第85号 2011/03/01 「ヴォイストレーニングの”ビフォー&アフター”」

「ヴォイストレーニングの”ビフォー&アフター”」

 ヴォイストレーニングを目的と結果、ビフォーアフターでみてみましょう。
 トレーニングをしたのですから、何かが変わるわけです。いろんなトレーナーのあげる例をみると、大体、次のようなものです。(私もいくつか例示してきました。特に取材などでは、端的に言い切らされてきました。)
 しかし、最初に申し上げておくと、ヴォイトレにおいて、結果(終点)はもちろん、始点(現状)を定めるのさえ容易なことではありません。しかしだからこそ、ことばを使ってはっきりさせたいということになります。それが逆に、一つの目安としてのことばのイメージが一人歩きして、トレーニングの進行や効果を妨げている例はとても多いのです。

    Before   →    After
1.高い声が出ない    高い声が出た
2.大きい声が出ない  大きい声が出た
3.声がかすれる     声がかすれなくなった
4.声が疲れる      声で疲れなくなった
5.声が弱弱しい     声が強くなった
6.声が出しづらい    声が出しやすくなった
7.声が途切れる     声が途切れない(途切れにくくなった)
8.声が悪い       声がよくなった

 このうち、1の声域、2の声量は、相対的なものでしょう。「まわりの人に比べて劣っていたのが、人並みになった」ということか、「自分の中で出しにくかったのが出しやすくなったのか」、これもあいまいです。高い声も大きな声も人間としての限度もあるし、個別にその人の限度もあります。
 しかし、ビフォーアフターでみるなら、「前よりよくなった」で充分かとも思います。その人の中では、トレーニングにしろ、レッスンにしろ、やればやらなかったよりも大体はよくなります。相当やってからレッスンにいらっしゃる場合は、さらなる伸びしろがそれほどないということもあります。

○「うまくなる」という目的の程度の問題

 たとえば、英語を学ぶのに「先生について勉強したらうまく話せるようになりますか」と聞いたら、「必ずうまく話せるようになる」といわれるでしょう。これまでやったことのない人は、レッスンすれば少しずつ話せるようになるので、そのことばは間違いではありません。しかし、ニューヨークに行ってそれなりに通じさせるとしたら、1、2年では無理でしょう。その目的からみたら、全くうまく話せるようになっていないはずです。もちろん、これもスタート時がどのレベルかで大きく違います。

 声や歌は誰でもそれなりの経験はしています。ですから、英語でなく、これを日本語で例えてみましょう。日本語をもっとうまくなりたいと思ったら、あなたはどうしますか。とたんに混乱しませんか。話し方教室に行けばよいのでしょうか。日本語教師養成講座なら、外国人に教えるための知識が学べます。相手の国によって教え方も異なります。一口に日本語といっても、漢検故事成語の勉強・・・いろんな分野がありますね。
 声も歌も同じです。あなたが何を求めるかで、トレーナーも専門が異なるし、やるべきことも異なるのです。

 ですから、私は、このビフォーアフターを、「『ヴォイストレーニングをしていない声』が、『ヴォイストレーニングをした声』になった。」ということで括りたいと思います。その要素のいくつかは、先に述べた中に含まれるのかもしれません。しかし、単に高い声や大きな声が出たから、ヴォイトレの結果が出たとか、ヴォイトレでできたというのは、とてもおかしなことです。

○状態と条件によるレッスンのスタンスの違い

 いつも私は述べていることですが、今の状態での調整(バランス)と、今の状態ではできないレベルへの条件の獲得(強化)というのは、別のことです。トレーナーの高声の発声の真似をしてすぐに出せたというのは、いうなれば調整にすぎません。そこがスタートというなら、よいでしょう。
 しかし、そこでコツを得たつもりが、体や感覚の条件を整わなければ、それはクセとして表向きのやり方をつけてしまっただけということもあります。とはいえ、レッスンとして教わるのですから、すでにそのことがしぜんなことでないと考えるならば、副作用としてこのクセからスタートしていくのは、悪いことではありません。

 ただ、たとえば、高い声を出すことが目的の人は、このことで目的はほぼかなえられたのですから、このくせをスキルや技術(テクニック)と勘違いするのです。
 歌を真似るのも全く同じことです。それは、その人の体や感覚に土着していないものをトレーナーから表向き移行し、仮に植えつけられただけです。
 (元々、目的の取り方が「高い声を出す」というのがよくないというか、そんな副次的なものがメインになるところでおかしいのです。)
 とはいえ、これらは皆で同じように上手になろうという学校教育の一環レベルと似た話なのですから、ここで取り上げるまでもないことです。まさに絶対音感に価値があると思って勉強するようなことと似ています。
 日本人のそういう確からしいもの(何の意味もないが、基準としてわかりやすいもの、その基準だけを単独に取り出せるもの)を他人と同じようにやりたいというスタンスのレベルでの問題です。そういうことでも、レッスンにおいては、尚さらに絶対視されてしまう傾向が強まるのです。

 ですから、私がスタートとしてはよいでしょうといったように、そこから自分のものにしていく、身につける努力をすればよいのです。しかし、それがわからないから、こういう人たちは、さらに次の仮目標(この場合なら、もう1、2音高く音を出そう)にばかり興味をもつのです。トレーナーもまわりもそんなことを評価し、ほめてくれるからです(外国語を、覚えた単語数で誇る日本人ですから)。もっとも大きな問題は、主体的であるべきレッスンで、そういう目先の効果だけを基準にすることで他人(トレーナー)依存になってしまうことです。

○目的に対する現実問題とは

 大切なのは、一音でもトレーニングした結果の声が出てくることです。つまり、トレーニングをして、「トレーニングしていない人には出せない声」にするということでしょう。
 高い声を出そうとしたら、簡単に出せる人がたくさんいるのに、できない人がそれを無理に補正することだけに年月をかけていると、早々に限界になるわけです。できて当たり前、だからやらなくてはいけないということではありません。できても、何ら強みにならないということです。カラオケの上達法は、今では高音やファルセットをそれらしくすることにつきます。
 あなたがしっかりとした声を本当に身につけたいと思うなら、そういう人たちの目的には、あまり関わらないことです。それは、結果として、あなたが本当の個性(個声)を出せずに終わるのを選んでいることになります。体から表現できるしぜんでパワフルな声の可能性は、眠ったままなのです。
 絶対的に自分の声がトレーニングされ、トレーニング以前と一声で、つまり一聴で違って聞こえるレベルにするというだけのものを選ぶことです。少なくとも、それが私の考えるヴォイトレなのです。

 声域、声量重視(特に高音)の考えは向こうのすぐれた歌唱をする人のコピーからきたものにすぎません。現に、そういう人たちの目指すオリジナルのレベルの人たちは、何も苦労せず語りかけるように歌っているではありませんか。それなら、まずは語りかけられるように、歌える声の獲得が先でしょう。
 短期、目先の目的のみに価値をおくと、トレーナー自身が気づかないうちに、いやむしろ、相手のために親切に頑張るほど、トレーニングの大半の問題を刷りかえてしまっています。
 もっともそれがわかっていても、相手が求めるから、対応しているトレーナーもごく一部にいます。対応すべきは、現実問題だからです。

 何よりも一声を変える方が、声域声量などよりも大変だし、わかりにくいからです。時間もかかります。しかし、これがわかりにくいのは、低レベルでの格闘だからです。
 素人にもその違いは一声でわかる、それだけの声でなければ、どうしてトレーニングの成果といえるのでしょう。
 鍛えられた声の見本は、CD、DVDにいくらでもあります。私は今、能、狂言、歌舞伎の演者に接していますが、そこでの第一人者は声だけでも第一人者です。
 つまり、トレーニングされた声を示せるトレーナーが、あまりに少ないのです。(むろん鍛えられた分、個性的でアーティスト性を帯びるケースもあるので、そこはメリットとデメリットがあります。)

○体でみせる声の基準

 私の会ってきた欧米のヴォイストレーナーにも、二通りいます。ただ、少なくとも私は、その声で示せないトレーナーのいうことはあまり信じません。何ら能書きや理屈はいりません。声で話しているのですから。ただ、そのようにして出来上がっている体、感覚はあまりにしぜんですから、そう簡単に真似のしようもありません。

 そこでときおり、私はトレーニングのプロセス中の人の声のビフォーアフターを聞かせていました。でも、それはあなた自身の声(のど)とは違うので、参考にしかなりません。とにかく、皆さんにもヴォイトレを本格的に行うと、声自体が変わることを知って欲しいのです。
 声の判断にも好き嫌いは入ります。私の声が嫌いという人もいるでしょう。ただ、私はいつも歌も声も学びたいなら、好き嫌いでなく、優れているかどうかでみるべきといってきました。私は少なくとも自らの声でそれを示してきました。
 残念ながら、このような声の本質やその形成プロセスをよく知るトレーナーはあまりいません(外国人のトレーナーは、日本人については、自分たちがしぜんと獲得してしまった声の形成プロセスを示せません)。

 声の深さ、息の深さの見本は、私はいつでも瞬時に示しています。すぐには絶対に真似られないから、トレーニングが必要なのです。
 もちろん、そんなことをしなくても素質と育ちに恵まれたプロやプロレベルの人もたくさんいます。すぐにそのようにできる人はそうしたらよいのです。海外でも日本でも、ヴォイトレなしに一流ヴォーカルとなった人はたくさんいます。私のヴォイトレは一流の声の持ち主のプロセスを凝縮したものですから、そういう人は、私の述べているヴォイトレをしたことになるのです。

 ヴォイストレーニングはトレーニングというのですから、負荷をかけ、それで器(体、感覚)を大きくします。ヴォイス=声(のど)に負荷をかけるということが誤解の元ですが、のどの筋肉、呼吸筋、体の筋肉などを鍛えるのです。
 もちろん急にハードに行うと壊します。副作用も出ます。そこをチェックしなくてはなりませんが、それはとても一人では難しいです。特に自分で自分のをみるのは無理に近いです。だから、レッスンなのです。

 これがそれぞれの人に「今、調整して使えるもっとよい声(ベターな声)」と、「今からトレーニングして得られるもっともよい声(ベストの声)」があると分けて、私が述べてきた理由です。現に、私のところのトレーナーも、役者、声優の第一人者も、たとえば平井堅さんも声は声としての完成度(話し声も応用性に富む)をもっているのです。
 学校の先生や医者、言語聴覚士、演出者、プロデューサーなどのいう、いい声は前者の「ベターな声」にすぎません。彼らの声自体は、それにも値していないことが多いです。(それはそれでよいのです。なかには、体やのどのとても弱い人もいます)

○動きの理解とトレーニングの実践は違う

 いろんな器具やメニューを使って、発声のシステムをわかりやすく知ることはよいのですが、それは一つの気づきのきっかけにすぎません。その後のトレーニングに結びついていないこともよくあります。
 私は技法を教えるときと、実践として実力をつける練習とは、分けるべきだと思っています。レッスンとトレーニングの違いをきちんと知ることです。

 トレーナーにさえ、こういった気づきのレッスン=トレーニングと思う人が多くて困ります。たとえば、私が既刊書で述べてきたように、「できる限り長く息を吐く」ようなことはチェックであり、トレーニングとしては、気をつけないと悪いくせがつきかねません。トレーニングでは、短く息をくり返し吐く方が実践的です(もちろん目的やその人のタイプにもよります)。中には無理やりにのど仏を下げさせたり、のど仏を押させるようなトレーナーもいます。(一つ間違えると、大変に危険なことですが、トレーナーがついているときはトレーナーの意図によります)
 ストレッチも使い方によっては、効果的ですが、そのあとすぐに発声するのは感心しません(直後では、リラックスにはなりません)。こういったことは、あまりにたくさんあります。

○緊張度・メンタルの問題

 レッスンでの緊張は、私はよい実践経験と思っていますが、これも相手によります。極度に緊張しやすい人は、若くやさしいトレーナーで始めさせます。これもそこでリラックスできているからといってうまくいっているのでありません。ケース別の導入(対処的)の一手法にすぎません。次の段階では、改めていくべき課題をそこに内包しているということです。

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Q.トレーニングが完成しないと歌はうまくならないのですか。
A.まず、ここでいわれる完成というのは、どこまでかということを指すのかということになります。歌がうまくなったのを完成とすると、トレーニングはそこまでとなるのでしょうか。歌がうまくなるというのは、どこまでなのかを考えると、よくわからなくなりませんか。あえていうのなら、歌もトレーニングも本人が必要とするところまでです。さらに必要があれば限りもありません。

 現実的な対処としては、意識的に、集中的かつ部分的なトレーニングをするとき以外は、そのときどきの完成を歌に対して求めるスタンスにする方がよいと思います。
 よほどの確信がなければ、一人で行うときは、トレーニングのために歌がうまくいかないことが生じたとき(普通は生じます)、その位置づけがとれないと思うからです。
 むしろ、トレーニングはトレーニング、基礎条件をアップさせるのですから、それは後で効いていると考え、今は今の歌の完成度を問うてください。

 私はトレーニングは基礎、せりふや歌は応用と述べています。器をつくるのと器の中で整えるのは違います。私の考える声の基礎づくりのためのヴォイトレとは声楽のようなものですから、それは声そのものやその声の動き(つまり、オペラでの勝負どころ)にストレートに反映します。
 しかし、音響効果、マイクに加えてステージの演出やパフォーマンス効果の方が大きくなったJ-POPS系の歌を目指すと、声はその初期条件(体から出る声や呼吸で完全にコントロールすることなど)よりも、声の使い方や声に乗っている気持ちや詞の伝え方などが優先されがちでしょう。
 こういう場合、発声にもバランスや柔軟性の方が、声の動きよりも、ひびきの集約度などが問われるでしょう。ちなみに、カラオケ教室などでは、安易なヴォイトレともいえる高音の共鳴などばかりに一喜一憂していることが多いようです。それが悪いとか間違っているということではありません。そこから入るのはよいのですが、それを目的としては、そこまでになります。歌を早く上達したい、上手に歌いたいというなら、そういう制限(限界)を早く作った方がまとめやすいので、つい勘違いしてしまうのです。

Q.トレーニングの目的とは何ですか。
A.トレーニングはすぐに役立たないことを行うといってきました。そこで、できるだけ大きな器、つまり余裕をつくることです。形だけで左右されない実、懐を深くすることが本来の目的です。
 具体的には全力で歌っても、その声の限界を他人に悟らせないことになります。それがその人の奥行きとなり、可能性の暗示、ひいては見えない魅力、飽きない表現になります。
 さらに、不調のときでもカバーできる力(フォロー、余力)が必要です。
 私がプロとのトレーニングで目指したのは、今すぐの歌唱力の向上よりは、こういう器づくりの方でした。つまり、将来に大きな可能性が開かれている方向での基礎づくりというものです。
 そのため、出ない声を出そうと頑張るのでなく、出る声をより完成させて表現しつくすこと、それができる声、呼吸、体づくりを目指したのです。

 これは、当時の歌唱指導者の多くが、歌のために出ない声(特に高音)を届かせるだけを目的としていたのとは、全く逆の立場でした。
 すでに出ているとみえる声でさえ、大きなギャップのある一流の声との差をみつめ、まずは一声、一音ずつ埋めていくことです。その中での繊細な使い方を知るために大きく出せるようにしつつ、そこで音楽的感性やフレージングを伴わせようとしていくのです。

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○見本をみせることについて

 このテーマは意外と、大きな問題です。ケースによっても立場によっても、異なることを前提に、私の思うところを述べます。私のこれまでのやり方についての、背景となる考え方を語れると思うからです。研究所内に、トレーナーを多数抱え、全国各地のトレーナーの質問を受けている立場として、どこかで一度、詳しく扱う必要を感じてきた問題でもあるからです。

 まず、今の私の研究所では、見本をみせることについては、トレーナーにほとんどの権限を与えています。その結果、少々無理をすればですが、レッスンでの見本の実状については、次のような分類ができます。

A.いつも見本をみせる
B.ケースによってみせる(相手、メニュー、年月、分野)
C.特別なケースだけみせる
D.見本をみせない

 邦楽やクラシックの人には、Dのようなトレーナーがいるのは、信じられないかもしれません。あるいは、ポップスや役者、声楽家などでも、Aのやり方のトレーナーは、Dはありえないと思うかもしれません。私自身は、BとCあたりをうろついてきました。グループレッスンなど、形態や目的によっては、Dでありました。もちろん、この場合、CDや他のトレーナーを使えるからです。

※私のレクチャーやセミナーでは話中心で、相手に実習をさせる時間がほとんどとれません。そこで、一つ二つのキィとなるところだけみせていました。今の私は組織として、トレーナーをプロデュースする立場になり、実習の機会は減りました。
 (これは年齢や声の衰えのせいではありません。確かに多忙で体調が悪くなり、自分の声に不安を覚えてからは、自分のメニューを組み、リハビリをし、調子を取り戻しましたが、そのことはここでは省きます。)

 最近、歌わなくなったために、すっかり声が衰えた歌手出身のトレーナーをTVで見ました。歌だけに専念していたら、これほどにも声の力は低下しなかったでしょう。加齢のせいにみえるかもしれませんが、天性でやれてしまった歌い手ほど、声の管理についてはうまくできない人が多いのです。また人前で歌う機会が減るために、さらによくない状況になることが日本では一般的です。日本の客の寛容なことが裏目に出ているといえます。

○トレーナーの声の完成度について(歌手とトレーナーの違い)

 私自身はトレーナーが常に完璧で、完全な声の体現をしなくてはいけないとは考えておりません。私自身は、むしろ自分の声を整備し直したかったからです。その裏には邦楽の本格的指導という新しい世界への挑戦への準備でもありました。

 多くの方は、教えている人は、教えられる人よりもずっとすぐれていると考えています。声については本当にそうでしょうか。歌や大声、高声、演出、伴奏などでごまかされてはいませんか。
 邦楽・オペラは、現実はともかく、師や先生が弟子や生徒という、年齢もキャリアも実力も今、現在の教える人の力よりも下の者が学びにきます。

 しかし、果たしてすべてがそうでしょうか。一流のシンガーをみている欧米のヴォイストレーナーは、少なくとも、歌においては、そのシンガーに劣ります(何を歌というのかによりますが・・・)60歳をすぎたオペラ歌手が、30‐40代のプリマドンナを教えるときに、その時点ではプリマドンナに声ではかないません。全盛期でも、必ずしもその弟子以上にできていたとは限らないのです。

 歌とヴォイストレーニングは、専門分野として違うというのは明らかです。そうでなくとも、レッスンもしくは教える、あるいは能力を見抜いたり、引きだすという関係は多くの日本人が考えるほど、ワンウェイではないのです。
 関脇止まりの親方は、横綱大関の指導ができないというわけではありません。20年前とは比べものにならないレベルの体操やフィギィアスケートの若い選手を、20年前の選手は指導できないわけではありません。活躍したことのない選手に、全日本の監督やコーチはできないのかというようなことを考えるまでもなく、どんな分野でも本人ができることと、教えることは必ずしも一致しないこともわかってきます。できなくともできる人よりも教えられる人も、できるのにできない人よりも教えられない人もいるということです。

※私のところに来ている、私よりもずっと歌のうまい大ヒット曲をいくつかもつプロ歴30年のヴォーカルは、「とても福島さんのように教えられない」といいます。私は彼を教えているのに、彼のようには歌えません。でも、彼は何かしらの価値を認めて、私に長くついています。自分は教えられないからと、新しい歌手を紹介してくれます。教える気がないというのが第一の理由でしょうが、それは彼が一流の歌手の気質があるゆえのものとも思うのです。

 私は歌手を目指す人にはトレーナーを勧めていません。私自身が役者や歌手をしながら、教えようとしない(もしくはできなかった)のも結論からというと、一流の歌手や役者は、その気質ゆえに教えられないという、相反するのが、ヴォイトレの分野ではないかとも思っているのです。
 ヴォイトレに携わる人の中には、たくさんの歌手や役者(もしくは元○○)兼、トレーナーの人もいます。その経験を否定しているわけではありません。しかし、第一にメンタリティの違いがあると思うのです。(なお、一部にある「プロの歌手、プロの役者でなくては、ステージの経験がないからよくない」という批判は、甚だ本筋を外れています。アスリートと両輪であるパーソナルトレーナーのようなもので、一緒にプレイするチームメイトとは違うのです。
 付言すると、私もいくつかの大きなステージの経験があり、その感触がアマチュアの人を指導するのに役立ってはいます。ただ、プロはもっと場数を踏んでいるので、イマジネーションで理解するのに留めています。プロの100の経験を1の経験でも凌ぐくらいの100倍以上のイマジネーションがなくては、トレーナーは務まりません。
 どんな分野にも監督兼プレイヤー(プレイヤー真似ジャー)、演出家兼出演者、という人があまりにいないが、全くいないわけではないのにも似ています。楽器のプレイヤーなどでは、弟子をとるのはごく当たり前のことでしょう。ただ、それが声の問題になると、かなり複雑になるのです。
 他人の声を扱うのは、多かれ少なかれ、自分の声にも必要のない負担をかけます(音大ではある程度の年月を経て教わった上で、しかも相手も音大生というところでまだ可能と思われます)。

 少なくとも、私は自分の歌やせりふでプロの力がついたときに、同時に自分よりもすぐれたプロたちのトレーナーを始めたのですから、多くのトレーナーやカラオケの先生と始点が違います(このあたりの詳細は「レッスン史」に譲ります)。

○体から声を出そう

 ブレスヴォイストレーニングのレッスンの核は一言でいうと、「体からの声を出しましょう」ということです。体から声が出るというのは、文字通り、その人が何かしゃべっているだけで腹から声が出ているのがわかること、欧米人にはふつうの人でもいますが、背中(つまり、背後にまわっても)から声が聞こえるということです。英語の発声は、聴覚を鍛えることから入るトマティスのメソッドでは、その違いを明瞭にしているそうです。

○メニューは「ハイ」で、半オクターブ

 これで声が出ても歌やせりふは、一段上の応用レベルです。しかし、こういうベーシックな声が出ない人が多い(日本人にはほとんどいない)のだから、そういう声の発見や育成からスタートするのは、基本中の基本です。バレエでいうと、一本足で立てるとか、片足が頭の上まであがるなどということにあたります。それでステージにバレエができるわけではないのですが、そうでないとは、実力の差が一瞬でわかるということです。

 次に、音楽的な耳のつけ方です。これは表現というもののうち、音声を誰よりも聞き続け判断してきた私の基準と、一流のフレーズのメニューを聞いてはコピーして身につけていくことで補わせていったわけです。遅く始めてプロの耳に追いついたという私だから、プロセスが伝えられるのです。

※考えてみれば、この根本的な発声が、声優、お笑い、役者、エスニックから邦楽と、本当にしぜんな声(リラックスして響かせるなどというレベルでなく、体から伝わってくるように鍛えられ、吟味されたレベル)を求める人たちに支持されて、今の研究所が続いているわけです。
 もちろん、私と全く逆の価値観や立場もありましょう。私はそれにも大きな期待をしていたのです。しかし、どうもそれはかつてのカラオケの先生のようなものとわかってきました。つまり、表面を変えるので速効性(楽に、早く、よくなる)はあるゆえに、あるレベル以上には届かないものなのです。
 何度も述べるように全てを否定しているわけではありません。それでそのままうまくいく人は2割くらいいます。ただ、多くの場合、気づかないくせをつけ、そこで限界となるのです。しかし、これは声の根本からみるとしたらの話で、日本のポップスの多くの歌手は、このくせを個性としています。
 日本には、声が人と違う(一人ひとり違うレベルに過ぎない)ことで、オリジナリティとみられ、ことばやストーリーの力でもたせるステージがほとんどだからです。
 声そのものの育成やその使い方は、あて方、抜き方、ひびかせ方などではありません。自分の音として楽器レベルでの音声をもち、演奏として自分の音を奏でるということです。あくまで完全な演奏能力を扱えるレベルでのオリジナリティであるべきというのが私の考えです。

 ヴォイトレでの速効性のある方法を、私は否定しているのではありません。何よりもプロ相手に、それをもっとも求められたのは誰よりも私だったからです。それに閉口して、誰もが(無名の人が)一から学べる研究所をつくったのですから。しかし、そこでもそういう要望が少なからずあり、今はさらにその傾向が強いから、今のような海外では全く通じないヴォーカルばかりになったともいえます。
 でも、私の考えは考えとして、現実にはトレーナーとして、求められることに対応しています。ここのトレーナーにも応じてもらっています。私自身のトレーニングはベースの声づくりなのですが、それを伝えたり、他のトレーナーにお願いするときは、相手の要望によって柔軟に対応しているわけです。同じことのようでも、そういうことを知ってやらないのと知らないでやっているのは、天地の違いがあるのです。

 こういったことが区別できないレベルで行われてきたのが、状況に合わせ、声の使い方、つまり状態だけを変えるために条件が身につかないヴォイトレです。最近のヴォイトレ出版物をみたら、そのタイトルに驚きませんか。編集者は一般読者の代表ですから、今やニーズがこんなものに成ってしまったのです。