「レッスンというものは」 NO.252

私が声と発音を分けるのは、発音の方がチェックしやすく、誤りを直しやすいからです。歌でも音程やリズムをミスするなら、そこを直そうとしますが、それとヴォイトレとは、一時、あるいはずっと分けなくてはいけないこともあります。

 昔から、歌のレッスンというのはありましたが、私の考える本当の意味でのヴォイトレは行なわれていませんでした。オペラでも、そこを飛ばして、歌唱のテクニックの方から発声を始めていたのです。まして、ポップスでは、作曲家がピアノでメロディ(リズム)を教えて、歌詞を覚えたら一丁あがりでした。

 それでも日本では歌心というものを、若い歌手志望者は、作曲家など音楽の専門家の住み込みの生活のなかで仕込まれたわけです。この「歌をトータルで伝える」のと、「その環境や習慣を与える」というのは、素晴しい素質のあるものに対しては最高の教育法ともいえます。

 あたかも、芸人や役者は舞台に立たせたら成長する、子どもは川におとしたら泳ぎを覚えるといった、ハイレベルでのハイリスクな、それゆえ、真の天分のある人は、早く大きく育ったともいえます。

 そんなやり方は、今の日本ではなかなか続かないでしょう。これらはもともと、抜きん出た力のあるものを師が選ぶというシステムの上に成立したのです。それは、かつての日本の伝統芸能や相撲などにも通じます。欧米ではすぐれたアーティストがプライベートで似たようなことを行なっている例がよくあります。世界中から天才を集めて教育するのです。

 それだけの才能や素質にめぐまれず、頭でっかちな現代の日本人は、こういうシステムをまさに頭から否定しますが、それだけの修行をしていない者、その境地にまで達していない者が何を言っても仕方ありません。

 嫌だからやらないというのも、アーティストの特権ですから、私は本人の意見を尊重します。しかし、それを嫌と思うところで嫌と思わない人に負けているともいえます。

 真に世の中にでていく人にとっては、自分の好き嫌いなど超越しているのです。

「私が」「私が」といっているとレッスンの効果も限られたものになることは、これまでも述べました。

 声に日常性のなかでこれまで培われて動いているのですから、そこでハイレベルにするには非日常性、高い必要性を与えるということなのです。それこそが、トレーナーの真の役割だと思うのです。