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歌唱論(Ⅱ) ○オリジナリティと絶対基準 NO.261

歌唱論(Ⅱ)

○オリジナリティと絶対基準

これまで「歌は時代と人とともにある」と思いつつ、日本の歌の弱体化について、触れてきました。結局のところ、今、流行したり売れているものは、そこに少なくとも何かの理があり、それを他のところ(たとえば国外)や他の時代(昭和以前)から比べたり、評してみたところで、しょうもないのも確かです。
 日本の歌には、ここのところ、そういう人の存在感もないのですが、批評家を気どるわけではありませんから、私は歌や演技だけを単体として評することはしません。トレーナーという立場と、批評家はいうまでもなく、プロデューサーや客というのとは自ずとスタンスが違います。
 私は「今、ここで」よりも「将来いつか、どこかで」を本人の可能性の軸においてみます。ですから、歌だけを吹き込まれたテープを送ってこられても本人のことを何も知らずに評することはしません。あくまで、レッスンをする立場の可能性や限界について、本人の目的、レベル、そして表現活動において声というものをみます。
 「プロになりたい」といらっしゃることが多いという立場以上、「プロとは何か」、「どういうプロか」という問題を本人と共有をせざるをえず、(プロでも、レッスンに訪れる人は、もっとプロらしいステージをというのがトレーニングの目的となるので同じことですが)それは、今の日本、世界はもちろん将来を本人を中心に見据えていく力を必要とします。
 基礎トレーニングについては声楽をベースとした体、呼吸、共鳴、発声でよいので、トレーナーに任せていますが、表現についての問題は、とても複雑です。こと今の日本では、さまざまな事情を加えないと判断ができないのです。

 とはいえ、私は「声からの絶対基準」と「表現からの絶対基準」をベースにしています。ここで「絶対」というのは、時代や国を問わないということです。本人の資質をベースに最大の可能性=オリジナリティで問うということです。
 しかし現実には、仕事になるための「今、ここで」=「21世紀の日本」でという相対基準、外から求められるスタイルや能力に合わせるという基準を基礎トレーニングで中心とせざるをえないのです。
 総合力としてのオリジナルで評価される今や、声での創造力においてのオリジナルでやれている歌手など、ほとんどいません。どちらにしてもトレーニングにおいて教えられるもの、育つものではないからです。そこでは、精神的サポートが中心とならざるをえなくなります。

○日本のゆがみの構造

 これまで何度も触れてきましたが、日本人における「二重構造」は、今だにクラシック(声楽やジャズ)関係者あたりを中心に業界全般に根強くあります。一言でいうと、欧米人と同じ教育を受けることを最上とし、(楽器では幼少から行われていますが、歌では難しい)欧米人の感覚で評価しようというものです。ロックやへヴィメタルなど、洋楽しか聞かず、洋楽しかやっていない人にも多いですから、これは、クラシック、ポピュラーに共存する問題といえます。
 つまり、「本物は本場のもの、それに近いほど優れている」という考えです。「向こうの人が認めたら本物」というものですから、評価は楽です。向こうの誰かが認めたかどうかですから。そこには、世界を席巻した欧米の声楽やポップス歌手だけでなく、作曲家や演奏家も含め(日本のそれよりは)長い歴史と、何よりも実績に支えられているわけです。もちろん、世界の覇権者の推移、(ポルトガル、スペイン→オランダ→イギリス、フランス、ロシア→アメリカ)とも無関係ではありません。文化や芸術もまた一面では世界と連動してあるものです。
 明治維新以降の上からの音楽教育改革によって、中国から欧米に大きくシフトした日本では尚さらのこと、今でも国としての音楽教育は欧米に追いつけ追い越せなのです。(欧米=イタリア、ドイツ、フランス、ロシアあたりです)世界支配のための戦略として、宗教と武力を用いた欧米人のやり方は、優れてプログラム化され、世界の欧米化=グローバル化を促進しました。
 私が他のトレーナーと協力して研究所を運営するのに、トレーナーは声楽家が大半にならざるをえなかったのは、良くも悪くもそこに一個人に左右されない一つの基準があったからというのは確かです。(この基準については何回も述べてきたので割合します)

 ただ、オペラというものも、今や世界の観客を熱狂させた、ほんの一部の天才たちの能力にのっかっているもの事実です。私は200年も前の、遠く離れた国で権勢を誇っていたものを何一つ疑問を持たず東洋の島国の日本で伝承され、保持され、存在していること自体を否定するつもりはありません。ラテン、カントリー、ロックからヒップポップ、ハワイアン、フラメンコまで、どの国よりも柔軟に世界中のものを集めて、楽しんでしまえる日本人の許容度の高さは、歌に限ったことでないからです。(スポーツや舞踏、工業製品からクリスマスのような宗教まで節操なく受け入れていくのは日本人の能力でしょう)こうなると文化、宗教の定義さえ日本人の場合は特殊となりかねませんが…。

 私は、本来、本人のオリジナリティは、文化や風土に触発されて生じ、(地に足をつけて)高度な域に高まるもので、その資質の上に表現が生じてオリジナリティとなるべきだと思っています。なのに、日本では本人の上でなく、斜めや横の方に開かれてしまうことの多い、いい加減さ、未熟さを嘆じているのです。一流の職人などではありえない、その独自性の完成について、歌の場合、歌手は(声優やアナウンサーなども含め)本人不在のままにパッケージ商品化されてしまうのに、その矛盾に対して誰も指摘していないことです。(というより、プロデューサーはじめスタッフなど、まわりはむしろ、それを促進していく構造になっているのです)つまり、判断がなされている、その基となる判断がゆがんでいる。さらに客についてもそれがいえると思うのです。

○まねから総合化へ

 「欧米には、世界の人が皆憧れるすごい文化がある。それと同じことを日本人がまねたら向こうに行かなくても見たり、聞いたりできる―。」明治から昭和の時代は、歌唱、演劇に限らず、多くの分野でこういう模倣が生じたものです。宝塚も劇団四季も、ステージ側も観客側もともに、この同じ構造下にあります。日本のシャンソンが向こうのものを日本語で歌ってヒットしたのと同じようになことです。(その点では、そういうもののトレーニングやレッスンに声楽の基礎を学んだトレーナーにつくのは意味があります)
 ただ、日本人は、そういうものをプロデュースした人や世に出た人が、それを基に日本人向けの基準を本人の好むところの、けっこう狭い範囲に定めてしまいがちです。それが結果として、本来、自由であるべき声や歌まで限定をかけてしまうのです。それを受け入れ続ける方も鈍いといえば鈍いのですが…。(それはこれまで再三述べたようにマニュアル的指導になりがちです。早く、うまくする、人に見られて恥ずかしくないように、ミスのないようにするための形づくりです。形で示される方がわかりやすいため、歌唱も再現芸術になり下がり、リアルなライブでなくなるのです。これが、より安易にできるようにビジュアルで装置化して、今の日本の独得のステージ技術が発展したのです。まさに「カラオケ」的といえます。つまり声や声の表現である歌や歌の表現のストレートさ捨てて、能のように複合芸術化をしたのです。

 昭和のころまでは、歌も世界を目指し、欧米とも張り合っていただけに、二番煎じに甘んじつつも日本人のオリジナリティ対して、探求もされました。(ただ、声でなく作曲、アレンジ、演奏、ステージ技術での発展が顕著でした)
 とはいえ、世界の方もビジュアル化へ寄ってきたためにクールジャパンとして日本はクールジャパンとして肯定され、高める必要さえなくしていったのです。

 「私たちからみて、今の若者のだらしない会話の声や発声が、そのまま使われているカラオケやJ-POPSの方が、ポップスとしては、日本人らしくてよい」と逆説的に私が述べたのが1995年頃だったと思います。

 このあたりは、これまでも触れてきたことなので、もう少し今回は根本的な日本人のもつ特性について掘り下げてみたいと思います。私は、その頃(1995年)歌に表現力が感じられないから、モノトークとしてせりふでの表現力に戻してレッスンに取り入れました。しかし、今はせりふの表現力でさえ、そう簡単に取り出せないレベルになりました。声を支えるフィジカルやメンタルが、ここ20年でさらに弱化したのです。メンタルについて問題と私の考えはfukugen「メンタルはフィジカルから鍛える」(2012/10/01)で触れています。

○ビジネスの声の弱体化

 私はビジネスマン相手のヴォイストレーニングも行ってきました。そもそも、日本のビジネスにおいて、本当に相手を説得や論破できる声など必要なのかは疑問でした。声をパワフルに使えるとしたらオーナー社長や一匹狼のセールスマンくらいでしょうか。
 20年前は「大きな声を出せるように」頼まれていた研修が今や、「心に伝わる声、相手に好ましい印象を与える声」に代わってきました。
 声は戦国の武将の時代をピークにして、武士→軍人→会社員(モーレツサラリーマン)と弱体化してきました。今やあまりに弱いために「語尾まできちんと言えるように」、「何をいっているかわかるように滑舌をよく」というレベルです。日本の公けの場での言語環境の歴史については改めて述べますが、オフィシャルな場での最低限の声、声かけ、挨拶、電話、会議、プレゼンなどにさえ欠く声になってきました。少なくとも幼少から成人するまでの日本人の発声総量(大きさ×時間)は大きく低下しているのですから当然です。

 体や心の弱化については他でも触れましたので、ここではコミュニケーションの問題を取り上げます。一国の人々の声力(言語力―広い意味での)は、その国のトップの声でわかると思います。野田首相は、世界で何位くらいでしょうか。(伝達力としては悪い方ではありませんが、訴求する力には乏しいようです)
 これまでも、かなりひどい首相もいました。日本は、音声での説得力でリーダーが選ばれる国ではないのは確かです。(このあたりは、橋下市長から、首相であった人々、田中角栄、橋本、小泉、中曽根、岸、吉田…大平、麻生、管…細川など比較してみましょう。さらに各国首脳、クリントンオバマ…)
 一言でいうなら、相手と衝突してまで意見を通そうとする説得力、声の力、言語力が、それほど日本人に必要なかったということでしょう。

 福沢諭吉がスピーチを「演説」と訳したあと、自由民権運動と議論の高まり、そこから団塊世代安保闘争赤軍派の挫折などを経て、少しずつ、言語の信頼の喪失につながっていきます。今の若者は喧嘩もしませんが、討論もしないでしょう。
 私は1990年代に入る前までは日本でも個人化(個性化)、表現化が進み、音楽はアコースティックにオリジナルな表現がより強くなると考えましたが、現実は逆となりました。(1995年に取得したライブハウスを2002年に手放しました)
 少子化はともかく、若年層の保守化、なによりもメンタル、フィジカル面の衰えがこれほど大きな要素になるとはと思わなかったからです。大きなモノへのあこがれや、大きな欲求の時代は終わり、ささやかな差別化に精を出すようになる、それは豊かさの一面なのでしょう。安全ゆえ政治は軽視され、ヒーローや有能な政治家は出なくなる。当たり前のことです。世界に出ていけるアスリートは、戦前教育のようなスパルタの親だけが作っているとさえいえます。

○状況共感時代へ

 先に述べたアーティストの集団化、スターをつくらないステージシステムでは、どちらも演出家、プロデューサーがアーティストなのです。テクノや機器でしか世界に出られない日本、SEやアレンジャーがアーティストのステージ、客が主役のフェスティバル型コンサートと、かつてのアーティストのカムバックからAKB48までには、とてもシンプルな図式がみられます。
 なぜデビュー曲に最もインパクトとオリジナルの表現力が出ていた有能な歌手が2,3年たつと、ありきたりの歌い方になるのか、海外から戻ると日本のステージをやるにつれインパクトがなくなるのか、MCが多くなり客に寄り添う共感型(ブログやツイッター型)になるのか。それが日本のもつ雰囲気なのです。それを打ち破るべきアーティストがそれに迎合してしまうのです。

 欧米でのリーダー、スターは壇上から、自分が思うように客を動かせる人です。立派なこと、感動させることを言い、ヴィジョン、未来、あるべき姿を教えることのできる人です。歌手も役者も同じ、牧師もゴスペルも同じです。それによって人心はまとまり、盛り上がり、行動します。狩猟の手順と同じで、これは家畜や奴隷のコントロールの方法にも通じます。
 そのために声を使う、正確に論理的に言葉を使い、説得します。正論をもって人を説き伏せます。
 こういう異なる民族の交わるところで生きていくうちに鍛えられた人の対処の対人スキル、そのレベルの高さに、私は、若い外国人に接するごとに、驚かされます。言いたいことは言い、くだけたり、脅したり、褒めたり、諭したりしつつ、目上にも目下にも性差もなくフレンドリーで形式にとらわれず変幻自在なおしゃべりで、当初の目的を達成します。
 私たちが、立場、特に相手をみてその出方に気遣い、反論や異なることを避け、雰囲気をこわさないように努めるのとは対照的です。彼らからは、そういう日本人の「和」の文化は、あいまいで、「どう考えているのかわからない」となります。考えてはいないのです。日本語もそういう性格を持つ言語です。この一例として、私はシンポジウムで最後に必ず対立が解消されたかのように終わること=日本特有の儀式としてみています。

 日本語を使わない方が外国人だけでなく、日本人同士でもはっきり意思を伝えられます。日本語よりも強く声に出しても相手が傷つかないからです。つまり日本語は相手を気遣ってハッキリと意思を伝えない言語、かつ音声の使われ方までも弱く、あいまいにして、それに従っているのです。(私は、愚かなきまりと思いつつも、楽天などの英語の社内公用語化のメリットをここにみます)

 日本語の言葉のあいまいさは、ここで取り上げなくてもよいほどでしょう。「はい」は決してyesでなく、「はいはい、聞いていますよ」、ということです。「わかりました」も同じです。「もういいよ」「それはいいですね」は(よくないよ)ですね。
 侵略され、ひどい目にあったことのない人は、言葉に寛容です。そういう民族はイヌイットやモニ族(ニューギニア)など、世界では少数です。謝ったら責任を徹底して追及され悲惨な目にあわなかったからです。
 農耕民族で同質性が高く、さらに以心伝心で「察する」文化といわれるゆえんです。場の雰囲気や面子をたてるため、思いやりにあふれ、情緒的といわれます。
 ただ場という集団的な雰囲気に逆らえないため、鶴の一声、偉い人の一声に誰も逆らえず、時折、問題が大きくなっても止められず、悲惨な結果を招いてきました。
 それでも責任者が追及されないのです。第二次大戦も原発も同じです。厳しくジャッジする指導者がいないのです。(日本は司法をもマスコミも第三者でなく、政党もいつも一党です)
 これは、中根千枝氏が、「たて」の構造社会で指摘したような自分と身内をウチ、それ以外をソトとする構造で説明できます。他の国のように「自分(自我)―他人」でなく自分は場(自分、まわりの人)、人と人の間にあるのです。

 言語コミュニケーションとは見知らぬ人、育ち、考えの違う人への説得ツールとすると、自分の考えというのをきちんと意識化して、つまり言語化して伝えなくてはいけないのです。言語=論理になるのです。
 ステージも、この個と説得する客の対立図式です。大通りで箱の上から通りゆく人に呼びかけて、その人の足を止め、そこで聞かせ続ける大道芸人型が欧米型です。それに対して日本では、歌は内輪のもの、宴会芸です。(カラオケも発展した後、この形に落ち着いたでしょう)客=ファン=身内=場なのです。客は従順で安心、安定した存在ですからMC(天気の話など)中心がよいし寛容です。そこは「勝負」でなく「共感」の場なのです。お互いに気づかい、よい感じに終わらせます。(日本では、不調でキャンセルするアーティストはとても少ない。「熱出ていますが」で歌う方が、作品レベルが落ちても支持が得られるのです。いわゆる「甘えの構造」です)

 ですから、日本人は会話だけで対話がない。
 今の時代、日本で、観客の想像にゆだねるアングラ劇や不条理劇は成立しない。楽で安心して見られるミュージカル仕立てが流行するのは当たり前です。歌もインパクトがあり、声がよく歌がすごいのよりは、身近に感じられるヴォーカルがよいのです。これも叫ばずつぶやく(ツイッターニコニコ動画)だけ、無記名(匿名)の掲示版にあんなに書き込む努力をするのは日本人だけです。(=世間)
 これは今に始まったことではありません。(これらはクールジャパンの一端をなすのですが…)
 日本人の海外の文化の柔軟な取り入れは日本語の成立をみただけでも明らかです。中国語や英語が和語と対立は起こさず、二者択一を避けて受け入れてから、自然な流れで選択されていくのです。カタカナでの外来語受容はとても特殊なものです。インドなどでは部族言語が英語となるため、逆に英語力がつくのですが…。

○声のオーラ

 私は前から述べているように、世界が日本のようになるのが理想、ただ現実には国家単位とその対立で世界が成立しているので、日本人も21世紀前半はナショナリズムに立地せざるをえないと思っています。(そのモデルとしての世界、アメリカ合衆国に幻滅し、これからユーロも崩壊していくでしょう。結局、まだまだ時間がかかるので)必ずしも世界中が日本のように子供っぽくなるのがよいとは思いませんが、(それが平和なのでしょうが)世界には日本たるようアピールする努力としてクールジャパンをみています。つまり、女子供化、メンタルもフィジカルも戦えなく弱くなったら…ということです。でも多くの国はそれで滅びました。

 私は言語としての限界を日本人らしくよく知っているので、それで示される世界よりも音楽や声を重視してきました。日本の歌はストーリー、歌詞、物語重視です。それゆえ、その他の完成度が低く、声もいまいちと思います。
 今のミュージカルやJ-POPSにも「立派な歌詞」のうさんくささをオバマのスピーチ同様に感じています。でも声力が歌詞を上回れば、言葉を超えた音楽となり、その問題はなくなります。スピーチでさえ伝わるのは、言葉や内容よりも声のオーラでした。
 日本のアーティストは概して草食系です。その理由もここまでのことでわかるでしょう。歌詞の部分でも、自分―他人でなく、自分=身内(場)で成り立っているものが多いのは察せられます。(半面、欧米の弱点は、自分―他人の対立での孤独に耐えられなくなってきていることです。グループカウンセンセリングなどが日本人には考えられないくらい、浅いレベルで処方されています)
 欧米の設けたリング、スポーツにしろ、アートにしろ、そこでしか鍛えられないとしたら、それは、おかしなことです。
 和道、日本の芸の多くは、自分=身内が場でありながら師弟構造を有していたのです。しかし、かつての役者養成所はそうしたサークル化に伴い、趣味の場になりつつあります。そういえば一億総セミプロ化の時がくると私の先生が1985年頃言っておりました。レッスンなどにおいては、そうなってきているのが現状というのは確かです。