「声の判断の難しさ」 Vol.251

 日常のなかで使われている声や話そのものは、基準をつけにくいものです。そこで、よりよいレッスンのためには、非日常で判断するようにしてみるとよいとアドバイスしています。
 たとえば、ST(スピーチ・セラピスト)は、患者の発声とことばのリハビリをします。容態が悪化していく人にはそんなことはしませんから、患者の健康状態はよくなっていきます。すると、しぜんと体力、心身は回復に向かい、声もしぜんと出てくるのです。そこで試みた方法と、その成果だけを純粋に取り出すことは難しいことです。
 私は、ある本で、声のよい人、悪い人を比べるのに、一人のトレーナーを使ってよい声と悪い声にして分析表示したものを載せざるをえませんでした。違う人と比べるのでは、よい、悪い以前に、個人差によってデータがまったく違ってしまうからです。他のことなら、それを行なわなかった人と比べたり、時期を区切って同じ人のなかで比較できます。しかし、声については限度があるのです。

 日常のなかでの活動は、普通の人にはあたりまえのことに含まれています。話す、歩くなどと同じで、声そのもののレベルを区分けするのはなかなか困難なのです。歌ならともかく、「あなたと友達とで日本語はどちらがうまい?」となると、すぐに答えられないのと同じことです。
 比較するにも、生まれたところ(DNA)から、育ち、そして、毎日での日常の生活での差のほうが大きいともいえるのです。
 そこで、逆に普通の人の普通ではない状態を条件としてみます。プロとしての条件を、死ぬ演技でも声を朗々と出さなくてはいけないオペラ歌手の、完全な演奏レベルでの声の差でとる、役者として大きな声で2時間近く昼、夜10日間公演してみるなど。素人には区別がつかないハイレベルでの2つの声の差を、優れた歌手、役者やそのコーチは知っています。そこまでの基準でみると、かなり厳密に比べられるわけです(ただ、発声のよさと表現のよさとは、また別であるという点において、やっかいな点は残るのですが、これは別の機会に述べましょう)。