2011/05/01  ○トレーナーの声の見本

○トレーナーの声の見本

 この頃は、けっこうな立場にある人が、声の本質については、本当には把握、理解できないことに気づかされ、私はいささかショックを覚えつつ述べています。つまり、私なぞよりもステージの実績や経験のある人が、私からみると初歩というか、声の把握そのものができていないと思うのです。そこから考えるなら、次のいくつかのケースを考えざるを得ないからです。

1.私の把握が根本的に間違っている
2.それぞれの把握が二つ別にある
3.そういう人は、声については素人であると見なさざるを得ない

 私は私を疑い続けてきましたから、もう聞く必要もないのですが、あえて私のところの十名のトレーナーに問いました。彼らの素性や問い方にも私に有利になるようではいけないのですが、私は私の見解を肯定するためでなく、他の専門家の意見や考えを参考にしようとしているので、その点はわかって欲しいのです。それと私には信頼できるセカンドオピニオン、サードオピニオンがいて、常に他の見方を知ることができます。しかし、こういう方はこれまでの生涯、声そのものの演出についてはやってきていても、それだけに死角があるということです。

 私はここで、2.の自分の立場が異なるというケースで、述べていこうとしています。彼を肯定することで、私を否定してしまうことを恐れずに、彼を声については日本人の一般的な代表としてみることにしてみると、私の立場がより明確になるからです。それは、日本人や日本の文化と国際レベルでの、声との比較や対立点を明らかにすることにもなるのです。

まず、トレーナーの見解をまとめると、彼のは、
1.一般向き、とっかかりとしてわかりやすい
2.そこからの深みがない
3.声楽や声への誤解や短絡的な点が目立つ

 3.については、日本の声楽家も大した実績を残せていない分、自虐的に、そう把握されてしまうのもやむないレベルと認めざるを得ない現状もあるという言及もあり、私としては興味深いものでした。
 自分を主体とし、原点として捉えなくては、こういう議論は机上のものとなります。そうしてこそ、彼自身の声はどうなのかということに切り込めるからです。その見本としての力のなさを指摘するのがもっとも本質的なこととなるからです。
 それにしても、日本のいろんなCDやDVDで入っているトレーナーの声というのは、どうしてこうも力がないのでしょうか。のど声のも少なくありません。また、そういうことさえ思わないで買ったり、利用したりする人がほとんどです。どんなにこういうものを使っても、効果などないでしょう。一声聞いて、わからないのでしょうか。

 たとえば、映画「バーレスク」のクリスティーナ・アギレラの一声、もし本物の声のトレーニングというものがあれば、その結果がシンプルに、冒頭の2、3秒の声で示されています。
 しかし、トレーナーは「それは“のど声”で決して目指してはいけない、目指すべき見本は私のかぼそい声です」というかのように示すのです。
 トレーニングが一般化(一般の人対応に)してわかりやすく、安全に誰でもできることを行なって、すぐに楽にできるのがよいとなったところで、大きく変わってしまいました。一流のアーティストの声などは危険、かつ人間離れしたものになって、目的にもならなくなったのでしょうか。

 もちろん、すべての人がこういう声や歌唱の方向を目指すわけではありません。全世界には、一流といわれる声の使い手でそうでないタイプもたくさんいます。この映画のシェールも、その一人でしょう(もう64才ですが)。
 しかし、ヴォイトレという以上、一声で示せることを目指した上でそれがかなわないなら、次善の策があると考えた方がよいのではないでしょうか。

 こういうハードな声を常人にできないと否定するなら、逆に多くの日本人の歌手、特にほぼ全てのトレーナーが見本を示しているような高く、細く、きれいな声が理想なのでしょうか。まるでウィーン合唱団(たとえが悪いなら、カーペンターズのカレンや白鳥恵美子さんのような声)は、生来的に選ばれている声です。トレーニング以前に、特別に恵まれた声としての素質が何万人に一人くらいの確率でいると思うのですが。逆にトレーニングでつくれない声なのです。そこに似させるのが、“発声練習の声”と思われています。

○個性的な音色の消滅

 ともかく、そのマイクなしには届かない声に頼る傾向は、さらに著しくなってきました。(声楽でもドラマティックなイタリアオペラのようなものより、きれいな統一音声のドイツリートになりました。劇団や声優なども、個性的な音色をもつ人は少なくなり、誰もが裏声のように似てきたのです。
 それなら、生声の方が個性的と、日本でもそのままぶつけて歌う人も増えました。どちらも音響技術に大きく支えられています。ポップスですから、よいといっても、ますます体から腹からの声がなくなってきた、いや使えなくなってきているのです。

 体からの声は演歌などでの音色と共鳴、細川たかしさんから前川清さん、石川さゆりさんから坂本冬美さんまでが、持っているものにも通じます。
 ただ、若い人はふつうの音域でさえ、ファルセットを使うようになり、たぶん昔より半オクターブ上で歌うようになり、大きく変わってきたのは否めません。
 ・パワフル
 ・インパク
 ・メリハリ
 ・太さ
 ・重低音
 ・安定感

 細川たかしさんの高音のよさは、民謡からきたものですが、J-POPSよりはテノール(クラシック)に通じるものです。
 私がかつてスタンダードな見本にとらせていた歌い手の声を聞いたことのない世代も増えました。そういう声を聞いても心動かないのかもしれません。
 同じ世代の歌に惹かれるのは、いつの時代も同じです。ポップスですから、歌はそれでよいのです。しかし、基礎トレーニングとしてのヴォイトレは、国や時代を超えて通じる声をベースに置くべきだというのは、私の最初からの考えです。私がサンプルにあげたヴォーカルは、私の時代でも充分に過去の人であったのですから・・。

○胸声について

 いくつかの本で述べてきたように、日本の歌手やトレーナーに絶対的に欠けている感覚が、胸声の理解と習得です。逆にそれがある私は、1オクターブ(一番低いところからは2オクターブ)上の発声や共鳴も、理解できます。

 声帯や目指す声のイメージも、それぞれ違うのですが、私は歌手と一般の声とも分けていません。テノールやソプラノでは、全く違うという立場の人もいます。
 この辺りは、私は低い方の声もあるので、多くのトレーナーの高い方ばかりの指導と異なることは認めています。歌手も日本のような”真似”から入ると、高い声の方が求められる傾向が強いため、本当の基礎がなおざりになってきたとさえいえると思います。
 とはいえ、今の私はどのテキストにも、高い方が出やすい人はそこから入り、必ずしも胸声にこだわるべきではないという二分法を、ケースによってはとっています。日本にはいないドラマティックなテノールは、バスやバリトンに近い声帯で高音域発声までをテクニカルに習得したというのは、未だ私の仮説に過ぎません。(参考:「ロシアのバス」「通る声」)

※バスの声を出せる日本人は少なく、それを日本人が追いかけても仕方がないともいえるかもしれません。日本で太い音色をもつ、あるいはハスキーな声でハードに歌ってきたのは、欧陽非非、キムヨンジャ、新井英一、和田アキコさん、どちらかというと、大陸系の人です。スポーツ界とも似ていますが、文化やスポーツは、周辺から成り立っていくので、不思議なことではありません。パリの文化も、フランス周辺からの移民で荷われていました。
 映画「バーレスク」のクリスティーナ・アギレラのような背中(背骨)から声を出す、歌えるヴォーカルは、日本人から出るのでしょうか。とはいえ、アジア、中国やフィリピンあたりからは、欧米をしのぐ声の持ち主はどんどん出ています。世界標準と日本人のズレ、ガラパゴス化が気になっています。

○体の楽器化

 それには、息の深さ、太さ、体の強さ、筋肉、支えの強さなど、体の徹底した楽器化が問われるわけです。
 私の述べる「体の楽器化」とは、一部のオペラ歌手や役者などが己の演奏(表現)能力の限界を体に感じて、その体そのものを変えて限界を超えようとするときに顕著に表れます。口内だけのもの真似の芸人と、骨格さえ変えるといわれるコロッケさんのもの真似との違いのようなものです。オペラ歌唱の絶唱の顔の形は、ホセ・カレーラスなどでもわかりやすいですが、楽器としての理想から追求された超人的なものです(変な独特な顔です)。

私も経験がありますが、発声しているともっとあごが開けば、口が開けば、鼻や眉間が出っ張っていれば、もう1音、2、3音クリアできると、音域(特に高音)がわかりやすいですが、感じることがいつもあります。

 発声トレーニングをして本気になると、高音では一時、顔がくしゃくしゃになってくるのです。ポーカーフェイスでハイCまで歌えるパヴァロッティの偉大さは、その逆ということで捉えられます。生身というしぜんと、造作というテクニック、人工的なものとのせめぎあいが生じるのが、ふつうなのです。
 のどという楽器の完成へのプロセスと未完成なりにもっとも、うまく奏でようというテクニックとのせめぎあいとなります。つまり、のどとその使い方においての葛藤につながるのです。