第86号 2011/04/01 ○守・破・離と体づくり

   邦楽、オペラは一流の見本がある程度定まっており、そこへ到達するべき分野ゆえに、口伝、師の見本を有無もいわずに弟子が真似ぶ、真似することが勉強です。(オペラはそうではないと思うのですが、日本では向こうから入った分、真似ていく傾向が強いです。それはポップスにも通じます。未だ舶来主義が幅をきかせています。)それでも守・破・離は一流の道、そのためにできるだけ早く、真似して終わる=守を終える必要があります。

 ヴォイストレーナーが教えるものがそれぞれに定まっていませんから、ここからは少々強引に述べます。
 たとえば、呼吸法でトレーナーは自分のお腹を触らせ、同じようなことをやらせます。全く同じことはできませんが、胴まわりが大きくふくらむという事実を見て触って、イメージとして強く入ります。そこからそのイメージと現実のギャップを埋めていくために行なうのがトレーニングです。結論として、トレーナーは、そういう体を生徒に求めて、その生徒が何年後かにそうなっていれば、トレーニングはうまくいったということになります。多くは、一時の体験で終わってしまい、身につきません。

 このケースだけでも、本一冊、私は述べたいほど、いろんな観点と問題があります。しかし、これはまだ視覚と触覚で把握できる部分ですから、わかりやすいのです。それが「共鳴させてごらん」というようになると、個人差、体格や目的によってどこまで即しているのかは、客観的とはいえなくなるのはやむをえないかもしれません。
 それでも少なくとも、体づくりのレベルでは、有利になるように器を大きくして、いろんなケースに対応できるようにしておこう、できている人も、もっと余裕をもってできるようにしておこう、というような方向で進めていく、こういう大きな目的が是非とも必要なのです。

再現性のための器づくり

 「基本は再現性(同じことをどこまで厳密に何回行なっても、寸分の狂いがないのかということ」という私にとって、体のもつ力を高めることは、感覚をよりよく取り込むことになります。そこで初めて毎日のレッスンの質が高まり、安定してきます。
 強化というと、声量や声域のことばかりいわれますが、現場では耐久性(長時間保てる、体調の悪い時でもそれを影響させない、大きく狂いを修正できる)の力こそが仕事には必要だからです。
 その代わり、今すぐにはできようのないその体のふくらませを、レッスンや実践のなかで使おうとすると、歌唱、せりふ、表現どころか、レッスンや発声のバランスさえも崩れてしまいます。使えないものは使えないのです。それを使おうとするから不自然になります。基礎のトレーニングと応用を切り離すべきというのは、そういうことです。
 ただ、レッスンは基礎にも応用にも、どちら側にも寄せられます。私はレッスンは、トレーニングのやり方やそのチェックを気づきにくるところで、トレーニングを行なうところではないと考えています。トレーニングは一人静かに黙々、コツコツ、繰り返すことです。
 呼吸法のマスターに5年、10年かかるというのも、そこばかりみていては、何もできないまま、すぐに年月がたってしまうからです。やるべきことだけやっておき、あとはいつ知れず自分のステージ、つまり応用に対してしぜんに反映していけばよいのです。

※トレーニングと実践(試合)は、スタンスも目的も異なるということは、何回も述べてきたので、それを参考にしてください。ベテラン歌手は、新人歌手にとって、トレーナーでなく、ステージ、実施、応用におけるよきヴォーカルアドバイザーなのです。同じ力をよりよくみせるのが、ヴォーカルアドバイザーや演出家、プロデューサーです。
 私の考えるヴォイストレーナーは、トレーニングで力をつけさせる、そのためにその人の実力のうち、強いもの弱いものをみて将来の理想図をつくり、それに欠けている条件を補いつくっていくのです。しかし、その理想図一つとっても、本人もトレーナーによっても全く異なるのが、声という分野の最大の難関です。

○もの真似や即成法のデメリットについて

 ところが、トレーナーが相手に対して何らトレーニングたるトレーニングをしていない方が多いとさえいえるのが現状です。ヴォイトレといわれながら、ヴォイトレの定義もバラバラ、多くは、「早く」「楽に」「うまく難なく」という、カラオケ上達法になっているのです。その代表が、先生が歌の見本をみせて、それを真似して近づけていくというレッスンになります。
 これは、
a. 早く上達する
b. 早く上達するようにみえて、少し伸びて留まる。あるいは、却って限界を設ける
c. 大して変わらない
d. 悪くなる
 大体、こういう方向のどれかになります。ただし、この判断というのは、ある時期を限ってみるので、長期的には、正しくないケースもあります。
(私がかつてON BOOKS(音楽之友社)から出した「カラオケ上達法」は、演出面から入り、最後に基本について学ぶという構成にしています)

 表現やステージには形があります。収まるところに収まらないと、人はうまいとみませんから、そこにいろんな工夫がされています。ステージや作品をもたせるための工夫や、装飾がトレーニングの本質を見誤る最大の原因となっているのは皮肉なものです。
 プロの世界をみている一般の人は、プロと似たことができるとうまいと思います。ですから、その形を覚えるのは、てっとり早い上達法です。振りや表情、音色やフレージングまで真似ます。
 そこですぐに形でとれる人は器用な人で、そのまま楽に歌えます。カラオケ教室に行って苦労するのは、うまく真似られない人です。しかし、それはコピーする器用さであって、漫画家でいうと、手先の器用さで本質的な才能とあまり関係ないのです。そこを忘れてはいけません。

※すると、カラオケの先生はフレーズを短くしたり、もっと簡単なところから始めるようなアプローチ手法を与えます。こういうケースでも、歌がもともとうまかった先生より、そうでなく努力して克服した先生の方が、いろんな手だてや経験を持って、細かくアドバイスしているので、教えるのがうまいものです。ただそれが、相手にとって本当によいか悪いかは別です。

 何事に対しても、メリットがあればデメリットもある、大きいメリット=大きいデメリットと考えるとよいと思います。即効果大ほど副作用大、可能性を大きくとるほど、その振れ幅も大きくなるのです。表現の大きさと同じで、発想と創造と納め方の三点がセットでないとよくないのです☆。
 これは人並み以上になりたければ、ハイリスクの中でそれをローリスクにしていく学び方が求められるということです。
 大きなメリットだけとれる自分にしていくということは、それを必要以上に揺らし、自己崩壊させつつ、自らの本当を、芯をつかみ、あるいは植えつけていく必要があります。メリットやデメリットのワクを超える人や作品との出会いが必要です。デメリットをなくそうと努力するタイプのトレーナーでは、そこが見えなくなり、本人は少し上達して頭打ちになるのです。

 形がとれたところまでのうまさを例えると、音大受講生の演歌やジャズみたいなものでしょう。ですから、叩きあげて創ってきた人、特にポップスを歌う人には、そういう基礎たるものの存在を認めない人もいます。感性やフィーリングを重視する人などに多いようです。「どんなトレーナーも、自分が認めるレベル(欧米のアーティストあたり・・・とは限りませんが)に歌えないではないか」と心底、思っている人もいます。しかし、こういう正直な見解から考えてみるのも大切なポイントです。メニュや教える技術で判断してしまえるなら、トレーナーなどは、お絵描き教室の先生にしかすぎないともいえるからです。

 当初の私の立場に戻ると、体からしっかりと声を出すのと、マイケル・ジャクソンのように歌えるのは、レベルでなく目的が違います(もちろんマイケルは、お腹からのシャウトもできる上で加工しています)。
 ヴォイトレなら、まず「お腹から声が出る」ように、普段の会話レベルでそういうことを一声でわからせる人かどうかを問うてみると、レッスンしたという人もトレーナー自身にも、その条件を満たす人さえ、とても少ないのではないでしょうか。(そんなことを条件にする必要はないというのでしたら、それまでのことと承知の上で、私は客観的にわかるストレートな基準を提示しています)

○トレーナーとしてトレーナーを使うことについて

 本人のトレーニングのために気づくための考え方やポイント、イメージを与えるのがレッスンだと私は思っています。少なくとも本や文章ではそれしかできないと思っておく方がよいでしょう。CDやDVDならどうか、私はCDをいくつか監修してきました(今のところDVDは、あえて出していません)。
 一つには、耳だけで捉えることを充分に学んで欲しいからです。
 確かに目でみるとわかりやすい。しかし、ここまで述べてきたように早くわかる分(わかった気になる分)、形をとってくせをつけやすくなるリスクも大きくなるわけです。
 ステージは先に述べたように、必要に応じて変わるものです。そのステージから直接、形でなく実となるトレーニングを学べるような人は、よほど特別な才能のある人といえます。

 私はレッスンやトレーニングの環境を整えたいと述べてきました。そして、私自身も環境でありたいし、でしゃばりたくないと考えてきました。レッスンの場はトレーナーでなくアーティスト(となるべき生徒)が主役であるべきだからです。(私が実演せず、監修したり、編集するのは、第三者としてのスタンスだからです。歌うなら歌手、演ずるなら役者、トレーナーは彼らの力を引き出す黒子役です)
 ですから、レッスンでも、トレーナー主体のレッスンよりは、生徒主体のレッスンであるべきです(本もCDも同じです)。
 もちろん、トレーナーが生徒を何とかしないと何にもならないという現場の状況もあります。
 しかし、何とかしようとすることも、あまりよいことではありません。特に何とかされたい生徒が多い現状では、まず、本人が主体的になるのを待つ必要があります。そのために私は急がないこと、押し付けないことを私のところのトレーナーには求めています。(歌手や役者には客、トレーナーには生徒ですが、これは生徒と考えるか、アーティストと考えるかによっても大きく違ってくるのかもしれません。歌手の満足度は客の声、トレーナーの満足度は生徒の声によるのですが、ただの満足でよいのかという問題は大きいはずです)

a. 生徒が自分の声に自分なりに満足することが
b. トレーナーが生徒の声に満足することが
c. 客が生徒の声に満足することが
それぞれによいのかどうかということでしょう。

 aは、ビジネスとしてはよいでしょう。生徒のニーズにトレーナーが合わせる、今流行のCS(顧客満足)です。
 cは、ステージ、作品から考えるので、よほどの人でないと、ただ弱点を隠し、今風に合わせて真似する形になりやすいです。(プロデュース 演出家型)
 b は、トレーナーによって、a、cになるスタンスもあります。あるいは、生徒によって、a、cになるケースもあります。私はbのスタンス中心ですが、a、c も配慮しています。本人やトレーナーと相談する
こともあります。

 目的別なら、マイナスをゼロにする人には ・・・ a  
カラオケやオーディションなら ・・・ c 
 それでは b のスタンスはどうなのかというと、
1.目的
2.レベル(現状)
3.期間
4.回数
5.自主トレ
などとの兼ね合いでも異なります。

少なくとも、 a = b = c が一致することは、かなり浅いレベルでしかありません。
a = c ≠ b のときは、トレーナー、不審になりやすいです。
a = b ≠ c は、メンタル的に弱い生徒と、やさしく丁寧なトレーナーが陥りやすいです。
b = c ≠ a は、旧式に多いパターンですが、初心者や判断力のない、あるいは偏った生徒のときは、今は生徒がすぐやめるので、あまり見かけませんが、理想的です。

※私は誰よりも多くのトレーナーと仕事を行なってきたと思います。そこで教育体系における伝承と創造について述べてみます。

現在の研究所は、私の補助としてでなく、私にできないことのできる才能ある声楽家を集めて、多くの要望にチームとして対応できるように、二重、三重の構造にしています。これは、自らに真似ることのよいところと悪いところを区分けさせ、できるだけよい影響を与えられるように、私が最終的にたどり着いた体制です。

 いかに天才的なトレーナーが一人いたとしても、その才能の恩恵が受けられるのは、100人に一人か二人でしょう。残りの90人には却ってよくないでしょう。つまり、100人がそのトレーナーを求めるとしたら、オーディションで10人に絞って、自分の教えに合う人を10分の1くらいで選んで、受け入れることがよいと私はアドバイスしています。もちろん、そんなに恵まれた人選ができるようなトレーナーは日本にはいません。しかし、私はここ10年、ようやく10人以上のタイプの違うトレーナーをそろえました。

 私のところでは、毎年400人、養成所としてのクラス制だったので、そのうち40人くらいがしぜんと残っていけるような形になっていました。それが本人のレベルや実力と比例しなくなってきましたから、やめました。半分は生え抜きのトレーナー、つまり私の指導下に育成していったトレーナーでした。そして、何人かは外のトレーナーをお願いしていたわけです。

 グループレッスンが中心でしたから、それぞれのトレーナーの個人的な影響は半分くらいにとどまっていましたが、それでも、もろにその指導下に入ってしまう人も少なくありませんでした。すると、本人には伸びているように思っても、そのトレーナーの半分にも満たない力をつけるのに、ほとんどの期間をかけているわけです。
 これは、その頃の私のところに限らず、一人で自由に教えているトレーナーのところで常に起こっていることです。(私のところはまだ複数のトレーナーから、選べたからよい方でした)
 しかし、誰も問題視しないのです。本当にすぐれた一流のトレーナーがいるとしたら、自分のかけた年月内で、少なくとも自分より上のレベルに育てられることがその証明でしょう。かける年月(時間)が半分とか要する努力が半分でも、そのトレーナー並みにできるなら、まあまあのトレーナーです。すると多くのトレーナーはそれ以下ということになるわけです。
 なぜ、「トレーナーである自分のようにうまくしてあげる」というところに目的をおくのかは疑問です。トレーナーも教えてやるというスタンスになってから、弊害が出てくるのです。いわゆる先輩(小坊主)の教える害というものです。(身近な人が教えるのも、こういう点で考えると、メリット以上にデメリットがあります)

 私はトレーナーも生徒も、ミニ福島のようにさせたくないので、いつも具体的なメニュや方法は任せています。私のところにいると、多少なりとも私の影響をうけざるをえないゆえに、いつも意図的に切り離す必要を感じているのです。
 しかし、一般的にはカリスマ的なトレーナー、あるいはそこでの第一人者は、自分の手元に置くトレーナーに自分のやることと同じことを求めます。これは組織である以上、また同じプログラムで同じ効果を保証しようとしたら、当然のことかもしれません。しかし、そうして日本では声において効果があがってこなかったのは、事実なのです。トレーナーが自分自身やその組織のトップアーティストをコピーさせることに専念しているところも同じです。

 私は、声の育成に関しては、こうしたトレーナーだけでなく、音大や合唱団、劇団、歌劇団、プロダクションなど多くの機関とそのカリキュラム、そして成果をみてきましたから、とてもよくわかっています(当初、私は声楽には否定的で、役者の養成所を立脚点にしていました)。つまり、その代表のトレーナーでさえ、育てられていないのをミニトレーナーに分担させるのですから、その結果が大してよくないのは明らかです。

 つまり、私の組織づくりが、これまでの日本ではいかに特別なのか、おわかりでしょうか。いらっしゃる人をメインに、それぞれが何らかのスペシャリストとしてのトレーナーを必要なだけつけます。もちろん、目的や時間、費用の制限内で思うようにいかないことが多いのですが、たとえ月に何回でも、複数のトレーナーに事務スタッフと私の計4名以上が入って、多面的にみているということです。

 このあたりはグループレッスンで、4~10名のトレーナーすべてに(選択して)教わることができていた頃と根本的な考えは変わっていません。ただグループでは生徒の個人差があり、特に変わったタイプには対応できないこともあったし、かなりの主体性が参加者に求められることになっていました。
 今はそれぞれのトレーナーがレッスンをまとめ、生徒別に考えて、それらのプロセスや結果を共有しています。その方がずっときめ細やかに個別に対応できます。ただ、こういうセレクトの力は400名近くを長くグループレッスンという同じカリキュラムで10年以上もみてきたからこそ、できるようになったということです。

 ですから、トレーナー一人で行なう場合や、すぐれたトレーナーの元に同じ教え方で統一して教える場合、リスクを避けるためには、そこで合わない生徒は引き受けるべきでないという判断基準をもつべきです。私はそうしているトレーナーを少数ですが知っており、そこには敬意を払っています。専門家の吟持は専門でないところを知って、そこには自分だけで対応しないことです。
 私自身も当初はそういうことさえ、わからなかったからです。経験を積み、失敗をフィードバックし、それを防ぐように考え、改良する、この繰り返しによってのみ、わかってくるのです。
 しかし、多くのトレーナーはそういった基準がない、実績が大してない人ほど、自分なら誰でもよりよく伸ばせるように、確信しているように思えてなりません。
 人の実力を伸ばすというのがどの程度かも、声については、トレーナーのみぞ知る、というようなあいまいなものが大半なので、誰かに言われないと直ることはないのかもしれません。
 そういうトレーナーほど、知識や肩書、あるいは人間的なコミュニケーションでカバーしようとするから、気づくことがありません。本質を観ていないのです。
 もし、本質を観ていたらメニュも方法も、毎回、相手別にもどんどん変わり、進化するものです。体制も組織も次代に対応して常に変革せざるをえないでしょう。
 その上で変わらないものがあるのです。それを私は基準と材料といっています(これも一番ベースのものが不変で、レッスンの中では毎度変わる、つまり応用されていくのです)。
 自らの声を変えることを他人の声を変える前に徹底して行い、声ということをとことん知ることからです。自分の限界がみえて初めて、他人をうまく使うことも、他人に対して、どのくらいのことができるのかも少しずつわかってきます。あまりにも声の力を伸ばすというのに、その声自体の目標の程度が低いというより、曖昧なのがずっと気になっています。

○演出家とトレーナー

 演出家やプロデューサーでトレーナーをやる人の特権は、まず、よい素材(人材)を選ぶ立場にいることです。私のトレーナーのやり始めの頃もそうでした。(今もプロの人などがいらっしゃることがそうなのですが、反面、のどに恵まれない人、障害をもつ人も増えてきています。医療に含まれる範囲はお引き受けできないので、それ以外のことについて、こちらの条件を了承していただいた上で、一緒に取り組むことがよくあります。常に研究、実験ということでは、どんな人にも共通するのですが・・。こういう人は本当の基礎の、さらにもう一つ下の根本を変える必要がある場合が多いのです。たとえばメンタルや自信、姿勢、生活習慣など。)
 
 プロとのトレーニングでは、元々自分とは、異なる歌やせりふの才能をどう使うかの立場から入ることになりますから、オーディションなどでよい声、うまく歌える人をとるところからスタートできます。しかも、自らがトータルとして仕上げるというケースなら、声に頼らずとも解決できるということを常に考えるべきです。その人のもつ他の才能で補ったり、声の見せ場を限ることで早く舞台で通じるようにできます。
 歌手であれば、自らが身につけるべき基準については、彼らが作品ごとにやればよいのですから(日本ではもっと基本を身につけて欲しいと思いますが)。その人の声の可能性より限界を示した方が早く役立つのは確かです。

 演出家やプロデューサーは、声、歌においてというよりは、表現として客に働きかける力を見抜いたり、引きだすプロです。ただし、歌や声としては専門外ともいえるので(特に将来性について)、私のような音楽や音声の関係者をおくことがあります。どちらにしろ、演出家やプロデューサーとしてなら、その力量と経験が相当にあることが人を見抜いたり、育てたりする前提で、それも全くできていないようでは問題外です。
 世の中に出て、世の中で勝負し、通用している鋭い感覚があり、それを声や歌をみるときに応用されているというところと、これまで優れた人を育てたり、使ってきたという経験において、私はアマチュアのヴォイストレーナーよりは彼らを高く評価しています(しかし、その自信が声に限っては裏目に出ていることも少なくないのです)。特にプロの場合、個性よりもバランス本位でみられがちです。
 彼らが自分を手本に真似をさせない、そこに価値のないことを知っているのはよいことです。学ばせるために、一流の作品を紹介したりしていることが多く、これは評価できます。声について、自分でやってみせて、真似をさせて学ばせることは最初からできないからです(ときにそういう人もいますが、大体は、まずは持って生まれて恵まれていた分だけのもので、ご自分の声を鍛えましょうというレベルです)。そこでイメージで伝えます。そのための伝えることばをもっています。応用が効くし、実践的です。
 デメリットについては、彼らの求める舞台の世界観や価値観が優先するということです。さらに、声そのものに対しての基本の把握力の浅さです。その判断が必ずしも、相手の潜在的な能力を認めて伸ばせるほど広くないということです。

※この点では、歌手出身のトレーナーと重なるところがあります。また、選別眼の方が働くので、プロ志向でかなりの素養のあるアマチュアでないとなかなか難しいです(あるいは全くの素人か、初心者向けには、あこがれの対象としてよいのです)。
 ですから、十年ほど、何十人くらいしか接したことのない若いトレーナーが、二十代そこそこまでで学んだだけのやり方をずっと変えずに行っているようなことを見るにつけ、本人がもっと学ぶべき必要を感じるのです。ここにもトレーナーが何名も学びにいらしています。大切なのは、教わることでなく、イマジネーションと創る力をつけることなのです。
 劇団のワークショップのようにアマチュア向けが前提のものについて、体験してみるのはよいことです。しかし、そこでは楽しいメニュのオンパレードと表面的なチェックだけですから、自ら心身の解放の体験ができたら御の字です。その先の方法や見通しはみえにくいものです。それでも声について、いろいろと感じるには有効だと思います。
 トレーナーが教える前に、いろいろと今の自分の体・心・声を見直したり、気づく視点を得られるというメリットがあります。理論より実践型が多いので、うまく巻き込まれると、思わずハイレベルな声を実感できることもあります。

○声の鍛錬のプロセスについて

 声優や役者の養成所から、ここにいらしている人の多くは、そういうところで、声について課題だけをいわれ、具体的な処方箋を渡されないケースが大半です。つまり、「声を大きくしなさい」で「どう大きくしていくのか」を知らないし、トレーニングを行なわないのだから、変われないということです。「もっと練習しなさい」では、何をどのくらい、どのようにしていくのかわかりません。そういうことに大雑把な、一般的なメニュはあっても、今のあなたの問題への具体的な解決策が必要です。(本も一般的に知るには有効、個人的に使うには無効なものが多いです。)それに見通しを得るのが、私の考えるレッスンなのです。

 それを解決するのが、ここのヴォイトレというと、どんなこともすぐに誰でもできてしまうように思われてしまいます。できることもできないこともありますし、やってみないとわからないことも多いのです。しかし、可能性を広げていき、限界までやって限界をみて、その克服法も研究し実践していく、その力をつけていくのが、私の考えるヴォイストレーニングです。

○似ていると学びやすいが・・・

 最後に現実的な問題として、性差やパートの違い(テノール、ソプラノなど)をどう考えるのかということについて述べます。つまり、師や先生の素質をみて、その得意なものを学ぶのに選ぼうとするのは当たり前ですが、そうでないものやそうでないときは学べないのかということです。
 人情噺は得意でない師匠なら、それが得意な師匠から学ぶ。ピッチャーならキャッチャーである監督でなく、ピッチングコーチから学ぶ。というのは、もっともわかりやすい例えです。しかし、声については何とも答えにくい問題です。

 これまで私が述べてきたのは、似ているほど早く真似しやすいが、大体はくせや真似るとまずいところからうつるもので、学んだあとにそれを取らなくてはいけない。逆に似ていないほど、真似もしにくいし、学びにくいかもしれないが、もし学べたら表面的な真似でなく、本質的な基礎が入りやすいというようなことです。

 ソプラノでしたら、ソプラノの先生なら丸写しのように真似やすい。バスの先生の発声では、出てくる声は全く違うが、呼吸法や体の支えなど共通しているところに、発声の基本的な原理まで踏み込んで学べたら、完成度は高いということかもしれません。

 ですから、私のところでは最低でも、トレーナー二人以上につけています。(極端にいうと、トレーナーの見解の分かれるところをどうするかが肝なのです)。真似て生じるクセを許容しつつ、いずれはとらなくてはいけないと知って学ぶのと、区分けできずに学ぶのは全く違います。歌でも一人のアーティストだけを見本にとるのは、二人以上のアーティストを見本にとるのに比べ、圧倒的にリスクが高いと思いませんか。

○効果と副作用

 私は、トレーニングは効果的なところほど(早くとか大きく変わるところほど)、副作用も大きいので、気をつけるようにと述べています。これはトレーニング自体でミスを恐れ、大きく変えるな、ということでなく、ミスを恐れずに大きく変えてよいが、そのあとにきちんと整理してミスを最小に抑えることをいっているのです。表現として何かをやるのはよいが、いや、やるべきですが、いずれそれなりの形で納めなくてはいけないのは同じことです。

 つまり、逆にいうと、あらゆるミスはトレーニングで行ない、知っておくことです。そのためにレッスンがあります。ですから、レッスンを上手にこなそうと思ってはなりません。素直に素で挑み、できないことを自覚することが大切です。そこで大切なことは、あらゆるパターンのミスを出し尽くしていくことです。なぜなら、レッスンこそが自分の長所、短所、弱点を出し大きく気づき、本質的な判断力を磨いていく最大の機会だからです。
 独りでのトレーニングは、ミスを恐れないとなりませんが、トレーナーがついているトレーニングは、ミスへチャレンジするつもりでよいです。調子が悪くてもひどい状態でも、レッスンでその処方を学べばよいのです。いくらミスをしてもよい。そこからミスを知り、本番で対処できるようにしていけばよいのです。二度同じミスをしてもかまいません。同じレベルでしないようになっていけばよいのです。

※こういったことを知っていただくと、「ヴォイトレに効果があった」とか、「あまり変わらない」というようなことも、その時々だけではよくわからないものだということがわかります。
 自己評価や自己満足、充実感も不安やスランプもすべて、大して気にすることもないのです。それゆえに、いつも自分なりにきちんと記録しておくことです。より高い水準で自己反省、省察できるようにしていくプロセスの大切さをわかってください。
 トレーナーに教わるのではありません。トレーナーはあなたが実力をつけるために使えるヘルパーです。ですから、何人かのタイプの違うヘルパーがいる方がよいとも思います。

○トレーナーもサンプルの一つ

 私は見本については、
1.一流のもの、しかも複数の作品をたくさん入れ、その共通点を体得していくこと、
2.その相違点から自らのものを創造すること、
の二つの継続的体験をお勧めしています。

 トレーナーの見本については、すべてといいませんが、どこかが一流(一流と共通)だと思えば、盗めばよいのです。思わなければ、不要だと思います。つまり、トータルとして優れている人より、一つだけはずば抜けている人に複数つく方がずっとよいのです。
 とはいえ、こういうことにはすぐに判断しがたいことがたくさんあるのです。学べるようになって学んでいってください。

※自分の声を変えたくてきたのなら、自分で自分の判断力を変えようとしなくてはなりません。ただ、変わるのでなく、すぐれて変わらなくてはなりません。
 日本では逆にレッスンやトレーニングで判断力が劣っていく人が後を絶ちません。つまり、トレーナーやもの真似で、表向きの力ばかり伸ばそうとしていくからです。(それでプロとして扱われてしまう層の薄さがプレイヤー、トレーナー、プロデューサー、演出家の悪循環から、抜け出せないどころか、音響やステージでの補助技術の強化で、さらに劣化してきています。)
 一流は何かということを一流のものから学ぶことが不可欠なのです。一流をめざしても、なかなか二流にさえなれないのに、なぜ皆、安易に手近なものをそっくり真似しようとしてしまうのかと思います。
 真似をするなら、呼吸や発声など一流の要件を満たしているものに限定して、それを部分的に集中して強化する目的でやることでしょう。この点では、ヴォイストレーナーの発声に限らず、歌のコピーにも、とても注意する必要があります。

○DVD、CD鑑賞とコピーについて

 鑑賞については、自分の外にあるものを取り入れるということでは、ステージやYouTube(ネット動画)、さらに教材についても、共通することなので、ここで総まとめをしておきたいと思います。

 まずは、大きくそれらのリソースを、a) アーティストもの、b) レッスン、トレーニングものと、二つに分けてみます。
 さらに、レッスンやトレーニングについても、いろんなものがあるのにそれぞれの位置づけをはっきりさせておきます。bには、1.本、2.通信教育、3.CD教材、4.DVD教材、5.レッスンでのトレーナーの見本などがあります。それぞれの目的や内容によっても、大きく違っているからです。

 たとえば、そういうもののなかのレッスンには、
a) トレーナーや歌手が全て(一曲フル)を歌う
b) トレーナーや歌手が一部を歌う
c) 生徒に全てを歌わせる
d) 生徒に一部を歌わせる
などのメニュがあります。

 全てを歌ってこそ歌というものですが、レッスンというのは、部分的に切り取り、集中してそこで直すからこそ、わかりやすくステップを踏んで直せる作用や効果もあるわけです。これは、より気づかせやすく、より近づけやすくするわけです。そこからみると、トレーナーが(あるいは歌手が)歌おうと、生徒が歌おうと、目的は同じですから、歌ってみせて、そのまま、真似させてみせるというレッスンは、とてもレッスンらしいものといえます。

※昔は、レッスンは口伝(もしくは一子口伝)でした。作品が記録されていなかったから、その形全体を知るために、つまり題材や知識を得るにも弟子入りが必要でした。それが、出番やデビューまで(家元制など、プロダクションの問題にも関わる)の下積みにもなりました。ところが今や、種本どころかDVDで師匠や先生以上か、それの名人の芸を動画で、誰でも再現して見られるようになって、大きく変わってきたのはいうまでもありません。

 同様に、歌手が先生だったのは、外国の歌をプロデュースした人から、その楽譜や歌う権利が欲しかった、必要だったという時代でした。またそれはヴォイストレーナーを作曲家が行なっていた時代に重なります。
 私のところでも、以前は、歌は作曲家に教わり、声は声楽科にヴォイトレにいくというパターンが少なからずありました。今はプロデューサーが歌担当になりますか。トレーナーというよりは、伴奏者(リハーサルや本番)としての役割が大きいのではと思います。ここらは前述したので話を戻します。ここで述べたこと、歌手、トレーナーが歌うところでは、アーティストに近い立場です。

○条件を変えたいなら

 歌や芝居は、その人の半生が入っています。声もそこまで経験してイメージしたものが出てくるのですから、誰も歌や声に関して、初心者ではありません。それゆえ、逆に難しいのです。
 誰でもできるものだからこそ、選ばれるには難しいのです(ならば、創ればいいというのが私の「アーティスト論」ですが)。
 「20歳で何のトレーニングにも通わず、すぐにプロになれる人がいるのは、歌手と役者」と、私はいつも述べています。で、そういう人(A)のヴォイトレと、そうでなかった人(B)のヴォイトレは、大きく違います。(A)は、少し修正する(まさしく応用の応用)でスタート(プロ活動)すべきです。そして、根本的な基礎の多くを現場での経験で入れていきます。

 アーティストや作品から気づく力にすぐれていることこそが肝要だからです。
 ちなみに、声そのものよりも、それの持つ力の方が問われます。しかし、プロでも一部の人は私のところに本当の基礎力をつけたいといっていらっしゃいます。より早く(といっても、2~4年)トレーニングとして、声を強化していくのです。当初、2,3ヶ月のつもりでいらっしゃった方の多くは、2,3年はいらっしゃることになっています。

 さて、そうでなかったBタイプにも、器用ですぐ歌えるタイプB-1と、不器用なタイプB-2がいます。私のヴォイストレーニングに限っていうと、すぐれた人がよりすぐれようとする場合と、人並みの力がない人が人並み以上になろうとする場合に、大きな需要があります。

 たとえば、劇団四季の主役級の人がブロードウェイに挑戦するときは前者、のどの弱くて人並みに声が出ない人が声の職を目指すようなときは、後者です。
 私のところでは舞台で通用する音声の基礎力をつけさせることをモットーにしています。
 つまり、声は日頃使ってきたものだけで本当の変えるのなら、大変革を起こさなくてはなりません。根本的に変えようとしないと、その条件から変えないと所詮、通用しないということです。生きてきた年月がキャリアというものなのですから。
 しかし、通用させるというのでも、まず通用しやすい調整を主として入るのと、根本的な条件から変えるのは、一見、方法が逆です。これこそが私のヴォイトレ、もしくはそのレッスンや体制でもっとも誤解されやすく、混乱しやすいところです。

○状態と条件の分かちがたい関係とトレーナーの問題

 極端にいうと、前者は高い声で「ミャー」といいなさいとか、鼻に響かせなさいと、その場で初回から気づかせる方法です。後者は走って、体力をつけなさいというようなもので、どう声に関連するのか、本人はすぐにわかりません。しかし、これもアプローチの違いです(私共は、どちらも併行しています)。
 前者はのどを開く、後者はのどを使っていくみたいなことにもなります。つまり、調整と強化トレーニングの違いです。とはいえ、どんなレッスンにもその両方が入っているので、厳密には分けられません。方法やメニュの違いでなくそこでの目的、判断の違いなのでわかりにくいし誤解しやすいのです。
 トレーナーや生徒によっても、その配分は違います。目的や方法やもっている条件によっても違います。捉え方や言い方で違うこともあります。生徒の受け止め方も個々に違います。

※レッスンでも、二人の生徒がトレーニングとして同じことをすることはありません。(すぐれたトレーナーは、自分の実感と直感に基づき、その場アレンジしてしまうのです。それはセンスというような問題で、それについてもいつか触れたく存じます。)

 「走れば声が出る」というようなトレーニング理論は極端なようですが、そういうこともあります。ろくろく寝ていない人なら、発声の前に充分な睡眠、病気なら、それを直してからがトレーニングの前提となります。声がのどや肺や呼吸筋など、体に支えられている現状からすれば当然です。
 どんな方法も調整しつつ、鍛えているのです。ですから、徹底した体の管理が前提です。
 たとえば、共鳴から入りつつ、それが胸にまでつながり、呼吸も深くしていくというのも、呼吸を深めて胸から頭へ共鳴しやすくしていくのも、全く逆のアプローチながら、同じことなのです。

 ただ、日本人の気質として、学校のように同じようなプロセスで、同じように習得でき、同じ程度にこなせるようになるものだという思い、確実に人と同じになりたいという思いがよほど強いようなのです。アーティストは誰でも同じように、同じにこなせるとは考えませんから、そういう人は表現でなく、学習をしたいのです。(これらは協調性のより強い合唱団などに顕著にみられる傾向です。)
 ただ、困ったことにトレーナーという職を選ぶ人に、こういう学校の先生タイプが多い。というか、ほとんどのトレーナーはそうなのです。大体は、平均以上によいのどを持ち、うまく歌えてきたような人が中心です(だからといって、それ以上の個性も表現できなかったともいえます)。
 一方でわずかながら、弱点だらけから克服してきたトレーナーで、個性豊かで幅広く深く、人を長期的に育てられる力のある人もいます。竹内敏晴氏などがそういうタイプですが、この件も前述したので省きます。

 一言でいうと、声を鍛えつつ、一流のアーティストから気づき、自ずと修正がかかっていくのが一番です。トレーナーはその人自身がこのようなことに気付く可能性を信じて、安易に自分本位に教えてしまうようなことでその邪魔をすべきではないのです。これは私の理想です。
 これは私のようなトレーナー自身は踏み台であり、目標とすべき点ではない、それゆえ、私の凡たる力の中に、相手をとどめてはいけないというスタンスの取り方です。

 それゆえ、私は私以上のレベルの人を引き受けられるのです。こういうことはとてもできない人や、とてもできる人にはわかりやすいのですが、なまじ器用にできる人には通じにくいようです。特に日本人の誰かのようにうまくなりたい人たち、誰かのような声を誰かのように出したい人には、理解しにくいということを知りました。その先鋒が案外とトレーナーであることが多いので、困るのです。

○トレーナーの個性のよしあし

 まず、レッスンの場を、学校のような教育と考えるか、アーティスト養成と考えるかの違いでもあります。私はトレーナー自身にも多様性と個性を望んだために複数にせざるをえなかったともいえます。私自身が表現を説くために、私の個性が出ざるをえないために、一人でやるのを断念したといえるかもしれません。
 一般的に考えて、皆さん側から選べるという師というのは、個性を出してよくても、生徒から選べないという学校の先生は、あまり個性を出さない方がよいのかもしれません。(そういう面では、日本の合唱団の先生には最も理解していただけないかもしれません。ただ、誰よりも私と意見、考え方、判断が一致するのが、その代表といってもいいH先生というのも不思議ですが・・・。)
 キャスターやDJとアナウンサーとの違いのように、そこは似て非なるところが大です。日本でよくみられるこういった二分類は、私の発声に必要とされるものの区分にも共通しています。つまり、個性ある声と上手でうまい声のようなものとの違いです。

 全員を平均点にあげるのと、一部のエリートをトップスターにするのとは全く考え方が違うということです。
 日本は戦後、本当の意味での(心身、体の)エリート教育を捨ててしまいましたから、こういうことがわからない人が多くなりました。誰もが平等、同じ実力、同じ評価というのを、芸にまで持ち込みかねない風潮です。
 

 たとえば、プロからアマチュアの指導に降りてくる人には、プロだったゆえにやさしい人も多く、皆の前ではファンサービス的に、よい人として振る舞いがちです。つまり、結果として、プロには絶対になれないように指導してしまいがちです。これは仕方がないことかもしれません。私の知人の黒人トレーナーは、日本人にはやさしく、同じ黒人には厳しくレッスンしていました。(日本人に好かれることが第一だったからであり、また今の日本人がそういう先生を好むからです。→ トレーナーの生計がレッスン料によっているという現実の問題があります。)

※昔、プロや先生というのは、初心者や一般の人にはやさしく、内弟子や見込みのある人や同じプロには厳しくと使い分けているものでした。厳しくされるようになったことがプロへの道の証と、弟子は喜んだものです。もちろん同時に冷たくされる、つまり同じ道を行なうもの、同業者となったのですから、この辺のメンタリティは、スポ根漫画(たとえば「巨人の星」)によく出ています。
 海外で一流のトレーナーがやさしくレッスンしてくれて、とてもほめてくれた “Grate!”“Good Job!”の連発だったなどというのは、アーティストやビジネスレベルでなく友好コミュニケーションのレベルを出ていないのです。英会話学校に行けばよくわかります。

 もちろん、レベルの低い日本だからこそ、海外で改めてそのプロセスの方法を評価されたり、出版できることもあります。私もときにそういう動きに引っ張られることもありますが、客観かつ冷静に処するようにしています。なんせトレーナーにしても、バンドのメンバーでも日本のプロより声がしっかりしているような国ばかりなのですから。

 トレーナーが個性化する、アーティスト化したときの弊害は、そのファンになったり、ミニトレーナー化するケースが増えることです。
 私は歴代の日本のすぐれたトレーナーが、そのトレーナーが好きな人ばかりの中に埋もれ、新たな才能を伸ばせなくなったのをたくさんみてきました。(これは、トレーナーに限りませんが)、それゆえイエスマンに囲まれる裸の王様にならない努力をしてきました。育てた弟子を自らに敵対させて乗り越えさせるという昔ながらのやり方です。(私は歌手でないので、彼らとは住み分けができたのですが。)

 とはいえ、高いレベルを求める人が相手でなくては、こういうこともうまくいきようがないのです。それはとても難しいことですが、確かに一時、私のグループレッスンにおいて、そういう時期はわずかにありましたが、それは90年代前半までのことでした。私も30代、それを今思えば、充分に活かせませんでした。私自身を、世の中に問うことに全力で生きていたので、その背中で語ればよかったときでした。今もその頃のメンバーは何人か戻ってきています。業界に背を向け、ゼロから、モータウンレーベルのように築こうと思っていました(それからの経緯は、私たち以上に、歌そのものの変容によるところが多く、今だ語り切れませんので略します)。

 ですから、トレーナーが生徒さんと仲良く「ちいちいぱっぱ」をやるようなのをみていた私としては、トレーナーという名称さえ使いたくなかったのです。とはいえ、今から考えると、その一方で孤軍奮闘の芯のあるトレーナーもいました。きっとまだ日本で学ぶことや先達を乗り越えようという意気込みがあった最後の時代を私は拾っていたのでしょう。

○トレーナーはどこまで関わるべきか

 さて閑話休題、ここまで、外にある見本をみることによって、自らに内制化できるのかということで述べてきました。アーティストもトレーナーも、歌や芝居もその一部のフレーズ、さらにトレーニングメニューもすべて、自分自身の外にあることについては同じともいえます。

 いつも述べるようにヴォイトレとして取り出し、そこにレッスンとして本番ではできないプロセスをおき、方法やメニュのような断片的なものを用いるからこそ、ややこしくなるのです。しかし、トータルではなかなか学べないから、部分での完成度から徹底するということをもっとも突きつめてきたのは私です。声で一声、歌で一フレーズをとことんやるのですから。
 ともかく、ヴォイトレとして、ヴォイストレーナーがやるからこそ、ややこしくなるところがあるのです。その分はきちんと位置づけしておき、あとで挽回しなくてはなりません。そうでなければ、その人の才能をもわからなくなり、却って混乱、あるいは埋没するからです。

※そこで、
a. 声づくりや声のための体づくりにだけタッチする
b. 表現や仕上げまで関わる

 この2タイプのトレーナー、あるいはトレーニングする人がいるわけです。
 a はフィジカル(パーソナル)トレーナーやマッサージ師、医者のようなものでしょう。もともと日本ではヴォイスティチャーやヴォイスコーチでなく、ヴォイストレーナーという名称がつけられたのは、そういう役割分担だったのかもしれません。その割には、ヴォイストレーナーはヴォイスのトレーニングではなく、歌い方を教えていることが多く、あまり基礎についてはやらなかったのです。今は体や声の知識が過剰になり、そのためメニュや方法だけが一人歩きして、逆に声そのものが力を発することができないようになりました。

 日本も現場が厳しくなくなったので、長期的な視野でみるトレーニングの絶対的必要性がなくなってきたのです。なのに、ヴォイトレする人が増えているのは、やや盲目的な依存化とさえいえます。
 カウンセラーなどの世界と同じく、ヴォイストレーナーも他に何もできないから、(それゆえ、声がすぐれているならよいのですが)、これしかなかったという人と、他の事にすぐれていて知名度もあるから、参入してきた人が増えました。
 後者は声での経験は浅いかもしれませんが、何らの表舞台での実践経験は豊かで、勘や気づき方、伝え方に長けている人が少なくありません。それゆえ、生徒もその表向きに心を奪われやすいのです。現実に世の中でやれている人につきなさいというのが、私のアドバイスの一つです。鋭くなっていくべきレッスンで、鈍くなることこそ、最大に恐れなくてはならないことだからです。

○再び「トレーナーの選び方」の本質

 私は、トレーナーについては、舞台の経験もみています。つまり、先に述べたように、目的のためのヴォイトレでありたいからです。もちろん、レッスンをやりにくる人の目的が健康やストレス解消、アンチエイジングでもOKですが、トレーナーについては、世に問えるレベルの人に対応できることを求めています。
 目的が、その日にトレーナーがサジェストしたらすぐにやれてしまうくらいのものなら、それはトレーニングというのに値しないからです。私には十年以上の下積みを通して、声をものにするということがどれだけ大変か知っています。まして、それを人に伝え、変えていくことは、至難のことです。

 私自身、トレーナーとして、その日に効果を上げるようにやらなくてはいけないときもありました。それもすべての対象となる人に・・・となると、劇団のワークショップのようにメンタル面の解放に心身のリラックスがメインになってしまいます。だから、ワークショップで受けるやり方もいろいろと知っています。それが得意なトレーナーも数多く知っています。
 多くのヴォイトレは、そのときのリラックス声がベスト、目的となってきたのですが、私としては、それは初めの一歩か0歩なのです。
 とはいえ、そういう一時の効果がよい方にいくと、誰でも自信ややる気をもち、それだけでも声が変わるのも確かなのですから、この10%アップを目指すようなヴォイトレは否定しません。私は100~200%超の変革を求める分、メニュは同じようでもその使い方はとても厳しいです。難しいというのは私の実力不足たるゆえんですが、伝えるのは大変なことです。それゆえ、価値があると思うのです。

※ただし、あまりに方向違いや、力づくばかりで声をうまく扱えず悩んでいる人の多い日本では、リラックスの方が先だとも思いますから、そういうレッスンで物足りなくなってから、こちらに来る人の多い現状は、悪いとは思っていません。
 私は10~20%の調整で終わって、満足してしまうようなトレーナーのレベルにさえ、10年経っても届きそうもないのに、ヘイヘイとしていられる鈍さが嫌なのです。またそのくらいで育てたといっているトレーナーの鈍さはもっと嫌です。だから、あまり関わらないようにしています。

 とはいえ、どのトレーニングもどのトレーナーも存在意味はあるし、そのやり方がうまくあてはまる人もいます。でもなかなかうまくいかない人もいます。
 やるべきことは、それをしっかりと把握して研究改良を続けていくことしかありません。こうして30年やっても、やっているからこそ、みえないものもできないこともわかります。

 どうも日本人は、いつも、ただスタートが切れたことで、たとえば入学したり、独立開業したところで祝って、ちやほやするようです。その9割は、5年も先にはうまくいかずに終わるのに・・・です。大学でさえ卒業より入学に重きが置かれているような国です。トレーニングも同じだと思わざるをえないのです。その人の5年先、10年先をみていくことは、多くの人を10年、15年とみた経験がないと、とても難しいのです。
 もちろん何にもやらずに口ばかりのような人は別です。それは問題以前なので、その取り組み、性格、処世術を直さないと仕方ありません。

 でも日本人のほとんどは、創造していく世界に対して、プロも含めて苦手なのです。養成所のようなところで私は、ゼロから叩き上げていたのです。そういう演出家や監督も、もういなくなりました。いても、この時代ではバッシングされて仕事を続けられないかもしれません。
 でも、そこから学ぶ人もいるので、私としては生きていて欲しいのです。何もやらないで口で批判や否定するばかりの人がどんどん増えていくこの国で、せめて声という武器に関わる人くらいは、それで思う存分、表現して欲しいからです。

 トレーナーはそう偉いもの、完全なものでも、力のあるものでもありません。会ってみたらわかります。本やネットよりも、人声でわかります。
 だからこそ、一流の作品から学んでください。ただ、それがどう一流にあるのかを耳や体を通して知るときに、あなたが少しは早く、少しは深く気づけるお手伝いをできたらと思って、私共は続けているわけです。

 トレーナーに問われるのは、声より耳、指導力よりは発想力の方でしょう。もちろん声もよろしければ尚よい。でも、人を育ててなんぼです。では何をもって育てたというのが、とても難しい分野だけに、また先に続くということになるのです。

 私は名誉とか教授とか、学会とかいった権威はどうでもよいのです。そこにいたとかついていたとか、そういうものに頼ること自体、おごってしまうからです。声を求めに来た人にも、日本人は特に惑わされることが多いからです。
 こうした文章は思想であり、世の中への問いかけなので、残しています。あとは声や耳、レッスンそのもの、それだけで判断してもらえばよいと思っています。