第83号 2011/01/01 ○レッスンとトレーニングの意味

○レッスンとトレーニングの意味

レッスンからムダだけど必要な話をできるだけなくすにはどうすればよいでしょう。私共のところにいらしたらわかります。
私の講演会はかつては4~6時間でした。3時ごろから8時ごろまで話しました。今は1時間くらいです。それを聞いてレッスンにいらっしゃるからオリエンテーションは済んでいるわけです。
(レッスンの定義をしっかりさせることは、自分のトレーニングの目的を定めてプロセスを歩むためにも必要です)
1. レッスンの目的やスタンス
2. 本人の情報(目的、経歴、今の実力)
これを合わせて決めていかなくてはなりません。
私が本や会報に多くのことばをつづっているのはレッスン中しゃべらないためです。私がしゃべったら、そのレッスンは私が負けと思っていました。実感させられないから、ことばが必要になるということです。
グループのときも、レッスンではしゃべらなくとも出席者やCDでのアーティストのフレーズでの一流の声などがあれば充分です。しゃべるどころか実演までしたときには、そのレッスンはもう成り立っていない。厳しくいうとそういうことです。(実演は、レッスン前のオリエンテーションで扱うことです)

レッスン時間にレッスン受講生よりもたくさん声を出すトレーナーがいます。そういう人はトレーナーでなく役者かヴォーカルをするべきです。ステージがないから、そこで気を晴らしている人もいます。
レッスン受講生は観客ではないし、ヴォーカルとして大成もしていないトレーナーの歌や声を聞くなら、DVDや一流プロの舞台を、その分、繰り返しみることをお勧めします。
人の心を動かさない声や歌とはこういうものだという反面教師ならよいけど、何回もやられるとそれが移ってしまいます。

ゴルフのレッスンプロなどは、プロのトーナメントでは勝てない自分の立場や位置を知っています。しかしヴォーカルには、そうでないうぬぼれ屋が多いのです。
またヒットしたからといって、他人に教える声は自分の声とは全く違う要因(相手によっても違ってくるのですが)がたくさんあります。自分自身の体験は、そのまま生きるのではありません。
医者や治療者には、必要なカウンセリング的なアットホームな要素を売りにしても、ことに音楽は、仲間内のコミュニケーションツールと考えるような若い人には、力をつけることを阻害しかねません。 
でも、トレーナーがよほど気をつけないと今の生徒はそれを望んでおり、そこで評価してしまうものなのです。
実力向上が目的なら、厳しい指導が必要です。誰でもできる声やせりふ、歌だからこそ、それで世に出るには、続けていく力がつくには、どのくらい厳しいものかを想像できるようになることからスタートです。

○トレーナーの評価

私のところのトレーナーについてはレッスンごとに生徒自身が評価しています。しかし、それとは全く別に、私は、プロセスに加えて、その成果でみています。声としての成果が中心ですが、やはりレッスン受講生の目的に対しての成果は抜きにできません。プロになりたくてきた人はプロになったのかということが評価です。歌がうまくなるというのは、その一つの条件にすぎないからです。

私の考えるヴォイストレーニングは、声を出し歌をうまくするのが目的ではありません。目的は音声表現ですから、世の中に働きかけられることです。そのために歌も声もあります。
そうでなければ、あるいはもっと有効なツールがあれば、それで成功してもやはり成果です。なぜなら、声だけでは決して成功なしえないからです。
なぜならその人の意志、本質(内容)持続力、生活や考え方すべてが声に出てきます。レッスンよりも運動したり海外を放浪していたほうが歌や声がよくなることもあります。それもよいことです。より大きな自然に身をゆだねるために、声が自然と出てくる。そのために邪魔しているものや活かし切れていないものをもっと鍛えて磨かなくてはなりません。それがトレーニングであり、それを知りにくるのがレッスンです。
ですからトレーナーには、気づきを与える力、本人が知らないことを本人が理解しようがどうであれ指摘し続けていかなくてはいけないのです。できたら、ことばでなく、声やピアノを使って感じさせてあげられたらベターです。

○レッスンの実とは

私のグループレッスンでの評価は、最後に一人ずつへのワンコメントになりました。私の述べたことに対し形骸化していったのは、私の責任もあります。それまでは無言で成り立っていたからです。でも、それでは気づけない人が多くなってきた。自分を知らず、一流のアーティストの世界をのぞく経験もない人が増えてきたからです。
そこでレッスンではアーティストの演奏のかけあわせなどもしました。
一流だからといってもいつも一流でないし、偶然にすごいものが出ることもあります。何よりもそれは一流アーティストだけでなく、声せりふ歌では、誰でもそのチャンスもあるのだということです。

こういう文章は、その気づきを与えるよりも、気づきが起こる環境づくりに過ぎません。つまりは、あなた自身への問いかけです。答えをことばで求めても、これが仮に正解であれ誤答であれ、やっていくべき人には関係ないものです。

あまり神経質にならないことです。何かを知るのは自分の至らなさに気づくためです。他人に対し優越感を味わったり、それを自慢して自己保全を図るためではありません。
形にとらわれずに、実をみることです。形だけは間違っていない、うまいのに実につまらないせりふや歌が、どれほど多いことでしょうか。

研究所をつくって、よかったと思ったのは、人間の声はヴォイトレなど関係なく魅力的にもなるし、すごい表現もできることにあらためて気がついたことです。
トレーニングやレッスンやトレーナーに振り回されないことも大切です。いかにことばのやりとりだけで講じられたり、立派なことが述べられていても、世の中全体、社会に対し、無力で声が届いていないことに、謙虚になることです。
その前に届けようとしていますか。若さに任せ大声を出して届かないことに気づき、そのうち小さくも大きな表現ができるようになるというのならよいのですが・・・。
トレーナーなら人を育ててなんぼ。あなたは一人でよいですから(人数を誇るのも愚ですが)どこまで成果をもたらせましたか。

○失敗する

私は人を育てるとか教えるなどという大それた目的やそこからくる自己満足でやり始めたわけではないのですが、多くの失敗もしました。私自身は声は壊したことはなく、今からみるとかなりのハイリスクのトレーニングで声を鍛えてきました。年間30勝以上(生涯400勝分)した金田正一投手の腕のように、声を酷使してきました。トレーナーになっても1日に12時間、使っていたので、日本のクラシック歌手や役者よりも今でもよほど強いのです。
30代になると外国人もお坊さんも、肩書きなくとも声がよいとほめてくださるレベルになり、ようやく目標達成レベル視野に入りました。
とはいえ、私の声は私自身がトレーナーとして客観視すると大して、よい声ではありません。ただし、耐久性にすぐれた声です。一種の仕事病かもしれません。
ただ、甘やかされ気味のポピュラーと違い、お笑い芸人、邦楽やエスニックの人たちは声に厳しいですから、そこを耐え抜いてきただけの声にはなりました。

声は一声ですべてがわかるので、私は声でよかったと思います。
何を言っても、そこにどんな根拠があるか、科学的に正しいかどうかなどではないのです。誰の前でも、一声、一秒で、声は実証できるのです。シンプルイズベストの世界ゆえ、私の性に合っています。

日本にいると日本人らしく一曲聞いてくださいという人につき合わされます。もし表現力があるなら聞こうとしなくても聞いてしまいます。何回もリクエストしてしまうものでしょう。そういう相手の動きが生じないことにさえ何と、歌手までも鈍感になってしまったと悲しくなります。
歌うというのは、最初から何か特別な時空が与えられるように思うのでしょうか。マイクやギターを持てば何でも心に通じるかのような勘違いが、日本の音声レベルをひどくしていきました。
ヴォイトレをしなくても、民謡から小唄都々逸と一般の大衆レベルで高度に成り立っていたものが、国際レベルというより、舶来品大歓迎の流れのなかで、大正浅草オペラから美空ひばりを代表とする歌謡曲・演歌まで、あと一歩まで行ったのに、この21世紀には絶望的状況です。あらゆる分野に根がなくなりつつあります。いまや、成り立っているのはお祭りのかけ声と読経くらいでしょうか。

リスクヘッジ

トレーニングに、大声を使うかどうかは、相手の声の状況によります。
何でも禁ずるのはよくありません。よくない結果が出たら、それを指摘して、いくつかの判断材料を与えることです。その判断は、徐々に本人ができるようにさせたいものです。崖から下を見たことのない、小さな崖なら、1、2度落ちてみるのも大切かもしれません。判断されるのでなく、自らの感覚で登っておくことです。
トレーナーがつくのは、本人の状況にふりまわされるのでなく、そうなりがちな声の面で長期的に考えていくためです。そのトレーナーが長期的視野をもたなければ何にもなりません。
私は生徒の皆さんにつける2人のトレーナーを、2つの目的、今の状況改善と将来の条件改善に分けることも少なくありません。ここで扱う問題は似ているようで別にみる必要があり、トレーニングとしても必ずしも両立しやすいものでないからです。