもびくともしない、衝撃を吸収できる柔軟な構造と動きをとれるかというようなものです。その人が充分にこなせるところまで、シンプルなメニュにすることで精度をあげるのです。

 これには、空間であり時間の流れも入ります。その日の型でもあり、曲やステージによっても変わります。さらに、生涯に渡って変わっていく型でもあります。

 そこでプランニングをして、将来まで設計図を描きます。それは、イメージトレーニングにもなります。それを本人と共に修正していくのです。メニュづくりはトレーナーの大切な仕事となります。

 

Q.具体的なメニュを少し教えてください。☆

A.音楽的なメカニズム、曲の構成、展開を、音程やコードなどとの調和でなく、メロディの単音として伝えられる力が必要です。一つの声の動きなのですから、そこが第一です。次に全体の調子や役割分担としての音楽の構図となりますが、それらをプロレベルに磨くのです。

 

Q.テキストの「マリア」のメニュの使い方を教えてください。

A.マリアというのは、maria、つまりハミングのmnmu)から母音のarは特に正しい発音のrでなくてもよいです。riiを入れてiaaで収めます。難しければmaiaとかma―でもかまいません。マリアという名前と関係なく、でも切って、マリア。マリア マリア マリーア(ミソソ ミソソ ミソファ)、この曲は、ウエストサイドストーリーの挿入歌「マリア」をホセ・カレーラスが歌ったものからの着想です。

 

<トレーナーに関するQ&A>

 

Q.トレーナーに必要な力は。

A.素材がプロで歌えるレベルなら、第一には、その修正力でしょう。よりよいイメージを出して修正していきます。片や、初心者やセミプロにはプラントメニュ、根本的に改革すべきプロのときはプラン作成能力と与えたメニュを使っての修正力でしょうか。

 その前に、喉を中心とした発声に関するスキャン能力が必要とされます。その精密さをどこまで細かくもてるかです。動きの中での細かさをみる力、声を出す力より聞く力が問われるのです。

 私も声と歌、例えば、歌詞でいうと、一つのことばどころか、一字だけでも入り方、伸び方、つなぎ方(切り方)と3つ以上の尺度でみていることもあります。

 今のカラオケのチャンピオン歌手などでしたら、新人歌手の歌唱のヴォイトレには向いています。ただ、尺度が一つなので、同じタイプにしか育てられないでしょうか。自分のもっていないものと相手のもっていないものがわかる人は、少ないと思います。

 

Q.オペラ歌手は、見本たりうるのでしょうか。☆

A.例えば、日本人が英語を学ぶのには、語学力以外のメリットがたくさんあります。発想や考え方、文化の違いを知る、さらに、呼吸、体、共鳴、表情、舌や口の使い方など、です。どちらがよいかでなく、やっていないことや異なることを学ぶことで、日本語の、特に音声について得るところは大きいのです。

 ここは、声楽をベースにしているだけで、オペラ歌手そのものやオペラの歌唱を必ずしも見本にしていません。ただ、学べるものなら、そのアプローチはとても有効です。日本人のやっていないことと異なることにアプローチして、より必要なことを認識できます。特に本人が独自のやり方でやっていたとか、他のレッスンをずっと続けてきたという人には、有効です。

 

<研究所への方針へのQ&A>

 

Q.音大生や音大出の人、オペラ歌手には対応しないのですか。☆

A.1割ほどいらっしゃいます。そこにはもっとも自信をもって、ここのトレーナーは対応できると思います。音大以上に人が育っていると自負しています。育つという意味が違うと思いますが。オペラ、合唱、ミュージカルは大得意です。音大受験も可能です。

 

<代表福島英へのQ&A>

 

Q.本は完成品ですか。

A.声と同じく、売ったときから私のものではないのですから、その人にとってどうかということです。本は締切り、最終校正の締切りで、私の考えは切り取られます。完成は、刷り上がったり店に置かれる日でなく、著者にとっては直しを諦めた日です。作品に、真摯に向き合うのなら、できる限り手放さない方、公開しない方がよいのですが、市場に預けるのは一つの勝負であり、諦めです。それをホームページやブログで補って、追加、フォローをしています。

 

Q.Q&Aは、なぜ続くのですか。

A.Q&Aも、よし、完璧という答えはない。そういう答えになるときが来るわけでないから、完成というより、よりよいものへ一歩でも近づけていくということです。完成品として出したときから、未完成です。そのままに出して、直せないなら追加する。次につながる答えでありたいので、Aが問い、Qは、皆さんの答えとみる方が当たっています。

 

Q.このQ&Aや先生の活動は、言論を通じての、ヴォイトレの普及ですか。

A.それは、およそ済んだと思っています。ヴォイトレもヴォイストレーニングも一般の人の知ることばとなりました。

 これらを説得する努力は、結果として、してきたつもりですが、「全てが説明できる」とは思っていません。すべての人に、でなく、すべてのことが、です。

 でも、あまりにそう思っている人が多いので、また、それに乗せられている先生も少なくないので、少々、老婆心も手伝って、経験からあたりまえのことを述べているのです。

 こういうあたりまでのことは、いつの時代もいつまでも、くり返し述べられてきたことです。いかに当たり前のことが当たり前でなく、人にわかってもらえないものかも知っています。

 同じことをずっと述べているのに、また同じことを聞かれるからです。誰よりも発言してきたし、こうして、いつも説明しています。説得したいとは思いません。ただ、何ら検証もせずに正しいとか間違いとか言うのはおかしいことです。そのような当たり前のことを述べているのです。

 

Q.なぜ、歌に惹かれたのですか。

A.歌い手は、いつの時代でも預言者です。私には、画家やデザイナーよりも、音やことばを扱う音楽家、歌手、詩人は、その先を行くように思えました。売れなくてはいけないというなかでは半歩先に止まり、つまり、わかりやすくなった分、よくなくなりました。

 「歌は世につれ世は歌につれ」で、同時代でということですが、そこは主に歌詞です。世の中の動きに伴った歌ができ、ヒットすると、世の中の人が、それに皆、のる、トレンド、ブームの作り手だったのです。

 ヴォイトレも、未来という先に対してデザインして修正していくのです。あるときから、私にとって、歌い手よりもヴォイトレの方が先取した仕事、クリエイティブに思われ始めました。それゆえ、一つの世界観ができてきたのだと思います。☆

 私が育った頃には、歌手は、詞や曲を渡され、自分のものにするために作品の全解体と声での再構築をするのがプロだったものですが、大人になる頃にはすっかり、シンガーソングライターが主流になっていったのです。さらにその後、プレイヤー、プロデューサーやアレンジャー、ミキサーなどの方が、よりクリエイティブになっていった時代だったと思います。

 そして今や、カバー、カラオケ歌手、ヴォーカロイドと、これもいずれ、どこかに意義を見出したいと思います。かつての日本のクラシックよりもかなり質量を伴わないレベルでクラシック化してしまったという感じです。

 

Q.先生のメニュすべてを学べますか。どのくらいの期間がかかりますか。

A.私の知っていること、できること、全てを学びたいという人もいます。しかし、私が示せるのは、自分の使っている声くらいのところで、そのプロセスとても、同じ年月を経ないと伝わりようもありません。すべてが伝わる必要もないし、同じ年月をかけるというのなら非効率です。そこは、私でなく、あなたの未来なのです。

 一方、メニュは、これまであった人以上たくさんあり、大半は、あなたの必要としないものです。ちなみに、ホームページをすべて読むだけでもかなり時間がかかると思いますが、チャレンジしてみる価値はあると思います。是非、徹底的に絞り込んで、ハイレベルに練り上げてください。

「呼吸と姿勢と発声」 No.297

○声の強化とコントロール

 

 ヴォイトレなのに、発声の状態保持、あるいは、調整をもってトレーニングと思っている人が多いことについて、これまでも触れてきています。

 なぜ、5年、10年後、声としてみると、ポップス歌手や声優よりもお笑いの人の方が、強く大きく声を出せ、コントロール力もついていることが多いのでしょうか。それは、彼らは、量と時間をかけ強化しつつ、コントロールしているからです。本来、それを効率化するのがヴォイトレであるはずです。さらに本来は、より早くでなく、より高いレベルにということを目指すべきものです。

 よく声優養成所や音楽ヴォーカルのスクールで、3年、5年とヴォイトレをやってきたと言う人がいらっしゃいます。でも声は、一般の人と何ら変わりません。声に対して量、時間をかけていなければ、せりふや歌唱での声の使い方についてはともかく、声量や深さ、強さ、耐久性に関して、ほとんどが当初と変わらないというのは当然のことです。歌い手はマイクが使え、音感、リズム感、声質、ルックスがよいので、幸いにもプロになれても、それに気づかずにいます。どこかでベテランとの差を知って初めて、こちらにいらっしゃる例が多いのです。

 調整のヴォイトレと、ここのヴォイトレを区別しなくてはいけなくなったのは残念なことです。プロになれる素質のある人が5年かかってやったことは、普通の人なら10年かかるのです。

 

○声そのものと使い方

 

 その前に、声の使い方のプロを、声のプロとは分けて考えるべきかもしれません。多くのヴォイトレは、前者のためで、私たちのは、後者のためのものだからです。

 一言で言うと、それは、アナウンサー、声優、ナレーターと、一流の役者やオペラ歌手の体、声のもつ条件との違いです。職業でなく全身や全感覚との違い、技術と芸との求める深さの違いかもしれません。声に関してということです。

 もちろん、ここで述べるオペラ歌手とポピュラー歌手、役者とあえて述べている俳優とタレントは、それぞれ異なるものが求められますから、あくまで一個人として、声からみた力ということです。

 日本でいうのなら、これまで、国語の先生には声の力は求められてこなかったということです。それでも、実力のある先生、予備校の林修氏などは、一言で人生を、他人だけでなくご自身の人生を、変えたではありませんか。

 24時間の中で声を考え、トレーニングするなら、会話はもちろん、歩行や運動も、となります。アスリートにとって、歩くのは歩かないよりもよいが、グラウンドやジムに行かないと、何のトレーニングにもならないものです。しかし、一般の人、特に病み上がりの人なら、ウオーキングも充分に負荷がかかる、ゆえにトレーニングですね。

 

ニュートラル、ゼロの声☆

 

 「脱力したしぜんな発声」と、イメージのことばは、何を示すのか、使う人によっても異なり、明確でないのですが、力みが入っているのをとることでスムーズにしぜんになることから、そういう言い方はよく使われています。つまり、余分な力が入っていない、リラックスした声のことです。

 どちらかというと、公の場など、声が気になるところに限って、発声時に緊張してしまう状況が多いので、尚さら、これが目的になります。うつ伏せにして「首に力が入っているでしょう」と言う整体師などと似ています。うつ伏せることで首に力が入るのです。

 そういうことで、ヴォイトレが第一にリラックスを目的としてのノウハウになってきたともいえます。つまり、普段通りの状況をゼロにして、緊張して固くなり力んだのをマイナスとみて、そこをゼロに戻すということです。

 私は、それはヴォイトレよりも呼吸やメンタルトレーニングで戻すことが充分できると思います。そういう点で、あなたのしぜんなリラックスした声は、これまたよく使われる、「自分の声」「本当の声」「本物の声」などとは、異なると思います。いうならば、ニュートラル、ゼロの声であり、スタートラインに過ぎないのです。

 レッスンでふだんからの声のくせをマイナスとしてとることはあります。性格、環境、特に家庭も含めた対人関係での影響からつくってきた口調によるものも多いです。まずは、自分の声をよく聞いてみることからです。

 

○声をみる

 

 例えば、「鼻から吸う」と教えられたため、その形に固まって、歌うのがふしぜんになった人をたくさんみてきました。そう教わらなければ、その教えを守らなければ、歌うときに鼻から吸う音など出るはずがないから、すぐにわかります。吸う音がいけないのではありません。吸うという行為が鼻とわかるほどに部分的に見えること、反射的に体に息が入らず、ゆっくり少しずつしか入っていかないことでの制限、息の浅さ、呼吸コントロールの不備がよくないのです。腹から吸い込んでいるときは、そういう不しぜんさに違和感は感じません。

 トレーナーが間違っているとは言いません。そういうトレーナーはそう教わり、それで歌うことのできる人だったに違いないからです。あるいは、実際には、それを守っていないこともあります。

 生徒が、その教え方でできるようになるときもあるでしょうから、教え方が間違っているとも言いません。でも、歌に明らかにマイナスであれば、歌うときは、そのノウハウを捨てる自由を優先することです。

 まじめで従順な生徒は先生を信じているのでこうなりがちです。私は、「自分やトレーナーの言うことは信じるな」とも言っています。ことばは、状況で変わります。私もいろいろとことばを変えてきました。ことばの限界をことばで述べてきました。理論も考え方もことばの使い方も変わっていくものです。私たちも日々学んでいるのです。だから声をみる、みることができるようになることです。聞くのでなくみるのです。

 話したことを、まずは素直に受け取って、その後、徹底して自分で追及するようにと、願っています。納得したことだけが身につく、それがレッスンに対して必要な、本当の自主トレの目的です。

 

○鼻呼吸と姿勢☆

 

 トレーナーの教え方、ことばが間違いとは言えないまでも、無理を引き起こしているのに、トレーナーが気づかない、あるいは、相手に応じてうまく納めないと、そのまま、それに囚われたままになります。

 トレーナーには、うまく使えているのに、教えた人には使えないときはよくあります。これは人によって違うケースにも多いです。体は一人ひとり違います。そこで、より深い問題を見逃しているときがあります。

 例えば、顔が前に出ていると、首が曲がって鼻呼吸しにくくなります。自ずと口呼吸になってしまいます。そこは本当は、姿勢の問題として直すことなのです。姿勢の型の問題が呼吸に出ているのに、呼吸で直そうとする人が多いのです。すると、鼻呼吸では苦しくなってしまうのです。

 トレーニングは、鼻呼吸といっても、実際は、自由、口鼻両方使えばよいのです。トレーニングでも、歌や発声のときに口で補ってもよいのです。

 問われるのは表現で、お客さんは、呼吸法を見に来ているのではないということを知っていれば、トレーナーの言うことが絶対ではないとわかります。そしたら、その人なりに解決するはずです。表現が決めていくのです。それゆえ、大きな表現での大きな器づくりを設けるのがレッスンであり、本番よりも強い必要性を満たすのがトレーニングなのです。

 

○吸うということ☆

 

 呼吸に関して、具体的に3つのアプローチがあります。1.強化、鍛える。2.目的や必要度、個人としての差を考え、調整する。3.一つ手前、基礎の基礎を固める。そのプロセスでは、どんな方法もありえます。

 そして、ことばの問題が出てきます。私は「吸う」トレーニングを原則として行っていません。「吐いたら入る」トレーニングをしています。つまり、鼻も口も耳も眼も開いていて、どこから入ってもよい、自由です、と。ちなみに、横隔膜は吸気筋です。

 口呼吸は健康上も悪者扱いされています。ですから、金科玉条のように鼻呼吸と、トレーナーが言うのは一理あります。それで、その後のケアまで引き受けていたらダメとも申しません。トレーニングですから、本番と異なることでよいのです。

 たかだか、ことばです。しかし、ことばの使い方一つで、トレーナーの熟練度がわかるものです。つまり、感覚や感性の鋭さは、ことばに出るのです。

 例えば、「前に立てたろうそくの火を揺らさず、鼻につけたちり紙を揺らさず響かせる」みたいなのを、理想の型と伝えた人も、そう思った人もいました。共鳴の技としては、ワイングラスを割るようなもので、できる分にはよいけど、本来の目的とは、違います。できなくてもあまり問題はないし、まともな一流の歌い手は、ろうそくも消すし、ちり紙も飛ばす、自由なのです。

 

○パターンを破るパーツ化☆

 

 自由と言うと勘違いされるので、もう一つわかりやすい例でいうと、役者なら、練習で大声で全身で笑うこと、本番ではその眼の動きを知って無表情で眼だけで笑うこと、これがレッスン=トレーニングと本番の違いになります。日常でできる人もいると思いますが、若いときには難しいから全身の動きを使い、腹から大笑いをして身につけます。

 パントマイムは、体をパーツに分解して、それぞれそこだけ動くようにレッスン、トレーニングします。日常でできない動きで芸が支えられる、そこを補うのがレッスンとトレーニングです。だからこそ、客は錯覚するわけでしょう。

 私たちの体はしぜんに、日常の動きでパターン化されて動いています。しかし、緊張したり、他人の役をやったり、非日常な虚構を演じたときに、そうはなりません。それに対応するには、より強度な心身とともに、さらに精密に細かく心身を認識し動かす必要があります。そこで予め、いろいろと動かしておいて、いつも自ずと自由に動かせられるように準備しておかなくてはならないのです。そこがレッスンとトレーニングのもっとも基礎となるものです。

 強化は丁寧さのためのもの、それが私なりの、型での注意点です。

 

○不自由の自由

 

 歌で不自由になる人が、なぜトレーニングでさらに不自由になるのでしょうか。それは、不自由をよしとするのでなく、一時の不自由、より大きな自由の獲得のための段階でなくてはなりません。トレーニングは、本番とは全く違うというのは、なかなかわかってもらえません。

 形という格好から入って、そこから恰好だけではない支えとなるものを実に入れて、型となるのです。野口(三十三)体操なども、日常に入っている力を抜くことが至難だから創られたのです。つまり、日常というものも、すでにしぜんでなく、その人の毎日の使い方によって癖がつき、バランスが乱れているのですね。

 ピアノのレッスンは、左右の指の運び方、動かし方、指の鍛錬、強化のような練習法をとります。それは、なぜかわかりますか。バラバラに強化してもつながらないので、丁寧に一つの動きに再統制するためです。よりしなやかになめらかに、強くも弱くも弾けるようにします。曲を何百回と弾いて癖から抜けられないのと(ときに抜けられる人がいますが)指一本から学ぶのとの違いですね。ピアノを練習して3年、5年でプロのピアニストになれた人はいないはずです。まずは、徹底した量、最低限の絶対量が必要、それが声の場合、何時間とか定量化できないのです。

 ここでは、ヴォイトレを一音レベルで徹底しています。しかし、そうしないケースは、そこまでの必要がその人にないのなら、それはそれでよいと言うのが、ここでの私の立場です。

 

○しぜんに

 

 「しぜんに」という、そのしぜんとは、そう簡単にはわからないものです。心身は一体なので、新しい型、違う型をやると頭で止まるのです。そこで、引いてしまう人と頭を消して乗り越えられる人が分かれるのです。人によりますが、頭を変える方がずっと大変です。

 理論づけしないと使えないという人には、それなりに理論づけしてあります。しかし、理論というのは、他の人に継承されても実践で全く異なっていくのです。すると、実践をみて、その理論の元のものまで否定されるようになりがちです。

 発声も、日常の声の使い方、動かし方の延長上でなく、質が違う、次元が違うのに、混同してしまうわけです。

 自分というのは、身体全てであって頭はその一部です。しかも、脳だけで考えているのではありません。声に問われることは、身体を意識することです。特に呼吸へアプローチするからです。体という構造よりも全身の機能を重視するべきです。まして、喉だけにこだわり過ぎるのはマイナスにしかなりません。

 

○呼吸☆☆☆

 

 呼吸法、法というのは、型と同じく、そのまま実践で使うのでなく、実践時に自由に無意識で使えるようにするための体系です。具体的に例えるなら体操のようなものです。本番になると緊張するから平時のリラックスを覚えるというレベルで呼吸法が使われるから、余計に混乱します。

 型に押し付けて、そこでまねにまねて、つまり、鋳型に入れて、とことんやって型を脱し、自分のスタイルを見つけるというのは、スポーツ、芸事などによくある考え方です。しかし、これも誤解されて適用されていることが多いです。全員同じようにやるからです。本当は、一人ひとり違います。

 自由にできないのは、日常のリラックス状態に戻れないからではありません。日常レベルにプロの技量でできるような人は、ほとんどいないのです。プロでも本番で非日常モードになります。リラックスは、日常での縛り、慣習、くせをとるためのものにすぎません。

 バレエのように、元より日常とは、違う歩き方や踊り方を目指すものは、新しいこととして習得するのでわかりやすいでしょう。呼吸は、日常、誰もがしています。人前で、せりふを言うため、歌うためには、高いレベルで必要とされるため、使い方は違うのです。正しい呼吸というのではなく、深い呼吸、高度に声をコントロールできる呼吸を覚えていくためのアプローチが、呼吸法、型です。

 しかし、習得していくと、呼吸も発声も日常で使うものだけに、日常にもそういう深い呼吸、深い声が使われるようになってきます。つまり、一体化していくから、さらにわかりにくいわけです。

 ですから、「腹式呼吸を覚えましょう」では、すまないのです。例えば、そのために自由に歌えなくなる人がいます。それは、プロセスですから、もっと使えるようにならないと歌やせりふに使ってはよくない結果となるものです。「腹式呼吸など覚えるな」と言うトレーナーもいますが、それはこういうわけです。

 つまり、変えるにも、馴染んでいなくては、そういう体での感覚、呼吸、筋肉群の力がないから、使ってもうまくいかなくなるのです。時間をかけてそれを身につけて、使えるようにしていくのが、唯一の解決というものです。

 外国人は、このレベルでの深い呼吸、声を日常ですでにもっていることが多いものです。ですから、彼らに日本人が教わってもあまり変わらないのです。

 鼻呼吸などを教えられ、口を閉じて無理を強いられてふしぜんになっているときは、元に戻す必要があります。

 

○柔らかさ

 

 しぜんなものは、柔らかく丸いのですが、マニュアルで考えてしまうと、しゃちこばって固くなります。そこから、どうしなやかに柔軟にしていくのかがレッスンです。このときに、くり返しでの慣れ、つまり、惰性でできることだけでなく、そこでの限界を超えることを考えておく必要があります。

 つまり、固い、柔らかいの変化に終わらず、そこから上のメニュ、柔らかい+固いをセットしていく。角を落とすだけなのと、つるつるに研磨されるのとは、手間の違いだけでなく、求める完成度の高さの違いです。なのに、柔らかい―固いを対立させ、次にさらに柔らかくなるための固い状態を、「間違っている、やめるべきだ」という、解決法が一般化してしまったように思います。そうでなく、そこは、プロセスとみて、次のレベルをハイレベルに課題設定することです。これは、自然―無理(強い)、調整―鍛錬、状態―条件づくりの関係と同じです。

 

○ワープする

 

 そうなるのは当たり前、つまり、一度できた、をできないにして、また、できるようにする。できたことがくり返せなくなるのでなく、できたことを当たり前として、次に、同じことをできていないとみるのです。つまり、基準自体が上がるということです。同じ次元でなく、一段上に、螺旋状のようにしぜんに上に行くのが理想です。

 上に行けば、何らかの壁を与えなくては、その上に行けなくなるのが普通です。上がり切ったらどうするのか。ワープするしかない。そこで、これまでの自分を超えるのです。

 これまでと異なるレベルでの課題を与えないと異なる解決などできないものです。その連続、レベルで見ると、螺旋的なアップのくり返しこそが、トレーニングの目的、レッスンのセッティングの意味なのです。つまり、上がり切るまで上がる、そこまでにトレーニングするのは、上がるためでなく、そこから先のためであるのです。

 どんな練習も少しずつ難しい課題にしていきます。同じことをずっとはやりません。もし、同じことなら、より精密にやるようにしていく。それは基本として応用を基本に巻き込むために必要です。つまり、普通の人の器の外にある応用を器の中の基本としていくのです。それが、器を大きくするということです。

 あるいは、基本で同じことを深め、異なることに応用する、つまり、次々と異なることに応用で展開して基準をチェックするというのもあります。

 

○身体

 

 身体、体と身、体は、そこにあるモノとして、身はそのモノの内身、実をも含んでいます。心身というのをおくと心―心身―身体―体のように分けられそうでもあります。

 ものや人へのこだわりや執着から抜けること、発声やヴォイトレということからも抜けること、それなのに、抜けられないから声を使う。声を使って忘れるのです。音楽を聴いて忘れたり、カラオケで心を真っ白にするのもよいでしょう。そのとき声も(歌も)忘れる。自己も忘れるのです。心身脱落を目指してください。

 声の根っこには何もない。実体がないのに発せられ、伝わる。自分の集まり発散されていく。そのときに自分の体のなさから悟っていくのです。「身心脱落」とは、道元のことばです。声も下脱するのです。

 

○共鳴

 

 首の位置はまっすぐにします。顎を引くだけでなく、それよりも体の真上にのせておく、マネキンのようにです。日本人の軟口蓋のあげ重視は、やや行き過ぎのように思えることもります。鼻にかかるオペラ歌手のように、です。藤山一郎近江俊郎の発声などは、日本人には向いていてわかりやすいのでしょう。

 鼻にも喉にもかかり、高音においては、固定して操作された動かし方は、単調でふしぜんになりがちです。邦楽にもみられます。中低音の音や低音に重きを置いているのかもしれません。

 物理的、楽器的でない、人の顔の響き、声楽は頭、胸ですが、邦楽は喉と顔にも思えるのです。

 ドスやかすれも含んだ独特の個声、「浪花節だよ人生は」の悪役者声、ヤーさんの仁義を切る姿の声をイメージできますか。

 

○心身の自立

 

 ことばは、ときに大いに邪魔になるものです。心身を捉える、特に自分の身体で対話すべきレッスンを、話、おしゃべりで邪魔されてしまうときが少なくないのです。ただでさえ、そこを気づかないできた人には、特に多いことですが、ことばでわかろうとして、疑う、不安、迷いからの質問は、本来、タブーなのです。よいことがないのです。

 抵抗感、照れくさから、レッスンに入りきれないままに進めてしまわないようにしましょう。

 ゆったりしたところでないと、深い呼吸などはできないものです。しかし、効率を考え、早く身につけたいという頭が邪魔をします。

 一つのレッスンで十のことを覚えなくともよいのです。たった一つの違いが感じられたら充分です。十のレッスンで一つ気づいてちょうどよいくらいなのです。 

 食べることと同じ、ゆっくりと噛んで味を味わうべきでしょう。

 トレーナーの期待に応えようと、まじめで熱心で心やさしい人は、そこで身構え、緊張し、うまくいかないことがあります。それは、トレーナーに振り回されているのであって、そこから自立することです。自分を取り戻さなくてはなりません。自分の体、心であってこその自分の声となるのです。でもレッスンに慣れることで、必ず先に行けます。

 

○心身の統一

 

 生命力で心身の統一を試みてください。立つ、歩く、手と腕、内臓感覚を意識します。そこから背中のつっぱりをとります。頭の解放から身体全体の統一です。

 

○体験と実感の違い

 

 体験から気づくことを頭で邪魔しないことです。

 教えられることに根拠や正解が示されないことに不満や不安を持つというのは、あまりよいことでありません。頭で思い込んでいることを捨て、体で感じて、腑に落ちて、動くのが本当なのです。それを実感してください。実感しようと心掛けてください。

 自ら、気づき動くこと、考えて生きること、それを同次元におく。その場をつくる。

 そこにいればよいというのがトレーナーなのです。そういう場とそういう関係が成立していれば、教えられなくてももっと大きくたくさんのことを人は学べるのです。

 

○動いてみる☆

 

 人生を変えたければ行動を変えればよいのです。人は、同じところからみている限り、同じにしかみえないものです。ところが、動けば、みえる世界は一変します。ときおり、動かしてみせるのですが、同じにしかみえない人もいます。つまり、新たにみえるものをみていない人も多いのです。みているというのは自分のみたいようにみている世界だからです。でも、その見方は絶対か、普遍か、真理か、疑ってみることです。そうでないというなら、なぜいろんな問題が、これほどあるのでしょう。

 

○同一性から多次元に

 

 自己防御機能がすぐに働いて、これまでと変わらない人がいます。例えば、よい人にみられたい、そしてそう振舞う、それは悪いことではないのですが、そのため、言い訳で正当化したり、ごまかしが起きてしまうようになるのです。婉曲や逃避や、まねることや同化、責任転嫁も知らずと起きてしまいます。自己のイメージにつじつまを合わせるためにそうしていると、いつの間にか、本当の私というのを別につくることになりかねません。創るのは創造、創造物ですから、別の自分でよいのです。

 「どうしようもないわたしが歩いてゐる」(種田山頭火

 

○信頼する

 

 褒める、モティベートをかける、勇気づけることは、とてもよいことです。

 自分を受け入れ信頼することです。他人を尊敬し信頼することです。

 

○無心に

 

 海で浮こうとすると沈む、泳ごうとすると泳げない。でも、力を抜いたら沈んでも浮いてきます。プールで仰向けになると、口で息しようと顎を上げたら鼻に水が入るし、沈む。顎を引いて体を伸ばしたら、少し沈んでもスッと浮きます。

 発声も、よく似ています。少し沈むところで顔や眼に水がかかると、あわてる。だから溺れるのです。海とか水とか意識せずに寝そべればよいのです。無心にしぜんに。声や歌から一度離れることです。

 

○働かす

 

 感じ取って必然としていく、一つ一つの意味を、です。体も心も、声もことばも一つ一つにあるものを細かく認識していくのです。

 力には限度があります。最大にも最長にも限定をつくってしまいます。力を入れず、働いた力を動かすのです。心身がほぐれるためのノウハウを日本人はたくさんつくりました。

 

○基本の基本

 

 少なくとも、他の人が基本というのは、私にはかなりの応用です。その元の元の基本の基本辺りをゆっくりやっているのです。

 

○目覚める人

 

 禅、ヨーガ、宗教音楽も、その状況、雰囲気で心を打たれていることが多くあります。異次元経験の少ない人ほど、一度ではまってしまうのですね。スピリチュアル、ヒーリング、浄化は、田舎に行くことのない生活への補充のようなものです。

 ですから、そういうものにはまってリラックスしている間に、却って病気になったり社会に適合できなくなる人も少なくありません。この社会というのが何を指すかは、難しいところで別の社会を見つける人もいるのですが…。

 ヴォイトレをして、開かれ、目覚めて、会社を辞めたり沖縄に渡ったりする人もいるわけで。ヴォイトレでおかしくなったのをヴォイトレで直すのも変ですが…と、ときに正気に我に還らせます。

 

<姿勢のQ&A>

 

Q.すべての力を抜けばよいのですか。

A.虚脱状態では、体の重さを支え切れず、倒れるしかなくなります。支えましょう。

 

Q.一瞬で、緊張状態を緩和させるには。

A.フッと強く息を吹く、それで心も体も変えることができます。ため息の効用です。

 

Q.なぜ、フォームづくりが大切なのですか。☆

A.偏りや崩れを防ぐための型なのです。矯正というのは、誰しも窮屈に感じるものです。しかし、そこから、無念無想、しぜんに動けるように身につくのです。

 型は、自由にすると偏り崩れるのを正します。つまり、自然に任せ、くり返すとついてしまう悪い癖、崩れ、偏りを防ぐのがレッスンなので、型として、メニュを使うわけです。☆

 

Q.心を落ち着かせる姿勢とは。☆

A.爪先立ちして、このとき、背が反らないように注意します。そして、トンと踵をおろす。重心もおとせます。電車で揺られても崩れない安定した姿勢は、楽でバランスのよい、長く保てるものです。

 

Q.「上虚下実にしろ」とは。☆

A.下腹に落ち着け、上腹は力が入っていないこと。ときに下腹で力む、つまり、腹づくり、腹を練る、丹田を練る、などの意味をもちます。

 

Q.日本人の姿勢は、どう違っていたのですか。☆

A.日本人は、腰を落とし膝を曲げて踏ん張って生活してきました。農耕生活がベースです。私は、ドジョウ掬いなどを思い出します。バスケットボールの基本練習で似たメニュがあります。重心を落とすのです。ただし、骨盤はまっすぐ、上半身もまっすぐでした。着物で畳に床座、帯で下腹部を前に張ったとき腰骨で引き締めることができます。それは、張らないと帯がずれてしまうので、腹を膨らませてキープするわけです。腰を入れる、膝を伸ばさないのは、素早い動きのためで、骨盤は後傾しています。リヤカーを引く、神輿を担ぐなどの動きです。不安定な足場でふらつかないためです

 

Q.気をつけは、よい姿勢なのですか。

A.背筋が伸びているのはよいのですが、背中の筋肉だけをピンと張る、気をつけ、では、反り腰気味になりますので、発声ではよくありません。腰痛にもなりやすいです。

 

Q.楽な姿勢がよいのですか。

A.楽な姿勢というのは、大体において、悪い姿勢です。外見が悪いなら、よくないのです。よい姿勢のときは、長くそのままでいられます。悪い姿勢は、どんどん悪く、だらけていきます。体幹を使っていません。そこで見分けてください。

 

Q.なぜ、ストレッチでリラックスできるのですか。☆

A.筋肉を緩めたいときに、緩めた感じを受け入れるのは難しいが、緊張させた感じにはすぐできます。そこで先に、それを行ってからの方が、やりやすくわかりやすいからです。ストレッチで筋弛緩になるのがリラックスといえるのかは、私は別問題と思うのです。ただ、例えば、肩をリラックスさせるには、肩を上げて緊張させてから下した方が早いのは確かです。

 

Q.筋肉を緩める方法を知りたいです。☆

A.ヨーガ、気功、ストレッチ、自律訓練、野口体操、野口整体、西野式呼吸法、西式呼吸法、アレクサンダーテクニック、フェルデンクライスメソッドゆる体操など、他にもたくさんの心身技法があります。体操、武道やスポーツにもたくさんあります。

 

Q.鬱と姿勢と声は関係ありますか。

A.はい。うつむいた姿勢でいると落ち込み、鬱になりやすいと言われています。暗く籠った声になります。

 

Q.鬱になりやすい姿勢はありますか。☆

A.鬱に向くのは、うつむく姿勢です。肩を内に入れ胸を狭め、前かがみの猫背、下を向くか目を閉じます。

 

Q.発声では、声の他にどこをみますか。☆

A.呼吸、筋反応、歩行、姿勢、表情(特に眼)対人折衝能力などでしょうか。

 

Q.体の状態を掴む言葉を教えてください。☆

A.頭が高い

愁眉をひらく (柳)眉を逆立てる

頬が緩む

顔向けできない 汗顔の至り

手に汗握る

引け目 弱り目 落ち目 祟り目

首が回らない

肩をいからせる 肩肘張る 肩身が狭い

胸が詰まる

息がつまる 息苦しい 息を殺す 息抜き

息が合う 腹立つ 腹を据えかねる 腹を割る

背筋を正す

腰が引ける 逃げ腰 および腰 腰を据える 腰を入れる

腰が低い 粘り腰 二枚腰 腰が重い

 

Q.どうしても座ると猫背になるのですが。☆☆

A.骨盤を前傾にしておくには、胸をあげて顎を引く意識と脊柱起立筋を保つことができなくては、難しいのです。普通に座ると膝が曲がって、そのハムストリングスは、坐骨と脛骨や腓骨についています。そこで、坐骨が前に出ると骨盤が後傾します。崩れた姿勢になり、そこで首を前に出すと猫背となります。足を開いて、またがるように座るとよいでしょう。

 

Q.椅子とあぐらと正座は、どれがよい姿勢になりますか。☆☆

A.椅子の背もたれに腰、背中が付いて、真っ直ぐに座るなら、椅子がよいでしょう。正座は、脊柱起立筋に緊張をかけませんから、同じくらいによいです。前屈み、横座り、あぐらは、負担が大きくなります。

 

Q.よくない姿勢とは、例えばどんなものですか。☆☆

A.疲れたら、姿勢は、顎が出て膝が曲がります。「明日のジョー」の両手だらりの戦法「打倒、力石へのスウェイバック」で、不良姿勢ということですね。このとき、壁に背をつけると、頭とお尻がつきません。骨盤は後傾しています。ガニ股になる人にも多いです。

 

Q.気をつけの姿勢は、だめなのですか。☆☆

A.骨盤が前傾して、反り腰もよくありません。腰(椎)が反っているので肩が前に出ます。内股の人が多いですが、前のめりになりやすいです。顎が出て頭部が後ろにいきます。腹が出たり、妊娠しているときやハイヒールを履くときにこうなります。

 

Q.着物を着たときのピンとした姿勢は、よいのですか。☆☆

A.骨盤が真っ直ぐ、背筋真っ直ぐ、一見、正しそうですが、腰椎の前弯がなく、脊椎がストレートになり、仙骨の前傾もないのは、よくありません。つまり、S字カーブがないのです。壁に背をつけてみると、仙骨と肩がついて、後頭部がつきません。フラットバックといいます。これは、大腰筋、ハムストリングスを鍛えましょう。

 

Q.正しい前屈姿勢を教えてください。☆☆

A.重量挙げのときの姿勢を参考にしてください。デットリフト、「死の挙上」と訳せばよいのでしょうか。これでアスリートは、ハムストリングス、大殿筋、脊柱起立筋をメインに、僧帽筋、広背筋まで鍛えています。体操やバレエの前屈も参考になります。背骨、首、頭が一直線上に地面、床と上半身が並行になる、つまり、足―腰―頭で直角を作るということです。

 頭が下がると血が下がりますから下げないこと。両手はだらりと下げてください。足は少し開きます。

 

Q.姿勢とは何ですか。

A.「姿勢とは、私がこの世界に存在し、世界に触れている、その形である」と竹内敏晴氏が言っています。

 

Q.姿勢のバランスをとる方法を教えてください。☆

A.荷物の重さを左右均等にします。あるいは交互に持ちます。リュックサックがよいと言われていますが、前後バランスにはよくないです。後より前でもつのがよいです。靴はスニーカーがお勧めです。靴底のすり減り方でチェックしましょう。

 研究所には「姿勢椅子」があります。前かがみ、中腰で、重い荷物を持つのはハイリスクです。

 

Q.もう限界で力が出ないというときは、どうしますか。

A.脳も体も肺も、全ては使われていないのです。限界というのに、自分の決めたイメージです。これまでの経験で何となくこのあたりと決めてしまった、少ない回数や、かなり以前のことで定めたものかもしれません。動物的、野生の勘、気配などと通じるかもしれません。

 それに対し、火事場のバカ力を取り出すことです。

 

Q.体のイメージの捉え方をアドバイスしてください。☆

A.生物としてみると、人も円柱で真ん中に穴が通っている。上から、口から食道、胃腸、肛門の管のことです。そのイメージで、声を出すという教えもあります。自分の体を樽やドラム缶のようにイメージするのです。オペラ歌手といえば、太っているというのがステレオタイプでした。体を風船のようにしてというのは、上半身を一つにというイメージですね。これは、肋骨で囲んだ円柱のなかに肺がある、というイメージです。重力に抵抗して立つことを支えるのは骨格です。これが骸骨です。そこに筋肉がついて、円柱となるのです。竹組みに紙を貼った提灯をイメージしてください。

 

Q.腰の筋肉をほぐすには。☆

A.腰の筋肉をつまむつもりで、背骨のところの筋肉に触ってみましょう。

 そこで上体を前屈したり、反らしてみます。前者で緊張し、後者で緩むのがわかりますね。ときおり、背を反らしてほぐしておくことです。

 

Q.心技体、ヴォイトレではどれが中心ですか。

A.狭義には、どんなトレーニングも技の習得のメニュを組んでいます。それを心と体が支えています。体の強化、量が質になったところからが技です。それを支えるのが心です。

 一流になると心が全てです。相手が誰であっても、自分の力が100%出れば、よい結果が保証されているからです。アスリートでなくアーティストとしてなら、もう一つ、身口意というのを知ってください。体言葉、心のことです。私は、言葉より口=声として捉えていますが、言霊、マントラ(真言)も、さして区別の必要はないと思います。イメージだけでなく口に出してみることが大切です。

 

Q.骨盤が歪んでいると言われました。☆

A.医学的には、仙腸関節のねじれなどになるかもしれませんが、姿勢などで歪んでいると、使われるときは、前が下がったり、後が下がったり、左右どちらかが下がる(つまり、その逆が上がる)という傾きのことを指します。姿勢によっても傾きます。この場合は、股関節など、周りの筋肉の問題で、傾きが固定してしまい、歪んだことを示しています。

 

Q.前屈ができないほど体が固いです。☆

A.立って前屈して、両手を床につけられる人は、股関節、腰椎がスムーズに曲っています。できない人は、腰椎や仙腸関節に負荷がかかって曲げられないことが多いのです。背骨や腰の筋肉が固いように思われますが、股関節の柔軟性が大きいのです。どんな運動でも続けたら改善します。

 ちなみに、腰をひねる動作のほとんどは股関節が担っており、腰椎は左右5度くらいしか回らないものです。

 

Q.インナーマッスルと姿勢との関係は、どうなのでしょうか。☆

A.とても深い関係があります。上に横隔膜下に骨盤底筋群、周りに腹横筋、多裂筋(腹部)に囲まれたところに内臓があるのです。それによって姿勢も保たれています。

 

Q.肩甲骨がずれていると言われました。☆

A.猫背になると肩甲骨は外側に引っ張られ、なで肩になります。胸部の大胸筋や小胸筋も固くなります。いつも動かしていると、大体は治ります。

 

Q.ふくらはぎがむくみがちなのは、よくないのですか。☆

A.ふくらはぎの大半は下腿三頭筋です。腓腹筋とヒラメ筋の総称です。ここは第二の心臓と言われ血液を上へ押し上げています。また、足先に続く長母趾屈筋と長趾屈筋は、立つとき、バランスをとるのに欠かせません。

 

Q.腰痛の原因は何でしょう。☆

A.重い頭は、直立でないと負担が部分的にきます。それを足の裏だけで立つ、そのために腰はかなりの複雑な動きをもって動くようになっている。ゆえに、人間のみに腰痛がおきます。強く支えつつ、いつも、いろんな方向へ動いて衝撃を吸収しているのです。

 強い支えだけなら肋骨ですべて固定すればよいようなものですが、そうなっていないのは、腰をひねる、というか、腹と股関節をひねるということですが、ためです。

 

Q.腰痛の防止方法を具体的に教えてください。☆

A.腹筋や背筋を鍛えても腰痛になります。腰痛を防げるわけではありません。腰痛になって、筋肉が固まってからの筋トレは危険でもあります。水泳も、体を冷やします。心地よく歩くことがよいのです。森林浴がお勧めです。

 

Q.横隔膜の下、つまり、腹に入っているのは何ですか。☆

A.腹とは、胃というなら、食べたものや胃液です。腹腔でしたら、胃の他に小腸、大腸、肝臓、膵臓脾臓、胆嚢、膀胱、生殖器などの臓器です。

 

Q.全身を骨盤で捉えるようにと言われました。☆

A.骨盤は、前や後ろに固定されず自由に動くので、真っ直ぐな背筋で硬直していないことが]必要となります。胸、横隔膜、お腹の一体感が大切です。肩が縮こまらないように、また、腕が上がらないことがないように、角張らないことです。肩は胸につながっており、呼吸に影響します。(肩帯、菱形筋、胸筋、胸骨)

 腕を伸ばしましょう。上半身は下半身の支えで、本来、自由になっていることです。頭は首で体につながっています。支えられているのであり、垂れているのではありません。顎=骨盤の流れで、そこに、眼―性器のつながりがあると捉えてみるとよいでしょう。

 

Q.正しい歩き方を教えてください。☆☆

A.踵をつけてから、足の親指中心に、地面を握るようにして歩きます。砂浜で是非、経験してください。

 

Q.血流について教えてください。☆

A.血流が滞っていると酸素、栄養と老廃物を交換できず、筋肉は硬く縮み、凝ったり張ったりする状態になります。それは、骨や神経を圧迫します。姿勢が悪いから、より血流が滞り、より血流が滞ると姿勢が悪くなるのです。

 自律神経の交感神経優位で体の過剰反応が起きます。自律神経は血管や心拍数を司っているからです。必要がないからです。

 毒、たばこ、アルコール、大気汚染、食生活の乱れ(量、時間)、添加物、電磁波、低周波、薬、化学物質、有害金属、洗剤、殺虫剤、ホルムアルデヒドなどで、ドロドロ血流になります。

同じ姿勢を避けることです。運転、座り方、席などを変えましょう、スマホ、パソコン、TV,カバンをもつ手を変える、ハイヒール、冷え、へそ出しなどもってのほか、腹巻をお勧めします。

 

<呼吸のQ&A>

 

Q.息が浅いとは、どういうことですか。☆

A.脳幹の根元の延髄が命じて、横隔膜が縮み、内膜が下がり、お腹が膨らみ、肺に空気が入ります。吸気です。その命令が止まると、お腹が元に戻り、横隔膜も上に戻り、吐く、呼気です。ぐっすり寝ている人をみてください。話しや歌は、吐気でコントロールするため、腹筋をより使うことになります。胸式は、胸郭を広げて急いで吸気を補うことができます。息が浅いのは、腹式だけでなく、胸式も関係します。胸部の筋肉が硬いと広がらないからです。

 

Q.息を吐くことが苦手です。☆

A.吐けば入ってくるので、思いっきり吐いてください、と言っても、吐けない人が増えました。運動経験や運動習慣が少ないと、筋力、柔軟性に乏しくなります。また、体幹部も硬く、体が使えないのです。無理は禁物です。少しずつ吐けるようになりましょう。

 

Q.丹田式の呼吸は、どういうものですか。☆

A.下腹の筋肉群の使い方の名人は赤ん坊です。下腹部の収縮で内臓が上がり、横隔膜が太鼓の皮のように張る。腸腰筋、錐体筋、腹斜筋、腹直筋などですが、呼気にも体幹を保つ姿勢の維持にも欠かせません。

 丹田呼吸法、肥田式強健法の肥田春光の正中心の呼吸法、藤田霊斎の調和息、その他の武道、養生道に下腹、丹田中心は共通しています。鍼灸でいう関元というつぼです。臍下3~5センチとか三寸とか。恥骨のあたりの錐体筋。恥骨から鼠蹊部にかけてのところでしょう。ちなみに、下腹部の筋力で動かしても、そこからへこむ膨らむのでなく、みぞおちがへこんだり膨らんだりするのです。

 

Q.逆腹式呼吸の仕組みは。☆

A.大きく吸い過ぎると胸部が大きく広がりお腹がへこみます。そこで少し肩の力を抜いて吐くとお腹が膨らむのです。これを意図的に強調すると吐くとお腹が膨らむ、逆腹式呼吸となります。

 

Q.うまく息を吸えません。☆

A.吸えなければ吐く、吐けなければ吸うことです。少し大きめに思い切り、口で難しければ鼻でもかまいません。どちらで吸ってどちらで吐くかは、あまりこだわらないでよいです。

 

Q.いつも、呼吸は深い方がよいのですか。☆

A.浅い呼吸は、闘争状態で、それが必要なときもあります。これは、外敵や不安のストレス反応で、交感神経優位で副腎からアドレナリンなどストレスホルモンや心拍、血圧が上昇し、筋肉は緊張しているのです。

 

Q.呼吸はどうするのですか。

A.つなげようとする、つながらない、止める、止めてみる、すると、ずっとつながりやすくなる、つながっている。そんな感じで、意識やことばにはなりませんが、それをとることでうまくいく。なるようになることが多いのです。

 体から息を吐く、声にならない、だからおかしいのではありません。思いっきり吐く、それがコントロールできないからで、雑、荒っぽい、そこが丁寧にコントロールされるなら歌としてはよくなります。無理なら少し大きさを抑えていけばよいのです。

 

Q.口の方が呼吸しやすいのですが。☆☆

A.頭が前に出ると、舌根が下がり、気道が圧迫されます。口呼吸がしやすくなるのです。個人さはかなりあるのですが、一般的に、ということです。

 

Q.口呼吸は、なぜよくないのですか。☆☆

A.口呼吸は、腹横筋が弛緩して使いにくくなるとか、腰椎を支えにくくなるとか、脳への血液量不足による働き低下、頸の緊張、固有感覚受容器たる筋紡錘に影響し、頸性神経筋症候群などに。これらは、めまい、ふらつき、うつにつながることもあります。

 

Q.ドックブレスと長い呼吸は、どちらがよいのですか。☆

A.目的が違います。速く強い呼吸は、ストレスをかけて呼吸に関する筋肉を強化します。深い呼吸はゆっくりですから、リラックスしてメンタル面を改善し、呼吸のコントロールを習得するものです。真逆のようですが、トレーニングには両方とも必要だと考えています。前者は、リスクを指摘されることもありますが、瞬時に呼気する必要などを満たすのに、また、お腹から強く言い切るのに補助となるトレーニングです。

 

Q.Fuを使うのは、なぜですか。☆

A.「フゥー」は、世界共通の基本の声、リラックスのため息でもあります。

 

Q.呼吸に自覚は必要ですか。☆

A.「出る息は出る息とよく知りよく覚れ。入る息は入る息とよく知りよく覚れ」(釈迦「大安般守意経」)これは、精神集中のための呼吸法としてですが。

 

Q.呼吸を意識的に行うと、力が入ります。

A.筋力でなく呼吸の力を使いましょう。吸うこと、吐くこと、止めることに意識を持ち、次に解放します。そして心や感情のつながりに意識をもっていくのです。深呼吸して、それをしやすい姿勢をとれたら、意識を離していくのです。

 

Q.呼吸のイメージについて、ヒントをください。☆☆

A.円の呼吸、吐気での発声、そのキープ、停止から吸気とを一つの円のようにイメージするのです。急に声にしたり、急に声を切ったりしないということです。ぶつけたり、いきなり断ってはいけません。早く吸うよりも、早く入ってくるように、それも直線的より曲線的に、です。

 

Q.呼吸は、日本人の生活にどう影響していますか。

A.書道も香道も呼吸でしょう。歌を詠む、書いて水に流す、絵に描く、など。

 尺八は呼吸の鍛錬になります。とはいえ、不立文字です。

 

Q.真の呼吸とは、どういうものですか。☆

A.白隠の夜船閑話(やせんかんな)に「真人の息はくびす(踝)を以ってし、泉人の息は喉を以ってす」とあります。声もまた、しかりです。観息し、数息(すそく)する息をみつめて悟る。息を数える修行をするのです。

 

Q.呼吸とプラーナは関係していますか。

A.プラーナは、プラー(前へ)とアンー(息する、動く、生きる)から派生したもので、前へ息をする、生命エネルギーというふうに捉えられます。

 

Q.道を歩きながらの呼吸トレは、よいでしょうか。☆

A.私は、トレーニングは、一人で静かなところでコツコツと行うのが理想と思っています。しかし、充分にその時間や場がとれないことが多いなら、プラスにはならなくてもマイナスにならないように、トレーニング状態のキープの日常をセットするようにしています。

 

Q.狭い部屋の中での呼吸法はよくないですか。

A.狭いよりは広い方が、天井も高い方がよいと思います。広さよりは空気です。クリーンさです。外気を入れて、自らの体が気持ちよく取り入れたくなるようにしましょう。呼吸をしやすい雰囲気で行うのが理想です。

 

Q.どこでも呼吸トレーニングすべきですか。☆

A.排気ガスや空気のよくないところでは、自ずと呼吸も浅くなります。そこで深く吸うようなトレーニングは健康上、お勧めはできません。早朝の新鮮な空気の中、ほこりのないところで行いたいものです。

 芳香剤、消臭剤、洗剤、漂白剤、殺虫剤なども、影響される人がいます。ということは、そうでない人にも決してよくはないわけです。そう考えると、毎日の食べ物や飲み物にも、気を付けなくてはいけないことも自明でしょう。

 

Q.呼吸を分けてみてください。

A.いくつか挙げてみますと、吐息―吸息、胸式―腹式(腹式―逆腹式)鼻呼吸―口呼吸、長い息―短い息、速い息―遅い息、深い息―浅い息など。

 

Q.気と呼吸との関係とは。

A.気が上げるのは緊張状態、浅く速く短い息、胸式、呼気が中心です。気が下がるのは落ち着いた状態で、深く遅く長い息、腹式、吐くのが中心でその逆です。

 

Q.呼吸と筋肉との関係について、知りたいです。☆

A.胸式呼吸と腹式呼吸は混在しているのですが、あえて分けて述べます。胸式は、ラジオ体操の深呼吸で、胸を広げて(胸部)息を吸うと、横隔膜と腹横筋でお腹はやや引っ込み、背筋がピンとなります。吐くと、両方の筋肉は働かず前のめりに背中が曲がりますね。それに対して、腹式は、横隔膜が下がり、お腹が膨らみます。腹横筋は、吐くときに補助し内臓を圧迫して横隔膜を戻します。(下げる)姿勢は安定したまま深い呼吸ができます。

 

Q.美木さんのロングブレスの呼吸法は使えますか。☆

A.もとは、腰痛を治すためにつくられた健康法です。特徴は、3秒で一気に吸い、3秒で吐き、手足にも力、さらに下腹部へ力を入れたまま4秒吐き、お腹をへこます。110秒で6回(2つのパターンを行う)

 私は、他の呼吸法や発声法については、コメントは差し控えています。何でもどう役立つかはわかりませんし、形をみただけで実際はわからないからです。とはいえ、目的やメリット、デメリット、注意点、可能性や限界、うまくいく人やタイプやレベルなどは、およそわかります。もちろん、つくった人の意図する使い方を正しくできる人が、それほどいるとは限りません。本で伝わるもの、DVDで伝わるもの、トレーナーに教わり伝わるものでは、かなり、その比率が違うでしょう。

 しかし、一般の人に好評なものは、その許容範囲が広いといえます。荒っぽく雑でも効果が出るというなら、ヴォイトレでも、そのくらいのつもりで取入れてよいと思います。つまり、何もやらないよりは何でもやってみたらよい、ということです。

 発声やその呼吸などとは、別の運動と考えてみてはいかがでしょう。健康は全ての基本です。

 

Q.腹式呼吸は、お腹に力が入りますか。

A.結果としては、入らない方がよいのですが、アプローチとしてはいろいろあります。プロセスにおいては、どんなことでもあってよいと思います。世の中には自分と異なるやり方、アプローチ、メニュを頭から否定する人、やってみて自分に合わないからと否定する人がたくさんいます。が、何であれ、そこから何を学ぶかなのです。

 やってみて合わないというのを学ぶのもよし、しかし、本当にそうだったのかは、そう簡単に言えないでことしょう。自分のやり方以外にも役立つことはたくさんあります。そのことを認められないのは愚かなことです。腹式呼吸は、どこでも必ず取り上げられているのにも関わらず、本当に使えている人などはとても少ないのです。学んだつもりでも使えていない人がほとんどです。トレーナーでも3割といないでしょう。

 どのレベルをもって判断するかということですが、本当は、一声でわかるほど明らかなものです。そうでない人も腹式を教えているのですが、それも否定はしません。体を使う、心を使う、そして体を抜き、心を抜く、静かな呼吸が腹式ですが、息と声が異なります。

 表現に大きく使うのには、こうしたリラックス、力を抜くことが不可欠です。高度に集中しているのと正反対のようになることもあります。でも、最低限、声を支えられていたらよしとすることもあります。表現のために呼吸が崩れることもありましょう。

 最初に結果を得られるものでない、得られたらよいのです。

 腹式呼吸のマスターというようなメニュもあります。それも小さな結果ですが、ちょっとした応用、心身の整わないときは、呼吸も意識もあがってしまうでしょう。10分かけてゆっくりと呼吸に専念しましょう。

 

Q.呼吸と人生との関わりとは。

A.出る息、吸う息、その一つの呼吸の間に生きるということ、命があるわけです。そこを大事にしなくてどうするのでしょうか。曹洞禅の根本道場、永平寺を訪ねたことがあります。なかなかに活気のある寺でした。

 

Q.体のイメージの捉え方をアドバイスしてください。☆

A.生物としてみると、人も円柱で真ん中に穴が通っている。上から、口から食道、胃腸、肛門の管のことです。そのイメージで、声を出すという教えもあります。自分の体を樽やドラム缶のようにイメージするのです。オペラ歌手といえば、太っているというのがステレオタイプでした。体を風船のようにしてというのは、上半身を一つにというイメージですね。これは、肋骨で囲んだ円柱のなかに肺がある、というイメージです。重力に抵抗して立つことを支えるのは骨格です。これが骸骨です。そこに筋肉がついて、円柱となるのです。竹組みに紙を貼った提灯をイメージしてください。

 

<発声のQ&A>

 

Q.お腹から声が出ません。

A.腹から笑っているのが、もっとも無駄なく完成度の高い結果が得られます。へそ下三寸に意識をもっていきます。そこは、多くの人が思うよりもかなり低い位置です。力が入らない下腹部で、臍下の一点と言われます。腹を据えるところ、腹が決まるというところです。腹が太いと声も太くなります。

 そこは、今の日本の若い人の失ってしまった感覚、隠れたポイントに思います。声としては、低く太く大きく、胸の中心に振動を感じつつ下げていくのです。喉がなりすぎたら違います。ここは無理をすると、つくり声、喉声になりやすいので注意を要します。イメージとしては、邦楽(長唄、詩吟、民謡など)、あるいは外国人の低音をお勧めします。

 

Q.発声は、意志によってなされるのですか。☆

A.痛みや恐怖で声を上げるときは、反射です。発声は心身の反応、オペラント反応とレスポンス反応です。(これをレスペラント反応ともいいます)呼吸反応や筋反応も、表情や姿勢も同じです。

 

Q.腰の筋肉をほぐすには。☆

A.腰の筋肉をつまむつもりで、背骨のところの筋肉に触ってみましょう。

 そこで上体を前屈したり、反らしてみます。前者で緊張し、後者で緩むのがわかりますね。ときおり、背を反らしてほぐしておくことです。

 

Q.心技体、ヴォイトレではどれが中心ですか。

A.狭義には、どんなトレーニングも技の習得のメニュを組んでいます。それを心と体が支えています。体の強化、量が質になったところからが技です。それを支えるのが心です。

 一流になると心が全てです。相手が誰であっても、自分の力が100%出れば、よい結果が保証されているからです。アスリートでなくアーティストとしてなら、もう一つ、身口意というのを知ってください。体言葉、心のことです。私は、言葉より口=声として捉えていますが、言霊、マントラ(真言)も、さして区別の必要はないと思います。イメージだけでなく口に出してみることが大切です。

 

Q.骨盤が歪んでいると言われました。☆

A.医学的には、仙腸関節のねじれなどになるかもしれませんが、姿勢などで歪んでいると、使われるときは、前が下がったり、後が下がったり、左右どちらかが下がる(つまり、その逆が上がる)という傾きのことを指します。姿勢によっても傾きます。この場合は、股関節など、周りの筋肉の問題で、傾きが固定してしまい、歪んだことを示しています。

 

Q.前屈ができないほど体が固いです。☆

A.立って前屈して、両手を床につけられる人は、股関節、腰椎がスムーズに曲っています。できない人は、腰椎や仙腸関節に負荷がかかって曲げられないことが多いのです。背骨や腰の筋肉が固いように思われますが、股関節の柔軟性が大きいのです。どんな運動でも続けたら改善します。

 ちなみに、腰をひねる動作のほとんどは股関節が担っており、腰椎は左右5度くらいしか回らないものです。

 

Q.インナーマッスルと姿勢との関係は、どうなのでしょうか。☆

A.とても深い関係があります。上に横隔膜下に骨盤底筋群、周りに腹横筋、多裂筋(腹部)に囲まれたところに内臓があるのです。それによって姿勢も保たれています。

 

Q.肩甲骨がずれていると言われました。☆

A.猫背になると肩甲骨は外側に引っ張られ、なで肩になります。胸部の大胸筋や小胸筋も固くなります。いつも動かしていると、大体は治ります。

 

Q.ふくらはぎがむくみがちなのは、よくないのですか。☆

A.ふくらはぎの大半は下腿三頭筋です。腓腹筋とヒラメ筋の総称です。ここは第二の心臓と言われ血液を上へ押し上げています。また、足先に続く長母趾屈筋と長趾屈筋は、立つとき、バランスをとるのに欠かせません。

 

Q.腰痛の原因は何でしょう。☆

A.重い頭は、直立でないと負担が部分的にきます。それを足の裏だけで立つ、そのために腰はかなりの複雑な動きをもって動くようになっている。ゆえに、人間のみに腰痛がおきます。強く支えつつ、いつも、いろんな方向へ動いて衝撃を吸収しているのです。

 強い支えだけなら肋骨ですべて固定すればよいようなものですが、そうなっていないのは、腰をひねる、というか、腹と股関節をひねるということですが、ためです。

 

Q.腰痛の防止方法を具体的に教えてください。☆

A.腹筋や背筋を鍛えても腰痛になります。腰痛を防げるわけではありません。腰痛になって、筋肉が固まってからの筋トレは危険でもあります。水泳も、体を冷やします。心地よく歩くことがよいのです。森林浴がお勧めです。

 

Q.全身を骨盤で捉えるようにと言われました。☆

A.骨盤は、前や後ろに固定されず自由に動くので、真っ直ぐな背筋で硬直していないことが]必要となります。胸、横隔膜、お腹の一体感が大切です。肩が縮こまらないように、また、腕が上がらないことがないように、角張らないことです。肩は胸につながっており、呼吸に影響します。(肩帯、菱形筋、胸筋、胸骨)

 腕を伸ばしましょう。上半身は下半身の支えで、本来、自由になっていることです。頭は首で体につながっています。支えられているのであり、垂れているのではありません。顎=骨盤の流れで、そこに、眼―性器のつながりがあると捉えてみるとよいでしょう。

 

Q.正しい歩き方を教えてください。☆☆

A.踵をつけてから、足の親指中心に、地面を握るようにして歩きます。砂浜で是非、経験してください。

 

Q.血流について教えてください。☆

A.血流が滞っていると酸素、栄養と老廃物を交換できず、筋肉は硬く縮み、凝ったり張ったりする状態になります。それは、骨や神経を圧迫します。姿勢が悪いから、より血流が滞り、より血流が滞ると姿勢が悪くなるのです。

 自律神経の交感神経優位で体の過剰反応が起きます。自律神経は血管や心拍数を司っているからです。必要がないからです。

 毒、たばこ、アルコール、大気汚染、食生活の乱れ(量、時間)、添加物、電磁波、低周波、薬、化学物質、有害金属、洗剤、殺虫剤、ホルムアルデヒドなどで、ドロドロ血流になります。

同じ姿勢を避けることです。運転、座り方、席などを変えましょう、スマホ、パソコン、TV,カバンをもつ手を変える、ハイヒール、冷え、へそ出しなどもってのほか、腹巻をお勧めします。

 

Q.腰痛の防止方法を具体的に教えてください。☆

A.腹筋や背筋を鍛えても腰痛になります。腰痛を防げるわけではありません。腰痛になって、筋肉が固まってからの筋トレは危険でもあります。水泳も、体を冷やします。心地よく歩くことがよいのです。森林浴がお勧めです。

 

Q.横隔膜の下、つまり、腹に入っているのは何ですか。☆

A.腹とは、胃というなら、食べたものや胃液です。腹腔でしたら、胃の他に小腸、大腸、肝臓、膵臓脾臓、胆嚢、膀胱、生殖器などの臓器です。

 

Q.なぜ、力が抜けないのでしょうか。

A.かっこわるい、怖い、いい加減になる、つまり、日頃の合目的の行動は力を入れる、力を使うことが求められるのに対し、その逆をすること、意志をもって行うことの逆を強いるからです。力を入れて抜くというアプローチもあります。でも、かっこわるくなればよいということです。力が抜けないとあせると、さらに力は入ります。力が入っていることに気づくだけでも第一歩です。

 

Q.念仏は、なぜ落ち着くのですか。☆

A.南無阿弥陀仏はヨーガの整音オー、ウン(ム)が入っています。解放的なアー、緊張のイー、落ち着くウン、まとめると、namuamidabutsu、ナーム、ンアミィ、ダァ、ブウツウとでもなりますか。

 

Q.専門家に何度も診てもらって、トレーニングで少しよくなっても根治しません。

A.喉や声帯だけを部分的にみても、何ともならないということです。その上で応急の処置や限定された対処をするのはやむを得ないとして行うとしても、本当の問題は別にあります。根本的な解決は、全身からと時間的経緯から、両面で考えるべきことです。

 オーソリティーや専門家の言うことも狭い限定の条件のもとに利用されたり、重用されたりしているようですが、現状回復までのこと、それ以上のことには、元より目指していないし使えません。

 

Q.喉の筋トレを教わっています。

A.ウエイトトレーニングのように、部分的な負荷をかけるのは、あまりに荒療法です。ヴォイストレーナーの勧めるものではありません。全身に均等に負担をかけて、呼吸も発声もバランスよく無理せず深めていくことが原則です。

 

Q.声で知ることができるものとは、何でしょうか。☆☆☆

A.科学的とか客観的とか言わずに、天から自分も含めて観ることは大切です。私たちは思い込みや固定観念の塊です。常に、自分の五感で、事実さえ自分の思いで色付けしてみています。それが判断を誤る原因です。

 でも、誤っていることにさえ気づかないのです。知らずに自己中心になっているから、うまくいかないのです。いや、うまくいかないなら気づくこともあります。うまくいっているかのような人ほど気づかないのです。

 声は正直です。ことばでごまかしても本音が出ます。心が声を動かしているのです。そこから、自分の心を知ることができます。

 毎日、日常をさりげなく録音した声を聞いてみてください。今のヴォイスレコーダーなら、8時間でもチェックできますね。見事にあなたの今の心身の状態が、声に現れていませんか。

 

Q.いつも誰かに気を配ると、疲れるのではないでしょうか。

A.その人にとっては、心や気というのは一定量使うと減るのでしょう。確かに、NARTOなどでは、忍法で、チャクラから気をたくさん出すと疲れて動けなくなります。しかし、それは自分の気であり、天の気でないからでしょう。人のために行うときは、気は前へ、外へ発します。自分のために行うときは内に向きます。これだけ知っておけば平常心でいられるでしょう。

 「今、ここに」心がないとき、ものごとはうまくいきません。常に注意集中するとか、意識することと言いますが、そこまでいかずとも、心配り、気配りの大きさというものがあれば、随分と違うものでしょう。

 相手により、場により、条件により、大きく変わる人もいれば、誰にでも同じように対する人もいます。その人によるのです。

 

Q.どのように相手を説得するのでしょうか。

A.どのように相手に勝つのか、あるいは、分け合うのか、争わないかは、大きな違いです。生活での声、問いかけから話しましょう。まずは相手を知ってから言うことです。

論16.鍛える

○能力の開発

 

 仕事のITによる効率化の反動としてか、心身の解放の必要性が高まってきました。身体の緊張、心の抑圧をどう解放したらよいのかがわからなくなってきたのでしょう。そこで、心身の解放、柔軟性を取り戻すものが求められるようになりました。で、早く楽に誰でも同じようにできるもの、という効率化狙いになっているのが現状です。しかし、実のところ、マンツーマンのレッスンでもワークショップなどでも、かなり特別な状況においての気づきを効果にしています。

 あなた自身を早く変えるとしたら、あなたに入っているものを新しく異なるものに置き換えます。この時に、指導者のなかには、これまであなたに入っているものを否定する人もいれば肯定する人もいます。否定した方が早く大きく変わるし徹底します。が、自己崩壊のように思う人もいるし、周りの印象がよくないので、今は、肯定する指導者が多くなりました。そこまで責任も負えないし、時間をかける方が本人のためにもよいからです。それでは、依存を高め、洗脳に似た方向にいきかねません。

 

○出力より入力

 

 入っているものが、だめなのでなく、絶対量として足りないことがほとんどです。それと、本人が自ら限っている能力に、可能性があるから引きだす、高める、それに気づき取り出す、そのことで変わるというのは違うのです。自分のものが20あって、10は出ていて、10は出ていないから、残りの10を出す、出し切れたらOKというなら、自己啓発です。人は脳の3~7パーセントしか使っていないとか、潜在能力とかいうことで知られてきたことです。

 10から100が出たら大変革です。普通は、そこに90を入れないと出てきません。それを50しか入れずに出せる人は、その人の才能でもあり、綱渡りでもあります。そうして、もはや元の10があるのかないのかなどわからないようになる、問うても仕方ないからです。上書きしたといってもよいでしょう。

 

○結果をみる

 

 20でも100でもよいのですが、私は、その結果を指導者のもつレベルを追いつき超えたか、異なるものとなったかでみます。ある部分についてでもよいです。そうでないのは趣味、お稽古事です。それでもよいし、自己の意志か、洗脳かを問うても、目的が自己満足なら本人がよければよいのです。

 本人が一人前、一流レベルになりたいのに結果としてそうなれていないのなら、この指導体系は厳しくみる必要があります。

 私が嫌うのは、指導者が「よい人」でありたいために、ほめて、能力のない人、つまり、能力をつけられない人を周りに侍らせ、そのまま、心地よい人間関係だけでつなぎとめているパターンです。つまり、ファンクラブづくりです。

 

○身体意識の向上

 

 発声の体感としては、寄りかからず開かれるようにして、腰から決まることを目標にしてください。

 四股から肩入れは、イチローの打席前の一連のストレッチ運動で有名になりました。体勢が崩れても転ばないバランスの調整能力は、ふしぜんなフォームで粘ることでの鍛錬で成しえます。身体意識の向上に、歌舞伎では六方(東西南北、天地)を踏みます。そして、足裏(湧泉)から手の掌(労宮)、親指と人差し指(合谷)、足裏の感覚を捉えるのです。それは、かつては日常の仕事や動作、武術などで身につきました。盆踊り、ドジョウ掬い、ソーラン節などでも腰を落とす、腰を入れることを昔の人は知っていました。そこはみぞおちの脱力、緩めることにもなります。野口晴哉氏の活元運動での邪気の吐き出しなどもヒントになるでしょう。

 

○発声技法

 

 声をうまく出せるようになる人は、しぜんとそのようにしてきたのです。これは、武道でも健康法でもスポーツでも同じです。ヴォイトレもまた、当初はそうして発展してきたものです。つまり、すぐれた声を出す人をみて、そのプロセスを辿ったものです。

 ヴォイトレの基本は、声の育成プロセスそのものでの再生強化調整の方法にすぎません。そこを逸脱するのは極力避けるべきと思うのです。目的の取り方によって、応用されるのはやむをえませんが、目的を定めることにおいて注意することです。

 

○部分とつながり

 

 「鍛錬する」ということが、否定されてきています。鍛えることを否定する人の根拠の一つは、個々の筋肉を鍛えなくとも全体の機能を結びつきとしてうまく使えば、もっと大きな力が働くということです。そこには個々に鍛えることで結びつきが妨げられるという考えがあります。

 以前に、「野球のトレーニングで、『筋トレはバランスを崩すからトータルの動きの中でつくる』というのと、『マシンジムなどでの弱点補強も必要』という2つの論がある」ことを述べたことがあります。スポーツと芸事は異なるわけではありません。しかし、この「部分と全体の問題」は、必ずしも明確に分けられるものでないと思います。

 一つは、時間という要因です。小さい頃から10年以上かけて、毎日続けてきた人に3年で追いつこうとしたら、しぜんにバランスをとってだけでは無理でしょう。部分を鍛え強化を急がざるをえません。

 鍛えるのが、そのまま目的になるのでなく、その上で全体の中に組み入れて自然に統合されていくように、つまり、バランスが一時崩れてもバランスがとれるようにできたらよいのです。そうでなければ、アスリートは試合だけしていたら上達するということです。そんなものが通じるとしたら、それはほとんど歴史もない競技や素人の間でだけでしょう。

 

○無理の否定

 

 「鍛える」というのは、無理強いとか痛めるというイメージがついてしまうので、今や避けられていることばになっているのでしょうか。今やマッチョな筋トレのイメージでしょうが、心身を鍛えるのは、かつては生きていくための基本でした。

 スポーツはともかく、芸事に使うのによくないということもあるのでしょう。でも、それをいうなら、スポーツや武道だけでなく、芸人も職人も、皆、無理をしています。決して身体によいことをやっているわけでないのです。それゆえに、引退とかがあるのでしょう。

 発声については、筋肉の力そのものの働きでなく声帯での呼気の変換ということだから、という方向から「鍛える」イメージはよくないという考えには一理あります。とはいえ、スポーツも筋肉の力で競うのでなく、それに基づいた心身の使い方であり、そこでコツやバランスは欠かないわけです。単純に力を入れたらよいとか力持ちが有利ではないのです。力を働かせるために力を抜く、でもフォームを保てる力は必要である。そこを混同しないことです。そこでフォームが大切にされる点で、私は発声と共通していると思います。発声も、呼吸に関する筋肉はじめ、全身の体、声帯でも筋力、全て使えなければよい発声にならないのです。

 

○「鍛える」の否定

 

 「鍛える」を否定する人には2タイプいます。元より鍛えていない人、声が弱く(声量がなく)少し大声にすると声に異変が出る人や、そういう人に主に関わる指導者です。声の弱い日本人には多く、特に歌い手で高音を使う人に多いです。

 もう1つのタイプは、大声や強い声で鍛えて声を壊したり声域をコントロールできなかった人です。自らは鍛えてきていながら、そのプロセスは間違えた、不要、無駄だったから、他の人はやってはいけないという反省型も含みます。この2タイプの考え方での傾向と思い込みは前に詳しく述べたので参考にしてください。

 となると、私は、絶対に「鍛える」肯定派と思われるかもしれませんが、それでは日本の声楽家テノールやソプラノと一緒に教えることはできません。一緒に研究所でやっているということは、多様性を認めているということです。つまり、相手の目的、タイプ、レベル、これまでのプロセスによっても全く違ってくるということです。同じ人でも目的が違えば違います。

 

○ともに含む

 

 鍛錬と調整を分けているのは、こうした理屈上のことにすぎません。同じメニュでも、ある人には調整、ある人には鍛錬になるのです。いえ、正しくは、どんな人にもすべてのメニュは、声を出す以上、鍛錬と調整をともに含むのです。その比率や優先をどうするかこそが、レッスンの考え方、トレーナーの個性にもなるのだと思います。

 ということでは、単にやり過ぎや方向性のミスを、鍛錬や「鍛える」ということで否定している人が多いように思います。つまり、高すぎ、大きすぎ、(特に高くて大きすぎ)長く出しすぎ、休憩が少なすぎ、短かすぎなど、負荷がかかりすぎていることでよくないと言っているのです。雑であったり荒っぽいのも、そこに含まれます。それは、言うまでもなく、喉に負担と疲れをもたらし、調子を損ねる原因となります。

 私は、日本人は心配しすぎ、過保護で、あまりにも状態にこだわりすぎ、そのときの調子だけでみているように思えてなりません。安全にきれいに響く声だけを求めてきた結果が、今のパワーが出ない、出せないという結果ではないのかということです。

 ですから、敢えて、この時期において、もう一度声のパワーを考えてみることを提唱してきたのです。もちろん、「鍛える」や鍛錬に悪いイメージをもつ人、トレーナーは、敢えて、このことばを使わなくてよいと思います。

 

○声のパワー

 

 声を使う人にとって、身体、肉体を支えとしていることは、楽器のプレイヤー以上に問われていることだと思います。それが欧米に追い付けないからと、リラックス、弛緩する方に行ったのです。昔は、野口(三千三)体操、今はアレクサンダー・テクニックとかが、必ずしもそうした問題解決の本質をついているものでないことを加えておきます。

 喉が、声が弱くなったから、それを壊さないように、より弱めにしてリスクを皆負わないようにしているのは、うつ病対策みたいなものにも思えます。

 この日本人の若い人の心身の弱化における問題、それに若いトレーナーがそのまま対応している現況で、さらにパワーダウンしていっています。仕事である以上、現状に対応しなくてはならないからです。しかし、劣っていくことに現状で対応しているのは、結果として、さらに劣らせていくことになることも知るべきです。

 もはや日本はガラパゴス化しているのでしょう。その反動として、ヴォーカロイドやヴィジュアル系での個性で世界に出ていく、そのオリジナリティを日本の売りとみるのは、体のついた声、音の世界での歌、音楽を顧みなくなった証拠でしょう。その点で、私のような生の音、生の声を好む者には残念なことでしょう。

 

○フォームを身につける

 

 身体を有効にというのも、長いのか短いのか、自分の人生のなかで使うことを考えてこそのトレーニングです。ですから、私は、ヴォイトレがトレーニングということでなければ、小さな頃から歌ってきたり、演じてきた歌手や役者の自然習得プロセスを理想的に思います。ヴォイトレから逃がれられたら、それはそれで理想的でしょう。しかし、そうでない場合、ヴォイトレをする必要のある人にはトレーニングとして与えるのは当然でしょう。

 「スポーツは体に悪い」と唱える人がいますが、それを一歩進めたら、「生きていることも体に悪い」のです。呼吸は酸素の取り入れを基にするのですから、その最たるものでしょう。マラソンやダッシュは過激でよくないからランニング、ランニングは過剰でよくないからジョギング、ジョギングはよくないから…と、そういう弱化の動きのなかに、今の発声もあるわけでしょう。

 痛めるも活かすも、どこで分けるかです。筋トレは痛めて強くするわけです。人生を短く太くか長く細くかでも、価値観、いや、その人自身も選べないのが人生でもあるわけでしょう。まして、体や喉は、ということです。

 

○バランス

 

 身体の能力は少しずつ衰えていくのです。声も同じです。どのようにメンテナンスして、よりよく活かすか、そこに調整があります。とはいえ、状態の調整以上の力をつけていくなら、条件を変えなくてはいけないということです。必要な量の確保のための一時の遠回りをよしとせず、バランスのうまくとれない期間まで否定するような浅い考えが一般化したのは残念なことです。あなたが、自己流でそれなりにやれていたとしても、それがベストとは限りません。

 水泳を習いに行くと教わるフォームはやりにくいし、一時はタイムも落ちるはずです。でも一年後には、そのフォームの方が楽で速くなっているでしょう。不足している条件をトレーニングで部分的に補強、柔軟や筋トレをしたら、もっとよくなります。それは、筋力でよくなるのでなく、筋力でフォームが支えられ、バランスもよくなり、力学的にも理想に近づいていくからです。

 というようなことも、何かを心身で学んだことのない人には、なかなかわからないのです。そういう人が、歌い手やトレーナーにはいないのでしょうか。

 どんなものでもフォームを身につけることで大きく変わるのです。フォームはつくり上げていくものです。不足する力をつけなくては形として出てこないのです。そのプロセスは、慣れないうちはマイナスに出て、のちに習得の程度に従ってプラスになるということを知るとよいのではないでしょうか。たとえば、発声の上達の本質とは、口内や額、頭の共鳴への方向付けではないことを学ぶことと思います。

 

○まとめ

 

a.天然、しぜんで力を抜いて出す。

b.鍛えて力で出す。

c.鍛えられている。力を抜いて出す。

 つまり、無理に分けると、何事でもこの3つのプロセスがあります。「鍛える」を否定するのは、bを否定しているのです。でも、そのためbに達することがなく、aの状態で留まるようになりました。

 声の場合は、育ちによって、すでに鍛えられているcの力を持つaもいるのです。(海外のヴォーカリスト、外国人)さらに、歌は、必ずしも声の力を必要としません。この日本では、特にそうなってきていますが、海外、特にアジアは似た傾向にあるのを感じます。つまりaで充分なヴォーカリストもいるということです。こういったことが特にポピュラーのヴォイトレをややこしくしているのです。

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「教えない、通じる」 No.296

○教えないという教えについて☆

 

 教えても教えきれない、教えたことは使えない、教えなくてはいけないことは教えても仕方ないなど、これまで教えることについてたくさん述べてきました。

ホリプロの社長も言っていましたが、「プロの世界で教えたいという人から学ぶべきことはなく、教えない人からどう学ぶのか」という、昔ならあたりまえのことがわからない時代になりました。このことばを、よく覚えておくとよいでしょう。

 あのプロ歌手のようになりたいと思ったら、まずはトレーナーでなく、なぜそのプロ歌手やその人を育てた人に習いにいかないのでしょうか。歌手は会うこと自体、大変で簡単に教えてくれないが、トレーナーなら歓迎して教えてくれるものと思っていませんか。

 

○プロ歌手が教えられない理由

 

 プロ歌手の多くは、教えません。そこには歌手特有の事由がいくつかあります。

1.自己流でうまくなれた。ゆえに、人に学んでいないので教える体系がない。

2.ほとんどがシンガーソングライターで、作詞作曲演奏も加えた総合力である。

3.自分の活動本位なので、教えることで、喉を酷使できない。

4.他人を、責任をもって引き受けて、教えられる、育てられるとは思わない。

 寿司屋を2か月で独立、ラーメン屋も3か月で開業できるようにするような学校ができたのは、よいことでもあると思います。歌やドラマ、映画の世界では、素人を3週間でプロにするようなことさえあるのですから、特に驚きません。しかし、それは楽器のプレイヤーにはありえないでしょう。本当は、声や歌でもありえないことです。

 ですから、プロで教えている人は、そのパターンの逆です。

1.教えたい。広めたい。普及させたい。ファンを得たい。活動の場にしたい。

2.仕事がない。活動がない。他の仕事より向いている。生計の糧が必要。

3.教わってきた人のやり方を知っている、自分のやり方をもっている。

しかし、日本の現状でみる限り、トレーニングで教える人の活躍レベル以上に育ったことは、稀です。プロデューサーやかつての作曲家の方が、プロをつくっています。

 

○日本のポップス

 

 日本のポップスに関しては、早くも古典芸能化しているとさえ言えます。スタンダート曲というのは、日本では、今のがよくないから昔のもののカバーで成り立っていく、というプロセスで成立することを、身をもって私も知ったわけです。自らの時代に体験したのでは、あまり喜べません。

 私は当初から、日本にも、いつも歌える、長く誰からも愛される曲が出てきたらよいのに、と述べてきましたが、考えると、唱歌、童謡、歌謡曲、演歌はそうだったのでしょうか。浪曲、小唄、民謡などのような運命になるのでしょうか。この後、J-POPSはどちらに?

 

○発声で正しいこととは☆

 

 「発声に正解、そんなものはない」というのは、何回も答えていますので、別の角度からみましょう。発声が正しくとも、多くの人はそれゆえにプロにもなれません。正しくなくても、一部の人はそれゆえにプロになっていると思ってください。この「正しい」を「うまく」といっても当てはまると思います。

 うまくなる、楽しめるようになることを目的とするのは、その人の自由です。絵描きでみるなら、うまい絵、正確な絵を目指すのは、アマチュアです。絵を目指すのでなく絵を使う、歌や発声を目指すのでなく歌声を使う、表現に、です。

 時代や場においても基準は、変わります。しかし、それを超えた一流ということを目指すなら、結果として、それ以上にうまくも正しくもなっているということです。

 逆に考えると、間違えるとは何かということになります。その一つは、結果として、そうなっていることに対して、原因、理由、方法を求めてしまうということです。

 そこからです。盲目的になることで、あらぬ方向へ極端に走ってしまうこと、例えば、歌でいうと、大きな声で高い声を長く出し続け、喉をおかしくしてしまうことなども一例でしょうか。

 これとて、 他のことと同時にやると、雑になって、やれた気になるからよくないだけです。それを分けて丁寧に扱っていくと、トレーニングのプロセスになります。

 この間違いをそのままに、それを超える努力や才能でプロにのしあがった人も、少なからずいます。となると、その間違いも間違いといえなくなります。大逆転、どんでん返しがありえるのが、歌い手や役者でした。

 

○時間をかける才能★

 

 上達とは、早くできることではありません。本当の上達とは、時間をかけられることです。

 最初は11曲しか覚えられないのを18曲覚えられるようになる上達と、1か月1曲あげていたのを11曲、101曲となるのとは、意味が違います。私のレッスンでは、1フレーズに1か月というのもありました。

 これは、あるレベル以上になった人でないと、なかなかわからないことですし、取り組めません。ですが、わからなくとも、それゆえ、取り組めるともいえます。最初は不器用でうまくないのに、後になって、際立つタイプもいます。いつのまにかぐんぐん伸びるのです。

 例えば、こういう中和策があります。発声教本のコンコーネ5050曲を月に2曲、2年であげたら、次に1曲に2か月かけていくような取り組み法です。

 

○具体的にする

 

 なぜなら、アートとは、どこまで詰めていけるか、だと思うからです。オブジェクトとして、あてをつけていく、検討をつけていく、目当てにもっていく、絞り込んでいく、対象化してみることもありますが、一体化していく方がよいように思います。

 ある種のフェティシズムでもあります。そこは、声ですが、女の足の指に執着した谷崎潤一郎でも、似たようなものでしょう。声を愛してください。

 すべては個別にそれぞれ異なることです。一つの方法で解決できることはないのです。考えなくてはいけないのは、やり方、ハウツー、メニュではありません。考え方を知って、実行して欲しいのです。それが、やり方やメニュになっていくのです。

 

○反論への反論

 

 あまりに短絡的な反論は、先に、気にくわないという感情、嫌い、目障りと、妬み、嫉妬、嫉みがあるのでしょう。だから、そのときにそういう人を相手にしても論議になりません。実りもありません。

 同じことを、ただ言い方を変え、声高に何回も叫んでいるだけの人も多いのです。それがどういうことなのか、何のためになるのか、そうでない見方や方向に発展できないのか、などと考えもしません。感情の発散だけ、ただ相手を貶めて気を晴らしているのでは何のためにもなりません。

 私の述べていることは、私のものでないのです。もっと大きなところから来ています。ですから、何を批判されても気にもなりません。

 相手により、状況により、学ぶことにより、人も日々変わっていくのです。コミュニケーションをしている現場を優先しているなら、尚さらです。感性を磨くこと、常に進化していくことです。

 

○反論への反論2

 

 理解できないし、しようともしない相手への反論は、労力の無駄ですが、いちいち対応していたこともあります。それは、誠意としてです。相手を信頼するから反論するのでしょう。

ところが、反論されたこと自体を快く思わない、内容でなく、反論されたことで傷つく人もいます。それはそれでよいとも思うのです。でも、反論するというのは、コミュニケーションなのです。

 反論という応じ方そのものに、人間性や感情などを問題視するのは、おかしなことです。論は論にすぎません。そうでなければ、最初から無視すればよかった、応じなければよかった、読まなければよかったという、私の後悔になるわけです。そこで多くの人は、スルーするようになってしまいがちです。

 今さらですが、質問も意見も反論も礼状も、読まなくてはいけない、受け入れなくてはいけない義務や答える義務はないのです。大きなところからみて、同志と思えば対応するのです。あるいは、先生という立場で教えようとするなら、です。

 返事しないのも一つの回答です。同じことを述べても仕方ないので「その通りですね」と。「すごいですね」「いいですね」で、無難にお引き取り願うような対処となっているケースも少なくないでしょう。

 あきらかに反論できてしまう話でも、そうするのでなく何かをつかめたら、もっとおもしろいと工夫することもあります。いわば、くり返しに飽きてくるからです。多くの人は、こちらのことを学ばずに、同じような質問してくるわけです。

 

○できた―できない

 

 できなかったことができたとなるのは、嬉しいことです。でも、人生、特に芸事では、できないことをみつけた→できない→できた、のくり返しです。

 天才、一流の成しえたこと、すごいことへ向かっての、この無限のようなくり返しと挫折、ただのくり返しでなく、バージョンアップを目指します。

 習い事は、ソフトです。未完成のままにバグの修復の連続的進化、ときにはOSの変更をして大幅にアップしていくのです。完成を目指しつつ、完成はありえません。

 

○実力をつけるために

 

 「自分でメニュも理論もモデルもつくりなさい」

 

○待つ

 

 信じ切る、言い切る、その根拠などは、思い込みでよいのです。問題は強さです。それが誰よりも強くなくては、大した効果も出せません。

 それを自信をもって確信し、周りに断言するのが、カリスマでありリーダーです。トレーナーもそうありたいものです。が、断言には慎重であるべきです。

 私が未来に関心があるのは、次にそこに行くのが決まっているからです。

 今は行けない、でも時間をかけてトレーニングすれば行ける。行けなくともよい、未来はくるのです。時間でくるのです。待てばよいのです。よりよいものがもたらされるために、よりよく何か得られるために何をするかということでしょう。

 

○ナチュラルを盗る☆

 

 ナチュラルななかでのナチュラル、その状態をなかなかもていない人もいます。そういう人は、ライブやコンサートに行って頭を空にして心を満たしましょう。あるいは、音楽療法で、その状態を状況として把握します。アーティストのもつナチュラルから盗ることです。

 レッスンでも、トレーナーの声より一流アーティストの作品に心身をさらすことを重視しましょう。その考えは、私の直観とはいえ、今でもその通りと思います。

 頭がはずれるのがよい。一流のアーティストは、ヴォイトレでなく、その一流の先人アーティストの音の洪水をスキャンし続けています。そのスキャン能力を高めた基礎があるゆえに、また新たな才覚が誕生するのです。絶対的な体験、できたら至高体験の補強こそが、才能の畑づくりです。

 

○確かなものはゼロ

 

 今の時点で言えることは、本とブログ、レクチャーとレッスンでは違ってくるということです。また、公にできることと、できないことがあります。

 辞書、辞典に載っている知識は、確かなものであっても、その分、古い、権威というのもそういうものです。といっても、とにかく新しいものは、胡散臭いものです。これからの人は、「早く人に評価されること」を恐れなくてはなりません。特にこの日本では。

 

○説明できない

 

 説明できなくても、できる人もいれば、できている人もいるのです。何でも説明できると思うほうがおかしいのです。複雑に全体として成り立つものを部分に限定してシンプルにすると、何とか理論とか説明ができ、誰でもできそうに思うのでしょう。わかりやすく、シンプルにすることで受け入れてしまうのです。しかし、大切なこと、重要なことは省かれてしまっているのです。

 声は複雑です。声を使う相手との人との関係も複雑です。そこで「正しい」と言われていることは、真実でなく、ただ安全なこと、楽なことに過ぎないことが多いのです。

 

○何もない

 

 「身体が動いた、息で声が出た」そこには、理屈も、プロセスも、マニュアルも、ハウツーもありません。流れはいつも突然に変わります。人の世も、人の身体も声も同じです。

 現実というドラマでは、脅かされて偽証する悪役のように成り下がっているのに、「社会のため、正義のため、人のために」と煽って、自己充足している人も少なくないでしょう。まず、人から与えられたままのスローガンを捨てることからです。

 便利になると、身体を使わなくなります。そこは、ノウハウでは間に合いません。次から次にこなすのでなく、一か所にとまって流動的なものを止めてみましょう。時差さえ、自らコントロールする、そのためのレッスンです。

 充足、退屈、不満、不足、破壊、混乱、創造と、いろんなことが起こります。たくさん早くできるようになるのでなく、少しを長く楽しめるようになる、極めていく、その力をつけて欲しいのです。

 

○よくないということ☆

 

 どうしたらよいかがわからなくても、どこがよくないのかはわかりやすいものです。そこで、それを中心に教えることになりやすいのです。

 しかし、よくないものを直すのと、よくすることは違うのです。一般的、平均レベル、普通にするのと、誰よりも秀でるようにすることは違うのです。よりよくするのと絶対的によくするのも違うのです。

 プロに対しては、当然ながら、さしてよくないところがないというのでしょう。それでは対応できないのです。どうしたらよいかは、一流になるために、というところになります。一流ゆえに一人ひとり違うから、初めてのモデルとして、その人のなかによさを見つけなくてはなりません。

 日本の場合、一流レベルとの比較でないところでも充分に改善ができるので、大して困らないのです。困らないことが困るのです。大半は、他のどのトレーナーにも任せられるところが大なのです。

 他方、実力としてパワフルに、メリハリのついたフレーズを得る、そのために原点の声から、ゼロからやる必要があるのです。出だしやエンディングの一声のレベルの差を海外と比べてみれば明らかです。

 

○現場に出る

 

 日本では、本番でバランスをとる、崩れないように心身を調整する、その修正くらいのレッスンで終わってしまうのに、それでも充分成果が出たと思われてしまうのです。音大4年生くらいのレベルで、です。

 前向きに自信をもって明るく元気に歌う、これくらいで成り立つのはアイドルくらいだったはずです。☆

 なのに、大の大人でさえ、笑顔をつくり、嘘くさく、偽物っぽい歌に声をあてているのです。表面上合わせるセンスはよいので、すぐ直せ、いくつにも歌い分けられる、この2つは最大の弱点にも思えます。

 

○できた

 

 どこで学んだのか、発声がよくなって楽になって声がきれいになった、でも、つまらなく退屈な歌になってしまった。歌が安定したので、本人は喜んでいる。周りもよいと言う。表現の魅力はなくなったというのに。こういうケースでは、プロになれても、それゆえ歌の資質がなかったということになります。

 

○「レッスンメモ」★

 

 ノートや録音で伝わるようなことは、まだまだつまらないことです。誰かの技術を教えたところで、教えながらつまらないと思うからやめることになります。

 いつも、たった一回きりの内容なのです。レッスンメモをつけていますか。そこには、10行でも本一冊くらいのものがあるのですが、どうにも語り尽せないのです。

 

○違うということ☆

 

 仮に、つかんだ真理が絶対でも、それを表現したら相対的にしかならないこともあります。そこに絶対はないのです。

 そのことがわからなくなってしまったのでしょうか。教えられたことを信じるのではありません。自己の道を信じていくことです。

 教えていることと教えている人とは違います。まして、組織では、その人も個人とイコールではないことです。

 医者、科学者、教師、フィジカルトレーナーとよく話します。そこで現場経験より、机で勉強した時間の多い人は、知や数字、データが邪魔してしまうのに注意することでしょう。

 

○口伝の限界

 

 一子相伝では、「なぜ」は生じないのです。原理やシステムへの探求は、師匠のレベルまでは、行えません。そこまで、とことんまねていくのです。次の師匠になったときにしかそのレベルにはいけないのです。まして超えられない。だから、すでにあるモノを演じ継承することになってしまうのです。それは、基礎よりも応用です。応用だけで基礎を賄うに足るのです。

 

○感化する☆

 

 大体、自分がわかるようなものを自分よりも天分のある人に教えようというのが、おかしいのです。若い人は将来性がある、今、才能とか実力はなくても、自分より長生きする可能性がある、そういう人は、何であれ、自分を超えていくでしょう。自分が死んでも、生きているからです。その可能性のある人は、それだけで意味がある。自分はゼロ、でも、その人は生きているのですから。

 まだ人生半ばにして「死して何を残すか」などと考える人はほとんどいないでしょう。

 要は、こちらがわかっていないものの存在を伝える、ことばでくり返し、ことばの奥で感化するようなこと、それがレッスンだとも思うのです。

 所詮、相手が変わるのです。こちらには、それがどうなるか、わからないこともあります。オーディエンスや読者などはまさにそうでしょう。ずいぶん経ってから礼状が来たり、会いにきたりします。私自身、影響を受けた大半の人々には、すでに接することもできませんでした。

 ということでは、本人、受け手の方も気づいていないことも少なくないのです。人に感化されたことは大きいほど、あとでわかることです。まだ、わかっていないことも少なくないしょう。親の年齢になってから親の影響がわかったり、子どもをもって初めてわかることもあります。一生気づかないで終わることもたくさんあるでしょう。

 出会った人すべて、それぞれの感化がくり返されていないはずがない。だから教えたり、変えようとしたりしたようなことで、相手がどうにかなるわけでしょう。

 そういうつもりもないのに、教わったとか変わったと言う人もいます。教わって変わろうと会いにくる人は、主体的です。でも、目先のことをやりたいのにすぎないことも、多々あります。

 

○提供しあう★

 

 私で足らなかったら、他のトレーナーに聞けばよい。私も知らないことを、ここのトレーナーはたくさん知っています。私のできないことをできるトレーナーがいます。自分一人がすべてできるなどと盲信しているトレーナーにつくよりは、ずっとよいはずです。

 「おれが全部できる」と言うトレーナーを集めたら、ここはバラバラになってしまいます。いらっしゃる人に複数のトレーナーをつけるようにアドバイスしているのはそのためです。

 自分が何かを提供でき、相手が何かを提供できて、トータルとして誰かが求めるものになるということでしょう。

 

○使えない☆☆☆

 

 本人がトレーナーのよし悪しを判断して、それが絶対正しいというくらいなら、本人の声や歌にこれまで問題は生じなかったはずでしょう。トレーナーにつく必要もないでしょう。独学で何でもできるようになるはずです。

 いろんなところで、トレーナーの選択のミスをしてきた人ほど、それがわかっているはずなのに、「私はたくさんのトレーナーについてきて、私と合うトレーナーをよくわかっているから、私が選ぶ」と言うのです。そういうときは、「これまで選び間違えてきました。それほど選ぶ眼がないので、選ぶところからお願いします」となるのが正しいと思うのですが。

 トレーナーのよし悪しや、合う合わないというのは、感覚的なことが大きいだけに難しいものです。自分が何を学ぶべきかわからず、友だちでもないのに相性を第一にするからです。それは趣味のようなものです。その人から自分が何を学ぶかが大切です。

 多くのケースでは、根本的な問題に気づかない、気づいていたら直っていくのですから、むしろ、気づかないように避けている、直面しない。そして、これまで通り自分の好むトレーナーを選ぶ、そうでないトレーナーについても、新しいだけのことやこれまでの延長線上のことを学ぼうとして、本質的なことを臭いものとしてフタをしてしまうのです。せっかくのトレーナーのレッスンを自分に合わせて、自分のいいようにしか使えなくしてしまう人も少なくありません。トレーナーも、その人の満足に合わせるから、なおさらです。

 だから、1年くらいで「大体わかった」とか、「前のトレーナーと同じ」などという結果になってしまうのです。

 そういう人は、充分にやってもいないのに、「私は○○には向いていない」「○○は私にはできない」と思うのです。自分で、無理やりできないことを確認して、元に戻っていくのです。だからこそ、その二者の関係をチェックしてアドバイスする人が要るのです。

 

○変えるということ☆☆☆

 

 もっとも大切なのは、最低限からの可能性の追求や限界の打破です。これまでの思い込みでの限界の確認、現状維持の安定、安心に確信を得て、満足するのは、トレーニングでなく励ましです。認めて褒めるのは、トレーニングの結果においてでなのに、続けてもらうことにそれを使っていては本末転倒です。でも、それが必要とされている、それに対応する、そこで人は育たない、の悪循環です。

 まして、今すでにある形を変えるというのは、ゼロから学ぶよりも大変なことです。それが周りに認められたり、プロとして活動しているなら、周りの評価もこれまでのファンも含めて、変えるのは大変なのはわかり切っていることです。だからこそ、ここの利用の価値があるはずです。

 そこで本当に変えられる人は偉大です。多くの人は現状維持での守りに終わるということなのです。それ以上の努力まで、トレーナーは強要できないのです。

 プロの人は、根本的に変えたい、本当の力をつけたいと思っていらっしゃいます。ただ、そこで一歩踏み出す覚悟が、よほどなければ大して変われません。

 越路吹雪さんは、日本ではすでに評価されていながら、パリでエディット・ピアフのステージをみて、「私はゼロ(まったく実力がない)と知った」といいます。それを知ることができたところで偉大なのです。凡人にとっては、天才と比較などできないのです。比較ができたらそこへ歩めるのですから。

 そこまでを考えているのが、日本では、この研究所なのに、と、思うこと、しばしばです。

 

○解放

 

 ライバルというのは、優秀さで争い、高め合うモティベーターですが、トレーナーには、欠点を晒し補っていくのがよい関係だと思うのです。

 今、トレーナーは、まだ「自分では正しい、自分だけは間違っていない、他のトレーナーはこんなことも知らない、用語の使い方や教え方も間違っている」

 だから「私が教えます、他のトレーナーにはつかない方がよいです、間違っている人が多いです」から、というようなことを言っているくらいのレベルです。

 それでは大した結果が出せないのですが、それで充分に思う人には充分なのでしょう。

 求めるべき結果というのは、「声がよくなった(ように思う)、歌が歌えるようになった(ように思う)、前よりよくなった(ように思う)」などでは、なく、本当の結果のことです。

 「周りの人がそう言ってくれるようになった」くらいでなく、「一声で、トレーニングした人だとわかる」あるいは、「声さえ感じさせずに違いがわかる」。それでなくては裸の王様のままなのです。

 

○自省

 

 自分ができていない、間違うこともある、と自覚していないのは、周りのレベル、いらっしゃる人の要求レベルが、総じて低いということです。

 やったことのない人がやれば、何でもその分よくなるのは当然です。そこは教える仕事としては、確かなところです。が、私は、そこから先のことで述べているのです。

 挫折したことのないトレーナーは、声のことは努力したとしても、他には、頼ることができません。

 トレーナーを通しても世界を広げていくのが、理想です。しかし、却ってフィルターがかかってしまい、狭くなってしまう。

そういうトレーナーは、生徒さんが外部へ学びに行くこと、他の人やセカンドオピニオンにつくことを嫌います。もちろん、教え方はやさしいが厳格なレッスンで人を伸ばしているところもあるでしょう。

 

○テクニック☆

 

 長く生きると、長く携わることになったものについては、表向き、説明したりノウハウを使ったり、うまくこなせるようになります。声というのが、本当に経験キャリアにのって、物事が成せるものというのなら、歌手や役者が十代でプロデビューなどできないでしょう。スポーツや楽器プレイヤーでは考えられないことが起きる声の世界では、経験、実感は目安にすぎません。

 ですから、難しいと思われている声の判断も、現場では大して迷いません。本当のところ、「全然だめ」とか「おかしい」―それが99パーセント、あとは、その内容をいかにことばにして説明するか、仮の解決策を述べることに努力が必要となります。

迷うのは「できていないもの」を「できているようにみせる」ところでの評価です。世界のレベルでみれば、声、音、音楽で明確なことを、そこまで届かない、あるいは、日本独自の基準、特にことばの重視、さらに音響、ヴィジュアルで総合パフォーマンスにするところから複雑になるのです。そこにテクニックが出てくるわけです。ここではあまりよい意味で使っていません。

 あとは、業界や仕事という応用に、その競技のルールに合うようにアレンジして、技として認められるように加工、修正します。求められることがそこであれば、それに即した対応をするのが仕事、空しいときもありますが、本質でやり取りできる人は、1割もいない。本質を知る人には、説明不要、不可、ただ声でくり返すだけ、いつものレッスンです。ヴォイトレの仕事の残り1割はそこです。

 その点、私はトレーナーとしてふさわしくない、と思います。テクニックなど教えていません。でも、その仕事に対してのプログラム、トレーナーへの役割分担には慣れているのです。あとの1割を求めて深める人がいるので続けてもいるのです。真の上達はトップダウン、一流レベルから下してくるしかありえないのです。

 世の中のニーズと真実、その2つのズレを把握していること、それが私にとっても応用と基本です。山にこもって、本質を究めるにも、世の中と結びついていなくては先もありません。自分で自分をみるより、他人をみる方がきちんとみられるから、皆とやっていくようになったというようなものです。

 

再現性の打破☆

 

 レッスンは「これがよい」というのが出たら、それを指摘し、その確実な再現を得ていくプロセス、と説明したことがあります。トレーナーは、そのためにいます、と。

 例えば、「ハイ」というレッスンは、本人がすぐ実感できるときと、できないときがあります。ともかくも覚えて、自主トレで、あるいは、レッスンで再現できるようにします。その確率を上げていく。

 一回できたらマスターできたケースもあれば、逆にできたはずなのに、二度と取り出せないこともあります。だんだん出せる確率が高くなっていくように、トレーナーは、底上げのレッスンをするのです。間違いを正すのでなく、修正を細かくしていくのです。

 厳密には、一回一回、違っているのです。また今のベストが出たといっても、本当の理想とは異なっているものです。出すと意識すると、すでに固めるからです。それをよしとしないというのは、私の目指す最高のレッスンです。型破りのための型、爆発のための再現、つまり、同じ爆発などありえないのです。

 しかし、多くのレッスンは固定をよしとし、再現性を目指します。確実、安定を優先するからです。つまり、再現=固定化なのです。

 日本の業界もステージも、安定した実力=固定化を求めているので、そこに合わせるのなら、それが正しいとなるのです。私の求めている再現性は、再現が目的ではないのです。巷では、それで充分どころか、それを変えて欲しくないという逆風しかないのです。(特に日本では。ミュージカル、合唱、声優に限ったことではありません)

 

○手引き

 

 感覚を忘れない、それを頭でやるのか体で覚えていくのか、頭→体にいくべきなのに、ずっと頭で、というパターンが多いのです。そして、そういう器用な人が重用されます。表現力よりも、立ち回りの力、存在感より機敏な動き、という感じが優先されているのです。

 マニュアルの形、指導のためのメニュや順番は、「その感覚だ」と言うのと同じで手引きにすぎないのに、その上へ行くためのプロセス、補助輪にすぎないのに、そのままでずっと残ってしまうのです。

 「123と覚えなさい」が、123とカウントしないと動けない、早く動くには早く言わないとできない、そんなのおかしいでしょう。別に、23、とか3からでも、123、がなくてももっとよければよいでしょう。それを可能にするのは勘や衝動です。

 この、囚われをとることがレッスンの主な目的になることもあります。しかし、それはそれでそこに囚われているわけです。問題に関わるのは大切ですが、そこにその問題以外が見えなくなることは、より大きな問題です。もしかしたら、本人が悩んでいること、その問題自体がいらない、不要かもしれない、ということがたくさんあります。

 「電車が止まったから行きません」「じゃあ、車で来なさい」そんなやり方でどうするのでしょう。

 

○プロセスとアプローチ☆☆

 

 トレーニングのプロセスでは、私はトレーナーにことばをかけません。プロセスで結果を問うことはおかしいことでしょう。

 ですから、セカンドオピニオンとしても、他のスクールのトレーナーの指導もそのプロセスで判断はしません。明らかにおかしいように思えても、そのデメリットに値するメリットを探してみます。いったい何を目的として優先させて、このように教えているのかということをみるのです。

 声楽家のはわかりやすいです。独自のものが少なく、教わってように教えているからです。継承されているパターンも、ほぼ決まっています。

 一方、合唱やミュージカルは、仕上げ方が似ている割に、アプローチは心身にまで及びます。中高生の集団が相手だからでしょう。マニュアルというなら、この分野の方が革新を続けています。

 ポップスや役者はその人「独自」で、方法まで多彩ですが、ここにくる全国のトレーナー、スクールからの生徒さんや本、CDDVDとで、ほぼ捉えているつもりです。

 大体は、目的、レベル、タイプとずれていても、トレーナーの感覚や考えが浅いだけで、それゆえ、致命傷になるほどのことにはなりません。

 本格的に厳しいレッスンや医者などの治療の方が、よくも悪くも影響は大きいです。

 「こういう効果を狙い、○○にはメリットがありますが一方で○○にはデメリットになります。一時的に○○になります」など、その可能性、制限を私なりに述べます。他のトレーナーなら、「それは(その生徒のその方法は)間違っているからやめなさい」とか言うかもしれません。それでは、その人は困ってしまいます。

 

○効果ということ☆☆☆

 

 ○○式というのは、それを開発した○○先生本人には、きっと当てはまるものでしょう。ただ、他の誰にでも通用するわけではありません。○○先生が、喉が強いか、弱いか、メンタルは、フィジカルはどうか、そういう条件も似ている人でなければ、使うのは難しいでしょう。そのため、使う人によってのタイプ別や、目的別などもつくられていることが一般的です。それを体験談、効果談で補います。

 本来、よい例だけを集めたらよくないのです。しかし、どこでも、データとして集めると、よい例だけが多く集まります。よいと思う人が出すからです。何よりも、効果のない人は続けずにやめて他に行くからです。元より、効果の上がる人しか、そこでは続けてはいないわけです。そこでは、効果といっても本人の満足度や充実感による自己判断が多いということです。これは、サービスも含めてのことで、純粋に方法の効果でないことも少なくありません。

 もう一つは、初心者なら、これまでやっていないことをやって上達しない方がおかしいということです。

 効果といっても、目的やレベルで全く違います。プロになりたい人が、音程がとれるようになっても武器にならないでしょう。目的レベルが低ければ、100パーセントの人に効果が出ます。そのトレーニングを5年、10年行い、グラミー賞を獲れたというなら、高いレベルの成果ですが、日本では、今のところ皆無です。

 歌や演技は、発声で支えられていても、それですべてではないし、まして、日本のレベルは、国際的に高くないので、効果というのも紛らわしいものです。

 

○失敗に学ぶこと★

 

 私のところでは、効果がない失敗例もたくさんもっています。レベルを高くしてみると、成功とか効果でさえも、失敗とは言わないまでも、あまり効果が出ていないともなります。

 もう一つは、方法や他のトレーナーに変えて効果が出たとき、出なくなったとき、これも、厳密には、前のトレーナーがよかったのか悪かったのかは難しい判断です。他のスクールから来て、効果がなかったから前のトレーナーが間違っていたとか、未熟だったとは限りません。(この辺りは、以前述べました)

 新しいトレーナーが、信用を早く得るのに、「以前のトレーナーがよくない」とか、「間違えた方法や判断だった」と断定するのは、よくあります。本当に、自分だけが、誰に対しても、正しい教え方ができると信じている人がたくさんいるのです。

 客観性を得るためには、複数で判断することですが、失敗、うまく行かない例をきちんと記録し検証すること、この2つの大切なことが行われていないのです。まだまだこの分野は、こういうことから述べないといけないという啓発レベルにあるのです。

 失敗の体験を開示し、それを避けるのにどうすればよいのか、どうすればよくなくなるのか、これらは、よくなくなったときの対処や解決法を研究していなくては、よくなっていきません。それと、心身、体質や性格も含めて、本人が自分のことを知ることが大切です。

 ここでは、そのお手伝いをしています。その上で、目的レベルに応じたレッスン、トレーナー、方法やメニュがあるべきと思います。

 

○練習は自由に

 

 練習も表現も自由でよいのですが、自由では大して自由に動けなくなるのです。それについては、スポーツのフォームやバスケットのフォーメーションを例に述べたことがあります。自分勝手にやっても範囲が狭まり、固定化してくるものです。

 自由にやっていたら、できたという人は、それでよい、というのは、それが理想だからです。作曲でも10曲もつくれば、普通の人はワンパターンになっていくものです。少なくとも、ここに関わる人にはそうではないために、理想をもちつつも、不自由な現実に対応をしていくわけです。

 自由になるのに、必ずしも型が必要とは言いませんが、理想的に収まるところに、模範、基準はどうしてもできてくるのです。型、フォーム、メニュは有効なアプローチです。

 自由に詞を書いたり曲をつくって、他人との優劣とは言わないまでも、すぐれているものが出ればわかるのです。そこでわかるものが出るようにしていくのがレッスンです。

 それは、トレーナーが、予め知っているようなものであってはならないのですが、大体は、売れている先行パターンや、これまでのモデルをまねさせます。

 何よりも本人がつかまなくてはならない、至高のパフォーマンスというのを目指していくべきと思います。周りの望んでいるものよりも、日本を超えた世界で望まれるもの、そこへ、個としての体、声を沿わせていくセンスということでしょうか。

 そうであれば、周りとも日常とも、生きることとも離れない。よって、見放されたり衰えることもないのです。いや、そうなることで危機感をもち、また、創り出していく、そういうものが残る。芸も文化も人も、作品、商品も同じです。

 

Q.何でもできそうな気がします。

A.何でもできそうでできないから、できていないから、できるところへ集中する。言うだけでなく、早く何でもやってみて限界を知ってください。

 素人でやり始めるときは、すべて無限の可能性です。人並みのところまでやると、一つひとつ限界にあたっていくのです。

 

 レッスンで、可能性を大きくするには、すべての力がついてもできないという限界をみせて、本当の絞り込まれた、唯一の可能性を何とか出すためです。当の本人が気づき、取り組むようにさせるためです。井の中の蛙を引きずり出すのです。

 声が出ると思っても、トレーナーについたら、そのトレーナーの方がもっと出る、なら、そうなろうとかそれを超えようとするのでなく、声が出てもそれで何とかなるわけでないことを知ることでしょう。その上で、声も必要、あった方がよいのか、なければいけないのか、そのあたりは詰めなくてもよいのですが、トレーナーを見本、叩き台にすることもあります。トレーナーくらいの力はつけるべしと、有利になるように力をつけていくのです。

 

Q.教える人の方法の違いは、「山の頂上は同じで、登り方が違う」と、よく言われますが。

A.一つの山ならもっともよいルートがあり、いくつかのルートはよく、後はかなり大変なルートかとも思います。私からみると、少なくとも、ここのトレーナーには、同じ山を登らせようとしているのではなく、あなたの山をとにかく登りなさい、でルートなど比べなくてよいというスタンスを取っています。ヴォイトレに関しては、トレーナーごとに価値観も目指す頂上も違う、それでよいと思います。でも混乱する人は、頂上は同じと信じてください。

 

Q.うまくならなくてもよいと思っているのはよくないのですか。

A.うまくならないこと、苦手なことを望んでいると、ずっとそのままになります。それを自己アピールとして個性に使えるという人は、それでよいのですが、能力がない、体がないなど、コンプレックスになっている、頭打ちにあっているケースでは、能力も体もそう思い込んだら変わらない、それゆえ、変わらなかったのです。それは、考え方を変えましょう。

 トレーナーは、そこを変えるためにいるのだから、変わるべき、変えたい、にスタンスをとることです。これで、問題は半分解決します。

 

Q.少しずつ上手くなるものなのですか。☆

A.これまでも、少しずつできていくのでない、それはリスク回避のための、底上げという再現性に過ぎないと述べてきました。初心者のうちは階段型、らせん型です。そして、上級者になると進歩はなくなり、飛躍が突然変異のように、降って湧いたアイデアのように、瞬時に全体としてパラダイムシフト、ブレークスルーするように起きるのです。

 

 トレーニングは下積みです。それだけで満足するのでなく、レッスンやステージで、それを忘れてスパークさせる、変じて、その上を得るようにとくり返し言っているのです。

 よほどの人でないと、下積み、安定、楽を、「確実だから正しい」という感じで選ぶのです。本当に必要なものは正しいものになく、これまでの延長上に生じる可能性のあるものです。その可能性を高めるための下積み、底上げ、再現性です。

 つまり

1. 初心者 これまでのマイナス解消と回数での慣れ

2. 中級者 くり返しによる底上げ、再現性

3. 上級者 ワープのための準備

となるのです。

 毎日続けていたらだんだんできるくらいのものなら一人で行えばよいのです。レッスンは、一人でできないことを得るためにやるのでしょう。トレーナーのできないことをやるのでしょう。

 

Q.すべての人にお勧めの方法はありますか。

A. 万人に当てはまるトレーニング方法などありません。自分に合ったものをみつけましょう。トレーナーは、その手伝いをしていくのであり、当てはまらないものを無理に当てはめるものではありません。

 

Q.早くうまくしてあげるというトレーニングは、本当にあるのですか。☆☆

A.早く少々できるようになることは過大に、長くかかってすごくできることは過小に評価されるものです。だからこそ、自分のトレーナーとして適任者をうまく選ばなくてはならないと思います。

 

Q.どんなメニュや、どんな方法がよいでしょうか。

A.どんな方法やメニュもどれがよくて、どれがダメということはありません。短期的にみて、片方は少しよくなり、もう一方は少し悪くなるのを、よいもの正しいものと、悪いもの、間違ったものに思っているのです。本当は、どちらにもメリット、デメリットがあります。

 こちらは、このメリットがあるが、一方で、このデメリットがある。もう一つの方は、このデメリットはあるが、このメリットがあるというものです。メリットだけのメニュや方法はありえないのです。

 両方のメリットを活かせる人が有能であり、本当のトレーニングはそうなるように力をつけていくのです。それにはまず、頭の中だけの、机上での正誤の論議はやめるべきでしょう。

 

Q.くり返しのトレーニングで力がつきますか。☆☆

A.慣れていくこと、身につけていくこと、マンネリになることは、トレーニングの中心での進歩です。これをくり返しつつ、同じレベルでなく、レベルをアップさせていくのが大切です。ですから、同じことを新たな視点でみせたり、違うことを新しく与えていく発想力、想像力が必要なのです。トレーナーは、それを必要に応じて気づかせるべき存在です。

 

Q.すべての人にお勧めの方法はありますか。

A. 万人に当てはまるトレーニング方法などありません。自分に合ったものをみつけましょう。トレーナーは、その手伝いをしていくのであり、当てはまらないものを無理に当てはめるものではありません。

 

Q.どこでやっていくと、学び上達でなく世の中で通じるようになりますか。☆☆

A.シンプルには、厳しいレッスンのあるところです。自分に合ったところ、人、やり方というのを望む人が多いのですが、やれていないのなら、自分に合うことよりも世の中に通じることの方が優先のこともあるのではないでしょうか。むしろ、今、世の中に通じていない、よほどのことをしないと通じないとするなら、自分に合わない方を選ぶ方が大きな可能性があるとさえいえます。そこまで掘り下げて、ゼロからもう一度やり直すだけの努力のできる人は少ないものです。尚、厳しいとは、ヴォイトレでいうと、指導が厳しいのでなく、声や音に厳しい、精度が緻密ということですから、間違えないように。

 

Q.レッスンでのことばが、わかりにくいです。

A.レッスンのなかでのことばゆえに、わかりにくいのですが、わかりやすい言葉にしても、それは空回り、テキストのメニュの音読のようなものになりかねません。二者の間で声やことばが変じる、そこにレッスンの活きた何か(ことばだけでなく表現や所作も含まれる)が生じる。そこを記録し、伝えられたら、と思うのです。

 

Q.苦手な人への対処法はありますか。

A.媚びたり無視するのでなく、なびかず、白けさせてわからせるとか、間を持たせない、間を外す、など、いろいろとあります。

 

Q.騙されたくないのですが。☆☆

A.信じるのは、騙されるということなのです。唯一絶対と言うなら、他をすべて知った上で、しっかりと判断すべきことですが、すべてを知ることはできません。他の人に聞いたところで同じでしょう。

 信頼できる人=信じられる人=騙す人、何でもありです。健康食品、サプリ、投資、すべて同じです。騙されるのは自分です。自分を騙しているのなら、信じているのだから、どちらがよいとか悪いではないのです。自分で考えることです。

 でも、考えてわかることでないし、人に聞いてその通りにするのは、信じることで騙されていることです。騙されてだめでなく、騙されて騙されて、身につけばよいのです。歌手も役者も声優も、アーティストは皆、フィクションや虚構をリアルに感じさせて騙す仕事なのですよ。

 

Q.芸事に、アカウンタビリティ、説明責任は必要ですか。

A.それは、多くの場合は、責任逃れ、つまり、説明した上で合意した上で、なのだから責任はとらない、賠償はしないということに使われているのです。大事に無事にという願望に対して保証をしているのではありません。芸事はコンプライアンスとして、説明できるものでない。目標、目的がなくても何となく当てがあるのでよいともいえるのです。

 

Q.あまりアドバイスをしてくれないトレーナーはだめなのでしょうか。☆☆

A.トレーナーさえも消えているのが理想のレッスンです。なら、一人でやればよいのでしょうか。いえ、トレーナーが場を作っているからこそ、声が導き出されるのです。

 トレーナーが教えないどころか、そこにいないとなると、スクールに通うような人からは、この時代、非難ごうごうでしょう。レッスン時間が1分、2分、短いとか、一回のレッスンがいくらだとか、考えるところが全く違う。そのあたりの取り組みを変えないと、とてももったいないと思うのです。

 

Q.「教えない」、「直さない」と言って、人が来るものですか。

A.全面的に依存する人は少なくなるかもしれません。そういう人は、どこかで全依存できたら少しはよくなるかもしれませんが、その先には行けません。そこで気づけば、いらしてもよいと思っています。

 だからこそ、ライフスタイルから心身まで、徹底して変えようという必要を感じている人は、単に教えられたり直されても、大して変わらないことを感じて、ゼロからやるつもりでいらっしゃいます。今の状況を表面で捉えるか、根本から捉えるかは、その後のプロセスも全く違うものになると思います。

 

Q.先輩のアドバイスで混乱しています。☆☆

A.技をことばにできるのは熟練者だけといわれます。なまじ中段階では、ことばにすることで上達を妨害してしまうことが多いようです。

「規矩作法守りつくして破るとも離るるとても本(もと)を忘るるな」(利休、道歌)

「心はそれ自身を組織化することによって、世界を組織化する」(ピアジュ)

 

Q.「Q&A」を読むと、どんどん迷ってくるのですが。☆☆

A.○か×かを知りたい人が読んで迷うなら、それは私の願うところです。つまり、答えを求めにきた人は、考えだしたから迷うのです。問えるようになったわけで、一つ深まったのです。未熟な人は、すぐに白黒を求め、誰かそれを言ってくれる人を探し、その答えに安心します。しかし、声のようなものは実にリアルなものです。それを知ったからといって、あなたの声も何ら変わらないからその先もありません。私も、こうして述べていくにつれ問いが深まっていき、結局、問いのつくり方を述べるしかなくなりました。つまり、私の能力は、あなたに答えられるのでなく、あなたにより深く問えることなのです。

 

Q.なぜ、他のヴォイトレと違うのですか。★

A.その一つは、会ってきた人があまりに多く、タイプも多様だったことによります。Q&Aでも、他では20くらいのものが、ここのは一万個以上、公開してきたわけです。

 さらに加えるなら、他のヴォイストレーニングは、せりふや歌をみます。私は声をみます。声の理論やメニュもたくさん知っていますが、それよりも、その人を動かしているものや、その人のなろうとしているものをみます。

 ですから、そこがはっきりしていない人は、訳がわからないと思うか、一緒にはっきりさせていこうとするかに分かれます。トレーニングというなら、その人が今どこにいてどうするのかでなく、ずっと先にどうなるかです。そういうことで老若男女、キャリアを問うてはいません。また、声を仕事とする専門家以外の声についても、広汎に興味があり、研究してきました。歌や劇のように形づくられたものから声をみるのでなく、声からの生成、プロセスまで遡ってみています。

 

Q.声について述べられたものに関心はないのですか。

A.読むよりも、話したり伝えることの仕事なので、できるだけ、すべてに目を通していますが、優先はしていません。とはいえ、自分で完成させてしまい、同じところをくるくる回らないように、自分と相手のために誰よりも語り、答え、残してきたのもわかっていただけるでしょう。

 述べたものは分析となり、報告となり、歴史となります。一方、仕事はリアルな直感、創造、即興での対応を問われます。

 こうして述べるときは、いろんな脚色もできます。しかし、声というリアルな空気中での波動のキャッチボールは、まさに身体的接触のようなものなのです。その感覚を文章にはできなせん。歌を聞いたことのない人に、いくら文章で伝えようとしても、伝わりません。述べられたものは、あくまで余技で、参考で、補充なので

論15.考える技術と感じるアート

○断じるということ

 

 断定する人は、大体は、大した人でないので、その内容が合わなくても気にしないことです。

 勉強して知識を得ると、ひけらかしたくなるものです。私も、最初に人前で話したり本を書いたときは、断定調だったのでよくわかります。もちろん、自分のやり方を信じ込んでいるし、すぐれていると思うからそうできるのです。人に認められたいとか褒められたい、あるいは、説得したいときは、そうなります。

 なぜかというと、それが求められているからです。当人がよいと思わず迷っているようなものを誰が求めたいと思うでしょうか。その方が簡単で相手にもわかりやすいからです。その分野の専門家であったり、仕事をすることで報酬を得るには、そうしたことが望まれるものだからです。

 同じことを続けていると、特に初心者の人だけを相手にしていると、それに慣れてそうなるものです。ですから、今の私などは、始めたばかりのトレーナーの方が慎重な分、よいと思うこともあるほどです。

 楽に早く簡単にできるのがよいと思う人は、お客さんです。お客さんはビシッと言われたり背中を押してもらう一言が欲しいから、トレーナーの断定を好みます。トレーナーもそうしているうちに、そういう人ばかりが残るから、ますます自説に自信をもち、偏っていくのです。

 それは、野球好きの人が、たまたま、サッカーを23年みて、「やはり野球ほど深くない」と断定するのにも似ていますね。昔がんばった人ほど切り替えられないのです。

 勉強して学ぶほどに、断定はできなくなります。

 今の私は、一人の人の一つの質問に、100200も答えが思い浮かびます。こうであれば、と仮定した条件とともにいくつか述べることもあれば、全く説明しないこともあります。

 相手の望むことにすべて答えるのでなく、相手をみてよかれと思う方向をみて、タイミングをみて述べます。相手にこちらが望めるようになるように答えます。その人を知るにつれ、その人もみえていない可能性を探りつつ、本人の行きたい方向と本人のもって生まれた資質を合致させるようにレッスンを創造していくのです。

 このスタートラインに立つのに23年はかかります。そこまでは何をどうやってもよい、ただ、先の事のための基礎を入れ込むことになるのです。

 

○わからなくてよい

 

 「ヴォイトレをやらなくても、うまくなりますか」と聞かれることがあります。

 「読むだけでよくなる」みたいな本を書いている私が、答えるのもどうかと思いますが、あの本は、やっている人を対象に述べたものです。やるだけではわからないこと、みえていないことがあるという意味で、死角となるところ、アプローチの盲点、気づき方を示したものです。やらない人に対して、私が言うことは、何もないのです。

 多くの本は、入門者対象、つまり、やりたい人、やろうとしている人をターゲットとして描かれています。それが一番、売れるからです。いや、それしか売れないことが多いからです。何よりも、編集者自身の興味と理解の範囲に限られます。それゆえ、ビジネス書や自己啓発書のように「何週間でわかる」などというタイトルになるのです。

 「わかってもできなければ、わかったと言えない」など、述べてきました。が、これも「わかることができることとは何か」を定義しないと進めないでしょう。

 わかるってどういうことで、どうなることで、なぜそれが必要なのか、これは、知るほどにわからず、できるほどにできないから、続くような気がします。

 少なくとも、私はそうなので、続いています。すぐにわかった、できたという人のものなど、ちっともおもしろくないのです。まして、私が求めるようなすごいものとは、真逆なのです。

 まして、それで認められてもいないなら、ただ幼いこと、未熟なこと、自画自賛で自己陶酔にすぎないのです。認められるといっても、どの程度か、多くの人に知られていたらよいのか、多くのファンがいればいるほどよいのかとなると、どうでもよいことに思えませんか。どうせなら、国を超え、歴史に残るものにしていきましょう。

 

○活かす力、生きる力

 

 ですから、あのトレーニング、あの方法、あのトレーナーがいいね、などと言うのも同じくらいに、幼く未熟なことでしょう。

 人についても、いいとかすごいっていうのも、何もみていないように思います。そういうところもそうでないところもある上で、自分に役立つように、人も方法も、あなたが使えばよいのです。使える力を手に入れるためにレッスンとトレーニングがあるということです.

 使う力があれば、慢心していない人からなら、学べることはたくさんあります。だからといって、すべてを知ることが必要なのではありません。すべてなどは知りえませんから、できるだけ、何事に対してもいい方向に考え、活かしていくことです。

 すべてを知ることでなく、少しでもできるために、それを目指していくのです。同じメニュでも、それで成長していくと気づき方が変わります。他の人が何とも思わないところで、多くのことを感じられるようになります。

 知識や情報を知っても、知るほどに迷うばかりです。考える力にならないし、考える力などあろうとなかろうと、生きる力があるのか、出るのか、強くできるのか、なのです。これは世界とあなたの関わりをつける力です。それがあれば考えるべきことを考えるから、考える力もつくし、知識や情報も自分が使える形で入ってくると思うのです。

 ですから知識として、それを望むのでなく、あなたと世の中の接点を見つけるために、そこの材料にして欲しいと思います。それで私は、「ノウハウやメニュでなく、基準と材料を得るように」と言ってきたのです。

 

○わかるとできると続ける

 

 レッスンでも本でも、入門者のためのものはわかりやすく、できやすく、あなたのレベルに合わせてつくられています。それは、これまで行っていなかった人が行うために、とっつきやすくしてあります。そして欲をいうと、できるだけ続けられるために、つくられたものです。だから本当には役に立たないのです。

 でも、続けていくと変わることもあります。続けることによって次の事への用意ができてくる、そういう使い方で、次の可能性が開かれる可能性のあるものを選べるかです。発展性があるのかないのかが、本当は肝要なことだからです。

 自主レッスンと同じで、そういうものを使わなくてもできる人はいるのです。使わなくとも感じられる人がいるのと同じです。しかし、大体は、できないから、感じられないから使っているのです。使っているものができないのなら、できるものにしていくとよいです。できるようになったからといって、現実には、まだ、何ら使えないものにすぎないのです。できるよりも感じられることが大切です。感じられるほどできなくなるものだからです。

 知識でなく、体を使うものは、そこがわかりにくいです。わかりにくいというか、わかる人にはわかりますが、わからない人にはわからない。わかるってことがわからないからです。覚えたかどうかでチェックするのに、頭のように正誤でなく、体は程度、深さだからです。

 ですから、スポーツ、武道、芸事や自転車、車の運転のプロセスなどで、例えて説明してきました。

 変わっていかない人には、変わるということがわかりません。続けてきた人、続けて変わった人しか、変わったことはわかりません。変わっていくことも、変わらない基本が何たるかもわかりません。わからなくてもできなくてもよいから、そんなことを頭で考えるより、続けることが大切なのです。

 

○ワープする

 

 もっともよいのは、あなたのレベルに合っていないものに、ハイレベルなものに挑むことです。到底できません。これは荒療治、いや、荒修行ですから、誰にでもよいやり方とはいえませんが、どこかでそのうち、一瞬、一声でも、感じられるかもしれません、できるかもしれません、距離がみえるかもしれません。偶然を必然にする、そういうチャンスになるのを待っているのが大切なことです。

 同じ次元を感じられたら、いつか同じところにいけます。しかし、同じことをやっているつもりで次元がズレていたら、距離がみえず、そのプロセスも得られません。

 たとえば、カラオケのレパートリーを10曲、100曲、1000曲と10倍ずつに増やしても、声や歌は10倍ずつよくなりません。多くの人は、10曲から100曲までで上達したあとは、慣れてこなせるようになっているだけでしょう。周りに褒められるようになってその人の伸びも止まります。それがアマチュアの限界です。

 それは、あなたの方に合わせていくからです。本当はどこかでワープ、これまでのあなたにない感覚や体になって放たなくてはどうにもならないのです。

 そこで、トレーナーが必要となるのです。それでも対応のできる人は少ないので、思考くらいは、これで補ってみてください。入門書やヴォイトレ本100冊を読むよりもよいと思います。

 要は、質なのであって、そのための量です。私が量としてみせているのは、差がわかりやすいからです。運動部のハードトレーニングのようなものです。それだけではなんともならないことを体で知ることができるからです。

 

○絶対量と絶対時間

 

 何事も成し遂げるのに、ある絶対量は必要です。そこから増すことは必要ないのです。でも、一定量を続けることは必要です。

 ことば一つで歴史に名を刻んだ人もいます。そういう人は、質の差のようにみえても、私よりもずっと量をもっています。それには時間がかかっています。トレーニングだけでなく、必要なものを吸収することを重ねた時間です。公けにしていないだけです。

 で、ほとんどの人は量をこなさないうちに質で勝負しようとするから、うまくいかないのです。知名度とか注目度とか販売数とか、量そのもので測れるものは大したものではないのです。

 ですから、私のこれだけの量から一つの真理だけでも得ていただければ、ありがたいものです。

 お客さんへのサービスは、スピード、効率のよさ、便利さで行われ、客数や売り上げといった量を結果とします。買い物ならそれでよいと思います。でも、生きていくのは、高さと深さとが熟していくことで、でしょう。いつ量から質的変換をするか、その後も慢心せず、いくつそれを重ねられるか、ということです。わからないときは、続けることです。それしかないときばかりだなと思うのです。

 

Q.まともかそうでないかは、どう見分けるのですか。

A.自分をバカと思わないのがバカ、酔っていないと言うのが酔っ払いの証拠です。自分のことは自分が一番わかっているという、わかっていなさについて述べてみます。

 例えば、心が病んでいると思われる人は、自分で精神科に行くことはなく、連れてこられます。精神の異常、正常は、元よりあやふやなもので、誰かに相談するにも、誰にその資格があるのかと問いたいほどです。

 そのあたり、ヴォイトレも似ています。医者は資格認定だから、医者よりも曖昧です。あちこちのトレーナーのレッスンを転々としてきた人なら、ここにきて、「そんなこと言われたことなかった」と感動されるか、または、不信に思われるかは、紙一重のようにも思うのです。

 外科手術のようにいかないし、すぐに生死にかかわるものでないあたりも、一回でよくならず何回も通うことも、カウンセリングなどと一部、似ています。声の問題はメンタルに関わるので、なおさらです。

 でも、問題は、まともかどうか、正しいのかどうかではありません。そういう基準をもって判定するものでありません、そう判断しても面と向かって、どこまで本人に言うのか、という点で、トレーナーの性格や生き方が出るのかもしれません。

 そこで基準は何かと聞かれても困るわけです。私が述べてきたのも、そういうふうに分けて考えるのを一時、やめましょうということです。まともも、そうでないのも、大して変わらないからです。

 それと、トレーニングは、将来に向けて可能性を追求するのですから、過去や現状での分析や状態でこだわるのはよくないのです。現実は踏まえても、それを変えるためにいらっしゃるのですから、限界より可能性を探すのがトレーナーの仕事です。可能性は誰にでも無限にあるのです。そこを信じて可能性を大きくする、それがトレーニングなのです。

 

Q.正しい声とは、何でしょうか。

A.美人が、すべての人の合成した平均顔というのと同じで、正しい、よい声は、何となく多くの人の真ん中、平均という感じになるのでしょうか。人によっては、声にも上中下があり、上の方と言うかもしれませんが。

 

Q.ヴォイトレの規範はありますか。

A.「何でもよいから、声出して」とか「ことばを言って」とか「歌って」というのが、一番漠然としてやりにくいでしょう。

 そこで、メニュなどで枠組みを与えます。その方がスムーズに入れるでしょう。

 特に日本人は、「答えは自分で」導くものだと言っても、「他の人は」とか「平均的には」とか「何番目(ランキング)」とか、チェックしないと落ち着かない性分なので、そこを変えるのが大変です。

 ヴォイトレがおかしいのでなく、日本人がおかしいから成果が出ないという問題なのです。

 「自由に好きに」のための表現と私は思い、そのための枠組み、基本と言っているものの、表現が枠そのもののようになりがちなのは、日本人のき真面目さからでしょう。

 で、ヴォイトレとか練習というのが独立してしまい、そのうち、道みたいになる、いや、もう、なりつつあります。それは、無限の可能性への創造として、すばらしいことのはずです。しかし、その実態は形骸化して、同じように揃えていくだけの満足で終わっているので、よくよく気をつけて処さなくてはなりません。

 

Q.自己中心的ではよくないですか。

A.電車に乗ると、周りの景色が全て後へ吹っ飛んでいく、そういう人だけが、自己中心的なようでも、そう考えると誰もが自分中心にものをみているものなのです。誰もが、太陽が昇り沈むとみています。電車では、景色が全て後へ流れ、そのうち降りる駅が前からくれば降りて、何の問題もないから、それはそれでよいのではないですか、みたいに、私も応じるのです。

 いや、そういう素直さを、私たちは失っているのだから、そういう感性こそがアーティスト向きといえる、詞も、そんなものをそのまま描写するからよいと思うのです。そこで狂気、エキセントリックになろうと、イメージで人を惹きつける誇大妄想的になろうと、アートの動機はそういうものでしょう。そうできないからと、他を頼んで違法なドラックなどに手を出してしまうよりましでしょう。

 

Q.精神的な病を疑っています。

A.心の病、精神の変調なら精神障害mental disorder)です。そのうち人格の変化になると精神病(psychosis)で、これに総合失調症(精神分裂病)、躁うつ病などが入るのです。狂気となると総合失調症の色合いが濃いですが、そこは芸術的な感じもするようでもあるのです。

 

Q.声がおかしくない証明はできますか。

A.体内のアルコール濃度は、アルコール検知器で測れます。薬物でなく脳内物質でラリっている状態かどうかは、その言動からでしかわかりません。声が出ない、かすれている、高さ、声量は、聞けばわかります。しかし、「おかしくない」とか「正しい」は、価値判断です。おかしいとしても、声がおかしいのと脳がおかしいのは別です。

 

Q.科学が進めば、声の判定にトレーナーは不要になるのではないですか。

A.科学的によし悪しは証明できないから、研究所には、人の耳として、感じる能力での判定を頼まれるのです。データを人間の判断に結び付けて完成させるには、人としての判断でのよし悪しがいるわけです。その上で、そういうAIが判定することはでてくるでしょう。カラオケ採点機のより高度なもののように。

 

Q.声や歌をみせにいけますか。

A.声がダメ、悪いということでなく、いらっしゃるなかで、ご自分は歌がうまいとか、声がよいことの言質をとりにくる人もいます。レッスンの依頼ならともかく、見せつけたいならステージで、お客に披露すればよいのです。慢心、自惚れることには注意することです。

 

Q.学びや気づきの瞬間ってありますか。

A.何事にも、一線を超えるときというのがあるのではないでしょうか。そのときラッキーと思うのか、それを人生最大の危機と思うのか、これで年貢の納め時と思うのか、そのときどき、人にもよるでしょう。私は、後者で、我ながら小心者だと思うのです。

 神に救われたと思うような機もあり、魔に魅入られたと思うような機もあります。よいことは神に、悪いことは悪魔に、と思うのは、どうも、人の、いや私の身勝手なことです。

 

Q.気づくのは、大切なのでしょうか。

A.人は生まれついて、いや、学ばされるところで、すでに差を知る、いわば、差をつけることを植え付けられていると思うのです。事実は一つだとしても、それをどちら側からみるかでしょう。でも、その捉え方でその人の人生も決まっていくわけですから、気づくことも、その気づき方、受け取り方というのも大きなことだと思うのです。

 

Q.何かをするかしないかを、いつも迷います。

A.何かが起きたとき、何を思って行動するかです。何もしないというのも、この場合、何もしないようにしているということです。行動すると、何か変わるのです。そこで何かを学ぶのです。何がどう変わったか、それをどう学ぶかです。

 

Q.声さえ克服すれば、全ては解決するのではないか、よくなるのではないかと盲信しないか、心配です。

A.そういうことでいらっしゃる人もいます。声に関わらず、自分の思い込みから妄想とも狂気ともいえる信仰にエスカレートしていく人もいます。まるで新興宗教に現世利益を求める人のように、こちらがグルのように祭り上げられたり、勝手に落とされ批判されるようなことにもなったりもします。最大のファン、信者の取り扱いを間違うと大変なことになることも学ばされました。

 そういう出会いの数々に、こちらも学ばされ変わっていったように、誰でも学んでいって欲しいと思うのです。

 解説、弁解ではなく、説明しているのです。うまく自分の人生に離陸して欲しいと思うのです。

 

Q.思い込みは害ですか。

A.いわゆる、若気の至りのような思い込みをもつのは悪いことではないと思います。それはもち続ける方が難しいです。

 多くの人は、その信仰が続きません。夢や洗脳のように感じて、捨ててしまう人もいます。それが大人に、社会人になるということです。でも、自分のものでないと思って捨てたとしても、自分のものになっていたら捨てるも捨てないもありません。

 子供のままでは人生は生きにくくなりますが、それゆえ、もっと学べるように思うのです。どんなことも信じることには勝てません。

 

Q.毎日が腹立たしいです。

A.どうしたところで、とかくこの世は生きにくいものです。純粋さが生み出す狂気にまでなれば別ですが、それはアートは犯罪か、みたいになりかねません。日々の生活に根ざすくらいの怒りになると、うまくいかないことを人にせいにする、ただのクレーマーに成り下がってしまうので、避けたいところです。大きなものに怒りましょう。

 

Q.記録を勧めるのは、なぜですか。

A.話をノートにとる人もいるし、ノートを見せにくる人もいます。私は、この分野では、かなり多くの話や実習を記録してテキストを残しています。だからこそ、生徒さんに、勉強として書くこと、記録することをお勧めしています。

 人類がここまで発展したのは、ことばを生み出しだだけでなく、それを広く共有するために、口承から文章にしたからです。文字の発明によるところが大きかったのは、文字をもたない人々が、未開の状態にとどまっていることからよくわかります。

 自ら発展させなくては、と思うのです。そのためには書き残し、できるだけシェアすることだと思っています。

 とはいえ、発展したのは文明であり、必ずしも文化といえないのですから、芸については不立文字、このケースでは、使い方がおかしいですが、文字を立てないことも大切です。だからこそ、文字を使い尽せです。つまり、詞とメロディとリズムみたいなものです。詩人のみならず作曲家や演奏家は、思想家、哲学者、宗教者、芸術家に近いものと、私は思うのです。

 

○天才とバカ

 

 天才と狂気は紙一重であるというのは、当たっているようで当たっていないと思うのです。

 私は、今回、芥川賞の作品2つを読もうとして、久々に「文藝春秋」を買いました。羽田さんのは読めたのですが、又吉さんのは途中で挫折し飛ばしてしまったのです。また読もうと思いますし、読みそうな気がするので、それは作品のできのせいではありません。 

 お笑いの方が関心がある。でも、介護は、私が昨年の夏、ギックリ腰を経験したから、などという現世利益的関心からきているのか、又吉さんがTVなどで芸人として知られているから読んだであろう200万人以上の人に批判されたくないとして…。つまり、私は、作家という職にも興味もあり、一部では作家と呼ばれていた時期もありました。しかし、そのメンタリティが今のところない、なくなったので、書けないどころか読めない、つまり、彼らのレベルでは読めないのを認めざるをえないのです。

 大学の英語の授業で「テス」を1年間、原典購読したことがありました。今やスキャンダラスな感じになったロマン・ポランスキー監督ですが。彼の「テス」が、ナスターシャ・キンスキー主演で公開され話題になった何年かあとだったので、私としては直感的に官能的な選択だったはずですが、ともかくも毎回、自然のなかの風物、植物の名前を調べるのが苦痛でした。生涯、絶対に使わない英単語を調べるのに耐えたのに、追試まで受けたのに単位になりませんでした。

 文学を学ぶのですから、自然の描写表現をしっかりと味わうこと、そういうなかでしか、しっかりと描ける力がつかないのは言うまでもない。画家でいう、素描、デッサンの練習を放り出したわけです。その分、声楽の先生のところに通いつつ、発声練習を毎日続けていたわけです。今からみると、ただの狂気だったのですが、それも30年以上続くと、何も無駄ではなかったのだと思うのです。

 

○詰める(「プリンキピア」)

 

 誰もが知っている「リンゴが木から落ちる」のを、多分、それまで何人かは、もしかしたら地球がリンゴを引っ張っているとみた、気づいたかもしれません。ニュートンは、20代で気づいたことらしいですが、40代で500ページを超える書物にまとめて初めて業績となるわけです。

 詰めるという面倒な努力に栄誉が与えられる、つまり、価値はかなり面倒なところを経て生じるのであって、それを面倒と感じて放り出す人には与えられないのです。

 ですから、バカや狂人で、天才とかアーティストというのも2通りです。

 一つのタイプは、作品や芸術活動を優先するあまり、他の事に常人のように関心がなく、周りに合わせて振舞わない人。

 もう一つのタイプは、詰める作業に狂人、バカのように打ち込める人です。山下清氏の貼り絵みたいなものです。

 詰めるには時間が必要です。待つこと、続けること、忍耐が必要なのです。必要なのは、耐える力といえます。

 

○感じる

 

 本人がどう感じているかは、それぞれに違うし、時期や作品にもよるでしょう。私は、最近、心や体の弱い人やそれに近い人をみると、一流の人と似たところがみられると感じ、それを述べてきました。そこで誤解させたかもしれないです。仮に、一流、天才と言われる人が病的であっても、病人とは違うということです。

 私がみて、弱い人がヒントになるのは、普通の人の感じないことへの反応、感受性など、です。この汚染された社会ではそこが鈍いから、私は健康とも思えるわけです。

 でも、人に認められるには形式を整える、つまり、詰めの作業が必要です。それには体力、精神力を要します。

 思いつき、発想としておかしなことを考え、言う人はいますが、そのままでは変わり者、行き過ぎると狂人として扱われます。すぐに行動して人に迷惑をかけると、そこでは天才にも一流にもなりません。

 着想、発想が何であれ、精神が脆弱なままでは、それをすぐに行動して絵や文章にしても一人勝手な陳腐な奇形なものです。

 それに耐えて、長い時間、未解決なまま、ずっと温め、現実に通用して他の人が承認できるような形式にする、そこで初めて、クリエイティブとかアーティスティックといわれるようなものになるわけです。

 「テス」の自然描写のように細かな作業を、風景を文字化して情景描写し、しかも、感情描写さえ絡ませていくという、小説家としてなら、そこを苦しみ楽しむマゾめいた才能がいるのです。

 変わった人の変わったものから何かに気づいて作品化できるアーティストはいるでしょう。KISSがギターを壊すのを、そこだけまねしても、アーティストと呼ばれない、過激なだけで狂気にもならないのです。

 

○感性

 

 子供は天才とか言われるのは、普通の大人より一途だったりデタラメなだけであることが多いのです。女子大生や主婦、彼女らのことばの感性で商品化とかいわれていた時代、私は感性について深く研究したことがあります。そこに目をつけて分析し、商品化した人が偉いのです。

 私も流木アートなどをやってみよう、と思ったことがあります。多摩川から拾った15メートルくらいの流木を研究所のエントランスに飾っておいたら、あるとき、大型ごみのシートの上の抑えに使われて、そのまま回収されてしまいました。

 私のセンスは誰にも理解されなかったらしい。でも、その流木そのものに人の心を動かす力がなかったのだから、流木も自業自得です。

 何千本の流木から選びに選んだものが何万円かの価値になるのです。一見、簡単そうでも、その手間暇をかけずには、ビジネスにも、ましてアートになるわけがないのです。

 話を戻して、心身の弱い人の言動には、それだけ本気で痛切な気持ちが入っているので訴えかけてくるものがあります。吃音の人などはすごいです。ひいては、人の心を動かすのも確かです。どうであれ、その一瞬を、強者であるオペラ歌手の舞台の歌の声と比べてみても何にもなりません。

 私が関心があるのは、人の心を動かす人の声そのものなのです。そこに一流も天才もないともいえるのです。特別なことをせずとも、長く、あるいは、深く生きることで、声も顔も変わっていくのです。

「プロへの道~身体を通して」☆ No.295

○プロの調整

 

 トレーナーは、できないことは、あまり強いてやらせてはなりません。試しに、というのならかまいません。できないからやれないのですから。このできるできないを、どういうことで判断しているかが問われるのです。

 メニュや方法などはどうでもよいのです。この基準がぶれていると、私は、そのトレーナーと一緒に仕事をすることはできません。ただし、リスクについては大幅にみています。それは、プロや一流の人も来れば、そうなりたい人も来るという、ここの特殊な事情ゆえです。初心者や一般の人への対応だけでは、そういうレッスンを受けた人のなかには、続かない人もいるのです。他では間に合わないからここに来るのですから、そこは、自ずと異なります。

 むしろ、プロの微妙な調整は、声を壊した人や、声の弱者の人との調整と似ていると感じることがあります。しかし、調整よりも、はるかに難しいのが根本的な改善、いや、革新です。

 

○プロとのギャップ☆

 

 次に、プロになりたい人の問題、それは、プロとのギャップの明確化と克服手段です。声優でも何万人も学校へ行っていますから、そこで習ったことができても多くの人はプロになれません。国家資格を得るための学校のように、90パーセント以上の合格率とは反対です。

 となると、どこかで化ける、ワープしなくてはいけません。ビリからトップになる、最初は、「なりたい」「いつかなれないか」が、「なれるかもしれない」になって、「なれる」「なれないとおかしい」と、妄想でなく実感できる、そういう力がつくには、周りと現状の把握が、それぞれのレベルで必要です。

 多くの人は、なりたい―絶対無理だ、なりたい―なれたらいいな、絶対無理だ、そのままでは、学ぶ意味がありません。学校へ行っても、なりたい―絶対無理だとなる方の人が、多いというなら、当然、その例外を目指すしかないのです。

私のいうプロは、生涯、その仕事を続け、飯が食えるレベルです。年に数回、誰でもできる仕事が回るくらいの力では、今後、AIロボットに替わられてしまいます。

 未来に対しての可能性は、誰にでも開かれていますから、時間を能力に変えるために学びに行くのです。このままでは無理、であっても、このままでなければ可能です。絶対可能にどうやってなっていくのか、そこが大切なのです。

 それをトレーナーが教えないのは、ライバルを増やしたくない、からではありません。彼らも、優秀なパートナーには期待しています。どう、教えたら育つのかということ、どうしたらよいのかということ、そこに方法やノウハウが確立していないのです。となれば、ワープする力のつけ方をどこかで伝えなくてはなりません。それも自分たちの生きてきた時代、世界にでなく、未来へ向けて生きる力を、です。

 

○系☆

 

心技体、それぞれの問題では、バラバラにたいしょするのでなく、そのコンビネーションが問われるのです。日本語でいうなら、結びつき、つまり、系です。

 今の自分の能力をいつも100パーセント使えてうまくいっているというなら、すごいプロです。そうではなく、一つひとつの力がそれぞれにあるというのでしたら、この結びつき、系の問題です。

 センサーとして感じやすく敏感になり、一方で、そこで振り回されないようにします。不要なものはカットして、入ってしまったら排出します。有用なものを吸収して、自らの滋養としましょう。生きているのと同じところに、能力の開発もおくことでしょうか。

 

○レッスンとリラックス☆

 

 発声を妨げるのは緊張なので、それに対して、緊張させないようにトレーナーや周りが気を使っているものです。それは、その日だけのワークショップでのノウハウとしては、大いに使えます。つまり、「あのワークショップはよかった、役立だった」という評判のためのカリキュラム、プログラムです。プロとしてのステージ演出であり、その裏も見抜けないなら、プロになろうとしている人なら困ったものです。

 緊張しないレッスンなどレッスンではない。緊張しても、力を出せるようにならなければどうしようもない。なのに、リラックス、リラックスとなりました。

 逆に、威厳をもってレッスンで強要して緊張させていた昔の先生のは、結果として、修行のようなことになっていました。

 今や、子弟関係も友達感覚、トレーナーとはお客さん感覚、ステージもそうなってきています。そういうことのメリットの一部は私も認めていますが、それでは続きません。

 リラックスしたレッスンばかりで本番に行くと、一気に飲まれてしまう。トレーナーとのレッスンの鈍さが伝わるのは、もっともよくないのです。

 緊張をしないように、とか、緊張したくないとかでなく、緊張してもしなくても、きちんとすべきことをこなせる。大舞台ほど、緊張するほど、よい結果を出せる、そういう結びつきをつけるために受けにいくのが、レッスンです。

 

○新しいレッスン☆

 

 新しい発見、気づきは、新しいところに行くと起こりやすい。新しいから気づきやすい。新しいトレーナーや新しい受講者から学ぶことも大きな刺激です。

 しかし、同じトレーナーと同じメニュのレッスンで、それが起き続けないと、本当の上達はしません。☆

 緊張しないのは、マンネリであることも少なくない。私も、ときに、トレーナーにメニュの組換えを促したり、トレーナーの変更、追加をアドバイスします。最終的には、本人の判断を尊重しますが。

 リラックスしたレッスンにしたければ、トレーニングでとことん本人がやっていくことです。そのときに、自ずとそうなります。レッスン以外で、ステージや自主トレで厳しくできるならもっとよいのです。

 

○読むこと

 

 先や周りを読むこと、危機管理ができることがプロの必要条件です。なのに、先を読むこと、周りを読むことを必要としない、危機感、切迫感のないところにいたらどうでしょうか。トレーナ―が前もってあらゆる状況を整えて、リスクもゼロにしたらどうでしょうか。

 その人は、どこか他のところで他の全てを学ばないとなりません。そういう人には、自らで本番、ステージをもつように、ということをアドバイスします。

 自分でゼロから組み立ててみると、大いに学べます。その一部は、ここでもステージ実習の形で行っています。

 しかし、スクールのライブのように、周りが全く整えてしまうと、多くの人には多くのことがみえません。形だけ知っても、その舞台裏をみようとしなくなるからです。

 厳しいステージと楽しいレッスンがあるのと、厳しいレッスンがあって楽しいステージがあるのとどちらがよいでしょうか。一流の人は楽しいステージと楽しいレッスンをしていますが…。アマチュアにもそういう人はたくさんいます。要は、内容です。

 

○気づきのレベル☆

 

 身につくのは、本人が気づいて、取り入れたものだけです。教えられたり押し付けられたものなどは、褒められたところで、少々高い段階では全く使えません。自分が選び、組み合わせたり改良して、自分で高めて自分で使えるものだけが残っていきます。そこを自分だけでやるなら、同じことの同じレベルのくり返しになりかねないので、人を使う、その一つがトレーナーとのレッスンにすぎません。

 でも、レッスン十年間のたった1つのアドバイス、たった1分が全てを変える。これは、たった1曲が人生を変えるのと同じです。☆

 それまでそのレッスンで気づいて力となった、あるいは、気づいても力になったとか思わないでも、そこさえ得たらよい、と思うのです。

 よく、初回のレッスンで、そのたった1つに気づいたという人がいます。でも、多くの場合、それは、頭で間違って覚えてきたり、ことばで間違って覚えてきたことを正されたり、確認できただけのことが多いのです。すごくシンプルに余計なことをとると、光のようにみえることはあっても、それだけで身についた人はいません。

 

○自立★

 

 反面教師もよいのです。教師なのですから、逆の形で伝えてもよい。そういうのも含めて背で語る教師でよい、何も教えなくとも、そこで人が変わっていくなら、よい。

 教わることですぐにできる、簡単なものなどと思わせてしまうより、よほどよいことだと思うのです。

 メニュや方法や技術などと同じく、トレーナーも存在しない、いないのがよいのです。

 私はここのトレーナーにも存在しないように心掛けています。頼られたり、どこかしら依存されると、生徒を向かずに私の方向に向いてしまう。それでは、お客より上司を気にする店員のようなものです。そんなトレーナーならいらないし、私一人でやる方がよい。トレーナーが自立していないのに、生徒が自立できるわけがないでしょう。

 私の言う通りに動くようなロボットのようなトレーナーは要らないし、レッスンの受講生にそれが伝わるようでは意味がない。

 自立しないと気づけないというレベルがあります。このところ、自己責任ということばは、かなり歪んで使われているので誤解されやすいのですが、自分でやることは、自分で決めて、その結果も自分でフィードバックする、そのために他人の知恵や経験が貴重だと、あたりまえのことですが…。

 

○不備☆

 

 どんな人も使える、そして、優れた人になるということです。私のところで私の提供しているものに不備がある、なら、自分で創ればよいのです。私も創ってきた。その不備を感じさせて、あなたにも創らせようとしているかもしれないではないですか。

 でも、不備も気づくということは、満足して何も気づかないよりもよい。気づいたら自ら変える努力をしたかということです。

 不備を感じても変わろうとしない人は、結局、外に出ても同じです。どこに行っても不備、そして不満。誰かに、どこかに文句を言っているだけで、生涯を終えていきます。自ら創らず、与えられるだけで満足できるところ、ユートピアなどどこにもありません。

 ここには、トレーナーも生徒さんも長くいてくださいます。いろんな不備はあるのでしょうが、それ以上に自らが生み出している、自らユートピアにしている。そういう人は外に出てもどこに行ってもうまくやっていける。ここでさえやれるのですから。

 

○思っていたことは叶うのか☆

 

 思っていることが本当に思い込めたら、大体は叶います。では、叶ったらどうするか、あるいは、どうなるのでしょうか。その前に、思ったことが叶うというのはよいことなのか、思ったことを叶えるのが人生なのかという問いもあります。

 人生半ばを生きて思うのは、自分が自分を限定しているということ。特に、自分が考えたり、思い込んだり、無意識に入れてきたことが、です。

 自分の願い、そのものが我欲の域を出ないというところでは、叶ったところで、大したことでない。一時は嬉しくても、嬉しいだけ、心はそれに振り回されていることが多いのです。

 願っているつもりで、本気で願っていないから叶わない。本気で願うのは難しいものです。自分で努力しないと大それた願いと思えて、どこかにスキができます。相応の努力をしていないと、願えるものがないのです。

 本気で覚悟を決めると、必ず思い通りになりますが、思いがけない展開にもなる。だから、覚悟というのも難しいものです。

 どう対処するか、そこまで事前に考えられないから、たくさん試みてシミュレーションしておきなさいと言うのです。それが、レッスンや自主トレです。

 自分の思いや願いと全く違うステージ、次元に乗せられる。それは、嬉しくも楽しくもないけど、もっと大切なことのように思うのです。

 

○囚われる☆

 

 マニュアルやメニュを学ぶというのは、その時点で志が低いわけです。それなら聖書とか歴史とか、偉大な書といわれるものを学んだ方がよいのです。

 まして、それが役立つのか役立たないか、正しいか間違いか、よいとか悪いとか邪念が入るのはよくない。そのよし悪しを判断しようとかいうのは、自分に囚われているのですから、すでに学べない。

 何に対しても、どう思うのもよい、頭の中は自由です。でも、何か言うことや行動することは自由ではありません。とはいえ、行動が伴わないと、そうしているうちに上から目線で傍観者になってしまう。他人の人生の観察者になってしまう。自分の人生は、そこにありません。

 一方的に、学ぼう、信じようとするのも、その人の影響下に入り、すでにその人に取りこまれているようなものです。私を学ぶのでなく、私のものを学ぶのでなく、私から学び方を学んでくれたらよいのですが。

 

○わかりたい

 

 「わかったら終わりでしょう」と言っても、わかったつもりでいる人が多いのですが…。長続きするには、わからないことに気づいていかなくてはなりません。人も、ものも、芸も奥深いものです。わかりたいからわかろうとして、わからずに究めていく。

 わからないことは、人を惹きつけます。調べればすぐわかることなど、簡単に調べられる時代となっては、なおさらつまらないことです。しかも、調べたところで、本当の答えではないことも多いのです。必ず、その先、その奥があります。

 こうして述べ続けているのは、私のわかったことで述べているつもりですが、その中にまた、わからないことが出てくる。いや、そうなるように述べているのかもしれません。私の述べたことをわかりたいとか、わかろうとしても、わからなくなる。そこが狙いです。そして、次の問いへ行ける。私も同じです。

 

○なぜ、できたかをみる☆☆

 

 ときおり、なぜできないのかより、なぜできたのかを考えます。できないことは、私を超えているのですから、考えてもわからない。できた人に聞いても、私にはできない、わかったらできるのではないし、できていないならわかっていない。

 しかし、できたことはできているのに、案外とわかっているわけでない。できた理由を説明しても、嘘くさいと思う。

 こうして人に教えようとする。すると、正直になるほどに、ことばに苦労する。ようやくことばにします。でもどこか胡散臭く、自分をも騙しているように感じる。それを伝えても、相手が、やはりできないなら、なおさらです。

 できたらレッスンにこない。できないからくるのです。でも、いずれできるようになる。そこで、なぜできたかをみると、私が自分のできていないことへアプローチする手掛かりともなります。

 ウサイン・ボルトをみて、彼のように走ろうとするより、幼児に歩き方を学んで、オリンピックの100メートルで優勝する。そんな極端なことを詰めていくような作業の方が、案外と有意義のように思うのです。☆

 

○身につく

 

声を身につけていって100パーセントというのは何を示すのでしょうか。100点満点というのは、それで何ができることなのでしょうか。

 声については、すべて身についてもいるともいえるし、全く身についてもいないともいえる。そこをどうみるかは、その人の必要性となります。

 身についているのかは、ある見本をみて比べることで、その基準を応用してチェックすることが多いです。

 声からいうと、ことば、せりふ、歌も、けっこうな応用です。もし応用でなく、声と同じレベルに、それらが捉えられ、使いこなせていたら、音声表現のプロとして一流でしょう。

 最初は、距離があるから応用と言います。関係ないくらいに遠いから大変です。でも応用できたら世界は広がり、基本は固まります。応用できていたら、大体はうまくいくようになるのです。

 

○気づくレッスン

 

 すぐにわかることなど、一回見たら人にも飽きられてしまうのです。わかりたいからと「科学的に」「理論的に」などということに頼るのは、あまり賢いことではありません。わかりたいから一つの手段として使うのは、悪いとはいいません。どの程度なものかを知るのはよいでしょう。それで声がわかるのでなく、それで声がわからないことを知るために、です。

 レッスンやトレーナーも、自分のわからない、知らないこと、気づかないことに出会うためにあります。

 少なくとも私のレッスンはそうですし、そうでした。レッスンを受けても、教えても、先生―生徒の授受などではありません。気づくことです。気づくと相手も気づくようになります。そういうことが大切です。上も下もない、勝負でもない、のが学ぶということです。気づき合い、力のつけ合いをするのです。よいレッスンでは、私も、とてもたくさん、あるいは深いことに気づくのです。

 昔、50人ほどの合宿の総合コメントで言ったことがあります。「準備も併せて、いつも私が一番、勉強になっているのではないか、それでよいのか」と。

 

○ソフトの能力☆

 

 人を教えようとすると、今の時代、「科学的に」「理論的に」となりがちです。ここも、声紋分析や声のソフトをたくさん導入しています。それは、本と同じく、世の中でのアプローチの最新の状況と限界を、来訪者やトレーナーのために知っておくためです。私がアーティストとしてなら必要ないものです。

それは今のところ、まだ必要ないし、使えないことを踏まえておくために投資をし続けているともいえます。学者や医者と話すときに、このことで、理解が早まる人もいて、助かってもいるのです。

専門家といっても、そんなものです。科学、実証主義に毒されていると思えなくもないのですが、そういう方々には、感性や直観だけでは納得してもらいにくいのです。その人はわかってくれても、その人の組織に持ち帰って伝えられないということもあるからです。

 「何十人もの人の声が聞き分けられるソフトがあれば、学校の先生は楽ですね」と学校の先生に言われて「冗談ですか?」と思ったことがあります。教室の子供の声を聞き分けるくらい、先生なら充分にできます。顔と名前は早く一致させて覚える努力もしていらっしゃるはずなのに。人の能力で、声を感じとる力はもっと信じてよいはずですよ。

 

○実証より反例を

 

 疑問をもち、理論や説が自分や他の人に、必ずしも当てはまらないことで、さらなる仮説をつくり上げていく、そのくり返しで、声を丁寧に扱う力が上がっていきます。

 ある方法ややり方が通用する、そんなことの実例を出したり、それを体験談などや科学などで裏付けするような稚拙なことをやる暇があれば、それに当てはまらない人や例を見つけることこそが大切なことでしょう。妥当性を、自ら壊していく、自説を自ら反論して、次の段階へ進まなくてはなりません。

 

○亡霊☆☆

 

 声については、昔、私の述べたことを、当時は肯定していたのでしょうか?今さら探し出して、そこで云々言う人もいます。こちらは、そこから何十回、何百回と段階をアップしているのに、その人はずっと人の考えは変わらないものと信じて、いるのでしょう。つまり、自ら、変わることのなかった人なのか、勉強していないのか、こちらを神様のように思ってくれているのか、ずっと230年前の世界にいるのです。どんな理論も仮説であり、説明の仕方も時代や相手によって変わっていくものでしょう。

 

○仕事は応用力

 

 気づいて実現できていく環境に身をおくことは大切です。空気が汚いと呼吸は深まりません。清ければ、しぜんと深くなります。そういうことで、環境は、大きなアドバンテージにもハンディキャップにもなります。

 わからなくてもできる、できなくてもうまくいく、こういう応用力を身につけないと社会では通じません。売れている人をみて、うまくないとか、できていないのに、とやっかみを言ってもそれは違うのです。仕事が回っていることがプロなのです。

 芸がないのにTVに出ている、ではなくて、TVに出ているから芸があるのです。その人が何がわかっていてできていて、などは後付けの説明で不要です。

 しかし、芸があってもTVに出ない人や出られない人がいる、そこを忘れなければよいのです。TVに出ているから偉いとはなりません。出たくても出られない人よりは、ましかもしれませんが。応用力が基本の上に成り立っていかないと、いずれ通用しなくなります。ですから、レッスンは応用を入れることよりは、基本でよいのです。

 

○バックグランド

 

 どこでも休める、寝られる、悩まない、一日位食べなくてももつ、気にしない能力、早く食べられる、寝なくてもまともに考えられる、欲の強いこと、目立ちたがること、次々と前に出ること、考えずに動けることなど、こうした、どの社会でも、みえにくい能力がけっこう仕事を支えているものです。

 歌い手や役者は、歌う能力や演じる能力を問われているようで、その前に目立ちたい、化けたいなどという能力が9割でしょう。そんなことはないと思われるでしょうが、歌唱力や演技力が高くても、そこで、みえない能力が一般の人並みや、それ以下であったために出られない人をたくさんみてきました。

 サッカー選手になる前に、走る力というのも、充分な集中力や根性、あるいは、五体満足のような健康な人としての基盤があります。それらは、あまりに当たり前でみえていない能力というものです。

 

○メッキ

 

 火事場の馬鹿力でないのですが、追い詰められた状況で、人一倍の力が出る、としても、大体は、12回のビギナーズラックで終わります。メッキは剥げるのです。しかし、それが積み重なっていくうちに、ものになったという人もいます。役者に多いようですが、歌手にも当てはまります。タレントなどは、まさにそういうタイプの集まりです。

 その反対として、練習やリハでは文句のつけようもないのに本番が人並み、あるいは、必ず失敗する、これは続くと出してもらえなくなります。場合によっては、メッキも必要です。フィクションの世界ですから。

 どちらも年に数人の代表例をみてきて、考えさせられてきました。後者はメンタルトレーニングの導入のきっかけとなりました。

 

○声を学ぶ必要について

 

 ヴォイトレをするときに、いつも私はこのことを考えています。学ばなくてもすごい使い手がいるのです。学んでそれを超えられないなら、何の学びでしょうか。

 私も、多くのことをやってきましたが、何をやっても似ているし、同じでもあると思います。むしろ、同じことのなかに何をやっても違うことがある、その方が深いと思ってきたのです。

 声のことでやってきたことと、声以外のことでやってきたことが、30年も経つと完全に混ざっているのです。専門家が、後に森羅万象に関心を拡げるように、私は専門でもないけれど、いろいろやってきて、というより、やらされてきて、気づくことが多かったのです。

やらせてもらえたのはなぜかというと、決して実力があったからではない、若くて何もわかっていなかったから、相手もわからないものとして私を使っていたとも思うわけです。私としては、若気の至りで、使われていた気もなく、そういう人を使っていたつもりでした。ともかく、刺激的とは、気づきの多いことなのでした。しかし、残ったものは平静ななかで声を出していたことでした。その結果として、獲得された声だけでした。

 

○変わり方を変える☆

 

 人は、成長するにつれ、変わります。でも、中学生にもなると、生涯その顔やことば、所作のほとんどはできあがっています。50年、80年経っても変わらないと思うのです。

 でも、なかには別人のように変わってしまう人もいる。これは変わり方が変わるのでしょうか。アーティストの作品や生き方には、その要素が大きいと思うのです。どこで化けたか、あるいは、化け続けていくかということでしょう。

 ここを出て、つまり、会わなくなって、10年、20年ぶりに再会する人がいます。とはいえ、小学生辺りで別れたのでないのですから、大体の人はそうは変わりません。でも、こちらが思い出せないくらい大化けする人もいます。人が変わる要因は、よくも悪くもとんでもない毀誉褒貶の人生を送ったタイプと、たえず、自ら変えていったタイプがあるように思います。

 

○クラシックとヴォイトレ☆☆

 

 私は、心を奪われるなら、別世界のままであってもよいと思う、いや、はれ、非日常だから当然そういうものだと思うのです。

一方、歴史も、地域も、背景の全く異なったものがつくられ、輸入され、好まれてきた。その一つが、クラシック音楽です。

宝塚歌劇劇団四季も似たようなもので、それは、映画のように別世界をみせてくれる。クラシックといえばバレエもそうで、凡人にはできない特殊な身体の使い方で、人間の可能性を美しくみせているわけです。

 そこで声を考えてみると、その人間の声の高遠な可能性の一つであるオペラから、誰もがアプローチできるように声楽メソッドをつくってきたのです。ポピュラーやカラオケは、庶民的でありますから、そういうのは出てこなかった。まあ、ヴォイトレはヨーガ、禅、合気道のようなものと捉えてよいでしょう。絶対に必要というものではない。

 私としては、その声楽メソッド、世界中の民族が使ってアプローチできる、しかも、ハイレベルに実績をもつ、そのオリジナリティには敬意を払いつつ、オペラだけでなく、声を使うすべてのことの基礎として、ヴォイトレをおきたいのです。そうでなければ、その存在意味が希薄になるからです。私にとっては、です。

 日本人の大人に日本語を教えるのでなく、かといって外国語を教えるのでなく、どちらも応用できる万能ツールとしての声を伝えたいのです。それは、確かにあるのに、ないような分野、例えば、表情、笑顔、マナーなどと似ています。

 

○面談カウンセリング★

 

 「何でもよいから、やってみてください」と言われて、やることのできる人は少なくなりました。「?」のあと、動けないのです。昔は、やりにきた、いや、自己PRにきたのですから「待ってました」とばかり、どんなレベルであれ、挑んできたわけです。

 今となっては、皆さんのそういう気配を察して、こういうことを言うのもやめました。企業の採用面談ではないのですから。

 多分、「やってもよいのですか」「何をやればよいのですか」「やれるものがありません」という答えが戻る、どれもこれも、レッスンのスタート時点までに、かなりのフォローが必要と思います。そこで、そのような対応をします。

 声を出すとか歌うのは、日本人にとっては鬼門です。与えられた状況では、安心してカラオケなどを楽しめるのでしょうが。

 「音源はありますか」とも聞きます。即興では大変なので、また発声練習なども、そのパターンに慣れていないと却って声が出ないので、その人の録音したものを聞かせてもらいます。歌は、話し声と変えた声を使う人が多いので、実際に聞かせてもらった方がよいのです。

 最初から、方法やメニュを出してほしいというのはわかりますが、決まったものがない。出すのは、あなたのです。あなたの出した声に応じて全て変わるのです。

 

○バージョンアップ

 

 声がバージョンアップする、それを目的として欲しいのです。ヴォイトレなのに、目的が、その他の応用に行きすぎていませんか。メニュも方法も感覚も、全てがバージョンアップをくり返していくものです。決まったやり方、固定した声や技術を求めないようにしましょう。そのために、どれだけ大きな可能性が制限されているのか、ということに気づいてください。そして、常に工夫、改良してください。工夫、改良する力をつけるためにレッスンがあります。自主的な工夫を通してしかバージョンアップはできないのです。

 

○脱力

 

 本当に脱力したら倒れます。立っていられません。リラックスも緊張を抜いたら使えません。体の力を抜くのでなく、入れるところには入っている、余分な力、必要ない力を入れずに行うのです。ですから、急にできなくてよいのです。少しずつ変わっていけばよいのです。脱力とか、リラックスの出来など気にしなくてよいです。声が出やすく、しぜんになっていけばよいのです。

ご案内

私は10数名のヴォイストレーナーとともに、ヴォイストレーナーにも指導しているため、内外のヴォイストレーナーのアドバイザーやヴォイトレをしている人のセカンドオピニオンもたくさんやってきました。ヴォイストレーナー志願者の人や「ヴォイストレーナーの選び方」などに関する質問も多くなりました。そこで、この件について以前に述べたものを再掲載しておきます。http://www.bvt.co.jp/trainer/buntrn.htm

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