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2011/07/01 「なぜ、歌の判断が必要なのか。またそれはどう判断するのか」

 

「なぜ、歌の判断が必要なのか。またそれはどう判断するのか」

○声と表現、作品の優先度について

大きく分けてヴォイストレーナーには、a 声だけをみるトレーナーと、b 表現、作品(歌やせりふ、全身)からみるトレーナーがいます。もちろん、一人のトレーナーに両方が含まれることもあります。私はaの声だけをみたかったのに、仕事がプロデューサーとプロをみるところから入ったため、b作品の完成からみざるを得なかった時期が長くありました。研究所をたちあげて、aを中心にしたのに、bを独力でできる人が、特にヴォイトレに興味を示すようなメンタリティの人には乏しかったため、やはりbを学ばせるを得なかったわけです。
歌において、bの要素は、声の力と必ずしも一致しないし、こと日本においては、むしろ相反するくらいにかけ離れていることもあることが、とてもややこしい問題になっているのです。しかし、歌い手なら、自分かそのパートナーにbの力は不可欠なのです。逆にいうと、自分にその力がなくてもパートナーや協力者がいればよいわけです。もともと歌い手は、声を使うプロで、作品やステージは他のプロに任せていればよかったのです。それについては、次のような形でみてください。

<ステージング>      <ステージパフォーマンス>
衣裳、ファッション  スタイリスト、メイク、コーディネーター
振り付け           振り付け師
音響                SE
アレンジ           アレンジャー
作詞、作曲         作詞家、作曲家
伴奏          バンド、プレイヤー

もちろん、すべてが必要ではありません。それぞれの表現スタイルによります。それによって、声の必要性や方向、求められるレベルも異なってくるわけです。また、シンガーソングライターや自演(弾き語り)アーティストは、この多くを自分でやっています。

aのトレーナーは、その人ののど、体、性格などからその人の楽器に合った声を伸ばしていくことになります。それがバイオリンかビオラかによって、やはり根本で共通するものと異なるものがあります。体、呼吸、発声のベースあたりは共通です。しかし、音色やフレーズあたりになると、だんだんいろんな可能性と限界が出るし、ましてや歌い方になると、その人がもの真似で器用に真似られるアーティストの数くらいにいろんなパターンが出てきます。

○二重性の中でのオリジナリティ

真似でなく、もっともその人らしい、つまりオリジナルな声にオリジナルな歌い方の上に、その人のオリジナルな世界が出てくる、それゆえ、それは誰にも完成度において真似しても追随できないというのが、理想です。欧米では、オリジナルの基礎の上に成立したオリジナルの表現しか認められません。真似くらい誰でもできるのですから。
ところが、高い声やシャウト一つに不自由し、また向こうからの文化をもろに受け入れて、向こうに似ていることのできる人がすごいという日本においては、また自分たちの民族の受け入れてきたものを省みずもせずに、日本の文化と全く切ったところに、今の歌をつくってきた私たちには、二重の意味でオリジナルな体の声のオリジナルな作品というものがとてもわかりにくくなっているのです。

つまり、世の中で売れるし、プロデューサーが欲している歌唱と、本人の体からしっかりと取り出している声とのラインが一致しない方が多いのです。そういうときに、ルックスがよく、器用な歌手はプロデューサーの路線にのっかって上手く歌うのですが、声の処理はうまく歌ったレベルくらいで、のど自慢のチャンピオンほどの声の表現力しかないわけです。音大で声楽あたりをかじっておけば、ミュージカルですぐに出演できるという日本の現状は、まさにそれを表しているわけです。

さて、話を戻して、トレーナーにとって歌をどうみるのか判断するのかという点は、抜かすわけにはいきません。たとえば、私はいろんな人からのCDをもらいます。ふつうは他のトレーナーと同じく、何とかよいところをみつけて誉めます。なぜなら、頑張っている人なら、まずは認め、勇気づけたいからです。
レッスンをする人には、悪いところをハッキリと言います。それは、レッスンによって収まる可能性をみてはじめていえるのです。他のトレーナーのように、悪く思われたくないから誉めようとは思いません。

○可能性と限界

何らかの欠点や限界があったとき、対処の仕方は二通りです。一つは、諦めること。これは悪いことではありません。うまくいかないところを表に出さないように、きちんとカバーするのであり、どんなプロもやっていることです。
もう一つは、それを克服すること。できないかもしれませんが、試みることは大切です。試みてできなければ、また考えればよいというのが、レッスンのスタンスです。
ですから、レッスンで関わらない人に対しては、私はいろんな批評を求められても、あまり言いません。どんな作品でもよいところはあるし、よいと思う人もいるし、そういう人とやればよいからです。私がアドバイスすると、それは私の基準を投影してしまうことになります。プロの歌手なら、そういうアドバイスもよいでしょうが、私はトレーナーですから、よりよくなる可能性からみるわけです。
そのときに悪いところを注意して、カバーしてもその場しのぎで、それに気づかずカバーもしていない人にそのことだけ教えては、却ってその人のためになりません。それをカバーしたくらいの歌で終わってしまうからです。
悪いところなど放っておいて、よいところ、武器になるところを見つけなくてはならないのです。それがすぐにパッと出てくることは、そんなに多くはありません。長い時間がかかることもあれば、それだと思っていたものが違う場合もあります。
トレーニングやレッスンによって、何もしていない人に勝ることはできますが、アーティストとして生きてきた人に対抗できる力をつけるのは、並大抵のことではないのです。
ですから、フレーズのトレーニングで、その人の声からオリジナリティをみつつ、声に力がなくとも曲全体から何か心に引っかかるところがないのかと徹底してみていきます。
このときの私の立場は、私個人の好嫌を離れた無私です。これは、多くの一流アーティストの感覚やすぐれた何人ものトレーナーの感覚を学んでおかないと、到底できません。つまり、鏡となるのです。
プロの歌い手が人を育てられない理由は、これと全く逆に、自分の作品世界からみるからです。仮にそれを離れることができても、自分ののどで相手ののどをイメージして、教えるからどうしても無理があるのです。

○トレーナーの一人よがりを避ける

私のように、トレーナーをプロデュースする立場では、どのトレーナーがその人に向いているかどうかから判断します。その結果も、そのトレーナーより客観視できます。つまり、よりよくみえるわけです。
これは、トレーナー自身が見本をみせるのではなく、チーフのトレーナーをおき、自分でなく他のトレーナーに生徒の見本にならせてチェックしていく方がよいという考えです。私の場合、本のCDを私自身が吹き込まず、私の指示の元に、トレーナーが吹き込んでいるのです。私の立場は、トレーナーのコーディネーターやプロデューサーのようなもの、つまり、プロ野球であれば、ピッチングコーチや打撃コーチを束ねる監督のようなものです。このことによって、一人でトレーニングして、一人よがりにならないように、ついた一人のトレーナーによって、一人のトレーナーよがりにならないメリットがあります。
何人ものトレーナーに次々とつくよりも、最初に多くのトレーナーの中からあなたに合う人を一人でなく、複数選んでつけてもらうことが、どれだけメリットがあることかわかって欲しいと思います。

トレーナーを使える力をつけるためには、いろんなトレーナーについて、自分を知ることがとても有意義です。複数の観点をもつこと、これは歌と声を別々に教えてもらうことでもよいし、声を2,3人のトレーナーに教えてもらうこともよいです。
特に、声は変わっていくので(しっかりしたトレーニングをしたらですが)、その効果やよしあしは違う時期に他のトレーナーについてもはっきりとはわからないものです。ですから、最初から複数のトレーナーからアドバイスを受けたらよいのです。
これは、一人のアーティストの作品しか聞かないと必ず、自分の歌が影響を受けていて、それがどういうところなのかさえわからなくなるし、真似していなくとも自ずとついたクセが抜けないというのと同じです。

○多角的な視点をもつ

トレーナーにもやり方、判断、それぞれにクセもあります。判断の仕方や歌の評価も違うのです。相性もあるでしょう。私は10人近いトレーナーと、いつも生徒の評価をつけながら、比べることからとても多くを学びました。トレーナーは、一匹狼の人ばかりなので、他のトレーナーがどのようにみているかを学んでいる機会は少ないものです。プロデューサーと仕事をしていたら、プロデューサー的な見方になるし、フィジカルトレーナーとなら、体を中心にみるようになります。いろんな人(特にプロ)と仕事をすることも大切です。さらに、他のトレーナーと比べてみることも必要なことだと思います。

ちなみに、あなたがここでレッスンをして、トレーナー二人の意見、育て方や判断が違ったらどうしますか。私がどちらかに軍配を上げるわけにはいきません。方法や判断の違いが何で生じるのかをストレートにあなたに伝えます。矛盾していてもいいのです。確かな実績があって人を育てている、そのやり方や価値観を持つトレーナーがそのような判断をした事実だけ知っておけばよいのです。相方のやり方が違ったら好きな方を選んでもよいし、両方を全く別々に切り分けてやってもよいのです。トレーナーのどちらかが絶対正しいわけではない。あなたが高く評価したり、やりやすいと思うトレーナーの方が必ずしもあなたの将来によいとも限りません。

(この自分の判断が第一に優先できないところに、ヴォイトレの難しさがあるのです。何回か述べたようにあなたが最高の判断のできる力があるなら、声や歌はあなたの思うように使えているはずです。ことヴォイストレーニングに関しては、以前のあなた(の感覚)をあまり信じてはいけないのです。ヴォイトレしなくてもうまく歌ったり、声を扱える人はたくさんいるのですから、それに対して何が欠いているのかを知ることです)。
少なくとも、どのトレーナーもあなたよりはあなたの声についてはわかっています。あなたが力をつけていき、トレーナーよりも的確に自分のことを判断できるようにならなくてはいけない、そのためのレッスンだということなのです。

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○科学的トレーニングとマエストロのレッスン 

 

 声については、私の研究所でさえ、声紋分析の器材を導入している今、ここ20年の音声科学の発展はほとんど天文学や物理学、医学でいうと、天体望遠鏡や顕微鏡が出てきて、現実に目で確認できるようになったくらいの革新的なものといえるでしょう。
 書籍も生理学から、音声学、音響学まで、詳しくわかりやすく、よいものが出てきて誰でも学べるようになりました。一方で、自分の若い頃、つまり、半世紀前ほどの勉強のままに指導法を継承しているマエストロ的なトレーナーもいるわけです。
私の立場は、新しい発見や学説は絶えず学び続けますが、それが実際の結果や効果をもたらすまでは、試しに直観的に使うことはあっても、メインにすることはありません。一時的な成果でみるのでなく、長期的に複数の事例の結果でみるには、何年も要するのですから、あまりジタバタすることではありません(ですから、若いトレーナーや指導をはじめて4、5年くらいの人の結果をそのまま信じたりはしません)。つまり、新しく出た理論や言っていることと、今、受けているレッスンや自分のトレーニングしてきた本やトレーナーの言うことが違っていても、あなたが迷うことはないと思っています。

研究所では、私も自分の本に書いていることより、レッスンでトレーナーにいわれることを優先してくださいと言っています。これは、私のレッスンでも他のトレーナーのレッスンでも、同じことです。
 なぜなら、本は一般的に述べたもの、しかも以前に印刷したもの、レッスンはあなたという個別に対して、今みているのですから、「どちらが」と迷うことさえおかしいのです。(もちろん本の内容に照らして、疑問があれば説明いたします。)

 近年、特に大きく変わったのは、
・声区(レジスター)と胸声、頭声の関係、音色は胸や頭(腔)での共鳴であるといわれていたことの否定、仮声帯で裏声を出すのでないことなど
・ミックスヴォイスほか、いろんな声の分類の細分化
・声帯の振動、発声、共鳴の可視化
・裏声、ファルセット(フルート)、地声、表声などにおける、男性、女性での定義の混乱

私はこういう現場(特定の相手とのレッスン)を離れたところの論争に加わるつもりはありませんが、尋ねられることが多いので、いろんな立場の人の意見や理論を知って、混乱している人の頭を整理させることはできるようにしています。
それは、私のレッスンのためでなく、あくまで今の立場にいるために、問われることに答えるという責任においてです(私が全く興味もない、本や番組でも、声についてはコレクションしているのと同じ理由です)。

 別の面から話をしましょう。
 欧米のバイオリンという楽器は、実に多くのすぐれた演奏家や技術者(製作者)によって、高度に完成されてきました。家が買えるほどの高価なストラリバリウスの音を、「今の技術者でも超えることはできない」ともいうし、性能を比較すると、他のバイオリンと差がないというデータもあります。年月が楽器を育てたのか、その名声が名演奏家を惹きつけ、伝説となったのか、知るよしもありません。
ともかく、そういう伝説の名器は別にして、私たちが買うくらいのバイオリンについては、およそ高価なものは、そうでないものよりもよいといえます。つまり、理想の形、素材があり、バイオリンだけで評価できるということです。これは声楽家という持って生まれたのどと体ということになります(もちろん、その管理の仕方、育て方が入ります)。10倍の価格を出してでも、1パーセントの質を向上させたいと思うかどうかは、その人の立場にもよるでしょう。

a.元々の楽器=のどを中心とした体
b.使い込み、手入れ、今までの歴史、経年変化=育ち、育て方(スキル)
c.今の使い方=テクニック

オペラにおいては、パヴァロッティのような声を聞くにつれ、本人の努力はあるとしても、持って生まれたもの(a)の差は大きいと思います。しかし、表現やオリジナリティを踏まえて述べるなら、私はロマのバイオリニスト、あるいはインドのカースト制度下で音楽を生業としていた人たちの演奏を思い出します。楽器は、ボロボロの寄木のようなものから本人自身がつくります。手製でも、その耳とそれぞれの楽器に合わせた調整や、それを活かす演奏がプロフェッショナルなのです。楽器を半分つくり変えるほどの調整もしてしまうのです。
 民族音楽の楽器とオーケストラに使われる楽器の優劣を簡単に述べることはできませんし、そのこと自体、無意味ですが、どの時代どの国にも、すばらしい演奏家も歌い手もいたということは事実です。

つまりは、すべては人間の力、その人をとりまく環境と表現へのあくなき欲求によるのです。それが有利で、才能が輩出した時代や国、地域もあれば、不利でまったく不毛だったときもあるということです。
私はあなたに、ここに述べたロマのすぐれた演奏家を目指して欲しいのです。自分のがどんな楽器であれ、それを疑わず自分流に最大限に活かせる工夫をして、最高に使い切るつもりでトレーニングにのぞんで欲しいのです。

声帯によって一流のオペラ歌手の素質が必ずしも決まっているわけではありません。こんなのどや声帯でどうしてあのような声、演奏が可能なのかといわれる一流の歌手は、たくさんいたのです。また、人間の力は科学の分析などを易々と超えることがあります。
知識はあくまで知識、理論は理屈です。否定的でなく、肯定するのに使うのならよいのです。それらはあまりに自分の洞察力がないときに、一方的な思い込みで間違って才能をつぶさないためのリスクヘッジ、あるいは時間を得するくらいのためにはなるかもしれません。
知識は、要領よくうまくなるのには少々役立ちますが、それくらいでは、決して人の心を奪うほど感動させることはできません。
それは歌い手のルックスでの争いのようなものでしょう。歌や声の力が足らないから、顔などが問題になるだけなのです。本当に表現が凄ければ、芸の力はルックスなどを凌駕するものです。演奏がすぐれていたら、日常的なレベルでの顔のよしあしなど吹っ飛んでしまいます。

私は、科学を否定しているのではありません。それを自分のためによりよく生かすことが大切だということを忘れないで欲しいのです。本を読み、中途半端な理屈やことばにとらわれ、否定する根拠のように、自分の為にならないように、理論を使う人もたくさんいます。それなら、知らないほうがましです。20年以上前までの大歌手も、今の一流の歌手も、まったく知らなくても、何一つ不自由せず歌っているのです。今、わかっていることでも、まだまださだかではありません。
もし、そんなことに悩み、いたずらに時間や気を奪われ、実践の妨げとなっていると思われたら、そういうことは気にかけないようにしましょう。もっと大切な自分の勘というものを磨くように努めましょう。