第40号 2009.05.23

○日本のトレーナーの限界

 日本で多くのプロ志願者と講演などで接してきました。
すると、あたかもどこかで親切なトレーナーをみつけて、ゆっくりと自分の
才能のなさに気づかぬように夢をあきらめさせてもらうプロセスをとっていくかの
ように思わざるをないことが少なくありません。大切なことに気づきたくない
から、皆、気づかないふりをして、そのうち考えなくなるのでしょうか。
トレーナーは、その人のために教えているつもりで、それゆえ結果として
引導を渡すことになります。

 根本的なものが何も変わらず、今の自分の線上でやっていけば、
将来がオンしていくと思うことの甘さが、まったくわかっていません。そんな
才能があれば、20歳までに少なくとも、この日本ではプロとなっているでしょう。
昔なら、先生といわれる人は、そういう人には、この道はあきらめなさいと
言ってあげました。

 そうならないのは、音楽はとにかく素晴らしいものということ、(だからといって、
それをプロとして選ぶことは違うし、そんなわかりきったことにここで触れている
私は自分のおせっかい度に少しうんざりしていますが、)生徒の月謝に
トレーナーの生活、さらにトレーナーのアーティスト活動が、生徒という名の
客に依存している現実があります。
ポップスでも、音大の先生のような悪しき構造をとっているのです。
先生が先生としての地位を守るために家元制のように形骸化しつつあります。

 他のアートと違い、人が集まっていれば、成り立ったかのような印象を与える
には、よほど厳しい姿勢で望まないと、本当には成り立っていきません。
メロディに歌詞をつけただけの、インスタント歌手がいかに多いのでしょうか。

 私は、常にその人の才能として見い出せるものを求めてきました。
自分の力をつけるために、来ているのですから、他人に頼らず、自分の力を
出し切って、認めさせていくことを覚えなくてはいけません。
 それがお金を払って、お客さんとしていられるスクールでは、
なかなか両立しないものです。日本の場合は、先生にも、才能よりも
コミュニケーション力、スクールも、内容よりサービスの方を期待されるからです。

 強くなればマナーが身につき、マナーが身につかなければ強くなれないと
いうことがわかれば、誰よりもしぜんにマナーが身につくはずなのですが、
マナーをよくすることが目的になってしまう。これでは、アーティックなことは
できません。トレーナーは本来、その人のサポーターであっても、
生活上のカウンセラーやヘルパーではありません。ところが、日本では
身の上の相談、メンタルトレーナーの役割をも期待されるのです。

 人に依存してしまう人を受け入れてしまうと、能力のある人材が去ってしまい
ます。そこで日本の組織はどこでもダメになってしまうのを、私は見てきました。
 自分自身を、トレーナーを使って生かし切る人にしていくこと。
つまり、学校のように、誰もを1、2割能力アップさせるのでなく、2、3倍の能力
アップを目指すことが、トレーニングの必要性を増し、それゆえ効果をもたらします。

 自覚を持ち、人前で一人でやれるだけの厳しさを与えること、本場よりも
厳しい場としてレッスンを置くこと、一人ひとりが他人と全く違う、自分のための
試みや利用法をできるだけの柔軟性を持ちつつ、必要なこと以外に
無駄な時間をとらないようにさせることが望まれます。


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<今週のQ&A>

☆Q37.先生をまねないのなら、トレーニングの目的は何になるのでしょうか。

 教わる側も、一人のトレーナーに一方的に依存して、教えられたままに
行なうのでなく、それを元に自らが感覚や体で判断していくという、思い切った
自立心が必要だということです。もちろん、トレーナーは、初心者よりも条件を
満たしていますから、まねてなり切っていくのは、一時的には早い成果に
つながります。(それをくせ、固めるというのですが)そこから、次のステップに
いける人もいれば、そこで行き詰まってしまい、戻らなければ進めなくなる人も
いるということです。

 これは、トレーナーやその方法のよしあしよりは、相性によるかもしれません。
時期や目的・レベルによっても、相性は変わるので、一人のトレーナーに
依存した状態での客観的な判断は、それゆえにうまくできなくなるのです。
 日本では、トレーナーが自分のレベルに生徒を自分よりも早く育てられない、
それどころか、もっと長く教えても自分の半分の力につけられないことが多いの
ですが、こういうことがその原因にもなっています。

(私などは、かなりの確率で、自分以上の力に、相手をしてきました。
もちろん、最初から外国人や二世を含め、ハイレベルな人もたくさんいたの
ですが、それゆえ、自分自身をも突き放して、一流アーティストやCDからの
学び方を徹底させてきたわけです。トレーナーのレベルを目指して、
その先どうなるのかとは考えないのでしょうか?)

 問われるのは、表現、つまり声、そのものでなく、声の応用性、つまり
柔軟性なのです。くせや固めることは、それを妨げるからよくないのです。
なんとなくうまいのに、他人の出し方や歌い方に似ていて、いや、その人の
しぜんさがなくて、しっくりこないということはありませんか。考えてみれば、
それこそ最悪ではありませんか。自分でつかみ、発見してこそ、一歩なのです。
私が「レッスンではこれまで出した、出せた感覚や声で全く違う声を目指すこと」
というのは、そういうことなのです。

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