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第82号 2011.03.26 ○声の見本の危険性

○声の見本の危険性

よく、トレーナーにつくと間近に見本がみられてよい、という方がいます。距離として間近で、時間のプロセスとしても、一つのフレーズでくり返していたら、確かにわかりやすいですね。しかし、こうした内容と表現法が芸だとしたら、それは違います。
今は、師匠につかなくても落語は覚えられます。教材CDまで売られ、学び方の方法まで、ていねいに解説されています。
私も本や教材はつくっていますが、それはレッスンに来れない人のためで、レッスンに代われるものではありません。
とはいえ、プロになるのに必ずしもレッスンが必要でないのです。

師のところにいくのは、いくつかの目的があります。
1. 内容(落語なら噺)を覚える
昔は、寄席でしか噺は聞けませんでしたから、噺を仕込みこむのが、最大の目的でした。歌手なら楽譜を入手する、あるいは歌(詞や曲)をもらうことにあたります。
いまやCDで音声をとるか、DVDで振りまで学べます。客席の正面からしか見られないというなら弟子は横からしか見られない。DVDの方が繰り返し見られるだけ効果的です。

2. 自分に対するアドバイスがもらえる
これは、師によります。友人や先輩よりもプロだからよいはずですが、芸の名手、必ずしも教える名人ではありません。

3. 見本がそばで見られる
これも声は楽器と違い、個人差があるから、まねがくせになりやすいです。つまり、耳でとらえるようにやっても、師と同じフレーズをまわしはよくとも、同じ声を出すには必ず、無理が生じます。師と似た声の人が簡単にできることを、全く違う声の人はずっとできません。
似たらよいのかという問題もあります。似ていると思われるのは、表面しかとっていないからともいえます。本質的なものを学べていたらおのずと師と異なる自分の声と呼吸での表現がでてくるのです。
そのプロセスの判断は、声に関しては師といえども容易ではありません。すぐれている師ほど、潜在的に自らのもつ条件を意識していません。自分の体験や練習法を伝えても、それはその上でのことです。

ですから、「俺はそんなところでつまずいていなかった」という人ほど、教えられないのです。小さいころからプロとして歌っている人に、いい年齢で音をはずす人の直し方はわからないでしょう。

声にはそこまで生きてきたすべて、体、心、感情を伴って入っているのですから、形で入れるくらいなら、苦労はしません。
師のようにやれといわれて、すぐにやれるところは条件にめぐまれていてやれたのか、条件がないのに表面だけ合わせられたのかでも大きく違っています。
しかし、表現力が伴っていれば師と同じ力があるのに、それがないというなら何かが欠けているのです。つまり、まねてできたつもりで、本質の問題を素通りしてしまい先にいってしまったのです。つまり、基本がなおざりにされたということです。

それをみてほめるトレーナーがいるからやっかいです。早くできたということにしてしまうことで、レッスンの対価には見合ったと生徒も喜んでいるものの、生涯、そこの限界から抜けられないようになったということになりかねません。しかしそこに気づかないレベルでレッスンが成り立っているのです。これはトレーナーを変えるか、トレーナーが変わるかしかありません。

○ほめることと評価すること

できないことができたら、それは認めてあげるべきですが、ほめる必要はありません。ただ、ほめると自信をもったりやる気をもつ人も多いからトレーナーはほめるのです。
逆にいうと、これはほめられないと自身もやる気も自分でもてないから、トレーナーが認めてあげないといけないという関係になりがちです。これではプロになれてもプロとして続くことはないでしょう。もちろん若すぎるためにそうであって、その後成長したら別ですから、だめとはいいません。しかし、逆に若いからこそ打つべきでしょう。
本当に一所懸命に練習していて成果がないときこそ、トレーナーは励ますのですが、それは励ましたくなれば励ませばよいのです。トレーナーですから、レッスンについて依存されるのはある程度仕方ありません。しかし、私はいつも次のことを考えて行なっていました。
1. 自分以上に、よりこの人にふさわしいトレーナーはいるし、もっとよい方法は必ずある
2. 自分が生涯、あるいはこの人が目的を遂げられるまでみられないこともあるしお互いの事情や万一のケース、つまり、トレーナーのレッスンはそのトレーナーがいなくてはできないものでなくしていかなくてはいけない。

一つには常にほかのトレーナーでも引き継げるようにすることを念頭におく。(これは当初は考えていませんでした)もう一つは、本人が自分自身でできるようにすること。あるいは、次に進めるようにすること。
自分でできるようになればなるほど更なる高い課題設定とチェックが必要です。そのためだけにトレーナーが必要と私は考えているくらいですから、やはり、誰かがつくとよいのです。
そのときに前のトレーナーのレッスンを引き継げる人がよいが、もっとよいのは、本人が継ぎのトレーナーのレッスンに対応できる力をつけていることです。もちろん、最終的にトレーナーを選ぶ眼力もついているべきでしょう。

しかし、現実にトレーナーを変えるときに前のトレーナーから知識やうんちくは教えてもらっていても、深い声が身についている人や呼吸が明らかに素人とは違っている人というのはほとんどいません。
トレーナーについたり本を読んだりして、その知識が思い込みをつくるだけにしかなっていないケースが多いのです。トレーナーの事情でレッスンができなくなって、そこでとても困ってここにくる人は少なくありません。
日本の場合、トレーナーを変えると最初からやり直すなどという人がとても多いのです。トレーナーが誰であれ、きちんとトレーニングをしていたら、体や声は変わっていくはずです。
「レッスンのときしか声を出さなかったの」と聞くとそうだと答える人さえ出てきました、このあたりもどのレベルにむけて述べるのに悩むのですが、多分に、今は一般として日常化してしまったヴォイトレ、カウンセラー化したトレーナーということを抜きに考えざるをえなくなってきました。

○日常以上に

少なくとも、声を武器にして人前で声で表現するとしたら、それは、日常以上の条件や術が求められるのです。
師というのはかつては高所にいて、弟子ののぼってくるのを見守ればよかったのです。しかしトレーナーは、そこまで求心力がないので、はしごで下まで降りてくるタイプが多くなりました。何とかしてあげようと、親身になって考えてあげると、生徒さんは、成果が上がらなくとも満足します。これだけやってもらってよくならないのは自分の素質や才能、努力が足らないのだ、と多くは、素質のせいにしたがりますが・・・。
一方で「こうしろ」とか「なぜできないの」とムチをふるうトレーナーは、最近は嫌われますから少なくなりました。顧客満足の時代ですから、コミュニケーションと説明にていねいになりました。医者でさえ、サービスで問われます。でも本当はこれは技術でしょう。医者は普通より弱った人、弱者を社会復帰させるのですから、カウンセラーのような要素も入らざるをえません。看護婦さんがそれを行なえたらよいはずなのですが。
私からいうならば、トレーナーは、安易に生徒のレベルに降りていってはいけないと思います。声においては相手の発声から、その体に支え(体・呼吸・・・)などの不足を知り、補強するメニュ、トレーニングをします。しかし、そのギャップ、補強をトレーニングで待つしかないのに、レッスンでそのギャップが埋まるのを待たずに先に進めたり、できているようなフリをして認めてはいけないということです。
グループでも体や息の基礎条件が足らないと常に周りが無言で圧力をかけてくれるような環境なら、おのずと力はついてきます。しかし、トレーナーの話に和気あいあいとして、時間がたって、楽しくすっきりしたというならアスレチックジムのエクササイズやジャズダンスのほうがましです。
トレーナーの声だけでなく、DVDなどでアーティストの声を再現したものを何百回も見ることです。プロセスはスローや部分再生でみればよい。ただの客やファンからすぐれた客になるプロセス、そして自らも演じる武器を心身に入れていくプロセスを個人で家で行なえるようになったのです。
マイク・タイソンは、13歳から20歳まで世界戦のVTRをみることを欠かす日はなかったといいます。これが相手のすべてのクセや武器を自らに叩き込んでいた下積みともいえます。きっと1万時間以上の試合のシミュレーションをしていたでしょう。(ドキュメンタリー映画「タイソン」)

私が繰り返して言ってきたことに「一流は必ず成功するのに共通のことを行なっていて、アマチュアのままの人は、必ず失敗するのに共通のことをやっている」というのがあります。あなたがアマチュアなら、自分によかれと思ってやっていることや判断は、共通して失敗することであることが多いということです。そのために多くの一流のDVDやCDから正すということです。

なお、歌にしろ何にしろ、声に正誤があるとはいいたくありません。顔に正誤がないように声も誰でも個性的です。しかし、表現として通じる個性か、その機能をもつかというところで違うのです。それを補うのがトレーニングであり、気づかせるのがレッスンです。☆
声は、正誤ではなく程度問題だから判断もあいまいです。発音・滑舌は、機能だからとても判断しやすいのは、対照的です。
同じ声をある人はよいといい、別の人はだめという。同じ人でも、初心者と上級者に対しては判断が違ってくる。だからこそことばに紛らわされてはいけないのです。誰が何といおうとそれを参考にはしても自分で判断していく力をつけなくてはならないのです。そのためにトレーナーを使うのです。