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○表現と基礎の間で NO.258

 

○表現と基礎の間で

 

 

 

 桜が舞い花吹雪が、水面を埋め、桜色の流れゆくにも心打たれる。これも自然の表現なのです。私が枝を揺らすと、パッと桜が散ります。それを見て、小学生たちが並木を次から次と幹を両手で揺らしていきます。あまり、桜は散りません。そんな唄をたくさん聞いているなと思いました。力づくでは、絵にならないんだよ、桜の幹に負けているのです。基礎と応用、そんな話をしてみたいと思います。

 

 

 

 最近いろんなトレーナーのもとから、ここにも学びに来る方が増えました。ここではいろんなトレーナーがレッスンをしています。中には他でレッスンするためにここにいらしている方も少なくありません。

 

 私は誰がいい、どれがいい、どの方法やメニュがいいなどはあまり関知しません。ただ、そういうところでやたらと頭でっかちになった人の頭をはずすのは、結構厄介なことなので引き受けています。なぜなら、そういう人はたくさん勉強して覚えたら、声も歌もよくなると思い込んでいるからです。

 

 桜の散るのに心を打たれるのに大切なのは、素直な心と、まずは受け入れることです。「ソメイヨシノが日本の桜の中では…で、それは…であり…、」などという知識は必要ありません。学者とアーティストは違います。人よりも、感動する心が豊かでないと。それは知識ではありませんね。もし知識とするなら、科学や文明よりは、教養、歴史や古典などを通してのイマジネーションの方でありたいものです。

 

 

 

100人に1

 

 

 

 喉が弱いとか、傷めやすいとか、あるいは少々の不調も医者に行くこと、それは悪いことではありません。ただ、大体、本当にそういうところに行く必要のある人は、そういう人のうち10人に1人くらいです。あとはメンタル的に頼りたいとか、安心したいのが、10人に56人くらいでしょうか。マッサージなどとも似ています。

 

 これまで私の述べたことを読んでいる人は、わかるでしょうが、これは、そのときの心身の状態を良くすることがメインです。それで12割良くなったところで充分、大したことのできないのは、スポーツやアスリートを考えたらわかりそうなものです。そして、その10分の1の人のうち、本当にそこに行って効果のある人は、更にその10分の1です。つまり、100人に1人、あるいは100回行って1回くらいでしょう。これでも、私は多めに数えて述べていつもりです。

 

 

 

○声のリハビリ

 

 

 

 1年間入院していた人が、退院した翌日に医者やマッサージの人について、いくらチェックしたり、ほぐしてもらっても、マラソンには出れません。私は1週間入院したことがありますが、その前後1か月、あまり体を動かせませんでした。その時は、3年の計画を立てました。1年目は、息と体、2年目は、発声と共鳴(半オクターブ)、3年目は、1オクターブ半(2年目にコンコース5050

 

までやり、最初は10曲でも調子が悪かったのが、2年かけて50曲できる力に戻しました。)このあたりは私がトレーナーゆえ、よくわかっていることであり、年の功でもあります。

 

 

 

 この連載で、いつも触れていることが、目的の具体化と必要性の向上です。これが私の述べる、表現と基礎ということにあたります。

 

 3年後マラソン完走―1ヶ月目、11万歩、ジョギング、柔軟や体作りから、というようなことです。確かにそこで医者に行くとか、整体師のところでコリをほぐすのは、チェックとしてよいことです。しかし、大切なのは毎日、どれだけ練習をやったかということ、それと目的との距離、ギャップや方向づけ、それを埋めるプログラム、日々のトレーニングの計画をきちんとさせているか、ということです。

 

 

 

 ですから、今の研究所では、プロの方の表現については私を中心に、目標決定、管理、プランニングをつくっています。基礎は初心者については、トレーナーに、プロについては、その人の資質や方向によって、いろんなスタッフを加え、分担しています。

 

 少なくても前述した、100分の1や、10分の1をもって、自分の何かが大きく変わるような錯覚は起こしてほしくないのです。

 

 「その日の喉の調子がよくなる」ということと、「23年後の実力(声力)」とは全く別の次元のことなのです。

 

 ただ、100人に1人くらいは、治療や調整、手術などをした方が確かにいい人もいるということです。ここは、私の専門外のことには、専門の人に引き合わせるべきだという判断はできますから、年に何人か、紹介状を書いています。医者のアドバイスのもとにトレーニングを継続していることもあります。

 

 

 

○声の症状と日常性

 

 

 

 声がかすれる、喉が痛い、声が弱い、などという症状でここにいらっしゃる方は年々増えています。特に、養成所やプロダクションに入った、オーディションを通ったという、運のよかったプロやセミプロに多いです。

 

 そして喉を調べると、昔はそんなことを教えてくれる人はいなかったのに、今は、あなたの喉はこのようになっているとか、他の人よりこう違う、などと、写真などと共に丁寧に説明してくれる人もいて、上手くいかないのは喉のせいだと思い込む傾向が、著しくなってきました。

 

 知識を得るのは悪いことではありません。勉強するのも、よいことです。私も毎日、いろんな本を読み、学説や論文にも目を通してきました。

 

 しかし、それは現場では大して使わないというよりも使えません。もっとも使っていると感じるのは、そういうことを知っていることによって、そういうことで振り回されている人に、早く信頼してもらうためです。知識を信じる人は知識のある人を信じ、逆にそうでない人を信じません。そのようにして知識の虜となっているのですが、そんな人には、本や言論で固まった頭を何かでほぐさないといけません。理屈で納得したい人は、頭で理解しないと体や感覚にも効かないという欠点を持っているからです。細かいことや正しさにすごくこだわる人に多いのですが、それは、特に今の日本では一般的になりつつあり、結果として救われない人です。

 

 「それは確実に上達できるか」、「絶対に効果はあるか」、「何回、何か月かかるか」、「いくらで手に入るか」、そういうアプローチをするような人です。

 

 私はそれらの問いも半分は当然のことと思っていますし、できたら、これらの問いに対してもクリアしたいと思っていますから、問うこと自体を否定しているのではありません。

 

 しかし、声や歌は日常のものであるからこそ、そういう問いは不毛になりがちです。変える、変えないは非日常なレベルに目的を置き、必然性を高めておかなくては、すぐにいつものレベルに戻ってしまうのです。

 

 

 

 ですから、私は気づきを最大の効用とし、一日で、よい声を出せるようにするワークショップなどには、今は重きをおいていません。最大のデメリットは、自分の今の最もよい声が出たらそのままで通用するという、錯覚を与えてしまうことです。(私はそれを「ベターな声」と言っています)
 それと共に、なぜワークショップで出せた声が、同じ体なのに、いつも出せないのかということに追及をして解決していないことの方が重要な問題です。

 

 つまり、プロのトレーナーのマジックの中で、心身がリラックスできて、取り出された、その時の声色には、一人では、大体、できないのです。

 

 それなのに喉の仕組みや、筋肉などの働きから説明されると、そのメニュや方法が、いかにも効いたかのように思わされてしまうのです。

 

 そういうセミナーやレッスンはコンプレックスの払拭のためのものです。自信を持つという効果が最大のメリットと思っています。ですから、話べたの人や緊張して人前で上手く話せない人などのメンタル改善にはよいかもしれません。

 

 

 

○程度

 

 

 

 私がバッティングセンターで、プロのトレーナーに打つコツを教わると、快音が響くようになるかもしれません。上手くいくと最初の30球で1020くらい、よい結果が保てるでしょう。でも次の30球では息切れ、更に30球では腕がマヒ。

 

 一方、高校球児までいかなくとも、100球中、70球ジャストミートできる人は1つの町内に何人もいるでしょう。

 

 そんな程度だとわかっていてやる分にはいいのです。それをイチローのように、毎日何百本も続けたら身につくかもしれません。でも、多くの人はワークショップの日だけで終わり、次の別のワークショップで、また同じことを繰り返します。知識だけ豊かになり、頭では理解でき、人にもしゃべれるようになりますから、一見上達したようですが、体というのは相当にやらないと変わりません。

 

 先ほど、知識は100分の1の人に役立つ、あるいは100分の1くらいは足しになると言いましたが、その言い方を借りると、100分の99は知識と全く関係のない、体のトレーニングの積み重ねから生じる結果(効果)なのです。つまり、ワークショップや診断のチェックは入口、あるいは、その前提です。(私は、それが必要条件とか、前提とは思いませんし、害されているとはいいませんが、へたに誤解を広めていることが多いのが現実だと知っています)

 

 つまり、一言でいうと、「中途半端な知識ほど害になるものはない」のです。ですから私も本は読みますが、そこに述べられているからといって、それをそのまま使おうとは思いません。ただ、まじめな人の多いトレーナー等は、何とかの一つ覚えみたいに、教わったり、読んだだけで、他のメニュを使っていることが多いように思います。

 

 もちろん、私はメニュや方法そのものについて良し悪しはない、使う人の技量次第だと思っています。ですから、知ったメニュを試してみるのはよいです。

 

 自分自身に試すのもよい。ただ、自分に効果があったからと、目的も、資質も、キャリアも違う人に、そのまま当てはまると思い込むことはよくないと思うのです。(だからといって死ぬほど危険ということではないので、程度問題ですが…)トレーナーとメニュとの関係については以前に詳しく述べたので控えます。

 

 

 

○バランスとインパクト、そしてスタンス

 

 

 

a.状態、調整、リラックス、バランス(声域)、本番(ステージ)

 

b.条件、強化、集中、インパクト(声量、音色)トレーニング

 

 これは私のよく使う、声や歌の本番(ステージ)とトレーニングの違いを述べた対比表の一つです。aはマイナス、ミスをなくす方向、bはプラスをみつける、個性を引き出す方向です。

 

 本来は本人が自らbからaに行くのが自然な流れですが、(つまり幹から花です)日本では、幹がしっかり根を下ろさないうちに花を求めるので、あまり大きくなりません。

 

 形、それも導入された作品のコピーや、そこからの評価基準を薄めて採用してきたことがメインであったために、その傾向は強いものがあります。その形が、まだ漠然としていたときは、個性豊かなパワフルなスターも出ていたのですが、だんだんそこを真似るだけになり、形骸化していったわけです。

 

 声楽家もヴォイストレーナーaの技術面については、上手くなったと思います。その結果、音痴やガラ声のような歌はなくなりました。ただ、それは同時に個性をも殺すとまではいわないまでも、伸ばせないようなものにしてしまったのでしょう。第一級の人材が出なくなっているのです。

 

 私などはトレーナーの判断で、育てたりできるようなようなのは、一流のアーティストでないと知っていますから、基準の判断力を与える、プラス考え方や精神のフォローをすることと思っています。トレーナーはそれではレッスンになりませんから、きめ細やかに、その人をメイキャップしていくのですね。そして日本はそういう形を持った人でないと使いにくいといった傾向があります。才能よりも、従順さを優先しているからだめなのですが…。

 

 

 

○フレーズ

 

 

 

 私が1フレーズにこだわるのは、表現と判断の精度をあげるためです。

 

 ど真ん中にくればホームランという再現性、そのためのフォーム、そのためのタイミング、勘、筋力、神経、あらゆる心身の能力のピークパフォーマンスを上げておくこと。ここに知識はいりません。

 

 つまり、少々、喉が他人と違っていたり、声が違っていても、大して気にするべきではない。それはむしろ可能性を豊かにしているというように捉えるべきことなのです。普通の人ならデメリットになることをメリットにまで高めてこそ、個性であり、一流への道を切り拓くのです。

 

 もちろん、そこに学者や科学者など協力はあってもよいと思います。日本のスポーツも、それで補強されてきました。しかし、誰もがそこで力を培ったのでなく、育った人は、それで高めてもらっただけなのです。多くのアスリートは誰よりもたくさん練習、覚悟、工夫をしてきたということです。頭を使うなら、自分のトレーニングにどう全力を投じるかということです。

 

 実際にはスタートライン前につまずいている人が多いのです。

 

 退院して23日、5キロ走ったら足が痛くなった、だから病院に行って、パーソナルトレーナーについて、というのは私から見るとなんと贅沢、虚弱かということです。

 

 喉の手術をしても、ドクターの制止を振り切り、23週間で現場復帰し、高熱や大病でも、それを隠して気づかせない、そんなプロたちも、同じ人間なのです。

 

 喉が合金でできているわけでもないのです。ハードなトレーニングで鍛えた、そして、微妙なコントロールも、リスクを背負ってこそ、鋭くなるのです。

 

 それに対して、第三者の観点からサポートしているのが、トレーナーです。昔の私は無視か制止ばかりしていました。アーティストは暴走するからです。今はムチを入れなくてはなりません。アメの与えすぎです。これは時代が変わったというより、人間力の劣化と思います。

 

 

 

○役者と声楽家

 

 

 

 私が声楽家と組んでいるのは、彼らのオペラの舞台の実力レベルでなく、5年、10年、15年以上、発声や共鳴、呼吸を人並みでないレベルで高めてきたプロセスでのプログラムと方向性に、共通点を見出しているからです。先輩、同輩、後輩と、一定の基準をおいて他人の成長を長くみてきたことも、よい経験です。

 

 研究所の発足時は、私は役者の声をベースにして考えました。日本の声楽家一般よりも個性的かつ、強く豊かな声に思えたからです。ただ、日本の歌い手の場合、声域(高音域)での問題があり、そこでは共鳴を集めて行く必要があったのです。

 

 役者は、3年、5年くらいは声もセリフによって鍛えられますが、その後は、表情やしぐさに声が従うのです。つまり、死にそうな演技をしたら、死にそうな声が出るのです。そこは個性というより、もはやなり切りようで、役者や役によってバラバラです。声楽家は、死の間際の表現にも体からの歌唱、つまり人工声呼吸、共鳴をキープします。

 

 さらに、言葉は発声を妨げることもあり、セリフでの発声よりは、共鳴での発声の方が高いレベルを固持できます。

 

 これは、言葉を伝えるという限定のある役者と声の輝き(共鳴)を優先できる声楽家の大きな違いです。しかし、それを職業や現場での使い方で分ける必要はありません。

 

 私は、役者や声優だからこそ、言葉を離れた声だけのトレーニングをすることに大きな意味を感じてもらっていると思います。特にベテランは、セリフを読ませたら、もうスタイルができていますし、あまり直すところもない。ただ、さらに声の力をつけるなら、イタリア曲の歌唱(アリア)を使う方が極端ゆえに気づく、変わる―という結果につながりやすいのです。

 

 

 

○研究する

 

 

 

 私のヴォイストレーニングは、プロレベル、そして一生、長期ということを想定しています。どのトレーナーについているとか、研究所にいるとか、いないなどと関係なく考えています。現に研究所をやめてからも数百名は、ここの会報を購読して、時にまた戻ってくるなどということがよくあります。そういう例は他にはあまりないでしょう。声の研究誌を20年以上、月刊で出しているところは、世界でも知りません。

 

 ここは研究所だから、自分の研究をするのです。私もトレーナーも、レッスンにいらしている方も…。

 

 渡部淳一さんが以前、「歌手は、覚えた曲を歌っているから楽だ。小説家は…」みたいなことを述べられていました。いつもゼロから筋を考える作家は、大変と思うし、日本の歌手は、彼らからそう思われても仕方ないほど、クリエイティブでないのも確かと思っていました。

 

 つまり、デビューあたりまであったインパクトや声量が、昔なら78年、今や23年も経たないうちに、なくなるのです。逆に言うと無難に安定して、テクニックに頼った、危なげない歌唱になっていく。その結果、歌は、いや歌手の歌は市民権を失う、つまり私たちの生活に必要なものから、離れていき、今の歌の凋落がある―とまでは言いませんが…。そういうステージを許す日本の客(プロはステージでは私よりも鋭いから、客に応じるとするなら)そういうステージを期待する日本の客というのがあったわけです。それはプロデューサーからトレーナーまで一色汰で、まさに日本らしいのです。

 

 私は、そうでなく、もっともも個の感覚や息にのっていく声、その表現を作り出す、場を提供してきました。しかし、多くの人が好むのは目先のテクニックや調整です。

 

 

 

○トレーナーとの分担

 

 

 

 他のトレーナー、声楽家は、私よりも現実に、ここにいらっしゃる方に役立っています。ニーズに応える仕事ですから、そこはそれでよいのです。私も私の力の応用ということで、より基本を掘り下げつつ、どんどん応用をしてムチャ難題、いろんなところで解決できなかった問題に対応しています。次々と新たな問題を持っていらっしゃるから、ここは日本で長年、声の研究所として活動ができているのです。

 

 そして何よりも、声や歌が育っています。それは、目先の結果でなく、何年後の感覚や体の違いに焦点を当てているからです、

 

 そもそも、12割上手くなればよいという人はアマチュアなら、カラオケの先生、プロならプロデューサー、役者なら演出家にアドバイスしてもらえばよいのです。それはヴォイスアドバイザーとし、ヴォイストレーニングに使うケースは、もっとしっかり考えなくては、トレーナー自身も伸びません。少し歌えたり、声の出る人が、もう少し歌えるように、少し声が楽に出るようにしている現状は、冒頭に述べた通りです。

 

 

 

 私のところは、今年10年、20年とプロの活動をしてきたり、トレーニングをしてきた人もよくいらっしゃいます。ここには私よりも年配のトレーナーも何人かいます。

 

 先の桜の美しさでいうと、私はまだ葉桜の美しさはわかりませんが、もしかして何年かしたらわかるかもしれません。歳をとってこそ、経験をしてこそわかることもあります。それを若いトレーナーに求めるのは酷ですから、いつも知っていること、知らないこと、さらにきちんと知らないということさえ、知らないということもあるからということを、アドバイスしています。

 

 歌のプロと演技のプロと声のプロは違います。私からすると、応用は歌やセリフ、その基礎が声なのです。

 

 

 

○多様な見方を知る

 

 

 

 ですから、研究所内では23年でマンネリにならないように、時に他のトレーナーにサードオピニオン(うちでは、今は原則、2人以上トレーナーがつく)として、一言アドバイスさせたり、ローテーションを変えたりしています。

 

 ですから、他のトレーナーについている人が、そこを続けながら来ることも少なくありませんが、私のところは、全く困りません。当人が、使い分ける力があったら何の問題もないのです。

 

 しかし、先方のトレーナーが嫌がる場合が多いので、秘密厳守にしています。日本で有名な劇団や、プロダクション、養成所、あるいはスクールも、規約や契約に対外レッスンを禁止しているところもあります。そういえば声楽家界でも邦楽、落語でもタブーですね。(最近、音大では少し自由になってきたようですが…)

 

 

 

 世の中に出て、いろんな人にいろんなことを言われる歌手や役者、声優が、それでは育つわけがありません、一人のトレーナーの価値観の中で、同じ判断を共有するばかりか、それだけで継続していくのは、どうでしょうか。

 

 それ以前に声に関する絶対的な判断はないということです。声楽家でさえ、一流の人は生涯にわたり、研究して発声を変えていきます。スポーツ選手やゴルファーでさえそういうものなのです。(ただ、プロセスや芸の道に判断基準はあるから、レッスンは成立するのですが…)

 

 つまり、相手やそのときによってかなり違ってくるということであり、これがわかるトレーナーは、あまりいません。一人で指導していて、気づく機会があまりに少ないからです。

 

 一人の判断では○か×かですが、二人になると○○、○×、×○、××と4つになります。私がそこに入ると23乗ですから8つ。

 

 もちろん、一人のトレーナーのなかでも○×でなく△とかになることがあるでしょう。基準として、大切なのは最初は○か×であっても、一人立ちしていくために、その人自身が自分を判断する時に、本当の力となるのは○×のように判断のわかれたところをどう細かくみることができるかです。2人の意見が○×に分かれたとき、私が○なら○○×で、21で片方が正しいということではないのです。正しいのは○○○の一致だけかもしれませんし、3人一致で決まるわけでもないのですが、そこは、やがて本人もわかるようになります。

 

 審査する人が3人いて、それぞれ、あなたの歌や声に対する評価が違うときもあります。あなたは、自分自身で判断しなくはなりません。その基準をどのようにトレーニングで磨かせていくのかが、本当のレッスンの意味なのです。

 

 

 

○バランス重視のよしあし

 

 

 

 気をつけなくてはいけないのは、何事もすぐに仕上げようとするならバランス重視となります。そこが整ってから、果たして個や我が出てくるでしょうか。「我」が、くせと一緒に取られてしまい、個は育っていない、つまりは、誰かのような声、誰かのように歌うことになりがちです。

 

 私が最初、日本の声楽家と組まなかったのは、そのことがあったからです。ちなみに日本にいる外国人トレーナーの日本人レッスンも、この傾向が強いです。

 

 歌の上手いトレーナー人ほど、人は育ちません。教えるのが上手いトレーナーほどテクニック漬けになって、おかしな歌になってしまいます。それは日本ではミュージカルの一部に顕著です。

 

 

 

 仮にバランスよりインパクトを重視すると、一時、歌が下手になります。これまでの歌では通用しないからといって来たはずの人が、いざ、そのようになると、あたふたと不安になり、前のように高いところが出ない、フレーズが回りにくい、ピッチ、音程が不安定になる…と混乱します。もちろん何事も新しく試みるとマイナス点も出てきます。

 

 すごくできているのなら、そう歌っているのにそうできていないのです。ですから、いろんな乱れが生じるのは当たり前なのに、です。

 

 いきなり守りに入るわけです。ただ本番、バンドやステージがいつもある人の場合は仕方ないです。

 

 ヴォイトレは上手くなるために受けるのに、一時下手になったら失敗などと考えるからでしょう。しかし、大きく変わるためには、今の発声から離れなくてはいけないのです。バランスとピッチ、リズムにだけ合わせようと、くせをつけたり、ぶつけてきて覚えてきたことを守ろうとしている限り、大して変わりようがないのです。こういう人は、今まで歌えてきたこと、そこが技術やスキルと思ってきたことが、自分がより大きくなる部分を邪魔していると、最初に気づいたからこそ来たのに、また見失ってしまったということなのです。

 

 他のトレーナーに、そういうやり方やメニュは間違っているなどと言われると、安心して、またそういう調整トレーニングについて、さらに表面的な技術やスキルを増やしていくことになるのです。声そのものはトレーニングされていませんから、同じ問題は残ったまま巧妙に目立たなくなるだけです。とてもスケールの大きな跳躍にはなっていきません。

 

 

 

 とはいえ、誰もが一流の大歌手などを念頭おいているわけではありません。声楽のトレーナーで声域やバランスについて、他のところのトレーナーよりは、ずっと条件や変わることを長期的に考えて、セットしているのが、今の研究所の体制です。

 

 これはプロや舞台、オーディションが迫っている人が増えたための対応でもあります。こういうときは私もバランス重視でみるのです。条件を大きく変えるということよりも、状態の調整を優先しなくてはならないケースも少なくないのです。

 

 

 

 ですから、レッスンでも、今、困っている問題に発声のメニュ、方法ですぐに応える方が人気は高いし、評判もよいです。

 

声楽の本にも述べてあるように、軟口蓋を上げて響きをまとめる、そして呼吸で支える。

 

 でも呼吸筋を鍛えて、息そのもののコントロールが強くも繊細にもできない体や感覚でできることは、やはり、10分の1なのです。即効のメニュやレッスンをやりつつも、長期的に2倍くらいは上達する方向でのプログラムを、きちんと持っておくというのが、ここの基本方針といえます。

 

 

 

○圧倒的なインプット

 

 

 

 これまで何十年も生きてきても、初めて何か新しい、スポーツでなどをスタートしようとすると、余程、勘が良く、体や感覚が優れている人を除いて、ほとんどは手や足、部分的に力が入って、痛くなりますね。そこで手首のスナップなど教えてもらっても、ボールになんとか当たるだけは、部活の2年めの生徒にもかないません。毎日のトレーニングで2年生レベルでさえかなうためには、2年はかかります。いくらプロのトレーナーがついたといっても、素振りのフォームが安定するまで繰り返す必要があります。柔軟や体力強化も必要ですね。

 

 私は水泳をやりましたが、わずか2年半くらいでも、フォームを支えるに足る筋トレ、左手の補強などで、素人レベルで10年、20年泳いでいる人よりも、速く、長く、楽に泳げるようになりました。続けて毎日行うことの相乗効果です。とはいえ、中学校からやっている人にかなうことはありませんでした。トレーニングは正直なものです。声だけが別ということはありません。

 

 

 

 もう一つ、マンネリを防ぐのは、表現の世界での具体的アプローチをしていくことです。

 

 歌が上手くなりたい。自分の歌が歌いたい。これは声だけが出ても無理です。リズムや音程のトレーニングをしても無理です。つまり、一流か、一流に学んだようにしていきます。時間や量を少しは効率化するのがトレーニングですから、課題として与えたことをペースメーカーにします。

 

 よく例に出すのは、月20曲(カンツォーネ4シャンソン、エスニック4、歌謡曲4、日本曲4、自由曲4)で1年間240曲。ここから20曲セレクト、翌年の20曲と合わせて40曲から20曲、5年ではレパートリー100曲から、本当に人前に出せる20曲、トータルでは240曲×51200曲。10年なら2000曲からですね。この最低レベルあたりがプロと私は考えています。

 

 ただ歌える人ならたくさんいますが、オリジナリティとして、自分の世界を、プログラムして意図的に(それがトレーニングですから)作っていくなら、このくらいをベースに入れなくては、論外でしょう。

 

 一流のプロは、質もともかく、圧倒的なインプット、ストックがあるということです。これにトレーニングのベース、レッスンは、1フレーズでも、1曲でもよいから、質、気づきを与えるところですから聞き方、感じ方を変えていきます。これは体―感覚の相互作用で、効果を出していくことです。先ほど述べたように頭は、このことの工夫、フィードバックとして使うのです。

 

 

 

○理想のレッスン

 

 

 

 解剖学や生理学の勉強をしても“身”につくものはありません。第一線のオペラ歌手やポップス歌手にそんな人はいません。トレーナーとして人に教える時に学ぶのはよいことでしょうが、餅は餅屋に任せましょう。歌ときは、頭を空にしないと、オーラ、集中力、気力を充たした、つまりピークパフォーマンスが実現できず、最高の声を取り出したり、保ったりすることができないのです。

 

 

 

 歌唱表現に問われるもの

 

1、 声の共鳴―呼吸一体

 

2、 声の使い方、フレージング

 

3、 歌の見せ方、組み立て編曲構成

 

ここに声のあり方とか発音は入っていません。いろんな発声、テクニックやメニュ、方法を使うのは、表現という目的の元に、いろいろと具体化された問題、そこでのギャップを埋めるための、一つのきっかけとしてあるのです。あるいは、ただのその日の声のチェックとか柔軟、状態の響きのようなものでトレーニングとは違います。

 

 

 

 リップロールとかハミングも、そういう意味で、使われ方が有効でないことが多いです。人によっては、目的からすると使わないほうがよいこともあります。

 

 発声法の命名、ヴィブラートやミックスヴォイスなどもそういうことはレッスンらしくて便利ですが、現実には、言葉は物事を分けていく(頭でっかちということ)で問題化させてしまうのですから、欠点の修正の時や、やむをえない時を別にすると、やはり、イメージ、つまり統一性のある連続感覚の中で、一つに捉えていく方がよいと私は思います。

 

 

 

 スケールなども、最初は1音ずつ正しくとるのはやむをえないが、レガートに一つの線上に声(音)が置かれるべきです。一般的に声楽家の行うレッスンをみても雑すぎます。

 

ピアノを弾いて、注意しないがために雑になるのでなく、発声の練習でよい声をとり出したり、育てるはずのレッスンが、音程(ピッチ)とリズムを正しく、ピアノに合わせていくことにすり替えられてしまっているのです。それにトレーナーも本人も気がつかないということで、すでにその先には、声での発展はあまり期待できないのです。

 

 とはいえ、時間や量が変えていくこともあるので、トレーナーが余計なことを言わず、黙々とやり続けていくのは理想的なレッスンのスタイルです。

 

 本人の目的や必然性が高ければ、変わろうとする努力がレッスンに出てくれば変わっていくものです。その点は、私はレッスンに期待はしていないが、来る人の可能性や能力については、誰よりも信じています。

 

 

 

○基本の基本「ハイ」

 

 

 

 基本の基本の一声として、私は「アー」でも「ヤッホー」でもいいですが「ハイ」をよく使います。ただ「ハ、イ」という、元気のよい明快な声というのではなく、"Hai”という体からストレートに出てくる声です。Hは声帯音であり、発声に障害のある人が、最初のきっかけにとる音です、というようなことは、どうでもよいのですが、とにかく「ハイ」は、基本、人間関係の基本です。相手に反応して「ハイ」と返してコミュニケーションしていくでしょう。ビジネスマンの研修では、このように理由を、もっともらしく後づけして語ったりしています。

 

 最初は「ハッ」でお祭りや掛け声でしたが、やや喉に負担を強いるので、小さな「イ」を、むしろaiの二重母音のような感覚でつけました。だから、日本語の「イ」のように口を横にひっぱってはならないのです。ちょっと響き、鼻の辺りに残るようなのがよいです。言葉でなく声(音)の練習です。言葉の「ハイ」でなく、声がよく聞こえる方がいいのです。

 

 これは、最初は日本人に苦手な深い声、胸声の強化として、低めに、「太く、強く、大きく」とやらせていました。発声で言うと、すぐに頭や鼻に響かすのが練習だというのは、どうも声楽から来た慣習のようです。

 

 日本人は元々鼻にはかかりやすい声をしているのです。日本語はフランス語ほどではありませんが、鼻音、鼻濁音もよく使います。戦前戦後、1950年代くらいまでの歌手をみるとよくわかります。小柄な日本人にとって頭での共鳴は民謡など邦楽でも、大いに使われていたのです。

 

 そして、「Hi」は最初、スタッカートのように、伸ばさないで切っていたので、一瞬の声(今でポジション、声の芯をとる発声、それをぶつけすぎから)で共鳴できない人が多く、歌につながりにくいため、そこからレガートのように「ラ、ラー」とつけて「ハイ、ラ、ラー」と3ステップにしました。つまり、声の線をとるトレーニングです。

 

 しかし、よくよく考えれば、既に「ハイ」のところで「イ」の響きを頭声にもってくれば、それですむわけです。つまり、相反する要素を1つの声の中で包括できるようにして、器を大きくするメニュができました。

 

 これは、セリフで読み、1オクターブ上で歌って、カンツォーネの大曲などでフレーズから、声を育てていた即興的な方法でついてはいけない多くの人へのアプローチです。150キロのボールも振り抜いて、ヒットが打てないなら、たまにまぐれ当たりでホームランを打つ人を除いて、へたに空振りばかりするなら、バントからやりましょうというこです。

 

 

 

○方法、メニュによしあしはない

 

 

 

 こういう方法の良し悪しは、よく議論されますが、なんらかの方法、メニュ、トレーニングはある目的のためにやるものです。例えば先述したように、「ハイ」をやったら歌いにくくなったと言っても、それは当たり前のことです。これは、すぐに歌うためのトレーニングではないからです。この現場から方法やメニュだけを取り出して、単体で使えるとか使えないとか、正しいとか間違っているかというよう論議や批判はそろそろやめて欲しいものです。

 

 私は「腕立てをやって、すぐにバッターボックスに入るバッターはいないだろう」と言っているわけです。トレーナーにおいても、相手においても、同じように、同じメニュが、目的、レベル、現状において千変万化します。少なくとも私は1000以上のメニュを持っていますが、10人に対して1つのメニュでも変化させて使っています。

 

 

 

 そのために1か月先どうしたいか、さらに1年、5年、10年先をも予感しなくてはいけないから、その人の表現の問題に入らざるを得ないのです。つまり、体から出てくるであろう声の向う先です。そこで体から出てくる声の必要のないこと、あるいは使っていられないこともあるからです。

 

 ただ表現に合わせて声を使わせるトレーナーの多いなかで、私は基本的には、「出てきた声の上で表現を動かそう」という主旨です。

 

 すると声の完成度の高い声域、声量、音色での表現が100通り以上に中心です。現実には半オクターブくらいでのフレーズトレーニングが中心にならざるをえません。その人の声と歌、もしくはセリフをどのようにみていくかは、本人と相談しながら進めていくのです。そこで方針、これは方法と共に将来的な可能性と展開についての予見を伝えて、考えてもらうのです。

 

 

 

○幅を広げること

 

 

 

 声の器を大きくするというのは、上の線を伸ばしたり下の線を伸ばしたりするのではありません。上と下の線(ここでは頭声、胸声)の間の幅をもたせ、その中でいろんな線の引ける可能性を高めていくということです。

 

 一つの声でも、縦の線と言っています。上にばかりひっぱる人が多いのですが、その分、下に根っこを引っ張ることも必要です。しかし、これは誤解されやすく、「重く、暗く、太く」を、「ぶつける、こもる、押しつける、掘る」となると、好ましくありません。このあたりをわかるまでには、説明も大変なのですが、実感できる日まで待つしかありません。

 

 胸声を、喉声として否定する日本人の多くは(前述)欧米人のロックや役者の声、ワールドミュージックを聞いたことがないのでしょうか。

 

 自分でできないから、他人にできないと思ってはいけないのです。むしろ、他人をどう使えるかは、自分にできないが、その人にできるものを引き出して伸ばすことです。それがオリジナリティでしょう。

 

 

 

2つの役割

 

 

 

 ヴォイストレーナーは、声に関して、芸道の基礎を作っていく、というレベルでの役割があり、これは、声楽家のトレーナーでも声楽かぶれしていなければ、私は、7割近く任せてもよいと思います。

 

 しかし、もう一つは、表現のオリジナリティを見抜くこと、これは本来、音楽プロディーサーやディレクターの役割なのですが、日本の場合、そこが、大半、ヴィジュアル化しています。ルックスやスタイル、更に年齢、音楽の判断に詳しい人はいるのですが、それが歌や声にまで下りていません。つまり、そういう人たちは歌としてみると、声の良し悪しと歌としての良し悪しだけをみてしまうのです。

 

 本当のオリジナリティは、その間に、声が歌いで出すとき、歌に声が一体化するときに生じるのです。

 

 そこを私は、

 

 1、声そののもの魅力。

 

 2、声のフレーズでの魅力。

 

 3、フレーズの組み合わせの魅力、

 

と分けてみています。1は生来持っている声、2は音楽性で比較的分かりやすいのですが、2はどう化けるかわからないところです。よほどの人でないと意図して取り出せません。

 

 声と音楽の配合によって本当の歌が生じる、なんらかの飛躍の瞬間があるのです。

 

 それを、予期して引き出すのが、私自身の持つ中では、最高のレッスンだと思います。そのようなレッスンは、100回に1回、100人に1人ですが、確かにあるのです。ただそのようにセッティングしないと、せっかくの才能ある人が来ても、そこで奇跡の生じることはありません。そのきっかけや、兆しだけでも、10回に23回出てくるようなレッスンであれば、これもよい関係だと思います。

 

 だからこそ頭でっかちになること、偏見をもってみること、意図をあまり露わに出すのは避けるべきです。無理な発声の音域や声量では難しいフレーズでは、こなすのに精いっぱいでそんなものは出してくる余地もないからです。

 

 

 

 自分でできることをしっかりと歌い込むのは基礎というよりも、一つのアプローチです。トレーナーに個性があるほど、メリットとデメリットを両方受けることになるものです。そこでここでは、私が仲介できるようにしています。個性のないトレーナーの方が、基礎トレーニングとしてよいこともあります。

 

 何よりもトレーナーが、トレーナー自身の限界(才能と長所、短所)を知っていること、自分より有能な、もしくは適材の人材を知っていて、そこに任せることも選択に入れること(若くてもパワーがある、時間がある、安いとか、技量では違ってもメリットを持つトレーナーもいます)回数を与えた方がよい時もあります。そのフィードバックをできる体制を持つには、時には援護したり補ったり、組織にする必要もあります。

 

 

 

 何よりもその人が従来活動していくプロの現場を知っていること。また、そういうところにいる、プロやプロデューサーと関係を姿勢としてオープンにしていることも大切です。

 

 声はいかようにも使われます。自分の生きてきたところ、見聞した世界だけが全てだと思ってはなりません。常に社会に、仕事に対してから、開かれていなくては偏ります。

 

 

 

○一声、一フレーズで一曲

 

 

 

 歌い手は歌という作品で勝負しますから、どうしても1オクターブ半で3分間という単位を中心に考えます。ディレクターは、90分というステージ構成で考えますから、こなす、まとめる、あげるという方向になりがちです。ベテランになるほど試合技巧者になっていくのです。プレイヤーに対しパーソナルトレーナーは、監督やコーチとは別の役割です。体や筋肉からみて整えることです。

 

 私たちは表現に思いを馳せますが、それはその人のライブやレコーディングそのものでない、つまり、それを参考に、もっとあるべき理想を追求していきます。

 

 私は歌や音楽にどっぷり漬かっていないから、言葉、音楽より声あたりの原初のエネルギーからみることができるのです。つまり、急がないということです。

 

 

 

 ですから、ここまで述べてきたのも、今のあなたの歌と声そのものの可能性に加え、さらにあなた自身の可能性をみているつもりです。(「期待はしないが誰よりも信じている」というのは、「人生は生きるに値するほどでないが、絶望するほどひどくない」に似ています)

 

 ある意味で、今、ここでの歌や表現には冷淡、あるいは目の前の人をスルーしている時もあります。それは、その人がその人自身たるエネルギーを発していないからです。パワーを持たないと仕方ないので、潜在的なあなたに働きかけていくのです。

 

 

 

 一方で、多くの人を通して、一つの歌、一つの声、そして一人の誰かにその成果を、ともかくも最高のレベルに結実させるべく努力をしているのです。それには、まずは声が成立するところからがスタートです。それを私は「ハイ」という一声から探っているのです。

 

 一声で、成立させることが無理なら一フレーズで、それで無理なら一曲与えようというのは、そういう私のスタンスです。もとより、これは一曲が無理なら一フレーズで、それが無理なら一声でという絶対的な厳しさの中で声の本質を取り出すために、使ってきたのです。しかし、「ハイ」と成り立たすことが間違いでは何にもなりません。それがいまだ完成にはほど遠くとも、一フレーズで使い、一曲で使って知っていくことです。これを、こなすとかまとめるというふうにとられると困るのですが、一声で勝負できなくとも、歌は一曲でいろんな勝負の仕方があるということも知っておくべきだと思うからです。これは無限の表現の可能性のようにみえますが、むしろ限界を早く見極めたゆえの、工夫、へたをすれば割り切り、ごまかしにもなります。もとより虚を実に見せる世界ですから、その虚言のいかんは私は問いません。

 

 ただ、逆にいろいろあるのは迷ったり、堂々めぐりすることになるので、まずは、一フレーズでと言っているのです。声、そしてその動きに、そこからこぼれてくるニュアンス、印象、余韻は、冒頭の散る桜の花びらの舞いに例えたいと思います。

 

 

 

 そこに人間の力、いや、人が人を超えた力が働きます。歌があれば、声が、音楽の中の言葉と溶け合うのです。私はその天使となれる日を夢見ておりましたが、ここ20年で何十回か堪能させてもらっています。まずは私のハートを射抜くのに近い何かが出てくるところからです。全てはその日のために私のレッスンはあります。ステージで大喝采を浴びようがどうであろうと、そこは私の手を離れたところですから、本人に委ねています。
                                      声、その働き、動き、ため、艶、彩、いろつや、空気の振動、これらは鼓膜のみならず、体感、心の反応、つまりは心揺さぶる感動、甘美な世界への誘いとなりゆくのです。

 

 一流プレイヤーとなり、当たり前であるべくミューズをみるレッスン、それを幾度も、私は声や歌で、マイクもないアカペラのステージで、レッスンの場として経験できたことを幸せと思います。そして、一流のアーティストのように何度も、自分自身でとり出せなかったものを、より才能のある人たちに接する中で感じさせてもらってきました。

 

 

 

○声がなくなる

 

 

 

 ヴォイトレのレッスンというと多くの人は声だけでスケールの上下降することか、アイウエオのヴォーカリーズで、歌いあげることのように思っています。ステージや歌への努力が涙に結びつくことは、どこでもあるでしょう。

 

 しかし、私はその人と、人間と人間として向き合いつつ、その時間は相手も私もいなくなってしまうのを理想としたいのです。声だけが全ての空間、時間を満たして、声だけがあらゆるものを無にする。聞こえるのは声だけ、見えるものは何もない、でも、それで、それ以上に満たされ、他に何ら欠けているものを私、そして、それを主役として演じている相手も、同じように感じているのだと思うのです。

 

 それがいつも、私が声も歌もあってはいけない、消えていることにこだわるわけです。それが本当の声であり、歌であると思うのです。(外国人や、お坊さんに声がいいですねなどと言われている私は、所詮、そんな程度であり、それゆえヴォイストレーナーという名に甘んじて次第です。)

 

ただ、歌や声で、もっと大切なものを邪魔しないようには心がけています。声を出すのもせりふを言うのも、歌を歌うのも、せりふや歌そのためではありません。声もせりふも歌を消して心が満たされるためにあるのです。私のヴォイトレは、そこをみているのです。

 

 

 

 あなたもあなたの声も、あなたの歌も、みてくれと言われるのでみている。多くのレッスンはそこで終わりです。しかし、みてくれと言われなければ、私は、あなたを感じようと沈黙しています。あなたが私を感じさせたら、そこはあなたにもわかるはずです。

 

 他の人の教えよう、指導しようというスタンスとは、私は最初から違います。教えられないし、指導などできないから、そこは他のトレーナーにお願いしています。教えても大して何にもならないことも知っています。が、教わることは、とてもよいことだから、そのようにしています。

 

シンプルにすれば、おのずとみえてくるものを声や言葉や、歌で邪魔をしてはいけません。そしたら、本当の声も言葉も歌も聞こえてくるのです。