〇理想の声 NO.255

○理想の声

 

 最近ある役者と邦楽家の席に招かれ、お話したことを取り上げてみます。私のヴォイトレに置ける立場や、考えたことをまとめてみたからです。

 「ヴォイトレは、声楽とどう違うのか」ということから、始まったのですが、声楽の定義は、これも人それぞれですから、ここでは触れません。私は新刊でも明らかにしているので、それを参考にして下さい。(音楽之友社の、「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」)

 また、ヴォイストレーニングという定義についても同じです。私がヴォイストレーニングで用いようとしたものは、声の一瞬を、理想として通用するレベルに高めようというものでした。一言で言うと、まさに「一声」、これだけで、プロたるものの声を示そうということです。これまでにそんなことができるのかという人は、そういう声を聞いたことがないか考えてみてください。いわば、ことばとして意味をもつ以前の声です。

 一瞬にできないもの、示せないものは、3分以内で歌にも使えないというのが、当初の私の見解でした。もちろん、一声、一フレーズでも、まして、一瞬で、もたなくても、セリフや歌はもちます。プロはそこだけで見せているのではありません。

 また、その「一声」といっても個人差があり、私は誰にも共通の一声(見本として、特定のプロや、あるいは福島自身の声を元にする)を目標にさせるつもりは毛頭ありませんでしたし、今もありません。そのために、理想の発声原理として「体―息―声の結びつき」と、「声そのもの」を同格で見ていました。その人にはその人なりの発声があり、バランスがあるということです。

 ところが、そこにトレーニングということが入ることによって、このバランスと部分強化ということでの優先順位や価値観が生じ、いろいろと複雑になるのです。さしあたって考えるべきことは、次のようなことです。

1.その人にとっての「理想の声」というのはどういうものか(一般的な「理想の声」とどう異なるのか)

2.それは、どういう状態や条件に支えられているのか

3.条件に対して、補ったり、強化したり、新たに獲得する範囲とは何か

4.表現における必要性からみた状態と条件について、どう考えるか

 

 この前提として、声を鍛える、磨く、変えることの可能性や限界への追究です。これは声の音色そのものの変化と言えるでしょう。それについては、ほとんど何も明かされてきていないのです。

 

○レベルⅠのヴォイトレ

 

 一般的なヴォイトレは、声の使い方を変えて、声域、声量(共鳴)、ロングトーンやレガートなどを目指し、整えていく方向で行います。そのために表現や発声器をの変化させ、より効果的に声が響くようにすることが多いです。便宜上、これをレベルⅠとします。そのためは、生声である発声に対し、喉を外して、いかにカバーするか、というようなアプローチがなされます。ポップスのヴォイトレ、プロデューサー、演出家、作曲家、プレイヤー(特にピアニスト、ストリングス)、カラオケの先生のレッスンは、まさにこれにあたります。

 そこは、経験がある人、勘のよい人や、条件がそれなりに整っている人なら、レッスンを受けなくても結構できてしまいます。お笑い芸人の物まねでも、私が感心するほどの人もいます。日本でのコーラス、ハモネプ、合唱団、JPOPS、オールデイズ、ジャズ、シャンソン、民謡歌唱あたりの歌手を思い浮かべてください。声は軽く、浅く、頭声共鳴がよく、高い声が出しやすいこういう人などをもっぱら教えているトレーナーにもあてはまります。

 これが主流になったのは、初回のレッスンからすぐに効果が出てわかりやすいからです。1,2回あるいは1~2年間という短期において、最もわかりやすく、ローリスクなトレーニングともいえます。

 リップロール、ハミングなども、このメニュの定番です。

 ただし、これらはわかりやすい声域、高音域に焦点があたっており、音色は大して変わりません。声量は共鳴がよくなるくらいでしょう。トランペットで言うと、ラッパの先を広げてみるようなトレーニングといえるでしょう。

 日本のポップス、アナウンサー、声優あたりで、盛んに行われているものです。呼吸や姿勢も扱いますが、表面的な形で、ウオーミングアップ程度に行われているだけですから、本格的な習得にはなかなか至りません。その差は日本人の高音と外国人の高音との違いに顕著に表れています。

 そのトレーニングの結果は1~2年くらいでは別のトレーナーのもとに行くと、どのトレーナーにも、「基本ができてない」と言う(言わなくても思われる)くらいです。(この次元ではレッスンしたにも関わらず、その判断もつかないことも少なくありません。困ったことにこのレベルが日本では多くのトレーナーの目標になっています)巷では、こういうトレーニングがヴォイトレでもっとも一般的になっています。

 バランスを整えるということでは、海外のトレーナーも同じようなことを導入や仕上げ段階として使います。私からみると、それは日常の基礎レベルの高い欧米人のシンガーには合っています。そのギャップは、次のⅡのレベルで補う必要があります。

 

○レベルⅡのヴォイトレ

 

 レベルⅡは、日本人の日常や、平均的な器から、はみ出したトレーニングといえます。日本では声楽か役者の、ややハードなトレーニングにあたります。

1. 喉そのものを変える

2.表現、強いインパクトを目指す

3.体、呼吸、共鳴、その結びつきを変える。

やり方、メニュや優先順位は違っていても、結果的にこの3つのことを相乗効果として、求めるものです。あるいはこれは、長年の舞台経験や日常のトレーニングの成果として現れているほうが多いようです。

 役者は12がアプローチ、声楽家3からアプローチして、トータルとして13が変わっていくようになります。レベルⅠよりも全身(トータルでの)感覚が強いのと音色が深まる(芯のある声)となるのが特色です。

 最近は、科学的(生理的)な知識をもって、筋肉レベルでアプローチするトレーナーもいますが、それは、レベルⅠでの、喉の状態をよくすることという、かなり限定されたなかでの効果しかでていないと思っています。

 根本的には、喉をほぐさなくてはいけないようになっていること自体を解決しなくてはならないのです。トレーニングとみるよりは、治療とみるべきでしょう。私は、ポリープや結節などの医者の手術でさえ五分五分、何でもすぐに処方すればよいとは思っていません。発声はもちろんのこと、体や心、日常生活そのもの、あなた自身の環境や習慣を変えていくことが、大きな課題と思っています。

 しかし、そういう処方ですぐに直して使いたい人が多いのは事実です。そういう人は、それでもよいと思います。(大した変化は起きないでしょう。ハードに使えば同じことが起きるので、少しずつ使わないようになって表現の可能性も失っていきます)心身は、部分だけで処方してもよくなりません。

 多くの人は喉が原点だと思って、そこの問題だと考えるのです。最近は、喉が弱い人が多いので、そういう傾向が顕著です。しかし、喉が弱いなら、鍛えなくてはいけないのです。それをどうこういじっても、少しよくなったり、また少ししたら悪くなり…です。そこで一喜一憂しても仕方ないです。(これは私でなく医者の大先生お二人からの意見です)

それでは11回の舞台、23ケ月毎日の舞台に耐えられる日はこないでしょう。

 このレベルⅡで全体的に調整しつつも、結果として日常の枠を破りましょうというのが私にとっては最低限、トレーニングというのに値します。これまでのあなたの日常での限界、日本人の限界を、知らず知らずに、外しましょうということです。(ここでは声についてだけで述べています。)

 

○レベルⅢの声

 

 レベルⅢでは、世界というより、人間としてのベースを掘り下げ、深めていくために、結果としてみるだけでなく、最初からプロセスを、意図的にトレーニングしましょうということです。これが私のブレスヴォイストレーニングの主旨なのです。

 本来の素質に恵まれた人はⅡで充分、さらにそれを超えたければやりましょうということです。もっと恵まれた人はレベルⅠで楽しくやるのか、目標レベルを最高にあげて起死回生でここからやるかというところです。

 表現も、一流になるなら、時代、国を越え、普遍的に通じていくものになります。基礎というのも人間の体を掘り下げたら、同じく時代、国(人種)を越え、共通になります。上を表現、下を基本として、その枠をⅠは上下にレベル1メートル、レベルⅡは10メートル、レベルⅢは100メートル取っているようなものです。

 だからといって、ブレスヴォイストレーニングが独創的で、すごいといっているわけではないのです。といって、リズムでいうと、Ⅰは楽譜で学び、Ⅱはフィーリングで踊りながら振付の中で学び、レベルⅢはアフリカやラテンの国で生まれて育ったら身についた―ということを掘り下げるようなものです。つまり「日常性の最大化」ということですから、方法やメニュなどを問うているのではないのです。

 スポーツなどで、これまでも例えてきました。バッターなら、

 レベルⅠは、ワンポイントアドバイス、すぐにできるくらいのフォーム修正。

 レベルⅡは、バッティングマシーンでのトレーニング。

 レベルⅢは、重いバットを振るとか、あるいはランニングや筋トレにあたるでしょうか。

 これは、ステージ、舞台での、非日常を日常にする、その人にとっても注意としてのレッスンか、トレーニングをチェックするレッスンか、日常をトレーニングに取り込むレッスンかの違いです。

 先日、ある合唱団の先生が、「リズムは体でとると遅れるからイメージ()でとれ」と教えていました。こういうのは正誤でないのです。体感、イメージ力で、頭ではないのです。現にその先生自身は、体でリズムをとっていました。そこまでには何年もかかるから演奏会に間に合いません。普通の子の体や感覚はまだまだは鈍いですから、こういう指導がマニュアルとしてはよいともいえるのです。でも、こうした期間限定ばかりで仕上げようとしているのが、今の日本の大人です。中高校授業の合唱団は期間限定ですから、これはこれでよいのです。

 

○声の表現力

 

 私は、今の日本のプロレベルのオーディション対応の歌唱やセリフまでは、レベルⅡで充分と思っています。しかし、その型を破り、個性にして、その人以外のオリジナルのフレーズで勝負するならば、Ⅲレベルに達することが必要だと思っています。つまり、「歌手なら、しゃべるように歌い、役者なら歌うようにしゃべれる」ということです。

 ですから一般的に、多くのヴォイストレーニングの受講者が、いかにも、「歌うように歌おう」としていくようになるのを見ると残念です。日本のミュージカルの歌のように、どうしようもない違和感を感じるのです。その世界に入ったとたんに、置き換わった目標がミスリードしてしてしまうのです。

 私は、演出家の作品としての良し悪しとは別に、個としてのアーティストが表現しているものを見ています。表現としての声、ことば、歌をみています。こういう声の問題が半分、いや10分の1くらいですが、あとは独創性、つまりは思う、感じる、考えるということの集大成なのです。

 私のレッスンでは一フレーズをやると必ず、どう思ったのかを確認します。一人で判断できる力をつけるためにです。その実習を通じて、私の意見も参考にしつつ主体的に考えられるように育てています。

 言葉に頼らなくても深く感じるべきですが、言葉にしてみないと、積み重なっていくことが難しいからです。研究所ではトレーナーにも「言葉で示すこと」を奨励しています。

 一流の歌手は、声に表現力をもたせています。それには表現、イメージのレベルを上げなくてはなりません。これは声の力とともに上がってくるのが望ましいのですが、クラシックならともかく、今のポップス歌手や、その初心者はそれを待てずに先に先にといってしまうのです。

 鍛えて磨いた声、その共鳴、輝きを作品に、全身(全霊)でそのまま使うのはオペラ歌手です。ポップス歌手、役者は何でもありです。しかし、声として共通する、表現の核、中心を掴んでいくのが、本当のヴォイストレーニングと考えています。そういう核となる声、中心の声を、「芯のある声」という言葉で表しました。これはジャンルを選ばず、全身全霊で表現し切れる声です。

 若い人に全身から全力で声を出した経験が与えきれてないことが、日本の声力の更なる低下をもたらしています。歌唱やセリフ、いや、発声の前に、声というものの、もっとベーシックなところでの、トレーニングを行う必要を、私は提示しているにすぎません。それが必要な理由はオリジナルなフレーズとして使うためです。そして、それは自由な声の条件として必要なのです。そこでさらに、外国人ヴォーカルレベルでのフレーズ処理からメニュの材料をストレートに与えてきたのです。イメージ力では慣れてきます。しかし、声がイメージに伴わないのです。

 

○基礎の基礎

 

 私が再三、述べてきたことは、きちんとやりもしないで、その成果を云々したがる浅はかな風潮への批判です。「理論や理屈は、中途半端に持つと、却って害になる」ものです。優れたアーティストやトレーナーの教則本はありますが、私のように、あらゆるケースを想定、反証、チェック、フィードバックして、書き直し続けている人は多分、いないでしょう。全ては仮説、試行錯誤であり、私としても、完成などはないと思っています。

 ときに誰かに「これが正解」と示されても、それはその人の、自分のトレーニングや自分の周りで適用した例でのサンプルにすぎません。

 一流の声楽家であれば、生涯にわたり、自分を研究し、発声も練習方法も変えてきているのです。(スポーツ選手でさえ、たびたびフォームを変えるのです)

 私の考え方や理論も、これからも変わっていくと思います。ただ、その感性や本質をみるところではあまり変わらないものです。そういうものは、その人が20年、30年やり続け何を残していくかで、みていくしかありません。

 今の私の研究所は、今の時点(これまでの研究所の歴史上)で最もトレーニングもトレーナーも充実しています。また、いらっしゃるアーティストもいろいろですが、医者などからの紹介の方をはじめ、異分野の方々がたくさんいらっしゃっています。いつも述べるように、対象の広がりに、こちらが追いつきません。だからこそ、いつも大切となるのは基礎の基礎なのです。

 レベルⅠ、Ⅱ、Ⅲというのは、レベルが上がっていくのはなく、必要性が上がっていくのです。つまりⅢがハイレベルというのではなく、最も基礎の基礎ということなのです。

 

○感覚と感性と自立の覚悟

 

 なお、声の器作りとして、強い息や大きな声、深い声などを模倣しようとして、急にたくさんやったり、休みを入れずにやったり、発声の原理にあまりに反することをやると、声が潰れるリスクが高まります。これは、トレーニングとか、メニュとか方法以前に、当たり前のことです。

 感覚や心身をトレーニングするにも、「今の自分の発声の限度の把握」という、常識的な判断は欠かせません。こんなことまで言わなくてはいけないことが、今の日本での、声に関わる人たちのレベルの低下を示しています。

 かつては、もっとも無謀と思われる悪環境での大声トレーニングでさえ、そのトレーナーや受講生はもっと鋭い感性で、喉を守っていたと思われます。なかには無神経なまま、痛めた人もいるでしょうが、そうして覚えていったのです。そう、感覚、感性は鋭くあるべきです。そうでなければハードな条件を課して、それを得ていくことです。

 今の私の個人レッスンで発声の判断はどこのトレーナーよりも厳しいはずです。昔は、誰もが自分でわかるまで待つレッスンをしていたものです。そういうアンテナの感度や、その感度の高まりを保つのは難しくなりました。

 私のレッスンは、5分間もあれば全て示せます。ただ、その5分間のうち、たった5秒のことが、5年、10年の課題でもあるのです。呼吸も、体も、筋肉も、全身のバランスやセンサーも、共鳴もそれぞれに整わなくては実現しません。そもそも何かが、そこですぐに実現できてしまうくらいの基準では、プロのレッスンにならないではありませんか。

 

 再三、述べてきましたが、私のレッスンやブレスヴォイストレーニングの方法、メニュというのは、他のトレーナーのように、特別に決まった形で存在するようなものではありません。全て、相手に応じて変化しています。材料は何でもかまいません。どの母音、子音でも、どのスケールでもかまいません。あなたの歌の一フレーズ、セリフの一言でもいいのです。それだけに5年、10年、育成し保てられる基準があります。

 できないときには一つのアプローチの技術として、優れた一流のアーティストの声を後追いしていくのです。そういう感覚や心身、発声の原理の獲得を目的に、ということです。彼らの日常を、非日常にしている私たちが拡大して取り込み、日常化していくということです。その考えが、ブレスヴォイストレーニングであり、私のトレーニングです。

 

 レベルⅠ 基礎

 レベルⅡ 結びつき

 レベルⅢ 表現

 

 一つのやり方、方法、メニュでなく、多様な方法、メニュ、やり方、プロセスがある方が、豊かな世界だと、私は考えます。問題がどんどんでてくるからこそ、克服する力もついてくるいのです。

 でも今の日本人はその前に、どのやり方が正しいとか、自分に合う方法やトレーナーは誰か、とかすぐに決めたがります。そして、それ以外にも何か問題があると、すぐに解決という名のもとに排除したがります。そのために人が少々上手くなるだけで、育たないのだと思います。(問題は成長する限り続いていくのです)

 本人もトレーナーも、早くうまくなるのを目指しているからそうなってしまうのは当たり前です。もっと根本的、本質的、その人の生活や生き方から、出てくるものがあるのです。それを凝視することです。

 私には、日本の音楽や歌が、まるで、戦後アメリカに守られて、そのために自立も覚悟もない、自分の意見も作れない、言えない、出せない、リスクを引き受けられない、今の日本人のありようとダブって見えるのです。

 「自分の歌を歌おう」これはもう10年も前に私の出した本のタイトルです。未だ何も変わっていないように思います。

 

○ヴォイストレーニングのメリットとデメリット

 

 さて、レベルⅠ~Ⅲを捉えていただくと、私のヴォイストレーニングが、世界対応のトレーニングとわかるでしょう。世界に通用したいという人が何人か来ました。それはまた、いろんな面で、ヴォイストレーニングの可能性と限界をまじまじと見ることになりました。それとともに自分自身の条件をも省みることになったのです。

 ここまで、「トレーナーの選び方」などで述べてきた、他のトレーニングやトレーナーのことを、私自身にも当てはめて、その良し悪しを考えざるをえなくなったのです。その前提として、トレーナーやトレーニングの基本について、私の「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」(音楽之友社)を参考にしてください。(ここでは私自身のことはあまり述べていませんが、この本には至るところに私を私にならしめた、私の声を声とならしめた、背景が述べてあります。)

 

 一声でみせる見本、(手本かサンプルかわかりませんが)鍛えられた声の一つの叩き台としての、私の声を述べます。

 さらに10年前のトレーニング以来、これに並ぶ、あるいはより優れた人の声も、同じレベルの声として併記します。

 これに声としては異なっても、音楽を司るのに並々ならざる表現力やコントロール力をつけた声を、歌唱、声として加えます。

 いわゆる、私が歌手の声として参考にしただけでなく、プロ歌手のプロの声として「レッスン曲史」などで紹介している声色、役者声も共通しています。他にもトレーナーや声楽家も若干います。

 何をもってプロの声とするかの議論は不毛です。それぞれの分野で活躍した、プロの人の持つ声でよいのです。

 いつも私はこれからトレーニングをしていく、トレーナーとしてのスタンスでいうのにすぎません。それぞれに違う声があり、それぞれに与えられてきた声を、目一杯使うところに技術もあるのです。ですから私や私の示す人たちに、あなたの声が似ているのかどうかは考えなくてもよいと思うのです。

 

○声を決める要因と真似

 

 声を決める要因は、たくさんあります。ここでは楽器である、体を中心にみていきます。これは、それぞれに組み合わさって声を決める要因の一つであり、これで全て決まるわけではありません。

1. 身長、体重、胸郭、頭部―頭蓋骨、

  首の長さ、太さ―喉頭の大きさ、声帯(筋)、

輸状甲状筋、輸状被裂筋

2. 表情筋、呼吸に関する筋肉

3.それらの使い方

 

以前から身長の高い人(首回りの太い)は低い声、という俗説がありましたが、男女の喉頭(のど仏)の違いでの、声帯の長さなどの差による、ほぼ1オクターブの差は、確かにあります。体格による声の違いは、決して無視できません。でも、大男でハイトーンの名人もいれば、小さい女性でへヴィな声を出す人もいるので、それで全てを断定することはできません。

 育ちでの発達の違いや、言語や文化圏の違いも抜きには語れません。まして、発声には本人の性格や、気質、心情、感情、表現の方向性まで、複雑にからみあっています。

 そこから私がアドバイスすることは、「他人の持つものに憧れるのではなく、自分の持つものを伸ばしなさい」ということです。そのために他人を知る、他人に学ぶというのはよいことですが、他人の真似が目的になると違ってきます。相手が優れているほどに、そこから自分の限界が来るのは言うまでもありません。(あなたの見本、憧れる声がトレーナーの声と似ている場合のメリット、デメリットは、以前も詳しく述べたので省きます)

一流のアーティストといっても、あまり真似ない方がよいタイプもいます。人間離れした喉を持つ人も多いだけに、そこは、よく考えないとなりません。例としてはサッチモルイ・アームストロング)など、白人が真似をしても壊したアーティストという人は、日本人に勧めるわけにはいきません。(研究所でもへヴィな声やハスキーな声、たとえば、ロック以外にフラメンコなどを求めにくる人もいますが、真似から入るのは禁物です)

 

○私の声の歴史

 

 父は私より少し身長が低く、私より少し高い声をした人でした。純粋な関西人と言うことも関係があるでしょう。私が今の声をメインにしたのは20代後半くらいからで、自分でも歌から日常の声に切り替わったと感じました。これは仕事上の理由で、体からの声を使わざるをえなくなったのです。18時間近く、ぶっつづけで声を出す毎日が、私の声を変えたというよりも、選んだのです。喉でつぶして出したくなければ、体で支えないと、日夜連続した発声の必要性に耐えられなくなっていたのです。

 こうして選ばれるのは、その人にもっともよい声とは限りません。むしろ、強い声、耐久性のある声です。非日常が日常化したため、そういう高度の使用上の必然性から声が変わっていくのです。そこまでトレーニングにおいて体全体でなんとかコントロールしていた声に、いつも話す声もシフトしたのです。

 喉は全く疲れないが、体が疲れる。しかし、体が疲れても、喉に負担がこないし、その分、支えが強くなるという、よい意味で身につくローテーションがきたのです。(これを一歩間違うと、こわしては休めて直すという負の循環になります。)これは大声トレーニングや、ハードなトレーニングで、声を手に入れていた昔の歌手や役者と、かなり似たプロセスだと思います。

 

○喉の弱さとメンタリティの問題

 

 ですから、研究所での当初のトレーニング、1990年前後は、プロに対しては調整や共鳴、アマチュアに対してはコピーから行っていました。これには、本人の資質と勘の鋭さが成否を分けます。今のマニュアル漬けのレッスンやトレーニングとは大違いでした。

 武術が武道となり、健康法となるのはよいことです。しかし、その健康法で実戦を戦えると思っているようなのが、今の声のレッスン市場のように思われてなりません。それではピアノの演奏中、ピアノのタッチにばかり気がいって、指と鍵盤との角度ばかりを気にしているようなものでしょう。

 私の研究所は、声の病人からのリハビリの人も受け入れていますが、そういう人以外にも、一様に、自分の声の仕組みや喉を気にするようになったのは、私たちヴォイトレに関わるものの功罪、メリット以上にデメリットをもたらしたといえるのではないでしょうか。

 少なくとも私やここのトレーナーの喉は鍛えられた喉です。その形成のプロセスや、本人自覚はそれぞれに違いますが、普通の人の何倍もの声を集中して使ってきたのです。(レベルⅢ)

 なのに、すぐにそうならないからと、医者やトレーナーを巡ってばかりいる人が、増えました。そして、そのメンタリティの問題を、医者はともかく、今のトレーナーは助長しているようで気になります。

 

 私のようになりたいとか、追いつくためにハードにやるというのは別です。世界に追いつくつもりのない人はハードにやらなくてもよいと思いますが、ポジティブに目的を高くとる方が、効果が上がります。かなう、かなわないの前に、そこは眺めがいいのです。世界を目指せば日本では通用する、ということで結果がでればいいのです。

 ところが理論派のようなトレーナーほど、皆さんの弱点が喉であり、そこを克服しなくてはならないようなことを述べます。普通なら、そういことを言われても笑って離れたらよいのですが、そういうところに行く人ほど、そういうことをすごく気にするメンタリティを持っているものです。

 プロのヴォーカルになるために、まず医者に行くのは、天才か、全くの的外れの感覚本位の人です。(私は誰でもいろんなチャレンジをすることや、喉の健康診断のために医者に行くのは賛成しますが)少しトレーニングしても喉がよくないと、すぐに医者やトレーナーに依存してしまうようになります。果ては、「自分の喉は、人と違って弱い、よくない、変わっている、だから直さなくてはいけない」などと思いつめます。

 

○頭より体

 

 整体やカイロプラティクスで日頃のストレスを取っている人に対して、私はそれでいいと思っています。プロのスポーツ選手やアスリートなら、専門のフィジカルトレーナーをつけていますね。声はメンタルとフィジカルがとても関係するものですから、そこで取り組む姿勢を間違ってはよくありません。

 私が、ヴォイトレよりも体作りや柔軟を勧めることで解決した問題は少なくないということを知っておいて欲しいものです。ジョギングや、ジムでの柔軟、ヘッドスパやマッサージだけで、声がよくなる人は、たくさんいます。

 逆に、理論、理屈で喉にせまるとよくない結果となるのは「喉で声を出すな」という、広く使われている教えからも明らかです。知るととらわれてしまうのが人間です。というか、そういうメンタリティを持つ人です。

 私も多くの本を世に問うていますから、読者がたくさん来ます。

 「レッスンでは本のことは忘れてください。」

 「頭をからっぽにしてください。」

 「12年に一回、頭をまとめたければ、そのときに読み返してください。」

 それでもよいのです。

 いつも自問してみてください。毎日30分も歩いていないのに、階段を上がって足が痛ければ、骨や筋肉がおかしいとか、歩き方が変だとか、マッサージしようとか、医者や整体師に行こうなどと考えないことです。それよりも少しずつ無理なく量を増やしていくことです。毎日2時間一万歩、歩くことです。

 

○国際的にタフでない日本人の声

 

 さて、ヴォイトレの話に戻ります。日本人の喉と声の可能性、これは、私は、英語の発音の専門家と本を書くほどまでに、比較して考えてきました。昔なら、日本人の身長の低さやモンゴロイド系の平坦な顔が、欧米人に引けをとっていて、それゆえにできない、と言う人がいました。今だに体格に差がありますが、国際的に活躍しているアジアの人をみると、これらは全く条件としての差にはならないと思います。

 ただ私にとっては日本人のダイエット体質の傾向、首もひょろり、小顔で、体力、精神力(ハングリー精神)の衰えていっている方が気になります。

 先に声のことで述べましたが、タフさが支えるものであるからです。心身の問題は、見かけで大きくなった日本人に、より大きな弱点として、突き付けられているように思うのです。さらに表現の必要性や表現法も、アーティストの方へは向いていても、声そのものに向いていないことは、昔よりも声の弱化の大きな要因なりつつあります。

 

・日本人の作家、詩人は、大衆の前では、あまり朗読しない。

・ホテル、レストランのブッフェから歌い手が消えた。

昭和の頃はラテン、カンツォーネ、カントリー歌手がいたし、クラブ歌手、流しの歌手もいた。

・全世代に共通する歌がなくなった。ラジオ、テレビからネットへ移っていった。

 

 歌の地位の凋落は、世界的な傾向でもありますが、私は、日本では、光GENJIレコード大賞をとったあたりを、ターニングポイントとみています。アメリカも、マドンナ、マイケル・ジャクソンの頃までの全盛期を思えば、現在の歌手の社会的な影響力は、はるかに限定的です。

 とはいえ、世界各国とも、アーティストの歌唱や、声の表現レベルは、それ程、落ちていないのです。その中で日本だけは、フルダウン、ヴォーカロイドの「初音ミク」に、将来を委ねるしかないのでしょうか。

 振り返れば、私が少年の頃は、今ほど手軽に、面白く遊べるものが多くなかったから、スポーツや歌を楽しんだのかもしれません。野球や相撲やプロレスも昭和のものだったのかもしれません。演劇も、不条理劇やアングラなど難しいもの、向こうから説いてきたり、問いかけてくるものは姿を消し、誰でも楽しめるミュージカルなどの、エンターテイメントに主流が移りました。しかも、ミュージカルなのに視覚効果が第一で、音や歌の扱いがぞんざいです。

 誰もが背伸びすることに憧れももたなくなり、等身大のコミュニケーションに満足しているようです。宝塚から、劇団四季、そしてAKB48という流れが、私には、空虚に見えてしまいます。

 大正から昭和にかけ、日本にも大人の文化があり、大人っぽく、難しいものに憧れました。そういうもの挫折(?)の中で、“かわいい”ロリータ文化は、アニメ、漫画、ゲームと、世界に発信できる日本文化となりました。Cool Japan、私たちは、日本人は大人になりきれず、ピーターパンの理想国家を築いたと評価しています。世界の動乱の中で、この70年近く、日本は安穏として、ガラパゴスというより、ムーミン谷だったのでしょうか。

 

a.本人の声―体、日本人

b.表現の声―時代、日本

この2つについて論じるのは、またの機会にします。ただ私の根本にある問題意識なので、これからも至るところに出てくると思います。

 

○胸のハミング

 

 10年ほど前から、私は、日常の声、胸中共鳴での発声、声の芯、ポジションなどに、高い声が楽に出せてしまう人は、こだわらなくてよいし、メニュから、飛ばしてもよいと加えました。

 これは日本の歌手、トレーナーにそのタイプが多くみられるからです。つまり高校生くらいから、高いところはうまく出て、そのまま身体にはつかなかったので、プロ歌手にならずにトレーナーやカラオケの先生になってしまった、というタイプです。これは喉、声帯、呼吸が高声に、うまく対応してしまいすぎたのです。

 

 落語家や役者にも、このタイプはいます。見かけよりもずっと声が高い人です。おネエ系の人の中にもいます。声が不自然なのですぐにわかります。元々、持っている資質もあれば、育った環境や性格においても、声を高めに使っていた人にも多いです。こういうタイプは、それゆえに、太い声、低い声に弱いです。

 男性は女性域で弱く歌えるけれど、その逆は難しいし無理です。また、バス、バリトンが、音色ということを問わなければ、テノール域まで声が出せないことはありませんが、テノールにバスの音域は無理です。バイオリンとビオラを考えてもわかります。高い声を低くするほどには、低い声を高くするのは難しくありません。(というのは、声帯の発声原理からも明らかです)

 昔、高い声はいろんな人が出すが、低い声は大きな背のある人が出す、というように言われていたこともあります。つまり、高音は技術で、工夫しだいで、出せる可能性が大きいので、ヴォイトレの目的になりやすいのです。

 一方、低い声は、人により限界があるので、あまり使えません。もとより、歌は高めにシフトしていくものですからなおさらです。

 2000年以降、カラオケの市場の発達と、小室プロデュースを中心とするJPOPSの高音化が、この傾向に拍車をかけました。そこにいろいろと中途半端な理論も出てきました。

 そこで、私も、半ば妥協、半ば、日本の業界と個人の持つ資質を優先することにして、レベルⅡに中心を移したのです。しかし、それによってBVTそのものが影響を受けることは、それほどありませんでした。むしろ声楽家は、ポップスやジャズ、役者や声優に対処するにあたって、自然とBVTを取り入れていたと、いえるのです。

 

○バランスと支え、 

 

 「バランスは状態であり、支えは条件である」と言っています。低い方のドから高いところのドまでの1オクターブ、その下にソ、その上にソとして、歌唱の基本の2オクターブ(男性)を考えます。(さらに上のドがハイCです)女性は、それを3度下げて、ミーミーミの域にとるとよいでしょう。

男性 ソ、ド、ドーソードーソー(ド)

女性 ミ、ミーラーミーラーミー(ラ)

そして、これを高低(上下)で便宜上2分してみます。真ん中のソ(ミ)で分けてみます。それぞれに、高い線と低い線を、並行して引いてみると、高い線(上線)は細く、低い線(下線)は、太い音色です。その上下の間で、いろんな音色が取れる可能性があるということです。

a.頭声―頭声共鳴―細

b.胸声―胸声共鳴―太

と、これを2分するのでなく、これを両極として、この間に、いろんな声のとり方があると考えるのです。

 私の読者には、私がこのうちの、胸声だけを勧めていると、誤解している人が少なくありません。それにお答えしておきます。

 まず、当時も今も、歌は高い方へ音域を取るので、aはカラオケであれ、何であれ、自然と響かせようとします。それがうまくいかないから、そのコツを教えるのが、当時は発声、今はヴォイトレのように思われています。

 それに輪をかけて、声楽家の、特に、ソプラノやテノールの先生ばかりの日本では、aが中心です。それは、海外の人や、歌手としての才能があって歌うような人には、bの条件が、ある程度備わっていたということがあります。

 自分に備わっているものには、本人が気づかないのです。そこで、本人似たタイプは育てている半面、そうでないタイプには、うまくいきません。Aばかりに偏る日本の声楽の問題は、何人かの声楽家によっても反駁されています。(これについては専門的すぎるので、ここでは省きます)

 

 私も初心者がaから入るのは、反対しませんが、そこで行き詰ってしまったのなら、ある程度できているつもりのbをさらに掘り下げる必要があるということを指摘しています。

 

○声域と音色

 

 この頃は、多くのトレーナーが声域を優先します。それは私が音色(以前は声量の延長上においていました)を優先するのは、大きく異なります。どちらがよいとか、正しい間違いではないのです。いろんな方法があってよいのです。

 

 ここは、私にとっては、役者や外国人の日常の声のレベルに接してから歌唱へ入るということがブレスヴォイストレーニングの肝なのです。

 日常の声、「アー」と出す声の力そのものでの差についてギャップを埋めていくいことを中心にする。だからこそ、役者も、他分野の人も、早くからいらしていたのです。

 

 次に、本で述べることの限界ということです。高い声(a)の応用については、相手(生徒さん)をよくみなくては、かなりリスクの高いトレーニングとなります。これは本でなく現場のトレーニングに対応することです。

 もし私の本やレッスンで声をこわしたり、つぶしたりしたという人がいるのなら、次のことが考えられます。

1. 無理に大きな声を出しすぎた。

2. 無理に高い声(で、大きな声)を出す。(これは私のメニュには載せていません)

3.ほとんど休みを入れずに続けてやりすぎる。

4. 発声そのものを、喉でやっている

 どれも私の本やレッスンの主旨と全く違うことです。

 喉さえ壊さないのであれば、体や息、喉頭や呼吸の筋肉などのために、一時、若干ハードに使うことは悪いことではありません。

 ヴォイトレがあろうとなかろうと、役者なら、舞台で大きな声を出すのです。トレーニングでは雑に急すぎるからよくないのです。感性が鈍いとは、言いたくないのですが、トレーニングの目的と、メニュでやっていることとの位置づけを、しっかりとふまえて行うということが前提です。

 こういういうことの注意は、マラソンのためのランニングをする人に、「時間をチェックして」、「信号や車に気を付けて」、と言うようなことに近いのではないでしょうか。

 声を出すことは、全く新しいことをやるのでも、危険なことをやるのでもありません。声を上手く出す、つくらないで自然に出す、よりよくするためにやることです。それをなぜ歪ませたり、潰したりする方向へ近づけていくのでしょう。私は、不思議でなりません。

 素人や初心者であるからわからない、というような高いレベルの方法論やメニュではないからです。

 もしそうなら、ハイトーンで、複雑なメニュをやらせることの方が、ずっとリスクは高いでしょう。(私のメニュに、そんなものは入っていません)

 ただ、そういうメニュを使う人は、メロディやリズムだけとることで目一杯で、全く声をしっかり出そうとしていないのです。その結果、喉を疲れさせてしまうことになるのでしょう。

 これらは先に述べたⅠ、Ⅱ、Ⅲのレベルでの、それぞれの目的でプロセスを、もう一度、考えてもらえばわかることでしょう。(そして、Ⅱ、Ⅲが、Ⅰの下積みになっていることも)

 Ⅰのことをやるトレーナーが、成果をすぐに上げられるように思うのは、大きな誤解です。すでに上がったくらいの効果では、どこにも通用しない、それは、5年みたら、わかります。結局、育たずに、また、一からやり直しするために、こういうところにいらっしゃるからです。

 

 通用しなかった日常性のところで少々、やり方を変えてみただけで喜ぶ、あるいはそういうトレーナーや、整体のようなトレーナーに依存してしまう。声の調子は、よいけれど舞台に通用しない、それを自分の素質とか才能のせいにしてしまうということです。

 決してそれをメニュや方法のせいにしないようにしてください。確かにメニュや方法が悪いのでなく、あなたのスタンスの問題なのです。日常のベターを取り出すこと、使い方のよさでバランスを取ることが最終目的なのです。そこで上達が上がって当たり前なのです。

 

 私がⅢのレベルで課しているのは最悪のコンデションでプロを凌ぐレベルです。こうなると、全く違うのです。

 ですから、私は、最初の本から、あなたのレベルの声、ヴォイトレやトレーナーが引き出した、目的とした声が出たことろで、どの程度通用するかを知ることから、始めるように言っています。いくら声域がカバーできても、何も変わらないのでは、どうしようもないということを、考えないのでしょうか。

 

○現実対応

 

 それは、自分の日頃のヴォイトレの声を聞いたら分かります。いや自分の声だからわからない、だからこそ「一流のプロの歌でなく、声を聞きなさい」と言っているのです。このことは「ここがポイント、ヴォイストレーニング」にも目一杯書いています。

 そういうことを目指してきた何百人のうち12割の人がやるべきこともやらず、否定する方にまわっていくのでしょう。(すごく勘の鈍い人以外は、喉も壊していないはずですが)合わなければ、やめればいい。というのも責任逃れなので、今の研究所はⅠとⅢの間にⅡを置いています。他のヴォイトレやヴォイストレーナーが、行うようなことのほとんども、研究所の中で併行させています。それは、どれがよいかではないのですが、研究すべき課題でもあるからです。

 

 どのトレーナーも自分のやり方に自信を持ち、こだわっています。だからこそ、他のトレーナーの方法に否定的になります。私も最初、始めた時はそうでした。しかし、結局、結果は、いらっしゃる方の欲するものが手に入るかどうかなので、持論を押すことはやめています。

 音大受験でも、ミュージカルのオーディションでも、それにパスすることが目的なら、そこにレッスンをシフトして、対応するようにしています。

 トレーニングにあまり一つの色がつくのはよくないのです。全てはその人のものとして、出なくてはならないのです。そうしないトレーニング、歌や発声にトレーナーのトレーニングの形が、あまりに、そのまま出ているものが多いから、私はよくないと言っているのです。

 

○発声でみせない

 

 私をカリスマ化していただくのは、「トレーナーは黒子であり、それゆえに何もせず、相手が学んで、自立していけるようにする」ことを、本意とする私には、困ったことです。その人の考え方や精神が、その人の将来、未来を切り拓いていくのです。声をその材料にして、伝えているのにすぎません。ですから、私はこうして、伝えたいことを述べているのです。

 自分の成長を自ら、阻害するような考えを持ち、そういう言動を行う人がいるのは、残念なことです。そういう人は、人を妬み、僻み、落とし込むことには、情熱をかけるのです。本当に前向きに生きていたら、自分のことで精一杯で、他人をどうこう言う時間はありません。私が、このようなことを述べるようになったのは、一段階つけてからです。

 

 もう一つ、発声だけでみないこと、これも一度述べました。

 表現のための発声ですから、仮に少々発声の理想から外れても、表現を優先させる判断力があるかと言うことです。その優先順位をヴォイトレマニア、人に表現する場にいない人や、浅い経験しかない人、表現してこなかった人は、とても曖昧です。

 私は歌を聞くときは発声でなく、歌をみます。喉声であろうと、心を動かされるなら表現の方をとります。これはヴォイトレに毒されていなければ、誰でもわかるのですが、まじめにヴォイトレを、10割のつもりでやっている人は、わかりません。もし、より表現が出ても、「発声が違う」と否定したりします。発声がわからないようなとき、そんなことを確認し合ったりするのです。これは完全に目的をはきちがえています。マンガのようですが、よく目にします。

 若い時期や、ヴォイトレを始めてから、一時期、そういうことは起こりやすいものです。いずれ、そこから出られたら、問題はありません。でも、そういうヴォイトレ信者になってしまったら、もったいないことです。マニアックに権威者の元を回り、確認を得て、満足したり、怒ったりするタイプですが、また増えているようです。

 

○問題にしない

 「問題にするから問題になるだけで、問題にしなければ何の問題もないのに…」と私が最近述べているのは、こういうことです。こういう人は、医者やメンタルトレーナーを頼り、一時的な喉のよさ(その日だけの)を求めます。時間もお金もかかっているのに、なんら変わっていけない状況に、自分を置いてしまっています。(これは先述したので省きます)

 

 トレーニングもトレーナーも、自分に役立つために利用するものです。でも、一流の人は誰からも学べ、何でも吸収して、周りの人を活かしていくのに対し、だめな人ほど誰をも否定し、文句だけ、周りの人をも、何ら役立てられないのです。

 いつの世の中も同じです。私がこうして指摘しても何ら変わりません。厳しく言うと逆恨みを買いかねません。普通は何か言うような手間さえかけないのですから、それは大きな甘えなのです。(無視すればよいのに、応答するのにさえ文句を言うならということです。)

 

 プロは客商売で、アマチュアの人は彼らにとっては、お客様でファンにしたいのですから、よいことしか言いません。トレーナーも、生徒がやめたら困るので、褒めることしかしません。こういう構造を知るべきです。

 何か厳しいことを言われたら、感謝するべきだと思うのです。学べなくしているのは、学べない本人のせいで、学べるようにしているのは、学べる本人の力なのです。

 いろいろ述べてきましたが、そこは私も、トレーナーも、限度があります。しかし、そこをも何とかしたいと思って、ここでこういうアドバイスやメールを送り続けているのです。

 こういうことには私だけでなく、トレーナーも大変だと思いますが、こうして私たちも、ない袖を振ることで、力を経験をつけさせてもらっています。期待もしています。どんな方がいらしても、私たちは、学べるようにしたいと思って努めています。

 とにかく、何事も縁なのですから、大縁に育てましょう。お互いに学び合っていきましょう。それが、私がここを続けている理由です。

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