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第84号 2011/02/01 ○進化の退化

○進化と退化

例えば、アマチュアのゴルファーについてですが、これだけ道具、ボール、テクノロジーが進歩しているにもかかわらず、20年前とアマチュアハンディキャップは全く進歩していないというショッキングなデータがあるそうです。コンピューターで分析するほど、枝葉末節に多くの人が悩んでしまっているのが現状なわけです。
これは歌や役者にもいえます。科学や分析、技術などということばが一人歩きをはじめ、底辺のレベルはそれなりにあがったと思いたいものの、大成する人は、逆に少なくなっています。この分では、声や歌において、サッカーなどほかのスポーツやダンス、バレエのように、世界レベルの活躍のできる人も天才的スターも生まれそうにありません。
それはレッスンの変容をみていてもわかります。いろんなスクールに行くと、以前のように、ただ黙々とやらせるような放任的なレッスンや、叱ったり、無言だったりで指導するような厳格なレッスンは、どこにもみられなくなってきました。この二つに代わって、分析やメカニズムに言及するようなテクニカルな傾向が強まり、さらに“科学的”ということばがよく使われるようになりました。一方で、欧米のとか、海外のトレーナーの流れ(亜流?)も出てきました。(かく言う私も、宣伝文句としてはその両方にまたがって展開していたのは事実です。)
しかし、ほかの分野をみても、こういう流れは、創成期から停滞して、膠着期になると出てくるものです。そこにそのまま、のっかっているのが察せられます。
習いにいらっしゃる人が一般化するにつれ、最初は飛び込んでくるアーティストらしい人が、生徒となり、さらにお客様化していく。そうなると、レッスンの方針もマイナスを凌ぐプラスをつくることよりも、マイナスをなくすことにばかり目がいくものです。お客様は、「安心、確実、わかりやすい」が欲しいからです。そしてトレーナーもその流れに合うような、タイプに変わっていきます。型破りなアーティストから、先生になり、今や、コンサルタント販売員のようになってきました。憂うべきことです。

○すぐれているものをとり込むには
 
 トレーナーの元には「何がよくて何が悪い」を知りたいといってくる人が多くなりました。のですから、以前なら「全部悪くてよいところは一つもない」などいっていた(というより聞かれなかったし、言う必要もなかった)ようなトレーナーは、いなくなるか、そこをあいまいにするようになります。そのうち、そこがわからないということもいえずに、本当によくないものさえよいとみてしまうようなトレーナーが増えたのです。「してしまう」でなく「みてしまう」のです。だから、嘘のない分、余計に困ったことになるわけです。いえ、誰も困りません。トレーナーも生徒も表面上、良好な関係になり、ただし力は少ししかつかないとなります。(わからないというより、わからないことがわからない)
 時代とともにレッスン受講生も変わりましたが、一番変わったのはトレーナーのように思います。もっとも一般化、大衆化したのです。

 私が一貫して、耳を鍛え、一流のものを入れ、感覚を磨き、体を変えるということを主張してきたのは、「何が悪いか」がないゆえに「何がすぐれていて、何が劣っているかを、いくら科学的に、技術的に説明し、生理的、物理的に理解させても、たいした力にならないということを知っているからです。
 もちろん、そういうことが言えるのは私共の研究所は、どこよりも早くから声紋分析器や人体の模型、解剖図なども入れ、専門家と共同して声の科学や医学の研究も、日本では最前線で行ない学び続けているからです。誰よりも、理論や科学的な裏づけを求め、また、まわりから求められてきたのは、私であったからです。
 TVや本や雑誌の取材や依頼では、必ず目でみてわかる材料や方法を求めてきます。それにうまく対応していったトレーナーもいますが。これは一般の人に初歩的にわかりやすいということでトレーニングのスタートラインに立てることとは全く別です。そこを勘違いさせることが多いので、私は今のワークショップやそういうツールにあまり肯定的ではありません。
  
 それは私がトレーナーとして、いえ、トレーナー十数名を束ねている立場としてより適切な判断をするためです。多くは自分にできる範囲とできない範囲、他人(他のトレーナーや専門家)に委ねるべき範囲を知り、もっとも適任な人や方法を求めたり選んだりするためにすぎません。
 ただ、そういう理論を、レッスン生が知らなくても、かまわないのです。そのためにトレーナーがいるのです。
 
 独自にトレーニングをする人が知識を得るるメリットとしては、急いで、独りよがりに思い違えてやり、全く違う方向へ行き過ぎることを防ぐ効果はあります。
 たとえば、なぜ声は力で出すのではないのかなどは、生理学的に知ることで理解やイメージの足しになります。しかし、それでさえ、もっとよいのは、一流の作品群から、それと共通している理想のイメージを得ていくことです。悪いのをよくみえるように、表面的な誤りを正していくには、あまりに次元の低いレベルです。これを基礎というのではないのです。
 次元の最も高いことを支えるための力を基礎力というのです。それをやるためでなく、それがやれるためにトレーニングするのです。
    
○ヴィジョンの大切さ
 
理想は、時代と音楽と自分とに三つに分けてみることです。ヴォイトレは本来、自分の潜在的能力や可能性のところへもっていくために行なうものと私は考えています。
 ゴルフでいうなら、理想のイメージをするための一瞬に一回だけでもよいから、理想のインパクトを体感することが第一歩です。一人では、よほどの人しかそれができないから、プロセスづくりとしてトレーナーがいるのです。
 なのにトレーナーのいうことは、形ばかり複雑で、それならまだ好きな歌でもその時間歌っていたらよいのではと思えるようなことしかやっていないのが多いのではないでしょうか。そんな複雑なメニュや広い音域をやるのなら、歌のほうが簡単なのでは、とつっこみたくなります。
 歌を何回も歌っても、それ以上にならないから、声の問題でレッスンにくるのです。それをトレーナーは、難しいことを与えて、できないことを与えてこなさせて、上達と思わせているということもあるのです。できないということでトレーニングの必要性を知るためによいだけで、それでやることがよいのではありません。なのに、早口ことばをマスターしたら、ベテランアナウンサーになれるような錯覚を与えかねないのです。
 すべての基礎は、本人ができていると思っていることがいかにできていないかを実感させ、明らかなギャップをみせ、それを埋めるきっかけとプロセスを示していくことからです。
 その上に理想のイメージへのアプローチがあるわけです。それをもたないでどこか悪いからこう直すというのが直ったからといって、何ら力にはなりません。
 
 こういう安易なレッスンは、カラオケではよくあります。たとえばレパートリーを増やすことが上達と思う人がとても多いです。(確かに、最初の1、2年や50~100曲くらいまではそうなります。そういう慣れだけで、人並みになれるプロセスは、トレーニングでなく、本当に「慣れ」というべきものなのですが、そこをもってヴォイトレと思う人がトレーナーにも多くいます。高い声をすぐ出せるようになるなどというのもこの類です。さらなる高音、2オクターブを3オクターブとがんばっているような人たちもです。
 それらはやれない人がやれるようになっているのでなく、やっていない人がやっただけの成果なのです。結局、やっていない人よりもできるようになりたいのか、やっている人のなかでよりできるようになりたいかの違いともいえます。これもヴィジョンの違いです。単にデビューしたいか、20年活躍したいかの違いでもあります。
 つまり、とことん自分でやって行きづまってからでなく、何もやらないうちにレッスンにくるとそうなりがちなのです。しかしこれは決して悪いことではないのです。誰でも真のトレーニングになるためには始めてから時間がかかると知っておいてください。つまり、レッスンやトレーニングの本当の目的やプロセスを知るのに時間をかけることを惜しまないことです。
 ですから器用に対応していった人ほど頭打ちが早くきます。そのやり方でのりこえた分、そのやり方を離さないとそれ以上、上にいけないのです。その必要性を感じなくなるからです。そこを指摘するのが、本当はトレーナーの役割です。)
 つまり、応用の応用は、くせやくずれになるから、一度、基本に戻し、固め直さなくてはいけないのです。でも本人は、その位置づけがわからないから、そのままに、皆、前に進みたがるのです。(これを把握するのは、至難の業です。)

○声の力はついたか
 
なかには、ピアノがうまくて何曲も一緒にうまく聞こえるように、弾いてくれる(だけの)トレーナーもいます。生伴奏が好きな生徒さんにはよいでしょう。トレーナーがピアニストを兼任してくれるのですから。でもその分、声のチェックは疎かになっていることも少なくありません。それでうまくいく人もいますが、本当に素質のよい発声にめぐまれた人だけです。昔のプロは、そういうタイプの人が多いです。自ら気づけたからです。
     
 トレーナーがあなたに出せない高い声や声量、ビブラート、ひびきなどをみせて、それを目標のようにするなら、もう一度、ここを読んでみてください。そこで疑って自問自答してください。その声で感動できるもの、あるいは可能性があるか?
 トレーナーは、少なくとも私の考えるヴォイストレーナーはひと声、ひとことで、あるいは「アエイオウ」「ドレミレド」でそれだけですべてに大きな基礎を学ばせる力がなくてはならないのです。
 一方、せりふや歌は総合力ですから、リズムや音程、声域、声量、声の使い分けや、いろんな音色の出し方もトレーニングに含まれるのですが、その基礎はやはり感覚、体、発声そのものだと考えた方がよいと思います。

 理想のイメージを少しでも実感にして、それを100日に1回、100回に1回から1回に1回と、さらに身体やのどの状態が悪くても、確実にできるようにしていく。そのシンプルなメニュをあくなく繰り返し、確実にしていくのが、最も高いレベルに結果として早く到達するプロセスだと私は思っています。これが唯一な方法なのか、他の方法もあるのかはわかりません。
 ゴルフではトッププロさえ、50センチほどのパットを50回連続で入れるようなトレーニングをしているのです。一人で打ちっぱなしばかりして、10回に5,6回バットが入ればよし、あとは難しいコースばかりまわっている人は、いつまでたってもあるレベルとからうまくなりません。繊細さや緻密さが欠けたままだからです。しかし、ヴォイトレは、そういうことがまだまだ当たり前のように行なわれています。
 
 シンプルな反復練習をしていますか。それが前より少しずつでも深くていねいに、そして確実になっていますか。私は、自分の本の読者やレッスン生にそういうことでトレーニングを問うように述べています。メニュが変わるのでなく、同じメニュに対してあなたの声の質が変わるのです。
 
 ちまたでは、そんなことができたらトレーニングはいらないというような難しいメニュや方法が多いのです。それをもって間違いとはいいません。そこから入るのもよいでしょう。ただ、それがどのレベルでやれているかをみなさいということです。誰でも、1ヶ月あれば落語も漫才のネタも覚えられます。しかし客を感動させて帰せますか、ということです。あなたの声は本当にしっかりと変わっていっていますか?

○間違いを恐れるな
 
次の3つのプロセスを頭に入れておいてください。
 
1. 理想のイメージ
2. イメージと現実との接点づけ
3. その接点から確実に強化していく(神経回路-感覚をつけ、足らない筋肉などを補い、使い方も柔軟に自由にできるようにしていく)
     
よく、このような私の文章を読んでよくわかったとお礼やコメントをいただきます。
 私の述べていることはいつも同じことです。難しいことは、それ自体がおかしいからやりなさるな、簡単なことがどんなに難しいかを知っていくようなトレーニングをやりなさいといっています。
 難しいことを難しくやっている日本人が、もっと難しいことを簡単にやれている向こうの人に勝てないのは、どうしてでしょう。シンプルな第一声にすでに負けているからです。
 まずは、簡単なことがいかに難しいかというセンサーがなく、次々に難しいというより、ややこしいことや複雑なことばかりやっていこうとするからです。(これがスキーヤーや登山家なら大けがで命をおとしているでしょう。)
 またそうさせるトレーナーやそういうメニュや方法という形を評価する人が多いからです。
 つまりは真の表現の成立を知り、声、ことば、音楽それぞれにきちんとくみ上げていく労力を毎日、惜しんではいけないということです。

 高い声を出すためのような本が、最初から高い音域で書かれているような本がよく売れる程度の国ですから、まずは、真の本質に気づくことから学ばなければなりません。できないことはできません、できたら不思議、おかしい、どこか間違っている、というか間違いさえ生じさせないレベルで対応しているのです。本当に大きく間違っていたら正せばステップアップしていくから、大きく間違えることさえ、できないトレーニングがよいないとさえ、いえます。(このあたりは、説明できないのですが私の思う個性やオリジナリティは、その人以外の(トレーナーも含み)すべての人がやったら間違いというもので、本人だけにあてはまるのですから、その探究のプロセスは、間違いだらけ、その中であなたが勘づき、他人が間違いといえないところまで深めて提示するしかないというものです。)
 できないことは、できなくていいのです。これまであなたはそう生きてきて、そのように声を使ってきたのですから、トレーナーのいうように単に何かを変えたらいいというようなものではありません。
 むしろ、あなたのよいところをもっと大きく出して、その上で若干、伸ばすだけにとどめておくことです。よいところを探しまくりつくりまくることです。それよりも、今もっているものをどこまで完全に使い切るかを考えてください。それがどれだけ大切かつほぼ全てであることを知ってください。
 それ以上の声域や声量は、ただその範囲をよりよく使うためにやや過度に学んでおけばよいことです。使う必要も大してありません。大して使えません。(トレーナーにのせられないように。多くのトレーナーは、自分のことは棚にあげ、自分のように相手をしたいと思い、そうすることがあなたの上達と信じ込んでいるものです。それはトレーナーさんの指導テクニックの上達にすぎません。)

 できるところでできていないことをきちんと感じて認め、そこを克服していくことです。
 トレーナーと向きあうまえに自分と向きあいなさい。レッスンも本もそのためにあります。トレーナーも本当はそのためにいます。そしたら、声域を3オクターブが5オクターブにしたいなどということは考えなくなるでしょう。
私はハイ、ラー、ラーラーラー、ドレミレドに2、3年かけて、体も呼吸も感覚も筋肉も変え、ていねいに100%コントロールできるようなことを目指していくようにと25年近く、言い続けています。私は10年で大きく変わりました。そしたら、無理な声域やこれだけで私などは10年かかりました。
(もちろん、応用メニュやせりふ、歌の練習を併行して進めていくのはかまいません。ただし、これも接点や必要性を知り、軸をぶれないようにするためです。ヴォイトレのためのせりふ、歌であって、ステージのためのせりふ、歌とは使い方が違うのです。ですから、あえてレパートリーにしない作品を使わせることが多いです。)