○トレーナーの出身

 

○トレーナーの出身

 かつてトレーナーの出身は、皆、実演家でした。どこでも先輩として後輩を教えていたのです。そこには世代、つまり年代の差=年齢差があり、おのずと師-弟子の関係があったのです(師は、一家を成し、家元ともなりました)。
 芝居でも、演出家は俳優から、プロデューサー、ディレクターはアーティスト(歌手)から、兼任、そして専任となっていったといえましょう。そのうち、俳優やアーティストとしては大成しない人、あるいは、その途中で教えるほうの才能を買われて、専任のコーチやトレーナーとなる人が出てきました。そのあとは、舞台実践者としては、たいした経験や実績のない人も、演出家やプロデューサーになれるようになりました。
 この経緯は、評論家やコンサルタントの誕生と似ています。ただ、批評家から専門家としてやっていき、そのうち、一般の人のナビゲーターを務めるようになってきます。その創造性、並びに産物が作品として実践者に認められるのは、対等なパートナーの関係が築けてから後のことでした。その後、演出家、プロデューサーなどと共に、人によっては実演家よりも強い立場になっていったのです。
 
 歌の先生には、作曲家、そして演出家には、曲づくりや脚本づくりという独自のパートがあり、そこから出た人もいます。映画監督もまた、役者やミュージシャン、小説家、お笑い芸人がやっても珍しいことでなくなり、これら表現というのには専門の分野などはないといえます。つまり、その人独自の世界観があるかどうかということです。
 

○声から表現に
 
 

 さて、実演家が声を育てることについてのメリット、デメリットは、これまでにも述べてきました。ここでは、そこでの判断の違いについて述べます。
 それは、私のようにトレーナーであっても、作品の選択やアドバイスまで加わるようになり、あたかもプロデュースに近い役割になったときにぶちあたる問題であるからです。
 つまり、トレーナーとして声を育てる、声が使えるように表現のよしあしで判断していく必要が出てきます。現実に使えるためには声だけの問題にとどまりません。必ずディレクション、プロデュースの観点が入ってきます。これは1990年代に研究所がとった歩みそのものでした。

1.声までをみている個人レッスン
2.声とそのフレーズを磨くためのグループレッスンの付加
3.グループレッスンを中心とした表現のオリジナリティを磨くための総合レッスン
4.グループレッスンでの選別、優れた人の発表の場=ライブステージのセッティング

 この順で、
1.声だけ(発声、共鳴、呼吸、体)
2.歌唱(アカペラ)、せりふ
3.PAや伴奏付、プロの伴奏(発表会)
4.バンドや打ち込みのBGM付(ステージ=実演)

 研究所の拠点も場も、
1.レンタルスタジオ
2.PA付スタジオ
3.ライブスタジオ
(4.ライブハウス)
のように広がっていったのです。
 
 これは、一人のアーティストが育っていくプロセスでの拡大の方向とほぼ同一です。おのずと研究所も大きくなり、90年代後半はライブハウスをレッスン場にするに至ったわけです。公開ライブ直前までいきましたが、そこで私がストップしたのは、時流に乗せることが音声(声)歌の完成よりも、おのずとヴィジュアル面での拡充とならざるをえない状況に至っていたからです。
 欧米の流行をまねてきた日本では、声や歌の完成に伴わない分を機械(ハード)、演出、そしてヴィジュアルで補っていく傾向が強かったわけです。
 それこそが、今やヴィジュアル中心で世界に評価されるようになったJ-POPでの裏に隠れた真実です。つまり、音声で成立しないための演出面での工夫が、日本人得意のヴィジュアルでの表現形態をますます発展させていったのです。

 今の時代、生来の素地において、かわいくない、美しくない、かっこよくない、ルックスのひどいヴォーカルが日本ほどどこにもいいない国はないでしょう。でっぷり太った歌手さえ出なくなりました。これは、アナウンサーや声優、役者にも通じます。
 少なくとも昭和の時代はそうではなかったはずです。一芸に優れたもの=タレント性が決め手だったから、人々の生活に必要だったのです。
 おのずとプロデュースもヴィジュアル本位の方向に行ってしまうので、音声で表現する舞台にこだわった私は、ストップせざるをえなかったのです。
 
 研究所において、2000年までは著名な演出家やプロデューサー、さらに黒人のゴスペルトレーナーまで加えていったのは、(10年間で3回)グループレッスン体験のための妥協でもありました。
 そこから個別レッスンにして声を中心に回帰させた結果、全体で歌手は半分、後の半分は役者、声優、そしてビジネスマンになっていったのです。これは歌手においての声の絶対の必要性の低下をそのままあらわしているといえます。

○発声と歌の評価

 さて、話を進めます。私は、いつも十名ほどのトレーナーと全員でレッスン生のステージでの歌を評価していました。そこで、ポピュラー出身の生え抜きのトレーナーと、声楽家出身のヴォイストレーナーとの評価の違いにはしばしば悩まされました。
 声楽家は、楽譜に正確かが第一条件、次に発声のよさをみます。ちなみに黒人のトレーナーたちは、素の発声のよさとバランスを重視していました。それに対し私たちは、声の働きかける力、表現力と音楽性をみます。
 役者は、ことばの表現力があります。ただ、音楽性がある人ほど、声のパワー、インパクトがないのも、日本の特徴です。
 
 これは、一人のアーティストをどのように評価するかということの難しさにそのまま通じます。即戦力としてみるか、可能性をみるかによっても大きく違います。そこで、私のところではいくつかの視点から分けてみています。
1.発声のベース力 声楽家か、音大8年生レベル(大学院、二期会レベルの歌唱ではなく、発声や発声教材をこなせる能力としてみる)
2.歌唱力(歌手意、音楽の専門演出家として)
3.表現力(エンターテイナー、パフォーマー、声、歌を使った伝わる力として)

 もう少し原点に戻ると、声のきれいな人、声のよい人、声の強い人(タフな人)への見方は、必ずしも同じではありません。歌手もそれぞれに、最も核(強味)としているところが違います。ステージでは、いくつもの能力を兼ね合わせて作品の表現にするためにさらに複雑になります(選曲やアレンジにも大いに関係します)。

1.きれいな声で歌っている人
2.よい声で歌っている人
3.強い表現力を伴う声(歌唱力)で歌っている人
4.パフォーマンスなど、ヴィジュアルを重視したステージングで歌っている人

 このように区別すると皆さんは、それぞれ誰が思い浮かぶでしょうか。
 

○発声の理想と表現の現実
 

 トレーナーとしてはお勧めできないと思われているとはいえ、のど(声)をムリにつぶしたタイプでは、もんたよしのりさん、長渕剛さんは、個性的です。
 長渕さんの「乾杯」を最初のバージョンと今とを比べると、彼の場合、きれいな声が生来あったのに、それを(テキーラで?)ムリに太く強くして、変えてしまいました。声楽家やヴォイストレーナーなら嘆くことでしょう。つまり、自分の器を大きくはしたが、もともとの声の延長上でなく、大きくはみ出したところにつくったのです(もんたさんも、声域・声量も犠牲にして、声質を変えたわけです)。つまり、多くのヴォイストレーナーでは否定する世界で、表現力において、作品を成立させているということです。
 私は、こういうケースでは、本人の器を大きくして、そこからはみ出さない中での可能性=限界を最大限に探究した上での自由にします。そうでないと再現性に欠け、雑になり、耐性や将来ののどへのリスクが大きくなるからです。
 
 ところが今の日本では、声を大切にするあまり、こういうアーティストの歌の発声を全面的に否定するトレーナーが(声楽にもポピュラーにも)多いのです。一方で、ロックなど、デスヴォイス、エッジヴォイス、ミックスヴォイスなどの見本をみせたりやらせたりして、それを肯定するだけでなく、伝授するようなことも一部で行なわれています。
 
 どちらもトレーナーとそれを求める人の中で成り立っている分には、私には関係も関心もありません。成り立つことがなく、私のところにいらっしゃるから問題になるのです。
 私はそれを基本と応用で分けています。そこで苦い経験もあります。基本が6割くらいできた人に、応用でややかすれながらも表現が成り立ちそうだったのに、本人自身が声そのものを気にして、違うところへ移ってしまったこともあるのです。そして、大成することもありませんでした。
 
 もともと、本をよく読んでからいらっしゃるようなタイプの人は、うまくいかないと思っているときに違う本を読んでしまうと、また別のトレーナーのことばややり方を信じ、これまで間違っていたと思ってしまうという、判断の二極化の傾向が強くあります。
 本当の歌い手としての鋭い感性が磨かれていたら、声よりも表現力をとるのに、発声だけにこだわってしまうのです。
 そこまでいかなくとも、ヴォイトレ重視の人は、声からばかり考える傾向が強いものです。一時、それは大切なことですが、いつもどの方法やどのトレーナーがよいかばかり気にするとよくありません。たとえば、かすれた声よりもきれいに出た声だけを常によしとします。
 ある時期まではそれはよいでしょう。しかし、表現とはそんな表面的なものではないのです。それでは世に出て行ける可能性を狭めてしまうことになるのです。
 とはいえ、作品の訴求力において最終的には「将来や可能性」よりも、「今、ここでの力(多くのトレーナーの基準=ディレクター)」で判断されることが多いのです。あるいは過去、実績(日本のプロデューサーに多い基準)ばかり気にします。どちらももったいないことです。
 

○大切なのは活用すること
 

 いつも私は、方法や理論は効果を出すために使うもので、それによって効果が出ないとか、逆効果になるなら捨てたらよいといっています。この理論や方法への反駁もときに受けますが、合わないならもっとよく自分の目的にかなうものがあれば、そうすればよいといっています。ただ、その判断をできるだけの自分なのか、あるいは第三者でも実績や経験のある人なのかくらいは見極めておくことです。
 
 トレーニングもレッスンも、自分がよくなるために使うのですから、そのよいところをとればよいのであり、悪いところをとるのはおかしなことです。トレーナーも方法に対しても同じです。悪いところしかとれないなら、トレーニングにならないからやめることです。
 トレーナーやアーティストをまねするのは、そういう意味で気をつけなくてはなりません。多くのケースでは、これまで述べてきたように悪いところしか取らない人が多いからです。頭で考える人は大体、こうなります。それでも頭でかんがえざるをえないタイプだとわかれば、その頭を切るために、自己肯定の理論づけをするのでなく(そんなことはトレーナーに任せて)、学べるものから学ぶという実質へ踏み込むことです。

 私が一つの方法を押し付けないのは、万人に共通の方法ほど、こと声や歌の分野において、毒にも薬にもならないものはないということを少しは知っているからです。声は、日常のなかで使っているからです。そして、よい薬ほど強い毒ですから、うまく取り扱わなくてはなりません。
 ですから多くのヴォイトレ経験者は、心身面でのリラックスという、プラシーボ効果でヴォイトレを使っているとさえいえます。それでも私はよいと思うのです。何事も必要度に応じてしか身につきません。
 

○クリエイティブなスタンスを
 

 私のレッスンでの尽力は、ヴォイトレではなく、その必要度を高めることに大半をとられています。ですから、レッスンにおいて、大半の人に与えるべき主たるものは精神的なものであると思っています。
 その人の感性、感覚という器が大きくなればおのずと体、声、呼吸の足りなさがわかり、誰のどんな方法でもためになるようにセッティングされていくものだからです。そのスタンスなしには頭でどんなにわかっても身にはつきません。
 トレーナーが余計なことをいって、その人が自ら気づいていく大きな流れを妨げてはいけません。頭でっかちにさせてはなりません。知識や科学的な理論づけが、補強でなく懐疑のために使われているなら、大きな誤用です。
 私が科学的、医学的に探究しつつも、レクチャーやレッスンにそんなことをみじんも持ち出さないのは、そのためでもあります。そんなことを気にし始めたら、無心にコツコツやっていくことで少しずつ身についていくことさえ妨げてしまうからです。
 
 自分に合うことと人に合うことがすべて同じなら、やりやすいでしょうが、そんなつまらないことはありません。私はミニ福島をつくりたくないから、多くの異なる才能のあるトレーナーやスタッフと共に場をおいています。生徒を決してミニ福島にさせないためです。
 
 それにしても今の日本人の、自ら学んで創りだそうとせず、正しい先生、正しい方法を知りたいという単純な答え探しには、ほとほと閉口することがあります。
 歌やせりふの表現にはそんなものはありません。理論も方法も学会ではありません。条件や制限のない正しさなどまったく問われません。
 理屈は、私が本を書くのに最小限、論じようとして、あるいはことばで注意して具体化していこうという、少々効率の悪いアプローチとして、つまり、レッスンやトレーニングを形づくるためにあると思います(これは、現場そのものの現実よりも、普遍化して次の世代やそこにいない人に伝えようとするための本でのやむをえない方法の一つなのです)。
 
 あなたの声、せりふ、歌で示すこと、その邪魔をさせないことです。トレーナーも邪魔しないことです。
 世界中には、いつの時代もたくさんの手本があります。それに大いに学び、学べるようになっていってください。
 Be Artistは、Be Creativeからはじまります。ここではあなたがそうなるところからみているつもりです。