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○私の考えるヴォイトレの基本注意事項 NO.262

私がレッスンとトレーニングに求めたことを述べています。
1、 長期間にみるということ。
2、 多角的にみるということ。
3、 飛躍的を求めるということ。(つみ重ねから脱皮する)
4、 頭を疑い、体を信じること。
5、 ものごとを二極(正誤、よしあしなど)でみないこと。

○10年からの声

どの世界でも、10年で一通りみえてくるもののような気がします。それが体感できるには、さらに10年かかります。そこで、私はプロとは20年、短くても15年、できたら25年続いてこそ、その名の最低必要条件を満たすと思ってきました。(もちろん、プロということばは、さまざまに使われますし、ケースバイケースであることは当然の上で、「ざっというと」ということです)そして、私も声を教える、伝えるという立場になって25年になろうとしています。自分で声を使ってきたとなると、生まれたときからどこで切ればよいのか、わからないので、ヴォイトレということで区切って、四半世紀となります。
 トレーナーというのは、自分でなく相手をどうにかして何ぼのものですから、相手と接して10年、20年先どうなったかをみてはじめて結果がわかるわけです。つまり、20代、30代でやっていたことは、ようやく40代、50代で結実してみえてくるわけです。
 ですから、30代で本を書き始めたときの私は、自分のこと以外、いや自分のことも含めて何もわからなかったと思うのです。そういう自分に接して学ばせてくれた多くの人に、特に生徒さんには、感謝してもしきれないくらいです。

 ですから今、若い人はあたりまえ、声という分野に入ってくる多くの方々、(年齢としては上の方もいますが)をみると、私がこれまで試行錯誤してきたこと、迷ったことなどを、先方から話し出されて、なつかしくも新鮮な思いに捉われることがよくあります。
 声というのは魔物のようなもので、正体不明、誰もが「捉えた」とか、「わかった」とかいっていながら全く取り逃がしているものです。大事に見張っていたカゴが開いたら空っぽということもよくあるのです。
 そのあたりは、私も今では、「その人がどういうことを質問するか」で、大体わかります。
 ここにはけっこうな肩書やキャリアの方もみえますが、案外と誰もが、声とその指導についてのプロセスや結果の検証からみると、未熟です。声については専門家がいないのです。医者は身体の専門家ですが、発声となるとアマチュア、表現になると、それ以下の人も少なくありません。でも、身体の専門家として人を診ているキャリアから教わることは山ほどあります。ただ、彼らのなかには、学会でしか教わることがないのか、10年20年、音大の先生の一部と同じく、20代での勉強(知識、理論)で、その牙城を固めてゆずらない人も少なくありません。

 舞台に関わる私たちの方が、表現を通じて声からは多くを学ばされざるをえないのでしょう。

○現実の表現からみる

 演出家や映画監督、出演者と言ったプレーヤーは、表現の専門家です。その舞台裏がのぞけるのは、私の役得です。
 優れたプレーヤーほど現実の社会の一般の人の声の問題について、学びにくいともいえます。プロとしてプロに接している人たちは、なかなか社会の問題に触れる機会がありません。私のところは、声楽家をトレーナーのメインにしていますが、彼らはここで初めて現実のレベルでの声の問題につきあたります。音大では音楽的、声楽的にすぐれている人はいても、一般社会で困るような声の劣等生はいません。学校に入れません。健康な人もそうでない人も、伸びる人もそうでない人も、今もたくさんの人から、私に多くのことを学ばせてくれました。そういう面では私の方が多くを知り、体験しているわけです。
 そして役者、声優、お笑い、邦楽、エスニックなどについても、それぞれ専門家ゆえに声の問題には疎く、ここに研究にいらっしゃることになるのです。それでも5年、10年はひよっこというような世界の方にいらしていただけるのは、この研究所ならではの、ありがたいことだと思っています。
 そして、ここでは、いろんな分野での専門家といわれる人たちのアドバイス(考え、意見)、判断(診断や治療)も含め、共に検討していくようにしてきたのです。毎年400名以上を声や表現でみてきた私とのコラボレーションの実践ということです。あくまで専門家や私でなく、その本人を中心にして、どのようにみていくのか、どのようにしていくのか、それをどう支えるのかが問われているのです。そこでは知識や理屈よりも思想と実践が重要です。
 しかし、どうも今の日本人はどんどん頭で考える理論や客観的な知識の方に寄っていって本質を見失っていっている感を否めません。それゆえ、社会や時代の問題とあわせて、ここで切り込まざるをえないのです。

○みえないものの力

 その年齢にならないとみえないものもあります。何年も続けないとわからないこともあります。若い人はどこかにそれをおいておくとよいでしょう。反面、みえないからやれることもありますし、何年も続けていないから言えることもあります。また、後で述べるように、積み重ねていくからみえなくなっていくこと、わからなくなっていくこともあります。
 私も若いときのように一方的な断定、断言はしなくなりました。いえ、できなくなりました。自分の知らならいことがあまりに多く、本当に煮詰めてみると「わかっていないことがほとんどである」というのが現実だからです。
 人前で話しているだけではわかっていないとわからないことも、本を書かされるとわかります。レッスンでわからないことも、著作を重ねて、研究所で、同じ人と10年、20年続けていくとわかっていないとわかります。読者からいらした人と年を重ねていけたのは私の運のよさでした。
 ですから、ここでアドバイスするのであれば、「何事も5年、10年でわかったように思わない方がよい」ということです。自戒を込めて述べておきます。また、「そのくらいの経験をあまりあてにしない方がよい」ということでもあります。

○生々流転 

 私が多くのレッスンにいらした人たち、およびアーティストやマスコミの人とたくさん長く接して、ありがたかったことは、そのおかげで、いつも変わっていくことができたということです。いえ、変わらざるをえなかったことです。
 本を書いて、ヒットしたことは、(誰もがそうであるように、同じくらいの幸福と不幸をもたらしましたが)私の未熟な経験を急速に補い、豊かにしたことは事実です。知識や理論が追いつかないくらいに現実が先を走っていたということです。その結果として、今も研究所が4半世紀、存続しているということは、私の意思よりも、何らかの必要性があり、そこで現実に対応する姿をとっているからだと思うのです。
 思えば、こういう業界の最盛期の頃、立ち上がりを手伝った他のスクールや養成所も、私が関わってきたプロダクションや関連会社も、そのいくつかはすでにありません。この前、あるアーティストの20周年のライブに行くと、そこでは多くの業界を去った人たちの話が情報交換されていました。私のところもポピュラーヴォーカル9割だったレッスン受講生の比が、今は俳優、声優や一般のビジネスマンが5割を超えました。私がこの10年間で著してきた本の7割は、一般、ビジネスマン向けです。

 研究所は、研究の部分をのぞいては、いらっしゃる方に広く門戸を開いているので時流に乗らざるをえません。音楽プロダクションの抱える稼ぎ頭が、いつの間にかお笑い芸人になっているのと同じです。
 しかし、ここは声の研究所ですから、頑なに声を中心にしてきました。そこは元より時流をはずれていたのですが、今もはずれています。はずれているゆえに今も大きくもならず、ぶれないゆえにつぶれる恐れもないのです。
 1990年代後半に400名という人数を抱えて、ライブハウス型のプロデュースにまでいきそうだったときにいかなかったのが、あるいは専門学校への認可まで、あと一歩だったのにいかなかったのが、(そのときは限界で失敗したと思っていましたが)今思うと、それゆえ存続できたのだとわかります。その頃そのように拡大したところの大半は、もう跡形もありません。

○表現と基礎の間で 

 そのなかで、もっとも大きな転機は2つありました。プロの個人レッスンから一般の方へのグループレッスン(教室=ライブ)にしたとき、それと、そこからプロ、アマ問わず個人レッスンに切り替えたときでした。それは、ちょうどTKハイツ(木造2階建)からライブハウススタジオ(日綜ビル地下)、そして現在のBVハウス、鉄筋3階建のスタジオ移転となって表われました。(このあたりは拙書「読むだけ…」を参照ください)
 私としては、この世界は自分自身のこと(声の研究)があったにも関わらず、プロへの個人レッスンという他人のお手伝いに始まりました。拠点として、そこに自らのマルチメディアアーティストとしての声の世界の発信とBV座という、一般の方からプロの実力にした上での、ライブハウスの運営となりました。(劇団と似ていますが、あたかも私が演出家、プロデューサーになりつつあったのです)その後、現在のように、それぞれの人の声の総合研究所、もしくは声の駆け込み寺的な存在となったのです。

○教えて育つものか

 体から考えていくと、声はその人なりのものとして発現していきます。
 自分の体と他人の体はとても似ているが異なってもいます。トレーナーは他人の体を扱います。そこに入り込み、自分の体とのギャップから、それを埋める手段をメニュとして提示します。おのずと多くは自分自身が手本、見本にならざるをえないのです。
 表現者たるアーティスト、歌手、俳優、アナウンサーなどのベテランはアドバイザーとしては最適なわけです。しかし、その自分の体というものがあるために、なかなか他人のよき声の指導者となれないということになります。
 本人の技量やキャリアとしては優秀な先生が、自分の半分の力にも、生徒や弟子を育てられない例が多々あります。生まれや育ちに、日常生活の環境や習慣のなかに、どっぷりとつかっているだけに、歌手や俳優は、そこが異なる人が、結果として天性に恵まれていた人に学ぶのはとても難しいのです。(そこで昔は住み込みの弟子入りが、すぐれた養成方法としてありました。また私も、先の第二期に、365日24時間、ほぼ2年間の養成所体制と言うのを意図しました。これは全寮制をよしとする欧米の考えにも似ています。ただ、すぐれた指導人とある意味で選ばれたエリートで構成しないと、大体はサークル化して形骸化するものです。今の日本の大学が、よい例です)スポーツのようにタイムや勝敗で結果が出ない表現の世界ゆえに、判断の基準や何を価値とするかという問題が大きくのしかかってきます。
  
 話を戻しますと、トレーナーとしては、表現者として、あまりすぐれなかった人のほうが優秀なことが少なくありません。すぐれたフィジカルトレーナーには、アスリートとしての可能性をけがや病気のために、若くして断念した人が多いと思われるのに似ています。
 特に歌手では、我が強くなくては一つの世界を築いたり、保ったりできませんから、どうしてもその傾向が強くなります。それゆえ、私は、歌手にはトレーナーを仕事として両立させることをお勧めしません。
 実際に私のところにはいろんなところから生徒さんがいらっしゃいます。やめてくる人いれば、そこを続けながらくる人もいます(第二期は、私のところだけに在籍しているという人が8割くらいであったのに対して、今は5割を大きく割っています。外部との共同作業として、研究所の指導を考えているのは、ここ10年のことです。おかげで多くの情報が入ります)そのときによくみると、歌手やプロデューサー(として成功した人)などが教えた人よりも、先に述べた、あまりそういうことですぐれなかった人の方に教わった人の方が基礎ができているのです。

○あいまいを観る

 少しわかりやすく述べてみますと、ヴォイストレーニングの分野は、とてもあいまいです。それゆえトレーナーといっても、専門家という資格も基準もなく、出自もやってきたことも、方法も判断も、知識も理論もそれぞれに違います。一口に声といっても広範な分野をカバーする(しきれない)ので、しかたがないのですが、それぞれに自称しているだけです。医者(音声医、耳鼻咽喉科)、声楽家、作曲家、プロデューサー、俳優、声優、アナウンサー、ナレーター、話し方のインストラクター、講演家、講師、さらに噺家(落語家)から邦楽家(長唄、民謡)ビジネスマン、政治家、とあらゆる声を使う人がトレーナーとして教えられるものをもつので、誰でも先生になれるともいえるのです。
 歌手も俳優も日常に根ざしている歌や話を芸として、誰もが話も歌もたしなんでいるからこそ、特別な勉強もなくプロになれる人もいるのですから、その違いとなるとあいまいです。ヴォイトレの必要自体、あいまいなものなのです。(それになんとかアプローチするのが、この「トレ選」の目的でありますから、こういう話になるのですが…)
 
 ですから、たとえば体が丈夫でなく、それを克服して声もよくなった人が、体に詳しく、そこからアプローチして声にせまるのは、当然のことです。一方で、歌手や俳優の多くは、大体は普通の人よりは体力があり、健康な体をもっていますから、そのようなアプローチなしに歌唱や発声にすぐれています。どちらがよいとか正しいということではありません。

○「できる」と「うまい」ということ

 いつも私は、よりあなた自身において、具体的に詰めていくために、述べているのです。研究所では個別にしか成立しないと思っているところでの個人レッスンで、しかも私個人でなく、何名もの出自の異にするトレーナーと行っているのはそのためです。
 
1、 あなた自身のこと(体、感覚)(生まれ、育ち)
2、 あなたの目的のこと
1が基礎、2が表現です。この2つのことを抜くとヴォイトレは、さらにあいまいになります。
 もちろん人間の体としての多くの共通要素のところでは「できた―できてない」という基準をつけさえしたら基礎としての集団トレーニングもできます。レクチャーや文章でも伝えることもできます。そこで、こうして述べています。
 一方、歌や演技でのせりふとしても、同じく「うまい―へた」くらいのラインでは、共通に望まれるくらい表現というのを目的とするなら、大きくは同じような指導や方法がとれます。

 ですから私はカラオケ教室やその先生を批判しているのではありません。
 問題とするのは、私の考える基礎や表現に「できた」とか「うまい」ということが入っていないということです。
 プロになれるのとプロとしてやっていけることは違います。オーディションに通るのと、いくつもの作品で一流の実績を残せるのは違います。レベルも目的も、問われる条件も違うというようなものです。しかし、多くの人は、その一歩としては同じものと思われるかもしれません。私は違うと思うのですが、この問題は後述します。

 とにかく、本やネットでも、ヴォイトレに対しての意見や考え、ときには熱心な議論のようなものが行われています。質疑応答も行われています。でも私は一切関与しません。本人不在では、その答えはほとんど意味がないものだと申しておきます。
 この分野で最も本を出し(売り)、ネットでも4,000以上のヴォイトレのQ&Aを提供するサイトを運営する私がいうのですから、説得力はあるでしょう。
 なのに、なぜ、この連載も含めて、こうして、いつも述べ続けているのかというと、そこから本人のこととして、あなた自身に自分のことを考えてほしいからです。もちろん、これは研究所内外での私の仕事と密接に関わっています。他で話していることでもあり、毎日の仕事や生活の一環です。
 
○情報論

 今の時代、情報はたくさんあります。しかし、それぞれが違うと迷います。ですから何かを決めたいなら、たくさんの情報をとらないことです。少ない情報しかないと、それで判断します。
 私のところにくる質問でも、質問に1人のトレーナーが答えると相手は満足します。そして、そのとおりにやるでしょう。でも私のところのQ&Aは、似た質問にいくつもの答が出ていますね。「共通Q&A」は、私のところのトレーナー10人以上が同じ一つの質問に、自由に答えたのを載せています。
 たとえば、「どの子音でトレーニングすればよいのか」について、たまたまこの研究所の今のトレーナーでは極端にも結果として10人とも異なる子音を使っていました。
 あなたは混乱するでしょう。明らかに矛盾する。どれが正しいのでしょうか。でも、どれが正しいのか私はわかりません。
 あなたに来ていただいて、もっとも大切な判断のもととなる、あなたの現状をみて、その目的を聞いて、どのようにそれらの答えを考えるのかを、アドバイスします。これが研究所での私の仕事の一つです。
 あなたに問われても正解は与えられません。そこであなたは、他の10人のトレーナー一人ひとりに聞きますか。答えは一致しないでしょう。結局は自分自身に問うしかないのです。そして自分自身の答えを、あるいはやり方を見つけていくために、レッスンをしていくのです。
 ここのトレーナーを方法やメニュということにおきかえてもよいでしょう。
 私は自分の本の読者に「答え」でなく「問い」を求めるようにと述べています。レッスンにも研究所にもそのように対して欲しいと言い続けています。なのに、多くの人は、本やサイト、あるいはレッスンに正しい答えを求めようとするのです。買物の、「価格コム」や「よい商品や店を教えて…」、というなら、答えを聞けばよいでしょう。ネット社会はそういう情報、知識をただですぐにくれます。でも、表現や声は違うということを知っていてください。知ったところで何ともならないのです。
 
 とはいえ、ただ一人から、たった一つの答えを聞いて、それを信じるなら、それはもっとも強力かつ早く、すぐれたことかもしれません。私は情報でなく、それを発する人をみます。ただその人が偉いとか、知名度や実績があるということと、その答えが正しいということは必ずしもイコールはありません。ただ一般的には信用できるという何かがあれば、匿名などの身元や実績不明の人よりは信用できるでしょう。(長年やっている人、キャリアのある人、本人の実績のある人など)
 しかし、さらに大切なのは、一般的に信用できることが自分自身にとってどうなのかということです。ここで、表現、一流の作品、オリジナリティということになると、一般的によいという基準は役立たなくなるのです。
 このあたりはカラオケのうまい人が、プロになれないのと似ています。「カラオケにうまくなっていくのは、プロに近づいて行く基本の(あるいは最初の)一歩」なのかということです。そこで、元プロか現プロのカラオケの先生、プロになれなかった、あるいはプロになっても続かなかったカラオケの先生について学ぶことをどう考えますか、ということです。
 私はそういうところの教え方を、慣れるということではいいと思いますが、あまり勧めていません。本音でいうとカラオケでうまくなるのと、プロとは逆方向とさえ思っています。つまり、条件づくりと調整との違いです。カラオケというのは調整だけで、最も早く大きな効果の上がるものだからです。しかし、ヴォイトレも効果を早く、求められるとトレーニングでなく、調整になってしまうのです。実際、多くのトレーナーは、そういうスタンスです。

○知識よりタイミング

 一般的に情報も人も考えも方法も、たくさんある方が、多い方がよいと思うのです。しかし、それを整理できないで、いつも迷ってしまいます。ついには自信がもてなくなりかねません。
 最初にあらゆることをアドバイスしようとするトレーナーは、未熟でよくわかっていないということなので、私はここでは採用しませんが、あとでそうなってきたら注意します。そういうレッスンではいらっしゃる相手は知識欲がみたされ満足しますが、実際にトレーニングとしては、何ら進展しないからです。
 ただ、こういうことを頭で勉強したい人が増えてきたので、トレーナーとしても仕方なく対応をせまられることがあります。ただ、それがどういう位置づけか、スタンスかを知っておかないといけません。トレーナーも生徒も、中学校でやるようなことがレッスンだと思ってしまいかねません。
 レッスンでもっとも大切なのは、伝えるタイミングです。本当は本人が受け身なら主体的になり、聞いてくるのを待つ、あるいは聞いても仕方ない(とはいえ聞いてみることはよいことと思います)と思い、自ら問いを自らに向けて答えを試しにくるように導いていくことです。トレーナーに必要なのは信じて待つ力、忍耐強さです。

 私のレッスンは、昔も今もスタンスは変わりません。初期は表現よりも基礎を、今は、人により基礎より表現を中心にすることもあります。(基礎は、トレーナーがやってくれるからです。この分業体制を無視して、私のレッスンを部分的と思う人もいるので、最近はレッスンをアドバイスレッスンとしました…)
 基礎はピアノをひいているだけ、グループではすぐれた歌をCDで聞いて、2、3フレーズをやってみるだけ(相互に聞き比べ、自分なりに調整していく)表現は、フレーズを歌ったり、せりふで言うだけ。(1コーラスのこともある)
 「~だけ」というのは、後は本人に補わせるためです。
 レッスンでは、何よりも主体的になることを伝えるのです。ただ、それができるまでには、時間がかかります。かなりの個人差もあります。本人がそこで、私(やまわりの人)の心を動かす表現や声を問うのです。
 表現というのは、色づけがされた声(オリジナルフレーズで、くせや個性が入る)です。基礎は、応用性の高い柔軟で変化に応じられる声です。そういう違いはありますが、本人が主体、トレーナーはサポート役です。
 自分のもっているすべて教えてしまおうと頑張るトレーナーは、自分の授業パフォーマンスが作品となって、生徒は観客となっているのです。「先生みせてよ。すごいよ。払います」これでは本末転倒なのです。まるで中学校といったのは、日本の教育への、教育とは先生に教わることだと捉われてしまった人への私の警告です。でも、こういうパフォーマンスをみないと信用できないという人もいるから、やっかいなのです。クリエイティブな現場では、トレーナーは自分のもっているものを出すのでなく、一刻一刻と相手に欠けているものをとり出すアプローチを発想できることが、問われるのです。
 ヴォイストレーニングを、どのように捉えるかも人それぞれにあると思うのです。カラオケ教室や英会話スクールに行くさえ、広義にはヴォイトレと考えてもよいと思っています。
 まとめておきます。
現実対応―表現
自分―発掘―基礎

○初期化

 思えば、私の思うところの「歌手というのは、劇団員のようにはなれない」とわかってから、今の体制に大きく舵を切ったわけです。そこまではOBや在籍した人にサブトレーナーを任せていました。生え抜きとプロデュースしたトレーナーとは、一長一短ですが、私は異質な集団、というかカオス状態にするべき必要を感じました。私自身、多忙で、裸の王様状態になっていたので、ここを壊すか、離れるかを考えました。
 もともと我流のブレスヴォイストレーニングということに、こだわっていたのですが、歌という表現を取り巻く環境の大きな変化(日本では歌手という入口から、俳優やタレントになります。歌手はシンガーソングライター、アーティストである限り、そのような職名、属性はどのようでもよいのですが)と、ヴォイトレの一般化の波にさらされたわけです。20代中心の、理想としては、全日制的な体制は10年つづけたものの、維持しにくくなりました。外からどう見られようと内に人材がいるのか、育っているのかが、もっとも肝心なことだからです。少なくとも踏み台のはずの私が、ヘッドに君臨していることはよくなかったのです。
 そこには、ブレスヴォイストレーニングが、本来の基礎となるものなら、どのような分野や表現とも、つまりは他の人々とも、融合していく、つまり、福島式とつけなかった、ブレスヴォイスという名が自由に変化していかないと、という思いもあったのです。
 結果として、今では、試行錯誤ながら、いろんなところと提携し、邦楽から、のどの病気の人まで、それぞれにレッスンを成り立たせています。iPS細胞のように初期化したといえるのです。

 そこに至るには、試行錯誤、失敗やうまくいかないことの連続でした。しかし、常に第一線で、人にも本やHPでも、全てをさらしていったからこそ得られたことが大きかったのです。多くの批判や叱責とともに、より多くのすぐれた人との関わりもできていったのだと思います。
 私がここまで述べてきたように、今の私ならとてもやれなかった、無知ゆえの20年以上前からの活動が、多くの人や組織を巻き込み、どこよりも多くの情報と人と、トレーナーや、やり方も含めて、ここまで変化し、ここを変えさせ、進化した、いや、今もその途中にあるのだと思います。
 研究所をつくって、20年たって、ようやく研究すべきテーマや方法、それに必要な技術やスタッフ、トレーナーがそろってきた。それが正直なところ、ここ2、3の歩みです。何よりも他人に協力を求めたり、教えてもらうためには、内部がきちんとしていないとなりません。ライブやプロデュース志向の第二期には、養成所であっても研究所ではなかったのです。

○環境づくり

 私がこのように研究所のことを語るのは、トレーナーに教わろうという姿勢から始めたとしても、一人ひとりが自分の声、自分の表現の研究所をつくって欲しいからです。
 私は、環境と習慣を変えていく、その必要性を、今いらっしゃる人に話しています。
 自分を中心に自分の目的を達成するのに必要な環境を整えていくこと、そのことの一環として、ここを使って欲しい、と。昔からそのためにここを変え、ここをあなたのために役立てて欲しいと思ってきました。役立たないなら役立つようにして欲しい。やめることや休むことも含めて自由ですが、表現のもつ力は人のいる場を変える、ここはその変える力をつけ、試すためにあるのです。養成所のとき「あなたがここを変えないなら、あなたのいる意味がない」と言っていました。
 それが教えてくれないと学べない人が多くなると、まるで今の日本の縮図のようになるわけです。いつでも研究所や私やいろんなものを変えてきた人たちに多くのことを学べたはずで、充分にそれを試行錯誤する環境があったはずです。
 
 立ち上げの頃はゼロだから皆が創った。最初のスタジオは建物のペンキ塗りまで生徒がやりました。そこからライブスタジオが実現して、疑似ライブまで開催されるようになりました。すると、そこを利用したい人、創造でなく消化する人が多くなってきたのです。そういう人は、創造する努力を怠り、ものごとを否定的にみます。
 その結果、チャンスがなくなる。つくっていく人が現状を変えるのなら、つくらない人も現状を変えていく。日本の戦後の、進退という2つの歩みが、この研究所で起こったのです。
 
○なるようになる

 創った作品を聴きたいと思うから人が集まり、聴きたくないと思うと人はいなくなる。私が皆の声(歌)を聴きたいと思ったから、どんどん聴けるようにしていったのですから、そういうものがなくなったら場も機会もなくなるのは、あたりまえなのです。
 私もがまん強いもので、つぶしはしなかった。それから変じて、創るのに相当かかりました。つくっていくよりひいていくことの、ひいてまたつくっていくことの難しさも経験できました。
 そして、今も昔も、いつもすべてが変わりつつあるのが真実です。すべてが変わっていく中に、やはり変わらないものがあるのが、これまた真実です。
 真実だけでなく、真実と信じ、変えたくなくても現実にそれを変えてしまうこともあります。真実でありたいのに、そのことがそのまま通じないままにも続け、対応していかなくてはいけないこともあります。そういう後ろめたさや反省も、こういうものでしかつづれないのかもしれません。
 私にカリスマであってほしい、私の方法や言っていることはすべてが正しく、誰もがそれで救われる。こういうことを望んで、それがあたりまえのことですが、かなえられないとブチ切れる。今では珍しくもないのですが、幼稚な人にもたくさん出会いました。
 本で伝えていることの限界も私はその本のなかでも述べてきたつもりです。頭でっかちに盲目になる。たかが本、されど本。本の方法も理論も、そしてトレーニングも自分に役立てるためにあるのです。それを役立てられないばかりか、やり始めたときよりも自分をだめにしてしまう。それは方法や理論にではなく、本人の受け止め方、使い方に問題があるのです。それは声や体のことでなく、考え方や生き方のことですから、本人は気づきにくいのです。(声や体では、死なない限り、何とでもなりますし、私の方法で死んだ人は知りません)
 何であれ、心から魅かれて、本物だとか、すごいとか、感動したとかいうのは、大切なことです。たとえ、十代のときだからこそ惚れてしまったアイドルの歌でも、あなたの、その心の感受性は純粋で真実です。それを「あんなアイドルは…」とか「それに夢中になった自分が恥ずかしい」というようになると、嘘が始まるのです。それを本人は成長したとか、めざめたとか、本当のことを知ったとか、これまでだまされていたとかいうのですが、私からみると、向上心がゆがんだだけです。頭でっかちになって眼が曇るのです。
 
○複数トレーナーに学ぶ考え

 ここにくる人にも前の先生、あるいは、今ついているトレーナーがだめだからという理由でくる人が少なくありません。というより、他のトレーナーに移る人の大半がそうでしょう。
 私のところは、意図的に研究所内で一人の生徒に複数のトレーナーをつけ、場合によっては変えていく体制をとっているので、その人やトレーナーのレッスンの問題が他のどこよりもわかります。他のトレーナーについて、ここにもきている人も少なくありません。
 私は、20年以上、こういう体制でみつづけてきたのです。(グループでも他のトレーナーのレッスンに出られ、他のトレーナーの何人にも、個人レッスンを受けられたのです)これは否応なしに比べられるからです。
 ここのトレーナーは、この体制に慣れています。通常は自分のレッスンをはずされたり、自分がいるのに、他のトレーナーにも習いたいというのは、嫌なことでしょう。
 私はトレーナーよりも生徒自身のことを考え、複数のトレーナーで分担するという、世界でもまれなシステムをつくりました。
 多忙な先生が直弟子に授業を任せるのは、同じやり方をスムーズに踏めるのでよくあります。ただし、これは別の問題を引き起こします。弟子の能力は先生に劣るのと、先生のをみようみまねで行うことになるからです。(日本の徒弟制)
 しかし、私はにあえて、違うやり方をぶつけさせるのです。(とはいえ、まったく価値観や考え方が違う人は無理です)
 自分のことを知り、判断力と基準をつけていくのがレッスンの目的だと思うからです。(そのために、学ぶものが集うグループレッスンから始めたのです)
 価値観、考え方が同じなら、方法などは違ってくるのが当然です。ですから、同じ方法でやればいいという方がおかしいのです。直弟子よりも、全く出自が違うのに共通した価値観をもつ人の方がよいのはそのためです。ただ、直弟子の方が扱いやすいから日本ではそうなりがちです。
 
○ムダはない

 話を戻して
1、 他のトレーナーから移ってきた人
2、 他のトレーナーにつきながらきている人
今までついているトレーナーには、ここのトレーナーとのレッスンのことを話してかまいませんが、「言わないほうがよいかもしれません」とは言います。(すぐれたトレーナーならすぐバレますが…、バレるのだから言う必要もないでしょう。でも、トレーナーのなかには、狭い心の人もいて、レッスンが変わってしまうこともあります。よくなるならよいのですが、ギクシャクしたり、好意的でなくなったり…)
 「そのトレーナーやレッスンがだめだったのではなく、あなたが活かせなかった、だめだったとは思いませんか」もちろん、そんなことは言いません。
 でも、そのトレーナーに他の生徒がいて、仕事も続いているなら「だめ」とは言えません。「合わなかった」ということでしょう。
 私のところにも、熱心な生徒さんがいて、10年、20年続けています。この効果の測定というのは、別に述べますが、それを洗脳されたというように蔑む人がいたら、その方があわれなことです。(ここが洗脳的でないといえる理由は、研究所では、いつも内外関わらず、多くの作品や人に会って刺激を受けることを、どこよりも勧めているからです。洗脳は、情報遮断を前提とします)

 トレーナーを批判したりするのも(なかにはそのことで集客しているようなトレーナーというのもいますが)それが一方的なものであれば、とても浅学な人です。ものごとには両面あります。批判するべきこともあれば認めるべきこともあるのです。
 私は、これまでに本を出し続け、若くして批判の矛先にも立たされました。どこにも属していないので言いたい人は言わせていましたが、ここの関係者に、あまり迷惑のかかることは避けたいと思っています。
 いくつかの出版社は、ここまで足を運び、ここを確かめにきます。また、プロダクションも必ず現場を見にきます。(このあたり、他に述べてきたので省きます)
 どんなトレーナーであれ、そのトレーナーとのレッスンのなかには、プラスのこともあるはずです。それをできるだけ活かそうとするのが、本来、のぞましい姿でしょう。そのことで、そのトレーナーも、そして何よりもその人が、その年月が救われます。
 
 どんなこともムダはありません。たとえ、そのときはマイナスであったことでも活かせばプラスなのです。だから何事も、短期でみてはいけないのです。
 
 批判というのは、その人に何らかの実利がある時に執拗なものになります。もちろん、ただのうらみやねたみ、そねみ、ひがみもあります。でも当人の前に出て言えるようなものはほとんどありません。内容にしてもとるにたらない、というか表現になりません。とりあげるに足らないのです。
 批判やクレームは実名にて直接送っていただくと嬉しいものです。本については、メールや封書、FAXでときに専門家や一般の人からいただきます。こういう指摘から学ばされることは多く、それでさらに変化できているのだと思っています。
 
○選ぶ力より合わせる力をつける

 どの世界でも多くの人は入口でたむろして去っていきます。そのキャリアを、特に移ってくるときには忘れたがるのは困ったことです。「これまで」あるいは「前のところでは」「大してやっていない」とか「身につかなかった」と。でも、そのことばはまた、ここをやめるときに繰り返さないとは限らないでしょう。転々とスクールを変える人は、いつも「合うトレーナーがいなかった」「合う方法がなかった」と言います。これは「自分と合う時間や合う体制でなかった」以上に深刻な問題なのです。そこで効果を上げている人がいたら「合わせる力がなかった」ということです。
 私のところを10番目としてきて、ここでも10人のトレーナーのレッスンを受けたけど、合わないといってやめた人もいました。医者からの紹介の人でもいました。いくつもの医者をまわって、すべてだめでここを紹介されてきたのです。こういう人は、合わないと言う前に自分の選ぶ力をつけなくてはいけません。
 「やめてはいけない」のではありません。それも選択、「やらない」のも選択です。
 ヴォイトレの必要性自体、人によって違いますから、必要なければやらなくてよいのです。まわりはまわり、情報を得るのならそれもよし、勉強です。お金がないなら無料体験レッスンを30校くらい受けたら、年内レッスン代にも相当します。ただ、そういう目的でなく、合うところを見つけたいなら、「合う」ということを具体化していくことです。
 何校も何人もまわる中で、イメージを絞り込んでいくのです。それを私は研究所内のトレーナーの選択で行っています。でも大抵の人は具体化していかないから「何となく合わない」で終わってしまいます。でも、普通は少しがまんして、トレーナーも合わせる努力をしますから、少しずつレッスンができてきます。そのうち「選ぶ力」に加えて、「合わせる力」がついてきます。トレーナーに合わせるのは天才か初心者のレベルです。トレーナーに合わせる力がつくということは、「仕事にする力」がつくということなのです。つまり、プロになっていくのです。
 
1、初回からレッスンが成立する。
2、初回で相手がわかる。
判断ができなくて、好き嫌いで動いているうちは、人は魅きつけられません。私も会ったら最善を尽くしますが、初回から全てはわかりません。プロセスが大切です。
 そこがわからなかったり、ヴォイトレをして声がよくなっても何ともならない人まで、あえてひきこみません。
 
○決めること

 もちろん世界レベルで最高のシンガーがまわってきても同じことが起きるかもしれませんが、そういう人は紹介でいらっしゃるのでピンポイントで決まるでしょう。(私のところでは世界レベルを体制としてセッティングしてきました)つまり、表現=目的でそれに対して欠けていること、課題がはっきりしているからです。
1、 直観で決める。(初心)
2、 たくさん、ありったけまわって決める。
3、 長く試して決める。
2は迷うから、1でというもの悪くありません。案外とたくさんのものをみると、第二義的なことの方が大きくなることもあります。サービスや設備や料金などが、レッスンやトレーナーそのものよりも影響してしまうのです。目が曇るのですね。
 2、3は1よりもすぐれた方法のようですが、逆に直感的に正しかったこと(真実だったこと)が、曇らされてしまうことがあるのです。
 憧れを抱いて、業界に入って現実をみたら失望してやめた。こういうケースも何をみたのか。同じものをみて、どう思ったのかは、それぞれの人によって違うことでしょう。水商売の業界でアートで表現ですから、いろいろとあるでしょう。
 とはいえ、私は多くの人が長く続いているところというのは、それほどおかしなものであるといえないと思っています。ですから、私はトレーナーの未熟さにも、生徒と同様に寛容です。私もかつてそうであったし、今も未熟だからです。

○オープンにする

 さて、他のトレーナーであれ、ここであれ、その人が学べているのなら、次のステップにいけます。学べなかったなら、また、ゼロから学ぼうと過去を封印するより、過去に学べなかった原因を知ることが有効なこともあります。
 もちろん、やめてくる人はあまりそこでうまくいかなくて、よく思っていない人の方が多いのでネガティブな感想が多いのですが、私はそのトレーナーにも、その人にもポジティブな方向、10のうち9がだめでも、たった1つプラスに役立つことがあれば、そこを活かすように心掛けています。そうしてみると必ずよいところがあります。
 トレーナーにも生徒にも万能を求めるのは、逆にいかに目的が低いかということです。ですから、いろいろと批判しているようにみえるこの連載も、実は愛情の賜物です。何からでも学べるのです。それを絞り込んで、何をどう学ぶのかをより高めていけてこそ、学ぶということの意味があります。
 ですからトレーナーを変えるときも、できるだけ前のトレーナーに学んだことを活かせるように考えています。有能なトレーナーほど、そのトレーナーが去ったときのデメリットは大きいのですが、トレーナーによってあまり大きくその人の将来が左右されてもよくありません。
 そこで研究所には、マンツーマンであまりにもそのトレーナーからの影響しか受けられないようにはしない方向にガイドラインを引いています。
 本当のところ、トレーナーとのレッスンで行われていることはトレーナーにしかわからず、第三者にはわかりにくいものです。だからトレーナーは、あまりオープンにしたがらないし、レッスンのプロセスの途中に第三者のトレーナーの入るのをよしとしないものなのです。でも、それゆえ、他のトレーナーに学ばせたり、こういう分野の発展が一個人のキャリアにしかならないということになっています。
 私は人との出会いを通じて、国内外のトレーナーの考え方ややり方、そこを受けた人の評価のよしあしも、誰よりも知ることができました。研究所は、こういった閉鎖性に対する挑戦として、一般の人にも多くのトレーナーにも内容をオープンにしてノウハウの共有化をしてきたのです。こんなメニュやノウハウをオープンにしているところは世界にもないでしょう。それを批判するようなひまがあるなら、自分のを公開していけばよいのです。

○効果は出る

 現実に学べている人は、そこで学んだことを感謝して出ていきます。次のステップへ歩みます。そして次のトレーナーや次のプロデューサーと活動しています。現実に学べてない人は、学べなかったことを封印して、それを学び直すならよいのですが、否定して(忘れるようにして)同じことを繰り返すのです。
 そこでやめてしまう人も多いし、次で安心してやめる人も多いのですが、それは、学べなかったことの自己肯定の理だけが欲しいのです。そういう形でトレーナーについて、実力はつきません。少し調整してよくなったら、これまでのやり方を一転して全否定するものです。理論や知識で頭を満たす人は同じく、それでおぼれるのです。
 次のトレーナーで、よく学べましたとなるとよいのですが、学べたことにして前途を閉ざすパターンが多いのです。悪口を言うのはこういうタイプです。本当に力がついたら、そんなことは気にせず活動していくものだからです。私がそういう言動をみて残念に思うのは声も歌も人生もうまくいっていないから、そう言うのだと同情を禁じえないからです。そのエネルギーや時間を自分のために使えばよいのに、安易なやり方を、ついとってしまうのです。
 なぜなら、最初ほどの情熱で一所懸命にやらないからです。一所懸命にやったことは、すぐに効果がなくても、続けていくと必ず役立っていくものです。ですから安心してください。
 トレーニングは効果を出すためにやることで、効果がないならトレーニングをやめればいいのです。ですから私はトレーニングで効果が出なかったという人は、性格はともかく、考え方を変えていくことしかないと思います。
 効果については、大半は主体的なものです。もっと効果が出るべきだったのか、これでも最高の効果があったのかは、わかりません。でも、いつも検証していますか。そのためにトレーニングがあります。一般論や他人の実例は役に立ちません。自分を知ること。自分を活かすことです。

○茶番から

 私が精神論と言われつつ、このように取り組みやスタンスに、幅広く何度も言及してきたのは、それが何よりも必要だからです。少なくとも、ヴォイストレーニングといわれるのなら、何をもってトレーニングとするのかをつきつめていくことが根底になくてはなりません。その必然性も、始点も終点もあいまいなままで、どう判断できるというのでしょう。
 先に述べた日常性ということからみると、生きて生活しているなら、ヴォイストレーニングのベースは入っているのです。健康に生きていることをベースとして、話がなされて、声は充分に使われているのです。
 そして、このことがヴォイトレをわかりにくくするのです。それとともに、即効性や目にわかりやすい効果を、あたかもヴォイトレのように切り取って、レッスンの目的になってしまうのです。そういう茶番のようなことが行われているのが現実です。
 たとえば、骨盤の位置を動かすと腹がへこむ、ダイエットになる。本当でしょうか。そのレベルのことに何百万人が一喜一憂し、何億円ものお金が動く。日本人のレベルも低くなったものです。
 大切なのは、方法でもトレーナーでもなく、あなた自身のセッティングです。今やフィジカルトレーナーの前に、メンタルトレーナーが必要なようです。メンタルトレーナーは心身の心を担当しますが、トレーニングの管理をします。(他に詳しいので省く)でも、そこからでもスタートしましょう。そのあとのステップアップこそが大切なのです。
 
○限界を超えるには 

 さて、先述した「今ここで」学べていると、方法やトレーニングを超えて、「次にどこかで」学べていくのです。異なるトレーナーについても、異なる方法であっても、自分なりに消化し創造し、活かしていくことができるようになります。すると、その人は、さらに自分に必要な人に出会うことができます。私のところや今のトレーナーときちんと学べていたら、おのずと次のステップへいけるのです。
 しかし、そこで多くの人は学ぶことの限界へつきあたっていきます。つまり、学んでいくには、より柔軟に、自由に解放されていかなければいけないのに、学んでしまい、というのは学べなかったということですが、あるいは頭でばかり考え、頭でっかちになってしまい、ネガティブにものをみるようになってしまうのです。これは、どこでも起きていることです。どの業界でも、どのスクールでも、そういうものでしょう。ただ、一時的にそうなって脱していけるのか、そこで止まってしまうのかです。
 いくつかの壁があって、大体は、その何段階目かで自らの成長をとめてしまうのです。多くは、より学ぼうとして、学んだ結果、頭にたくさんのことが入り、後進に対しても知識、理屈は言えるようになり、その結果、自らの成長は、止まります。止まるということは相対的に後進してしまうのです。場合によっては始めたときよりも悪くなってしまう人もいるのです。まわりに自分よりすぐれている人が多いと防げるものですが、年とともに大抵は逆になりますから、よほど高い志をもたなければ、知らないうちに、そうなってしまうものなのです。
 歌手などの歌でも、ほとんどがそのように円熟とか成熟という名のもとに汚れ、新鮮なものでなくなっていきます。それが昔のように、全盛期をすぎ、ナツメロ歌手になる頃ならよいのですが、日本では特にそれが早く、昔であれば40代、早ければ30代で退化していたように思うのですが、今や(この20年くらい)デビューから2、3年枚目のアルバムでそうなってしまうのです。この件は別に述べます。一つには客の耳が育たないことがあります。カラオケで歌いなれた客は他人の歌を聴く耳がおろそかになっています。俳優や歌手も、次々にステップアップした大舞台に立つ人は、表現から、厳しく反省を常に強いられますからよくなっていきます。(ただ、他のアートや海外と違い、その表現が、基礎のオリジナリティの延長にないことが日本の場合大問題です。そこからトレーナーになる人は、表現からも基礎からも厳しい追及を受けなくなり、自分より実力や経験のない人ばかりと接するので、形やマニュアル先行で直感などが磨かれず、ただ先にやってきただけの先生になってしまいがちです。
 
 自分の世界をつくっていくことは、同時に保守化していくことですから、何にしろ、そうなりやすいものです。ただ、トレーニングは表現世界のでなく、そのためのプロセスなので異なるべきです。
 人に教えられることが、どこかに属するとかいうことで、表現のための基礎トレーニングが、トレーニングのためのトレーニング、理論や知識の獲得のためのトレーニングになりやすいのです。ことに日本人はそういう傾向があります。
 ですから、ヴォイトレでは、声の表現ということをしっかりと詰めていくことです。細かく繊細に、丁寧に詰めていくことが常にトレーニングに必要なことです。そのためにレッスンという機会でトレーナーという他人の耳を借りて多角的にチェックしたり、アイディアを得たりしていくのです。
 声が音声での表現の基礎でありつつ、全てを担っているわけではないというとも、この問題をややこしいことにしています。
 歌手にとって発声は、基礎ですが、その習得のレベル、声を占めるその人の表現(歌)に対しての度合は、アーティストによって違います。
 だからこそ、私は一見逆の方向に、音声、表現、舞台の基礎として、ヴォイトレを位置づけているのです。声が歌やドラマのすべてを担っているのではありません。むしろ音響技術の発達でのフォローや、聴衆の観客化によって声の力の必要性は失われてきています。しかし、ヴォイトレですから、私は目をつむった世界(レコード、ラジオ)で、耳だけのアカペラでの声力を基準にしています。時代にいくら逆行しようと、そこを外すと声の基準は、とれなくなるからです。だからこそ、一方で、表現についてどう観るかの眼も、どう聴くかの耳も大切だと思うのです。