2011/06/01 ○一流へのプロセス

○一流へのプロセス

早く楽に簡単に人並みにできる、あるいは人よりも少し上達できるというのと、遅く楽でなくとも苦労しつつも、明らかに常人とは違うレベルにできるというのは、結果からみてのことですが、方向性も順番ややり方も違うことが少なくないのです。
しかし、目標があいまい、つまりレベルが低いときには、表面的な効果やコストパフォーマンスを求めることとなりがちです(プロでも、感覚やイメージ、条件が伴わないときは、そうなります。その違いが声において厳密わかる人は日本ではほとんどいないのかもしれません。これが海外との音声力との差の原因です)。
芸の世界は、人並みの80パーセントまでは、20の努力でできますが、残り20パーセントを詰めるのに、80の努力を要します。さらに、それ以上になるためには、今度は労力でなく、100~1000パーセント~無限という世界へと挑むことになります。
要は、4、5年で人並みかそれ以上になれたとして、その80パーセントの上に、20パーセントがそのままのっかればよいのですが、必ずしもそういかないことが多いのです。
声や歌については、この80パーセントは、プロやうまい人の真似に準じることが多いからです。「80パーセントでの限界」というものにあたりかねないのです。つまり、これはデビューはできた、人前でできた、CD出したで終わってしまうレベルです。10~15年続いているのをプロというなら、まだアマチュアに毛が生えたくらいなのです。(才能、素質のある人なら最短1年半くらいで到達できます。)
むしろ、100パーセント以上の世界をつくることが念頭にあれば、80パーセントは目指さず、あとで100以上にいける基礎の20パーセントをしっかりと創りあげることが大切です。
トレーナーがつくときの最大の問題は、どうしても積み上げ式で10、20、30…50、80パーセントとしてしまいがちなことです。しかし、それではブレイクスルーできないのです。

これを具体例で説明します。
私のところでは、最初、あまりに発音、滑舌を重視していません。発声から考えると発音は後の位置づけです。それでも、実践的に考えるのなら、口をはっきり開けた方がビジュアルの助けも加わって、新人としては早く通用します。新卒でTVに出る女子アナなどが、その例です。そこから2、30年たつと、アナウンサーでも残っているのは、個性豊かな声となった人だけです。口もほとんど動かさなくても明瞭な発音になっています。母音は口形でなく、口内でつくられるからです。
ですから、新人社員をセールスや接客での即戦力とするには、滑舌練習からのアナウンストレーニングをするのが手っ取り早い、「話すため」の技術向上になります。しかし、声はほとんど変わらないか、むしろ人によっては浅くなります。日本人の社会風土や日本語の性質(高低アクセント、高出し)がさらにそれに拍車をかけます。高く浅い方が、新入りとしては受けがよいからです。個性や独自の説得力や表現力はむしろ、ここでその方向性を奪われるのです(それを評価しない日本の社会の問題も大きいです)。
ですから、アナウンサー、声優の初期の声は、役者や経営者(にもいろいろいますが)とは異なります。もちろん形から入って実を伴うことができるなら、これでもよいのです。しかし、形から入って形に終わることの多い日本では、そのままで人並み以上にもならない人が多いのです。

一方で、声が深くなれば、口形は少しの動きでも発音は明瞭になります。共鳴効率がよいからです。私のところでは、根本的にはこの考えをとりながら、その上で早く必要とする場合は、滑舌、早口トレーニングをさせるようにしています。発音がはっきりしたり、語尾まできちんといえるためには、本当は次のような要素が必要です。発音での口形の問題は、そのうちの一つの要素にすぎないのです。
1.フィジカル 体 姿勢 呼吸(腹式) 感覚  調音について 耳から発声、発音器官へ
2.メンタル 集中力 TPO 対応力
3.発声
4.共鳴

例えば、歌唱でも、高音のトレーニングになると表情筋まで関わるので、ひびきも前に出て、発音も明瞭になります(低音トレーニングは、深い声、芯のある声になりますから、声そのものを支えますが、そのまま発音にはあまり絡みません。しかし、これがあってこそ高い声も活きるのです。事実、本当の高い声の支えは太ももにきます)。
ですから、体力づくり、体の柔軟、呼吸筋、表情筋のトレーニングをしておくとよいでしょう。実際に大きな声で外朗売りや早口ことばで、のどを疲れさせるより、効率のよいトレーニングとなることもあります(役者やアナウンサーは、長年にのどをことばで酷使することで、声が鍛えられることもあるのです。そのリスクを減らしたのが私のヴォイストレーニングなのですが…)。
こうしてみてくると、発音のための滑舌トレーニングは、20パーセントくらいの要素で、それを長く大きくやり続けることで、体や感覚が巻き込まれていき、50パーセントくらいの要素のトレーニングが伴うと思えばよいのです。ですから、ときに「外朗売り」のトレーニングでも、正しい早口の発音だけに、最初からこだわるアナウンサーより、声の流れやメリハリから表現していく役者の方が、より表現力のある声を得られるのは当然でしょう。

○科学的、効率主義VS一流主義

一流になるためには、いくら理論や分析をして、方法を取り入れてみても不可能です。今日の音声科学は、30年前とケタ違いに進歩し、いろいろなことが分かってきました。またかなり多くの発声に関する理論や方法の間違い(というか、仮説)も修正されてきました。
しかし、トレーナーは、研究者でなく、他人の声を育成することが仕事です。トレーニングによって人がどれだけ育つかがもっとも大切なのに、秀れた人材の輩出という点では、30年前よりも劣っているかもしれません(先の表現でいうなら、80パーセントの人は多くなったが、100パーセント以上の人が出なくなったのは、教育の方向や方針、トレーナーの問題が大きいのです)。声だけに限っては、その傾向はより顕著です。もちろん同じルール上で奪うスポーツのように、比較は単純ではありません。
どの分野であれ、セミプロ化すると、底辺のレベルは上がりますが、ずば抜けたスタープレイヤーが出なくなってくるわけです。

逆にいうと、昔の人は理論、分析もしていないけど、それゆえに努力によって、すぐれた技量を手に入れる人がでたわけです。そういう現実に結果を出した条件や方法こそが、もっと研究されるべきなのです。すぐれた人はこうだと分析できても、その分析ですぐれた人を出せるわけではないことを知ることです。

まず一つは、声帯や喉頭の能力です。のどからその人の可能性や素質のよしあしはわかるのですが、一流の人が必ずしも声帯で恵まれていたわけではない例はいくらでもあります。つまり、体重があればラグビーに向いているというレベルで選手を選んでも、それは素人集団にとって有利な要素の一つにすぎないわけです。
同じことは声紋分析でもいえます。その人が加工して出した音の波が、楽器ならある程度、分析して、一流のプレイヤーと同じものが出ていたら優れているという指標になりますが、声は個人差が大きすぎてそうはなりません。
一流のすぐれた要素を多く持つ人がそうでない人よりは一般的に有利とはいえても、一流とはならない。それを証明しようとして実験した結果、現実に売れなかったのです。
この傾向はJ―POPになると、その人の声、歌い方と曲と詞が密接に関わってくるだけに、なおさら高まってきました。もはや声だけの判断では、歌を決めかねるとさえいえるでしょう(この点は後述します)。

○外国人、一流のトレーナーの判断基準と異なる日本人

 アメリカに行って、私どもの方法とまったく違うやり方で、声を開花させられたという生徒がいました。こんなことは数え切れないほど、いろんな国に行っている私にはわかりきっていることです。結論からいうと、それぞれ国のトレーナーがどんなにその国ですぐれていても、日本人のことはそれゆえわからないことが多いのです。
私は最初に向こうに行ったとき、誰からもバランスのことばかりを言われました。力を抜き、リラックスして、しぜんな声を取り出すんだと。しかし、それでいくらやっても彼や彼ら並みの声にはなりませんでした。
私は、彼らのやり方も日本の声楽の8割で行なわれているやり方は、その頃の私のように声のない(声の芯や深い声のない)人にはあてはまらないと知りました。そこでベースの声を本格的にトレーニングをして鍛えてから、のちに向こうに行ったところ、ようやく彼ら並みの声になりました。
この生徒は、私と同じような経験をしたのです(というか、年月やキャリアはずっと浅いし、声もまだまだだったのですが)。こういう初歩的な判断ミスによって、私のところでは向こうと反対のやり方と誤解されることはとても多いので、明確に述べておきます。
彼らは一般の人であっても、日常言語で、深くひびく太い声を持っているのであり、それゆえそれを邪魔する要素を取ればよいのです(まして、歌手、役者をめざせる人なら)。しかし、日本人の大部分はそれがないので、まずその獲得から始めなくてはならないということです。

もう一つの理由は、あまりに日本にはそういう人が多い上に、無理するだけの高音発声をよしとする人が主流なのです。いや、うまく無理をしていたら、中には鍛えられる人もいますが、むしろ今は抜くだけ、あてるだけの発声ですから、本当にバランス調整だけなのです。歌手、トレーナー、演出家、作曲家にもそういうタイプゆえに、カラオケの先生やヴォイストレーナーをうまくやれる人の方が多いため(特に歌の指導はそういう人ばかりなので)、本当の意味で体からの声や胸声というのか、理解も獲得もできていないことが、ほとんどなのです。(高くきれいな声だけで、表現力、説得力、個性がない声、それゆえトレーナーにふさわしいという考えもあるのですが…。)
これを疑うのなら、体からの声がどういうのかを私が一声で示しますから、いつでもいらしてください。本当の基本とは、シンプルで簡単そうにみえ、誰でもできそうで絶対にできないものです。でも、一瞬で示せるものです。
こういう声は、歌に限らず映画や演劇などにも、外国人のオペラでもエスニックな歌にもけっこう共通してあります。そういう観点で、世界中の声を聞いてください。体の中にあり、トレーニングの年月が、体内で育って血肉になっている声においては、純粋にあるトレーニングの方法の結果(効果)だけを分離して判断することができないのです。

○声の鍛錬について

私のところにも、かつて舞台で無理に声を使い、手術した人が何人かいます。トレーナーにもいます。もちろん、生徒ののどの状態には、誰よりも注意をしていますが、これもその人たちがその結果、歌や芝居から引退したというのなら不幸なことですが、そのときよりも今、活躍しているというなら、ケガの功名、それもまた一つの経験、あるいはトレーニングのプロセスと捉えられなくもないのです(もちろん、そんな苦労をさせない方がよいので、トレーナーの立場としては、のどに無理が生じるときはストップをかけます。しかし、すべてその判断でよいかはまた別問題です)。
医者や専門家は、一般の人にはとことんリスクを回避させます。しかし芸人や歌手はそれを超える直観がいります。常に高いレベルへはリスクを伴うからです。現にそのトレーナーは、手術後、半年安静のドクターストップを2週間で切り上げ、舞台に復帰しました。

 私は、これを読んでいる人に、理屈や知識を知って注意深くなっても、臆病になって欲しくはないのです。もちろん、たまたまそのときは、そのトレーナーはその判断でうまくいったが、他のときや他の人がそうしたら、再び手術するはめになったり、より悪くなったかもしれません。しかし、そのような選択も含めて、人生であり、自分の実力なのです(私なら他人に聞かれたら、このケースは、2ヶ月は出演を控えるべくアドバイスします。しかし、そこに最大のチャンスがきていたら…!?自分なら、医者やトレーナーが反対しても出たでしょう)。

俳優の仲代達也さんは、本人いわく、何度も声を壊しては直し、鍛えて一流の声になりました。彼にとっても、そのやり方がベストだったのかどうかは誰にもわかりません。多くの人はそのやり方では、彼ほどにはうまくいかないでしょう。しかし、彼と同じような素質(のどなのか、感覚なのか、勘か、熱意かわかりませんが)をもつ人にとっては、それがもっともよい、あるいは正しい、早いヴォイトレかもしれないのです(私が判断するのは、正しい早いでなく、「より大きな可能性をもたらす」=「もっともよい」ということです)。

私たちの多くは、外国人のシャウトの声を毎日、続けてハードにそのまま真似すると、のどを壊します。しかし、現実に彼らは壊していないのだから、それが間違っているとはいえません。私たちがF1レースに出て勝とうとしたら、死ぬでしょう。プロレスでも同じかもしれません。そういうことに対して、トレーナーのアドバイスは、一面での注意にしかすぎないともいえます。
「痛いならやめましょう」、これはヴォイトレでの基本的なアドバイスです。こういうセンサーが壊れていたり、鈍かったり、情熱のあまり鈍感になったりすると、過度に偏向して壊しかねないからです。
私は鈍感だったのか、敏感だったのか、すごく過度にやりましたが、壊しませんでした。無理に高いところをやらなかったからか、10年もかけたからかよくわかりませんが、8時間に耐えられる声をつくるのに、毎日3~5時間ハードにやりました。
こんなことは他人には勧められませんし、効率もきっと悪いでしょう。それはプロの人をたくさん教えるようになってわかりました。

今の私ならそのようにしないでしょう。しかし、今でもまったく疲れないのは、その頃の基礎がきいているとも考えられます。少なくとも誰よりも、あるいは、二度とそんなにできないくらいにやったというのは、自信になっています。それゆえ検証もできません(まして10代から20代にかけてですから…)。もうすっかり他人と違う体やのどになっていると思われるからです。量がやり方やメニュを凌駕することもあるのです(多くの一流の人は、やはり相当な量をやっており、そこから質に入っているのです)。

○お坊さんの声

まとめますと、初期の条件の獲得のための声づくり、発声とその歌唱のための共鳴とは、次元の違う問題ということです。登山で勝負しようというときは、もし私が平地しか歩いておらず、それゆえ10階まで階段を歩いたら足がつったり、翌日痛くなったからといって、それは歩き方が間違っていたのでしょうか。登山の前に10階まで、毎日上り下りするようなことを2、3年やっておく方がよいのではないかということです。

 私は日本で唯一、声づくりがしぜんにうまくいっているともいえるお坊さんを見る度に、高い声や発音や音階、リズム、歌詞、共鳴などに関わる前に、自分のもっとも出せる音の高さ、自分の呼吸に合わせて声を出して、しぜんに使えるだけの声にする期間が必要だと思うのです。私の日常の声は、10年20年とかかり、外国人に認められました。さらに、京都や九州のお坊さんに認められたのは、嬉しかったです。

そういうシンプルな基準、ヴォイトレをしっかりしていくと、誰にでもわかるくらいに声が変わるというヴォイトレが、日本ではまだまだ行なわれていません。欧米では、先述したように、あまりその必要性はありません。今、私が述べてきたようなことが全く考えられていないことに、まだまだこれから、多くのやるべきことがあると思っています。
そのためにも、ここしばらくは、能や邦楽、読経・声明の世界まで広げて、日本人の声を追求、革新していこうと思っています。

○J-POPと声のサンプリング

私は練習曲に、外国曲や演歌、歌謡曲まで使わせていますが、J-POPの曲を声のベースづくりとしては使っていません。
あまりに歌が詞と曲と声の総合的な組み合わせの妙で成立しているJ-POPの曲を、手本や見本になりにくいということです(曲、詞、歌唱それぞれ独立してみたところでの完結性や完成度がないということ)。ヴォイトレは声そのものの技術、完成度を求めていきます。しかし、シンガーソングライターなら表現から入っていくので、トータルでの完成度となります。声、そのものの正解というものがないともいえます。むしろ、そのアーティストのもつ生来の声や音色、フレーズのくせを生かしたように曲がつくられているので、他の個性をその曲で発揮するのは難しいのです。つまり、そのアーティストのようなくせで歌わないと歌が成立しにくいというところまで、歌だけの完成度がなく、歌い手の作品としての完成度があるということです。
これは私がJ-POPを評価していないのではなく、むしろ真のオリジナリティとは、そのアーティスト以外がそれをやると間違いになってしまうという持論からすると、これほどの強いオリジナリティの作品はないのです。それゆえ、基本の発声やその人のオリジナリティをみつけ育てるヴォイトレは使いにくいわけです。
体からのしぜんな声、発声原理にそって最大限、声の可能性を追求しようというヴォイトレでは、たとえば共鳴での技術は、声楽=クラシック=オペラに一つの範をとることができます。その下位に発声があります。そこからヴォイストレーニングを考えるとわかりやすいわけです。

○私の歌と声の判断の仕方

私は、多くのポップスのシンガーに接しているので、共鳴やシャウトの中にも、一つの芯(あるいは線)を捉えるような感覚で判断しています。デッサンの線をひものようによじって細く鋭くしつつ、ハスキーやため息のように、解くことも許容するのです。この絞り込みの程度もまた、まとめるのと同じく、ヴォーカルの裁量に任されています。要は、センスということになります。
声楽家の判断は、アカペラを前提とした歌唱ですから、共鳴や声量、特にハイトーンでの焦点化(ベルカント的なものとして)の条件の上に問われます。しかし、ポップスは、マイクでの音響加工をも含めて、何でもありです。オペラの条件の声量、声域、共鳴を絶対としないのです。
それゆえ、何をもって判断するのかは、声楽家、合唱団、ハモネプ、ミュージカルの方と異なり、複雑なもの、あるいは聞く人の好き嫌いや気分に大きく左右されます。言語と同じく歌われる風土(国、民族など)によっても好まれるものは異なってきます。とはいえ、私はアドバイスを求められる立場ですから、好嫌でなく、秀劣において明確な基準をもって判断しなくてはなりません。

優れているという基準を参考までにいくつかあげておくと、シンプルに聞いて、表現性をもつこと(ステージの成り立つこと)で、それは今ここで、立体的に(リアルに)、生命感をもって(生き生きと)働きかけてくることです。つまり、聞き込まなくても聞こえてくること、その上で流れがあって(時間軸、リズム・グルーブ)、心地よい、バックのサウンドと合っている(空間軸、コーラス)、さらに構成(空間配置)や展開(時間的メリハリ)でのまとまりのあることです。それには、起承転結や期待通りの線の安定度と、オリジナルフレーズの飛翔や冒険(創造性、心地よさとその裏切りのインパクト、破格と収め方)、そのための確実なテンポ感(とリズム)、音感と音の動きなどが必要となってきます。
世界的にみて、日本人に欠けているのは、メリハリ、リズム・グルーブを表せる声、太く引っ張られるようなことばをつかみ、リズムに従えられるようなインパクト、パワー、ドライブ感、加速度、つまり時間軸に乗せた横読みでなく、それを空間の広がりにして、時空を変えてしまうほどのパワフルさなのです。
これは、せりふなどの世界では、ある程度、一流のレベルに到達しているケースもありますが、歌になると、発声、音程(メロディ)、リズム、ことばなどを消化しきれず、多くの場合、声質(音色)、声の線(動き)がもっとも犠牲となります。
初心者ドラマーの頭だけ合わせているリズムやテンポ、リズム、メロディだけ正しく弾いているピアノの演奏に似たものになっています。それでも歌が許されるのは、次の二つの理由があると思うのです。

○多くの人に声の判断を迷わす二つの理由

一つは、一人ひとり声が違うから、それが個性やオリジナリティと思われていることです。楽器のプレイでは、同じ音色からタッチとオリジナルフレーズで、その人の音を出さないと評価されないのですから、それと比べるととても安易です。
もう一つは、ことば(歌詞)があることです。人の声、人のことば(物語、ストーリー)があることが、本来は楽器レベルでの声の演奏という技量を高めなくてはいけないことが、ただその人の声で思いを読んだら伝わるということにために見えなくなっているのです。(特に、詞、ストーリーを優先する日本人、日本の歌のスキャットや声の楽器的な使い方の少なさは、指摘してきました)
それを私は、1.楽器演奏として歌詞を介さないで聞く、2.欧米ほか、一流のアーティストの耳で聞く(ここで一流と共通のものを守り、一流がそれぞれ独自に創っているところに、オリジナリティをどう創っているかでみています。そうすると、残念なことに、世界で耐えられるヴォーカリスト(つまり、世界に通じ、歴史に残る人)は、あまりにも少ないのです。
その代わりに、この冒頭で述べたように、曲、詞と声の一体感で迫る、独自の世界のある歌い手と、ビジュアルで注目されるような人はいます。残念ながらオーディアルでの声の表現としてはまだまだというか、日本では一昔前より弱くなってきています。これは、体に基づくものであるからともいえます。

どういう歌にも歌い手もファンがいて、世の中に必要なものだと思います。私が述べているのは、ヴォイトレをする場合での方向や可能性、つまり、レッスンというものを本人やその声にどう位置づけるのか、ということです。これがあいまいであるとさしたる成果も期待できないからです。体からの声と、表現からの声の使われ方の両面を常に押さえておくことが大切だということです。