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トレーナーとアドバイザー

◎トレーナーとアドバイザー 

 

 私はこれまでも述べてきたことですが、現在の日本のヴォイストレーナーは、ヴォイスアドバイザーとヴォーカルアドバイザーになると思います。ヴォイスアドバイザーは役者、声優、アナウンサー、ナレーター、朗読の指導者になります。つまり、主として、今ある力を100パーセント確実に活かすための手法として次のようなことを扱います。

1、 全体のバランスの調整を仕上げ、

2、 発音、発声の安定、使い方や応用のアドバイ

3、 メンタル的勇気づけ

アナウンス学校やカラオケの先生を思い浮かべるとわかりやすいでしょう。それに対して、ヴォーカルトレーナーというのは

1、 個々の要素の相違、分析と目標設定、調整

2、 心身や発声そのものの強化、鍛練、地力のアップと調整

3、 日常でのトレーニングや管理

これはパーソナルトレーナーを思い浮かべてください。徹底して個々を中心とするのは、当たり前のこととして、多くの研究や試行錯誤の上に専門家として、対処するのかの違いなのです。(この専門というのが一口で説明できないのですが。単に実技の経験だけでは無理ということです)

 

○白紙にして可能性をみる 

 

 体で覚えていくものは、覚えていたらできるのですから、できないとしたら、それを認めるからです。これまでの考え方、やり方、経験の上に、よくも悪くも今の自分の実力があると認めて、それで不足していると感じるのなら、他の助けを借りないことには、まずは大きく変わらないと心することなのです。そのために

1、 目標と基準

2、 現状把握基準

3、 12のギャップの埋め方 プロセス(計画)

この3つを明らかにしていくこと、そして、その可能性をきちんと考えることです。自分自身の覚悟のもと、自主トレするのなら、可能性を考えるひまがあればやること、実行あるのみです。しかし、トレーナーとして自分でない第三者のレッスンということになると、これは極めて大切な問題なのです。つまり、自分の体をオペするなら自己責任、他人の体をオペするには、その人の合意がいるみたいなことです。手術にも100パーセントがないように、声も誰でも何でもできるわけではないのです。

 レベルの低い目標や、経験の少ないトレーナーならどんなことでも誰でもできるように吹聴するかもしれませんが、せいぜい、今より少しよくなるくらいでしょう。少しよくなって目標に到達できるわけではないから、私からみると、それは「?」に等しいのです。

 

○勘と発想 

 

 ですから、3つの原則を頭に入れて、トレーナーのところに行くことです。

1、 誰もをその人が望むようにできるトレーナーはいない。(あなたがそうであったとしても、それも客観性に乏しいことが多いのですが、他の誰もがそうはいかないということです)

2、 どのトレーナーもメリット(強味)もあればデメリット(弱味)もある。

3、オールマイティにこなせる人ほど個別対応に弱く、ある特定のことに強い人は他のタイプに弱い。

つまり、強い分野や強いタイプも、いわば、弱い分野や弱いタイプもあります。

 これは、十数名のトレーナーとずっと続けてきた私にはよくわかります。

 新しいトレーナーが入るときには、半年くらいかけて、そのトレーナーの強いところと弱いところ、向くレッスンと向かないレッスン、向く相手と向かない相手を見極めなくてはならないからです。

 それは生徒さんの見極めと同じようになかなか大変なのです。その人のその時の声だけみて、毎日どのくらいその練習をするのかがわかるわけではありません。本人がやると言ってもやるかどうかはわかりません。

 ただ、多くの人ととても長く接していると、自ずと勘が磨かれてくるのです。私がトレーナーとして、いや、トレーナーをまとめて皆さんに提供する立場として、もっとも重視しているのは、こういう経験から働く勘、そして、私のレッスン、トレーニングの現場で見聞きしたり試行してきたことからの発想なのです。この二つこそが、もっともな大切ことだと思うのです。

 

○トレーナーの選び方 

 

 技術を得たいというなら技術のある人に、世の中に出たいというなら世の中に出た人についていけばよいのです。ただ、歌手というのは、なかなか歌手を育てるのに適していないということですので、歌手になりたければ歌手を育てた人につく方がよいと思います。

 まじめな人ほど声や歌の技術こそが一番だと思うのです。それさえ得られたら、プロになれるとか、ヒットするとか、歌手や役者などで生活できると。そして、まじめな人ほど、名も知れず、声や歌がすごいという人に惹かれていきます。画学生がとても上手くきれいに絵の描ける人についてみるのと似ています。学生ならそれもいいでしょう。でも、どうしてその人のレベルが上手いとかきれいなのに、その絵が売れていないのか考えないのはなぜでしょう。世界中、日本中に声のよい人、歌のうまい人はたくさんいます。でも、それはそれでよいとして、なのに、売れていないとしたら、声や歌がへたで売れない人よりも大きな欠陥があるということでしょう。へたな人はうまくなるとなんとかなるかもしれません。でも、うまい人はどうしようもないでしょう。私のところも、最初からそういう人がたくさんきたのでよくわかります。自信とプライドで固まった歌に努力やまじめさ、一所懸命さは表れますが、それはアマチュアであり、アマチュアがプロになるときに学んではよくないことなのです。声のよさ、歌のうまさで選ぶなということでもあります。

 

○プロの育て方 

 

 トレーナーにおいてのプロの育て方というのはどういうことでしょう。プロデューサーのように何千人のオーディションで最高の素材を選んで、歌を覚え込ませ、売れっ子作詞作曲家でヒットを演出させるという昭和の頃の歌謡曲、演歌のやり方はもう通用しません。今も売れっ子の作曲家やプロデューサーに近づけばチャンスと思う人もいるのでしょうが、それはあなたが最高の素材であればです。

 彼らは選りすぐれた人材のデビューのさせ方はプロです。プロデューサーは、声質や歌い方のくせにファンのつく魅力を見出したり、23年たてばアイドルになる子を見抜く点ではすぐれています。声をもっとも重視しながら、かなりそれに偏ったプロデューサーでも今やその割合50%がよいところでしょう。私は、声100%でみた上で表現力を別にして100%みる2つの基準をおいています。それと業界や市場マーケットは、最初は別にすべきと思うのです。

 あなたがあなたを充分に発揮すれば、今の日本をきちんと生きてきたあなたは、今の何かを切り取ることができるのです。それは、私やここのトレーナーができないことだからこそ、レッスンの価値があるのです。

 

○プロの育ち方 

 

 「育て方」でなく「育ち方」としたのは、育てて育つものではないからです。学ばせて学べたら、教えて教われたら、そんなによいことはないのですが、それはそうしないよりもましになるだけです。そんなことをしなくても、毎日そうして生きている人がたくさんいる世界では、それだけでは大したものではないのです。私が日本語の教室に行くようなもので、まあ、教えるときは何らかの理屈っぽくなりそうですが、日常では、さほど変わらないのです。

 だからこそレッスンで教えるだけでなく、それを通じての環境や習慣、さらに思考や考え方まで大きく変わらないと、大してこれまでとアウトプットが変わらないのは言うまでもないことです。

 歌やせりふは、他人の人生に触れていきます。自分の口からは虚構、つまり嘘を言って、他人を引き込み、共感、感動、あるときはその人の生活になくてはならないほどの大きな影響を与えるのです。究極のサギ師です。だからこそ、日常が日常であってはいけないし、他の人には特別な場のレッスンスタジオやステージが日常であらなければならないのです。

 

○「気持ちより」発声を 

 

 小さい頃からピアノを弾けた人は、きっとなぜこう弾けるようになったのか、覚えていないでしょう。教えるときには、もの心ついてから学んだ人よりも苦労しそうです。歌ならなおさら、もの心ついたときにスターになったような人は、カラオケで教えるにも「気持ちがすべてよ」と。そう、そのような人は「気持ち」でコントロールできるのですが、大半の相手は発声、音感リズムを何とかしないと、何ともなりません。NHKのど自慢のゲスト歌手の励ましのようなトレーナーのトレーニングもみたことがあります。日本人が海外に行くと社交儀礼とともに、レッスンがそういうレベルで形骸化していることがよくあります。

 でも、自信とプロフィルに履歴がつくのです。私が体操で内村航平くんや、スケートで浅田真央さんに習っても、彼らの人生の無駄にしかならないのと同じことです。

 でも、小さい頃にやめて、絶対音感だけ残った私には、発声(ピアノのドの音を出して、ドの音を出せない人の指導などは、とても勉強を重ねましたが難しい)も本格的には二十歳まえにやりだしたゆえに、そのプロセスが明確に残っていて、発声のプロセスはみえていたのです。

 

○音楽をしる 

 

 もう一つ、プロの歌手をたくさんみているうちに、

1、 世界の基準からみる

2、 一流の比較からみる

3、 同曲異唱からみる

4、 同一歌手の歌のよしあしからみる

など、骨董屋か目利きになるためのようなことを、多分、ひとの数十倍したとどこかに書きました。いらっしゃる生徒さんが1コマ1時間聞くものを、私は、東京で56コマ、京都で3コマと、ほぼ10倍、単純に同じものを10回聞いていたのです。ましてフレーズなど10時間で30回まわしたようなものは、1ヶ月の中で10コマ分、300回聞くのです。

 教えているうちに(というか、材料として出している、その頃の私は「ヴォイストレーナーDJ論」として述べていますが…。未来型教育として、もっと認めてもらってもよかったのではと。

 受け身の人には評判良くないのは、日本での学校教育に慣れてしまうと仕方ありませんが…。当初はぼんやりみえていた輪郭がはっきりしてきて、確信に変わってくるのです。曲のよしあしが1フレーズごとのよしあしまで鮮明にみえてくるのです。そういうレッスンを目指していたということです。

 

○贅沢なレッスン 

 

 ここに毎日熱心な生徒さんたちがレポートを出して、「この曲で」「このフレーズで」こんなことに気づいたと教えてくれるのです。それは、あたかも毎日、教室で終日ゴスペルを歌って踊って説教しているような毎日だったように思います。

 それゆえに、今でも私は世界レベルに歌を捉えて、そこから降ろしてきます。そうでないと、却って迷いが出てしまうからです。本人のオリジナリティが音楽、歌のオリジナリティを凌駕したとき出してくる絶対性、オーラは、確かに存在します。また、それを使う作品(からの一部)、ステージは、伝説となります。

 ただ、日本の場合は、なぜかそれが大衆のものとして一体化して認められない、ほんとにすごいものでないと、ディズニーのイベントでさえ、芸術かアートのようになってしまうというような構図があります。それは、評論家のような論評としてもまとまりそうですが、私のケースでは現場で、しかも、レッスンのなかで相手の可能性を伸ばすための材料として使ってきたのです。なんと贅沢なことですか。

 

○「もっとも厳しい客」として 

 

 私は飽きっぽいタイプですから、それがよくも悪くも「もっとも厳しい客」の判断になっていたと思うのです。今でも、声や歌だけを愛しているなどといえません。「もっと伝わる手段があれば、声や歌で邪魔するべきでない」とヴォイストレーナーとしてはあるあるまじき本音を吐いています。(日本の声楽は舞台どころか、基礎レッスンでも、そこの一部しか成り立っていないと、声楽家と一緒にやりながら述べているくらいです。これとて、私にしてみれば、一部が成り立つところをすごくありがたがって認めているのであり、ポップスのような、暗中模索、「失われた20年」より、尊敬もしているのです)

 大体、同じ曲(課題曲を1日に80人が歌うのを聞いて、飽きない人がいたら、モータウンレベルです。ある意味で私は今も、いつでも、そのレベルにセットして聞いているともいえます。しかし25年、歌としてなら、30年以上続けられているのは、皆様のおかげです。他のことは全て飽きてきたのに、まだまだわからない声というものの魅力だと思うのです。

 日本人に必要なのは、アーティストの努力を認めつつも、つまらないものにあまり優しくしないことです。当のアーティストが伸びません。まわりを気にせずブラボーと言うのもいいけど、言おうと思って準備してきたのを言わないことにしてください。

 

○「アハ!体験」 

 

 本格的なオーケストラの指揮者はやったことはありませんが、合唱やバンドなどの前で似たことはやってきました。メトロノームで♪=6080などの基本テンポを覚えたり、ドレミレドとピアノを弾くのにド―ミとミ―ドを数コンマいくつまで一致させようとしたり、指揮者はそんな努力しないでしょうが…。日本人に何人もの世界の第一線で活躍する優秀な指揮者が出るのですから、日本人の耳は捨てたものではないと思います。まあ、日本人とひとくくりにしても仕方ありませんが…。

 つまり、私たちが苦手なハーモニー、ある時間のところで全ての音を把握する空間的な能力と、曲全体を楽譜のように総括して捉え、その構成と進行展開を論理的に捉える時間的な能力のことです。

 私は歌に接して10年も経っていきなりみえてきたのです。それは、中学でのバスケットボール部を退いてから、高校のクラス対抗のときに全体図、つまり10人の構成がみえたのと同じような「アハ!体験」でした。ちなみに、これは中学生でTVでワールドサッカーをみて、高校でラグビー、アメフトをみて、大学でアイスホッケーをみて、ゲームの醍醐味がフォーメーションであることに気づいたことと同じです。

 

○織りなす曲 中島みゆき「糸」

 

 曲は、中島みゆきさんの唄う「縦の糸と横の糸が織りなす布は」と、へたすると西村ヒロチョのようになるからやめておきますが…、まさに織物なのです。その模様も全て計算された上で、発色ぼかし…とアートなのです。

 レッスンにおいて大切なのはオリジナルのことばや音色、フレーズが出たら、一つでもよいから可能性としてストックすることです。たまに、そればかりが恵まれている人がいますが、そのときは構成を主に整理すればよいのです。惹きつけるところをセーブし、絶妙のタイミングに抑えるのです。

 逆にうまいけど、きれいだけど、それがない人は器量貧乏なわけですから、一色、一線をずっと求めましょう。何曲か使ってもそれを見い出すためにセッティングします。声域、キィの変更、テンポの変更、声量を変えても、かなり変わるものです。つまり効果となるポイントを探す、なければそれを出すためのセッティングがレッスンの目的となります。

 

○その人の音色 

 

 私の初期の本には、「一つもよいところがなければ、いくらがんばって歌っても大きくは変わらない」と。その旨として1秒が通じなければ3時間などもたないというような表現をしてあります。楽器では曲の前にその人の音色がなくてはなりません。楽器の音はある程度決まっていて、数年で出せるようになりますが、それは楽器のものです。たぶんその製作者なら出せます。

 アーティストはそこで止まっていてはならないのです。そこで線をどう描くかなのです。音の色と線で基本デッサンが成り立ちます。それを私はみているのです。

 それでつなげる曲もあれば、うまくいかない曲も必ずあります。そこが選曲ということになります。アレンジも自由なのがポップスなのですから、声域、声量で不自由になる必要もありません。(そこで無理しているのがミュージカル、すると声域とバランスをそつなくこなせる人しか選べなくなるので、日本のなかではなかなか難しいのです)

 

○次の世代の声 

 

 すでにある作品を輸入して歌う、あるいはそれに近い作品を作家がつくると、歌手にはハイレベルなものとなるわけです。こなそうとするのが輸入期、啓発期ではしかまねようがないのですが、日本人がすぐれた歌手を送り出せたのは、むしろ、邦楽の伝統があったからだというのが、坂本九さんという、もっとも憎めないキャラクターのオリジナリティあふれるヴォーカリストの実績です。(彼の母親は常磐津の師匠)あるいは三波春夫、村田英雄ほか、今やプツリと切れた邦楽との和魂洋才です。この先が思いやられますが、詩吟や長唄なども、オペラも、団塊の世代になり、さらに次の世代ではどうなるでしょうか。私がこれらを同列に扱ってきたのは、「マイクを使わないという条件での声づくり、体づくり」に共通することがあるのと、基準としてわかりやすいからです。

 

○声の力 

 

 思うに、80年代くらいを境に、ヴォイトレとは言いませんが、ヴォーカルの条件そのものが声量から声域に、特に○でなくハイトーンへ変わりました。もしかすると役者も声量が条件でなくなる、というか声の力でなくなってきたのでしょう。オペラも含め、ヴィジュアルの時代の到来、シネマからTVの時代です。特に日本はそれが顕著でした。「どこの国のアイドルも歌手なら歌唱力はあるのに」など言っていたのが懐かしいくらいになりました。

 前に世界を回ってレコードやテープを(懐かしい)買うときは、「イケメンや美人、可愛い子を避ける」のが原則でした。ときにニ物とも持っている人もいますが、ブサイクな魅力の人の方が歌唱力が上なのはどこでも同じです。特にデブ、ふくよかな人がお勧めです。私がこの世界に入った後の最大の転機は、すごい美人の歌手がいくらうまく歌っても、全体重、いや全存在をかけたブサイクデブが出て、すごい一声を発すると、きれいとかうまいとかいった程度のものはすべてが飛んでしまうということです。ひどい悪口のように聞こえるかもしれないので、店の名前まであげませんが、それは、海外でなく、山手線内の駅前のある店での体験でした。私は二十歳になろうとしていた頃でした。

 

○一声の力と総合力 

 

 歌も芝居も、演じるというのは総合力ですから、一声だけで勝負が決まらなくてもよいのです。しかし、一声だけで明らかに負けている場合はどうでしょう。長年、世界の声と比べてきた私には、ヴォイトレとは「まずは、その一声からの勝負を可能にする」ための

世界であったのです。それは、今の若いトレーナーは、あまり意識していないようです。歌を一声でなく、総合的なステージで見ているからです。

 海外ではそれはすでに前提として獲得されていますから、トレーナーは使い方をより、応用度を高めるテクニカルな方へ導くようになります。(特にポップスではそうなりがちです)日本も、歌手を目指す人が高音域が出ることばかりこだわるので、今では声のあて方のようなコツがメインになりつつあります。

 トレーナー本人はよくても本人に似たタイプしか教えられたことをコピーできていないのです。結局、本当に伝えられる声を目指す人は、私のところなどで、それなりの基礎となる発声、技術を伝えられるソプラノやテノールにつきます。高いレベルを目指すなら最初からその方が早いのです。本当の問題は多くの場合、そこではないからです。それをマスターしてプロになれるくらいなら、そういうトレーナーは活躍しているでしょう。

 

○ 楽譜のビジュアルライズ 

 

 歌の解釈については、私も最初は、雑誌の連載で、次に通信教育でやることになったわけです。しかし、本質的なことを伝えようとすると、ほとんど詞の捉え方の深さを語ることによって歌心を伝えることしかできませんでした。文字では限界があります。レッスンのなかなどでホワイトボードに図で表したり、様々な工夫をして何とかイメージを伝え、そのうち、長くいるメンバーとはイメージを共有できるようになるのです。歌詞か楽譜にいろんな曲線を入れて、あなたの歌い方と、そこから変わってよくなる可能性のあるところとに線を引いたり、一言、一字ずつに○△×をつけたり、一字(一音)でもその入り方、キープ、終わり方(抜け方)で○△×をつけたりすることもあります。もはや部分を丁寧にみることでは職人の域に入ったと思っています。これは、コンダクターの個人指導なのでしょうが、きめ細やかすぎるヴォーカルアドバイザーといえましょう。しかし、細部にいたる中をみるのと同時にフレーズや全体の流れをみているのです。

 

○ヴォーカルのフレーズ 

 

 細部にいろんな動きが出るのはよいことですが、それが、フレーズの線に対してどのように働きかけているかが大切です。しかも、作曲家やプレイヤーの描く基本線は当然ふまえた上でそれをそのままなぞるのでなく(それは楽譜に正しく歌う音大の入試やよくある合唱団レベルでの歌いこなしになり、きれいでうまいだけのものとなりがちです)そことセッションしていくのが、ヴォーカル、いや、歌というものです。

 そのときの変化、創造したものの評価は、ずばり、その人の呼吸にのっているのかということです。大きくはみ出させるのなら、その前に大きな呼吸が必要です。それがないと不自然、形だけがいかにも狙ってそうしたのがみえてしまい、音楽としてはぶち壊し、素直に歌うのより悪くなるのです。しかし、歌に飽きてきた客などはそういう形だけでも出ると声を出したり拍手するのです。

 

○ヴォイスナビ集 

 

 フレーズのつくり方をギターやベースのフレーズナビ集のようにつくったことがあります。いくつものシャウトやアドリブを中心にしました。特にスキャットについて、数多くのパターンをマスターしておくと応用がきくと思ったのです。これは、歌唱に近いものがわかりやすいのですが、あまりうまくくつくると、マイケル・ジャクソンの歌をコピーするのに似て、却ってよくないと。発声上も応用をやるより、基礎をやるべきで、それをまねすべきでないということで中止しました。ゴスペルなどをやめたのと似ています。

 確かに音楽やダンスを日常のなかで自然と楽しみ身につけてきていない、大半の日本人に対して、それを体得してきた人、外国人などは、「まずは音楽を楽しみ、感じることから始めましょう」となると思います。それは当然のことで、全くもって正しいとは思います。ただ、パフォーマンスを楽しむにも、日本人は覚悟がいるのですね。ですから、皆と一緒にスタートするのは、とてもよいのですが、個人としての能力がないとそれは、教えてくれるスターが一人いただけで、他の人は少しも前に進んでいないのです。

 自分が楽しむのと、人が楽しむだけのものを自分が出すのは全く違います。ところが、日本では彼らが言うのと同じように、「自分が楽しんでいないと、見てもいる人楽しくならない」というのが、「自分が楽しめばみている人も楽しくなる」となってしまったように思えるのです。

 

○相似形 

 

 私がいろんな歌唱の構造がみえたのは、楽譜の研究、いや、楽譜にこじつけて、すぐれたヴォーカルたちに歌唱の解釈や創造したなかのよしあしの判断の基準を理解、納得させたことによると思います。シンガーソングライターがつくった曲を分析すると、作曲家とは違うおかしな点がたくさんあります。しかし、それがシンガー特有の呼吸や声の特質からきている。特にコード進行にのせて楽器でつくる人より、即興型(鼻歌型)の人はその傾向が強いことから、少しずつ、その意味をていねいに読み取っていったものです。たぶん、本人(シンガーソングライター)は、そんなつもりもなく、つくれてしまった。それでよいと思うのです。Aメロ―Bメロ―サビでのBメロ(日本人の歌の特色の出るところ)の研究もずいぶんと、得るところが大きかったです。

 海外の曲などは4呼吸くらいでつくられ歌われていたのに、日本では4×4×464フレーズでカバーしています。力量の差が呼吸に出ます。日本でも昔は4行くらいで3番までの曲が多かったので、それは日本人の呼吸に合っていたと思うのです。

 

○俳句、短歌のような日本の歌唱論 

 

 私が日本人の歌唱力からみて(ポップスですが)半オクターブ、30秒(Aメロ、4×416小節くらい)にする、「俳句、短歌のような歌唱」論を提唱したのは、そこまではヴォイトレで自然にことばと音楽が一致するレベルの声をつくれるし、処理もできるとわかったからです。なのに、その基礎もなく、2オクターブ、ハイトーンまで使うから、いつまでも声が育たないのです。歌が特殊技術になっていて、それを追いかける人ばかりになってきたことに警告をしてきたのです。が、ますます、そうなって歌は世につれなくなってきました。若い子に昔の歌がカバ―されているこの頃の風潮も、こういうことからなのでしょう。学校でのレコード鑑賞や唱歌は、ある時期、日本のためになっていたと思います。しかし、今は誰もがすぐにつくれるし、公開できる時代なのです。となると、つくるために学ぶというところからの観賞にするべきです

 

○曲全体の構造 

 

 曲は、一例としてⅠ(1234)、Ⅱ(1234)、Ⅲ(1234)、Ⅳ(1234)で1番とすると、これが3つで3番までとなるのです。つまり、このケースでは4×4×3です。4というのは起承転結として1つのブロックです。手紙などの文章と同じように、そこにはそれぞれのもつ役割と、伝わりやすくする工夫が入っているのです。これをさらに細かⅠ(1234)のⅠ(1)を取り出すと、ここにも4つのワード(小節)abcdが入っているのです。(数え方では8つともいえます)すると上記の1番は4×4×464となります。そして、ⅠのなかⅠ-Ⅱ-Ⅲ-Ⅳのなかのそれぞれに1234が入り、またそのそれぞれにabcdが入るという3重の相似構造になるわけです。この形を図示してみるとトーナメントのような形となります。

 

○相似形その2 

 

 ある形からフレーズとして出てきたものを+αとすると、この+αが出てくるルールのようなものがあります。その+α(私はニュアンスとよんでいます)が、いつどこに出るかをみておきます。最下層でいくつか出たところを結んだ形を?とします。すると、この+αが(1234)の上位のⅠ-Ⅱ-Ⅲ-Ⅳにも表れていることがあります。1行のなかの3つめのことばが起承転結の転というのが、1段落4行でも3行目が転で働く。それがⅠ~Ⅳ番まであれば3番めが転じる役割となるなどというのと似たようなものです。

 そのリピートと複層的なレベルでの2ステップ、3ステップと次元の違うところの相似性が、意味をもって聞いている人にせまるのです。転じた後、4つめにAメロに戻ることで安心感、落ち付きをより深く打ち出すというのとも似てもいます。

 

○フレーズでつなげる 役者の歌 

 

 形を歌わないため、演じて形にならないために、それを実として身につけて出すには、全てをゼロに戻して再構成する必要があります。

 個性の強い歌い手は、役者のように自分を中心軸として、歌を再デザインします。自ずとそうなるのです。

 しかし、日本では、役者は音楽性で徹底して欠けることが多く、特に全体の流れの構成、展開を無視して、自分の呼吸で音楽の呼吸を妨げる、つまりは、強味であることばとその感情の力で、力づくでステージを成立させてしまうことが多いのです。それは後に述べるリピートの効果を損じます。つまり、背景の絵を台無しにしてしまう、いや、もっと楽にたくさん伝わる効果があるのを、一人よがりに全てやろうとしてがんばってしまいがちなのです。そこが、フランク・シナトライヴ・モンタンのように完全な両立をなしえた人との違いです。

 これはレッスンで大きく変えることができます。なぜなら、表現力の基礎があれば、力の配分を加減すればよいからです。その前に声楽で高音域のマスタ―をしておくことが必要になることが多いのですが、声そのもののコントロール力の問題です。

 

○分解と再構成(マック・ザ・ナイフ) 

 

 私としては、ソロのプロでありたいなら、出る杭は打たれる合唱団のようなところからよりも、ステージを独自に牛耳ってきた人の方が早いのも知っています。歌手も今や、企画、演出、アレンジ、デザイン、スタイリストからメーキャップアーティストまで兼ねる存在なのです。演出家なども案外よい歌を歌います。たとえば、渡辺えり子さんの「マック・ザ・ナイフ」は、日本語の歌詞も含めて日本では最高級なものでした(エラのコピーでありましたが)。

 さて、音楽としての構成、展開を実感させるには、自らその曲の作詞、作曲、アレンジャーになることです。他人の曲でかまいません。次のような手順でぶち壊し、いえ、分解してみてください。

 まず、テンポを2倍にして、息継ぎの回数を半分以下にします。Aメロを一フレーズで捉えて感覚します。そう、8×4小節くらいを48回のブレスで歌っているのを12回でできるスピードにするのです。すると、全く違う音の関係やつながりが感じられるはずです。本当はそのくらいのロングブレス、ロングトーンに対応できる呼吸を養いたいので、そのためにもよい練習です。

 

○つながりフレーズ感 

 

 よくAA’、BAの基本パターンフレーズで(それぞれ8小節くらいで8×4)のときにプロや外国人がA’からBをノンブレスで続けて、Bの途中でブレスを入れて盛り上げるパターンがありますね。それを聞いてまねてやるとよくないのです。その形をとるのではなく実=身として呼吸が余裕があるから感情の盛り上がりでつながってしまうのです。それが即興であるべき歌の表現というものです。

 それをAA’、A’-BBAでもやってみてください。つまり、ブレスの位置を1つすらも、音の流れをもっともよいところにしてそのことを知るのです。

 1曲として、1コーラスとして、どのような動きをしているかを歌詞を抜いて、しっかりと併行していく。そのために、コンコーネ50などを母音や子音の一音、ハミングなどで歌っておくようなことは基礎の基礎となるのです。

 

○歌のドライビングテクニック 

 

 発声から歌唱を車の運転と思ってやりましょう。プロでも日本では、急アクセス発進、急ハンドリング(ステア)、そして急ブレーキです。これでは音楽的に心地よくありませんね。

 ちょっとした踏み込み、キーピング、終止の仕方で歌は天地のように変わるのですから、ドライビングテクニックでいうなら、車体感覚をもつことです。自らの体に置き換えて、しかも丁寧に体を扱ってあげることです。愛や恋を歌うのですから当然のことでしょう。

 丁寧に丁寧に、でも、そのようなところから始めるとよくありません。ハンドルやフロントガラスに目を近付けた危険な運転となりますね。ですから、教習所でも姿勢から教えます。本当は、そのための姿勢保持、筋肉、集中力などがいるのです。F1と言わずとも、レーサーと買物のためのドライバーは、求められるレベルが違います。そういえば昔、私はよく「レーサーになるのに、ずっと教習所に習いに行っても何にもならない」と言っていました。求めるレベルは高い方がよいのですが、運転は実用に応じたレベルの習得でよいのですから、そこは大きく違います。

 

○器と基礎力 

 

 作曲家は、かつては、歌手ために曲を書きました。その歌手によってその歌の魅力が十分に発揮されました。それぞれの歌手の器を知って書いていたからです。それが、ときに歌手が作曲家のイメージを覆ってしまうくらいの歌唱をして、ヒットするような時代になりました。作詞家の永六輔を怒らせたという坂本九さんの「上を向いて」の節まわり、沢田研二さんや山口百恵さんあたりも、よい意味で、当初の曲のイメージを裏切り続けた人たちでした。森進一、前川清八代亜紀、これら紅白常連組のベテランの3分の1くらいはそれにあたります。(そういう人のすべての歌がそういうものというわけではありません)

 シンガーソングライターになると、さらに本人が自分自身を総合的に演出することになり、声そのものや音楽としての基本デッサンの力は、あまり問われなくもなりました。

 JPOPSになると、プロになりたい人にまねさせるのはリスクがあるほど個と曲の結びつきが強くなり、歌の基礎力の大切さがわかりにくくなったのです。

 

○スタッフの力 

 

 日本において、歌手とまわりのスタッフの力の弱さは、今だに日本の歌手が世界に出られない最大の要因です。好きに楽しく歌えているヴォーカルに気づかうばかりに大切なことを伝えられていない。これは、プロデューサーからバンドのメンバーまで、私は、「本音で言ってあげて」とお願いしてきました。海外のように、まわりが皆歌えるなかで絶対的なものをもつ存在としてしか成り立たないのがヴォーカリストであれば、ミュージシャンレベルで厳しくレベルアップが問われます。声=音の世界でのデッサンとして演奏力が問われるはずです。

 しかし、日本ではけっこうなレベルのプレイヤーでも、歌や声には無知なことが多く、本当のアドバイスはもらえません。大体80パーセントはのり(リズム)、ピッチ(音高)だけの注意という情けない状況です。声を音として、音楽として聞く訓練がないのです。

 これは当のヴォーカリストにもいえます。まわりはヴォーカルよりも先に音楽の世界をつくって、そこにヴォーカルを当てはめようとします。そのために予定調和、悪くない作品になってもベストなものになりません。

 

○カラオケとヴォーカルの関係 

 

 日本独自のカラオケ現象は、アジア、欧米にも広がりましたが、つまり、ヴォーカルのつくりだしていく音の世界にそってプレイヤーが音を動かしていくというセッションが成立していないのです、なぜ、カラオケというかというとヴォーカルが歌っていても歌っていなくても伴奏は進行して、終わりまでいくからです。これはポップス歌謡全盛の60年代、すぐれた作曲家が編曲、アレンジして、歌手に伴奏をつけていたときに、相当、耳障りにバックの音が入っているのでもわかります。トータルプロディースとなり、ヴォーカルの力に全く頼らなくなっていったのでしょう。それだけの力がヴォーカルにないのか、今も昔も、まわりの人の才能を引き出し、果ては、ハイレベルなカラオケ機材まで生み出したのは、私の立場からみると、皮肉で残念なことです。

 

○あてになるヴォーカル

 

 作曲家やプロデューサーは、ヴォーカルのフレーズでのデッサンを当てにしなくなった。いいや、もともと当てにしていません。アドリブ、スキャット、即興もありません。形だけ合わせる、そんな歌には未来はありません。

 海外ではオリジナルのフレーズに対し、トレーナーがより応用技を伝えていますが、日本ではその前にフレーズを、音色を、さらにオリジナルのフレーズを養成するところからやらなくてはいけないはずです。いえ、そういうことであることを気づくところから必要です。そうでない限り、今のまま、いくら海外のトレーナーについても真の実力としては大して変わることはないのは、その声からも明らかです。ヴォーカルとしては通じず、トレーナーとしての肩書として使うだけのものなのです。