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「ダンスに学ぶヴォイトレ」

南流石さんに学ぶ

 心して聞いて欲しいことがあります。振付師、南流石さんのことばです。習い事の4つのステップです。
1.「他の振付師とか、踊りの先生は『君が楽しまなかったらお客さん楽しめないよ』って必ず教えちゃうんですよ」私は真逆なんですよ。『お前ら楽しむな。私のこの歌、踊り一生懸命やって、あなたに笑顔になってほしいのって気持ちを伝えることを優先して欲しい』って言いますね。『私の踊りみて楽しんでください』は100万年早い」
2.「ダンス側からだと『面白いでしょ』というつくり方になる。みている人側からみて踊りだしたくなるかどうか、というのを重視している」
3.「ネタ切れちゃう。自分の踊りがないから知っていることをやっていると途中で何をやったらよいかわからなくなる。これできない限り、ダンサーとは呼ばない。バックダンサーとしか呼ばない。自分の踊りがないのはだめ、今の踊りは誰でもできそうだよね。こんなの誰にもふじこのすごさわからないよ。振付けがあればできるだけだからね。それは代わり一杯いるぜ。消えてった人何人も知ってるから。そうならないためにはどうしたらよいか」
4.「楽曲聞いたらすぐ目的を同時に考えて、何のために踊るか、誰のために踊るか、それを一瞬でインプットして、あとは音が導いてくれるままにもっていけばいい。踊りづくりに情熱と衝動が大事なので」

○他人のことばを使うということ

 他人のことばを使うというのは、どういうことかというと、私は、最初は自分のことばだけで述べていたのですが、どうしても、原因や理由づけには若い自分の体験だけでは説明できずに、権威筋の理論や論文、科学的データなどを使うことになったわけです。まともな人からみたら、それが当たり前なのですが、未知な分野においては、そういうものを使うほどに、そういうものは、後で新発見とやらで古くなって、引用した私の分が悪くなるということで、あまり使わなくなったのです。まあ、権威筋が出していた本に「裏声は仮声帯で出す」、などと述べていた時代です。私はそこは引用しなかったのですが。
 本は誤植や校正ミスがあってもすぐに直せないので厄介なのです。図やイラストもなかなかうまく伝わるように描けないのですが、少しずつ改良されています。これは先人のおかげですが、私もじきに、先人の仲間入りをしそうです。
 そもそも、未知の上に個々の体をメインとし、音で展開するヴォイトレの分野を文字で記述するのは、最初から無理な試みなわけです。
 ですが、多くの人と関わって、交わす対話のなかにヒントがあるなら、それは役立てて欲しいとリライトして、編集して、残していったのが会報だったわけです。
 自分のことばだけで述べると、そのうち同じことのくり返しになります。しかも、アナロジーとして、ものの例えで説明せざるをえません。
 そこでは、他のアートやスポーツがわかりやすいので、アスリートやアーティストのことばを引用します。データとしてはよくなくとも、メンタル面においては一流の人のことばの方が有効です。有効であるならはよいではないか―ということで、私は広く「アーティストのことば」を伝えようとしました。今流行の蔵言集みたいなものです。

○引用の使い方

 引用するのですから、自分の論に絡めなくてはいけないのですが、案外と鋭い人には、面倒な解説なしに「○○が○○と言っていたよ」だけで済んでしまうのです。アナロジーのよさです。どんなことばも人間と同じく、その価値は受け止める人によるのです。
 とはいえ、同じことでもくり返し述べているなかで、わかっていく人がいるから、こうしてくり返しているのです。言っていることはいつも同じです。「本質を見抜き、自らに役立てる」ということです。「自らに役立てるように使う」「使えるようになれるように学んでいく」のです。
 なのに、残念なことに、まじめで勉強熱心な人ほど、「どれが役立つ」とか、「正しい」とか「間違っている」というクイズやゲームのようにしてしまいがちです。それは他人をはかっているように、実のところ、自らを貶めているのです。それでは宝くじに当たるよりも不利な勝負になります。
 当たりくじをみつけるのでなく、自分のくじを当たりくじにしていく、それが主体的に生きて学んでいくということです。
 教科書の中には、他の人の過去のことは書かれていますが、あなたの未来は描かれていないということです。
 
○蔵言のブーム

 蔵言とは、「よいことばに学び、悪いことばに学ばない」ようになるための、つまり「どんなことばからもよくなる方に学ぶ」ための試金石だと思っています。
 人との付き合いに似ています。相手の悪いところに目のいく人は、よいところに目のいく人よりも、その人とうまくいかないでしょう。悪いところさえ、よいと思える人は、誰とでもうまくやっていけます。
 自分の好き嫌いと別に、そのようにふるまえることが大人になるということです。レッスンも本もよい、悪い、正しい理論、間違った理論と考えること自体がおかしいのです。
 たくさんのことが学べるものと、ただ一つ、もっとも大切なことに気づかせてくれるものと、どちらがよいともいえません。
 ただ、その逆にすることばかり考えている人こそがもっとも損な人です。
 具体的な事例に基づく批判はとても大切ですが、それは、よりよい方向に行くために、という前提があってこそです。現実を潰すだけの反対論は何にもなりません。
 まして、ヴォイトレなどでは、一人の人間がいて、初めて論じられるものです。ですから、一般論とか多数決、多対多での論争などは全く不毛なのです。現実としては現実を潰したいだけ、暇な人が関わるものとしかいえません。
 
○2つの位置づけ

 「絶対的に正しい人」も「絶対的に間違った人」もいません。「絶対的に正しいやり方」も「絶対的に間違ったやり方」もありません。
 私がヴォイトレを論じるのは、多面的な考え方をして欲しいからです。方法や技術などでなく、ましてや、理論や知識でなく、表現と音声ということに対し、その学びの本質を知っていくことです。
 私の考えや思想を押しつけるつもりもありません。ただ、「もし自分がうまくいっていないと思ったなら、それを抜け出すヒントや問いがあるかもしれない」くらいで捉えてくだされば充分なのです。これがきっかけで本というよりも人とうまく接することができるようになれば、半ば成功です。残りの半分は、毎日の努力の積み重ねです。その2つ、それこそが、まさに表現と声のスタンスと同じものなのです。
 人に働きかけるものと内なる自分のオリジナルな声、これらは歌や芝居だけではありません。アートは、その象徴です。そのリアルとしてある現実社会でのそれへの仕事、生活に通じるスタンスなのです。2つの位置づけを学びましょう。

○楽しめるか?

 私がこれまで述べてきたことを重ねて、ダンスに著しく距離をあけられてしまった日本の歌、そしてヴォイトレのことを述べることにします。
 トレーナーが、最初に「歌やステージを楽しめ」と教えるのは、日本では、あまりに当たり前のことです。それと、真逆の私は、けっこうな批判も浴びてきました。「海外のトレーナーは、まず自分で楽しめと言うよ」などというのも何回も聞いてきました。私は本当に声が出ないことや歌えないことに苦しんだタチですから、それを「楽しんで克服しろ」とは言えません。
 何にしろ、プロフェッショナルとして考えるかどうかの問題にすぎません。自分で満足した歌は2曲(以前も書きました)、いつの日か、それを越えられたら嬉しいと思って、今も努力しております。
 活動を楽しむのは、+αが落ちてきたら、あるいは、本当に暇で何もやることがなくなったり、老化したときのリハビリ?になったら、でもまわりにすぐれた歌い手がいてくれるので、ますます必要とされません。その点はトレーナーとしても、まわりにすぐれたトレーナーがいるし…。
 外国人はあまりに楽しめていない日本人をみてしまうから、そう言うのでしょう。外国人のヴォーカルならハイレベルに「百年早い」を克服した人も少なくないでしょう。けど、そこまで日本人はいかない。つまり、そういのはオンビジネス、いやそこまでも行かない、単なる社交辞令ということに気づくべきなのです。

○楽しむ前に

 私の体験でも、プロとして、自立して一本立ちでやろうとする人には、楽しいとか楽しくないとか、そんなことではありません。聞く人やみる人が「楽しめるかどうかが全て」という、当たり前のことなのです。
 アスリートも、昔の特攻隊のようなオリンピックの日本代表の覚悟で、本番で却って実力を発揮できなかった日本人選手の反動として「楽しんできます」とか言えるようになった。そのために勘違いが加速されたとも思います。まあ、スポーツとアート、特にミュージックとの違いもあります。
 でも、百年の努力があって、ようやく人前で楽しむことに入れるのは、ダンスや音楽でも同じです。そのままアマチュア精神的なものをよしとしても、これは目的が違うだけです。
 ハイレベルな人のことばを、そのまま自分にあてはめてはなりません。
 プレイヤーやダンサーは絶対量が必要です。しかし、ヴォーカリスト、役者は量とはいえないために、楽しんで、そのままプロになれた人からそういうことが出るから、自分もそうだと思うと厄介ですね。

○楽しめないステージとは

 私はいろんなステージで、本人や本人たち(出演者)だけが楽しんでいるステージをたくさんみてきました。いや、トレーナーという立場上、プロセス上の人をたくさんみているのですから、半分は、そういうステージであり、そのうちのいくつかは本人も楽しめない未完成なものでした。
 ステージの見方ということです。この「楽しめない」にはいろんなパターンがあります。
 全力を出しきったけど本人が満足できない(客は大満足)というのが、プロのあるべき姿です。客の求めるレベルを超えるからこそ、次にステージがさらに高みに昇っていくのです。(ただ歌というものは、ステージと歌のよさとの間にいろんなギャップがあります。私からみると、どうしてもステージ力の方ばかりに評価が行きます。まして、声なんて…)
 アマチュアでも本人の実力以上のものが出ることがあります。1曲の1コーラスまでは、驚かされることもしばしばあります。2曲くらいまでならプロを上回ることもあります。これは私の期待する「ブラボー」の対象です。
 プロはコンスタンスに、すべてにおいて見せていかなくてはいけないため、特に日本では実力不足で、さらにリスクを避けるため、無難に、結果つまらなくなりがちです。ステージでなく歌ということでいうと、です。でも、歌でなくステージの勝負なのですから私の方が偏ってみているといえます。

○日本人の許容度

 伝わることが大切ですが、それが本人の肉体とその使い方に負うダンスと、今や複合アート化した歌(というより音楽のステージ)には、かなりのズレが生じています。日本のダンスのレベルは凄まじくアップしました。Jリーグ並みだと思います。世界に通じるトップダンサー、さらにクラシックバレエでさえ、世界レベルへの人材を出しています。
 私はこれをスポーツと同じく、目で分析できることでの日本人の可能性の高さとして論じてきました。欧米型の体型でないと不可能とも思われていたクラシックバレエでさえ日本人が成し遂げたのです。そこでは、個人の力が問われ、評価基準がはっきりしているゆえに実力の育成される体制がとれるといえるのです。
 歌い手は、声の魅力がストレートに問われる海外と、ほとんどタレント性でカバーできる日本では、比較になりません。(ミュージカルなどで比べると、とてもわかりやすいでしょう。今の日本では女性アイドルやタレントが主役でできてしまうのです。むしろ、実力派の歌手では務まらない―そこが大問題なのです)こうなると歌への観客の許容度は大きく、日本人は大いに甘いということになってくるわけです。
 
○働きかける

 私がオーディションを、客席の前や、特にもっとも後ろからみているようにしていたことは、述べたことがあります。私自身、私なりの見方だけに踊らされないように気をつけてきました。私の仲間のトレーナーや、お客さんの反応もともに受けとめて学んでいったのです。私の尊敬するアーティスト(複数)ならどう聞くだろうというのも、とてもよい観点になります。
 聞いていて、こちらの体が揺れていくか、心が弾んでいくか。つまり、動きたくなるか、踊りたくなるか―というのが、いくつかの判断の基準です。そこは、ダンスをみるのと全く同じです。
 どんなに声がよくても歌がうまくても、働きかけのないものはプロではありません。そこからみると、声のよさや歌のうまさは副次的な産物です。声量、声域などと同じで、プロになる条件とはなりません。
 もちろん、状況においては、きれいな声、うまい歌というのは、とても伝わり、深く感動させます。しかし、仮にそれは悲惨な状況では慰めのことばが心に響くようなものとしてみるなら、そのときその場で言う条件下にあるものとして、別に考えておくことです。(レコーディングの出来のようなものと同じで、ある条件下での評価と生きた歌は、私は異なると思っています)

○イベントとライブ

 私は「イベント」と「ライブ」ということばを意図的に使い分けています。「イベント」というのは、限られた時間で行われるものです。たとえば、何年かぶりに聞くと、歌というのはその人の心をも打ちます。でも、毎日となるとどうでしょう。
 私は、その日に聞いたら「すぐに、知り合いや友達に伝えて、連れていきたくなるか」というのを基準にしています。
 1,2曲聴いて、次に6曲もつか、2部のステージのエンディングまでもつかを予測します。職業柄お許しください。常に、即時に評価しなくてはいけない立場にいるからです。他の人のすぐれた歌唱の後に歌っても、さらに異彩を放つかどうかをみています。
 そこで勉強法として、「同じ曲で異なる歌手の10曲をCDに入れ、11曲目に自分のを入れて聞きなさい」と言っているのです。今もそのようなレッスンをしています。
 基準は、比較において、もっとも明らかになります。しかし、比較されるものは、それだけのものでしかないのです。すぐれたアーティストと比較するのは、よい勉強です。すぐれたアーティストは比較されません。
 人は好き嫌いでみますが、誰かの心にNo.1であればよいわけです。私情を抜きにしてですが。(「知り合いだから」とかはダメです)

○本当に心地よいもの

 こういう基準は、音楽之友社の最新刊「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」に述べています。
 私は、同じ曲を80人、80回、一日に聞くようなことを10年以上やってきました。そこから、曲のよさ、詞のよさなど、全て抜かしていく作業、その人への個人的な感情も(そのくらいの人数になると誰が誰かもどうでもよくなる)努力や全力というのも影響させない作業を通じて、ピュアに聞くことができるようになりました。(つまり心身も耳も疲れてくるから、やる気や勢いだけを通じているようなものでは拒絶反応が起きる)
 そこで聞きたいと思うのは、心身によいものです。ほとんどの歌が、失礼ながら、続けて聞くのに努力を要します。その努力ができなくなると聞こえなくなります。心地のよいもの、自分の免疫力を高めるものだけが残ります。クリアに聞こえ、それは清涼剤のように離しがたくなる、必要とされる。(といっても80分の1か2)こういうレベルでみれば、歌は音楽性のあるものがNo.1、役者などの歌は、全力で、あるいは雰囲気、その人となりが伝わるが、二流となるのです。

○「ネタ切れ」

 「基準をもって学ぶ。そのために、その基準を高めていくことが学ぶこと」になるのです。ですから、自分がよしと思えば、もうレッスンもやめればよいのです。基準アップよりも、そのレベルでの活動を重視するという考え方、方向もあってよいと思うのです。
 客は私ではないのです。むしろ客の反応に、よくとも悪くとも戸惑い、バンドやまわりの人の意見に悩む人こそレッスンにいらっしゃるとよいのです。
 きっと誰よりも明確な判断の基準を1秒単位で示せると思うのです。それを厳しくとるのならブロードウエイのオーディションなどを受けるときのレベルといえます。
 「ネタ切れする」「自分の歌がない」、これこそが日本人の最大の問題です。いや一つのネタもないまま、他人のを真似ている。つまり、多くのうまい歌手、声のよい歌手というのは、ダンスでいうとバックダンサー、つまりコーラスみたいなものです。
 それを目指すのはあなたの本意なのでしょうか?それに比べて、「声が変」とか、「歌もどうも」と言われていても、20年、30年以上やり続けているプロの歌手っていますね。日本には、それも作詞・作曲力といえばそれまでですが、「その人自身の声、歌がある」と思いませんか。

○DJヴォーカル

 ヴォイストレーナー、特に基本をきちんと勉強したり、声楽科を出た人は、発声や歌唱の正確さ、安定度でだけ、歌い手をみることが多いものです。それは大きな問題ですが、まず歌い手としてなら、その活動でみることです。
 ただ、ヴォイトレで「育てなくてはいけない」と思うと、どうしてもそういう正論のある基準に、そして「安定のためのローリスクな発声」の方向になっていくのは理解してあげてください。
 何もないよりは、こういう技術はないよりもよいからです。と言っても大きな面からみると同じことです。最後に「情熱や衝動」というのは、まさにそういうものなのです。
 あるミリオンセラーのヴォーカリストが、あまりに世界との差を知り、自らの力のなさを知り転向してしまったのを、私はその時期、案じていたのですが、それはネタ切れ、つまり、ステージで次々と即興のフレーズが生み出せない点でした。最初は声の問題でしたが、それを私はトレーナーとして否定しました。今の世の中、声そのものは何とでもなるからです。メインのヴォーカルがDJ、それでよいかどうかは、考え方次第です。でも、日本ではDJの方がはるかに即興性はあります。
 一流のレベルからは不要だが、一流のよいところでは、そこが基準になってしまうのです。芸や才能でみずに、やる気と体力と忠誠心でみているのですから、若いサラリーマン社会のようです。

○プロとしての力

 自分のネタは自分の歌というと、日本の場合、自分の作詞作曲したものが、ネタとみられてしまいます。シンガーソングライター全盛となったため、歌唱だけで勝負する歌手は少なくなりつつあります。プロ=それで生活している、となると歌唱より作詞作曲、印税がものをいうからです。歌手は、「自分のつくった歌を歌う人」となっていったのです。としたら、歌唱そのものの力が落ちたのは仕方ないということでしょうか。
 確かにプロとしての歌手の力というのはエンターテイメントの世界ですから、その名とヒット曲が世に知らしめられているかどうかです。その名や曲でどれだけ売れるか、人を呼べるかです。
 ただ、昔の杵柄で、ずっとやってきた人が多くなってきたのは、この時代、特に日本では、団塊の世代とポピュラー音楽のピークに一致したまま引っ張ってきた経緯があるので、ややこしいのです。
 でも、一度ウケた歌を繰り返し同じように歌っている歌い手ばかり、若いときと全く同じに歌えと求める客ばかり、となると、何とも保守的な国なのだと思うです。

○オリジナリティ~憂歌団

 自分の歌とは、私は「本人だけの声とフレーズ」をもってオリジナリティとします。つまり、自分のつくった歌がヒットしたのでなく、他人と同じ曲を歌っても、その歌手独自のものになるということにおいてのオリジナリティです。
 私が古いものは必ずしも好きでないのに、今もってなお、美空ひばりを最も評価せざるをえないのは、その点において、他に類をみないからです。今の日本のベテラン歌手といわれる人でも、彼女の歌を歌うと彼女の歌い方がもろに出てしまいます。それを自分に置き替えなくてはだめなのです。
 それにしても、日本の歌手はプロでも、他人の歌を歌うと自身のオリジナリティを失い、ただの他人の物まねになりがちでがっかりします。これでは、アマチュアのうまい人と同じ、あるいは物まね芸人レベルです。
 そこは、カバーでも一味も二味も違う、憂歌団の木村さんを見習ってください。
 海外で学ぶ日本のトップレベルのヴォーカリストでも、ただ海外のレベルのヴォーカルを真似ているだけで終わっているものが多いのです。日本では外国人に似た歌い方ができれば、その方が評価されるという、いつもの「二重性の問題」もここでまた出てくるのです。

○気づく力

 私は、月20曲に自分の選んだ4~10曲を加えて、年に240~360曲を、覚えられなくても、聞くように勧めています。できたら20~30曲から気に入った曲を8~12曲マスターしていけばよいのです。これでも甘いものです。
 ネタを入れ込んでいき、それがシェークされ、自分の強みをさらに強化し、弱みを補充するには、これしかありません。つまり、基準も材料も、ここから変わっていくのです。一流のものを入れておくことです。
 私は、なぜアマチュアの人が、多くのプロも知らないし、使っていないような発声の理論やヴォイトレの方法に振り回されるのかわかりません。
 プロは心身をつくってきたのと同時に、一流の声や歌を聴き続けてきた。歌はそちらが中心です。
 次に私が述べているように、同じように聴いても、入る人と入らない人、出てくる人と出てこない人がいます。そこで自分に気づいて変えていくことです。気づく人も、気づかない人もいます。しかし、こうして、気づくヒントを与えているのです。それこそがレッスンの中心です。

○遅れている

 ヴォイトレの分野は、取り組みも方法も人材も、結果の世界的レベルをみても、全てにダンスなどに比べ遅れをとっています。歌の客についても、文句を言える立場ではありませんが、とても優しすぎます。海外のように意志をはっきりとステージに伝える人などほとんどいません。ポピュラーで、実名で辛口なのは誰がいるでしょうか。私は批評家でないので、ヴォイトレを役立てようとする人に、ヴォイトレの可能性からのストレートなアドバイスをすることだけに専念しています。例に出している人たちには申し訳ないと思っています。が、有名税とお許しください。作品は批判しても、個人的な批判はしていないつもりです。
 未熟な分野は、そうでない分野から学ぶ方がよいと思います。私もいろんな未知の分野からの要望で、次々と新しい仕事をやらされましたから、いろんな先達を参考にしました。人間が行うことですから、やはり、全てに共通して通じる定石のようなものがあります。それをヴォイトレに関わる人には、先入観で狭めて妨げないでほしいと思うのです。トレーナーは主役ではありません。補助のサポーターであり、それぞれの人に未知の可能性はあるのです。

○多様性を認める☆

 最近も日本の有名どころの医者やトレーナーをまわってきた人が、ここにしばらく落ち着くことになりました。改めて、皆さん、先生方もうまくいかないことを認めたり、悩んだり、迷うことを嫌わないようにすればよろしいのにと、私の立場からは、本人たちにストレートには言えないことを、ここで述べます。
 私は比較的早くから、他のトレーナーとやってきたので、自分の短所、弱点を認めています。また、自分の長所や得意なことでさえ、世界や日本でも、すごい人がいることを知ることができました。今ももっと知ろうと努めています。
 この分野が未熟なのは、まだまだ「お山の大将」が多いからです。
 声というのは多彩なものです。「正しい声」、「間違った声」などは単独には、ありません。目的やケースによって大きく違います。
 声楽をベースにしているとしても、世界にはそれ以外のすぐれた発声表現もあります。日本でもたくさんあります。あるところまでは医学的な判断もできますが、表現となると、別です。私は、能や邦楽など、全く異なる観点から、声についても学ばされることが多くありました。

○万能になりえない

 「万人にとっての万能なトレーナーはいない」
 専門外のことは紹介状で専門の人にまわします。しかし、音声については、あまりにも少なく、しかも、どこまでの専門で、症例をどうみて、そう対処するかは、まだまだ多くの課題があるのです。
 何人かの有名な先生をまわっても、かなり見解が違います。まして、ヴォイストレーナーはとなると。何でもできると豪語する村医者のような人もいます。が、次の点からみましょう。これは研究所のトレーナーに対するアドバイスです。
1. とても伸びている。→でも、別のトレーナー、別のメニュ、方法なら、もっと伸びた可能性はないか。(トレーナー、別のメニュ、方法など)このケースでも「早く伸びる」と「大きく伸びる」では異なることを述べました。
2. あまり伸びていない。→でも、別のトレーナー、別のメニュ、方法ならもっと伸びなかったのではないか。
これは、伸びる人はどのトレーナーでも、(ここの研究所以外のトレーナーについても)あるいは一人でやっても伸びるケースが多く、その逆では、当たり前のように誰についても声が伸びないことがあるという事実の確認です。

○誤解のプロセス

 トレーナーも他の専門家(医師など)も、プロとなって実績を積むにつれて、一般的に次のような傾向が出てきます。
1. 最初、自分なりのやり方を試行錯誤しながら、自らの経験をもとに方法や論を確立していく。(仮説)
2. 他人にそのやり方を試してみる。(試行)
3. 効果が表れる。(実証)
4. そのやり方に自信をもつ。(確信)
5. 効果の出る人や、効果の方しかみないようになる。このとき効果の出ない人や、効果のないことをスルーしてしまう。無意識か、気づかないこともあります。なぜなら、そういう人の多くはいなくなるからです。
以前なら、自分の教えた通りにできない人や、うまくいかない人を非難したような先生やトレーナーも少なくなかったと思います。(とはいえ、どちらの責任かなどは、本当にわからないところがヴォイトレの問題です)医学は、救命や痛みを抑えることを第一の目的につくられているのですから、そこを忘れてはなりません。
 現場の判断と、これからの育成というトレーニングは別の次元のものです。現場(仕事場)の表現から、全く異なる判断の方を必要とされることは少なくありません。

○離反する

 音が導くように―まさに、プロのダンサーはそこで勝負しようとしているから、日本人でもマイケル・ジャクソンのバックダンサーのレベルにまで到達しました。
 歌はまだまだです。お笑いやダンスほどにも自分自身でつくるということを考えていないからです。振付師というのは音声の世界では、アレンジャーやプロデューサーが行っているものと言ってよいのでしょうか。でも、声の振り付けをして、結果として歌になるようなことこそ、ヴォイストレーナーの領域として、もっておくべきことです。
 合唱団のトレーナーは、指揮者として、表現とヴォイトレを一本に結びつけ、そこで求められる成果をきちんと出していきます。ポップスでは、一つの表現から入れないから、本人の表現から入るしかないから、「材料を与えて待つこと」が求められるということです。それには4年~8年はかかるはずです。ただ、声量、声域、ピッチ、リズムをちょっとよくしたいというような目的のレッスンでは、表現の深い世界へ結びつくよりは、むしろそれと離反していくと知るべきでしょう。

○鈍らない
 
感動を結果とする世界に邪魔なのは、退屈に麻痺していく感覚です。ですから、私は初心者のレッスンは30分で1コマで充分としています。本当のところ、初心者には10分でもよいとも思います。正味15分のレッスンもあります。60分あるのなら2人のトレーナーをお勧めしています。
 リラックスしてゆっくりと進めるところから入るのはよいことですが、それでダンサーのレッスンに勝てますか?
 他のヴォイトレの見学にはよく行きます。そこではリハビリ教室のようなことが多く、そういうことはプロの世界へつながっていると考えているのなら、感覚のレベルで鈍っています。
 そこをやめろというのでなく、そこで鋭くなるように使っていくということです。レッスンやトレーナーに左右されるくらいでは、世の中で何ができるというかです。声を一流に育てていくくらいの情熱やインパクトをもって取り組まなければ同じだと思うのです。いつもダンサーのレッスンの上をやっているかを問うてください。
 
○表現=基礎

 「表現というものは、ジャンルを超える」ということを述べてきました。その最たるものが神懸かり的なもの、ファインプレー、あるいは、ハイ、「ゾーンの状態」です。そして一方で、「基礎というのは、ジャンルを超える」のです。心身の力を欠いたアスリートもアーティストも、一流の仕事人もいません。体は、体力と柔軟、フィジカル。誰でも続けたら鍛えられていきます。それが限界を感じたり、老化していくなら、その分、心、精神、魂といったメンタルの力で支えます。
 私のヴォイトレは、この2極に近いところで行うのを理想としています。でも、多くのヴォイトレは、この真ん中くらいの中ぶらりんなところでやっているように思います。表現でも基礎でもないところです。
 あるいは、表現だけど基礎がないとか、基礎だけで表現がないケースもあります。本人がそれを知り、他で補っていればよいのです。このあたりはスポーツの練習を総合から部分、本番から体力づくりで分けて述べたことに通じます。

○アスリート並み

 技術は、表現と基礎を結ぶものです。心身の基礎というのなら、一流のアスリートなら充分にもっています。本番に強く、日常の心身の管理ができていなければ、スポーツで結果を出せません。歌手や役者はアーティストといっても、画家や作家よりはアスリートに近いものを求められるというのはわかりますね。肉体芸術だからです。
 歌やせりふの技術というのはありますが、私が基礎の話をするのはことば(日本語)と同じく日常化しているからです。その点、やや非日常に固められた声優やアナウンサーの方がカリキュラムはたてやすいのです。
 今の日本は、歌であれば、一流のアスリートやお笑い芸人なら、かなりのところまでこなせます。ダンスで述べた通り、歌手は、オリジナリティのレベルまでいっていない。ゆえに、世界に出る人材もないし、TVでも物まね芸人にワクを取られてしまうのです。
 つまり、古典芸能のように特殊化して、保守化しつつあるわけです。ですから、アスリート並みの心身をもつこと。これが基礎としては大切だということです。

○高音の技術

 心身の強力なアスリートが歌っても追いつけないところが、歌い手の歌い手たる技術ということになります。そこでわかりやすいのは、声の高さがどこまで出るかです。そこにヴォイトレの、歌でしたら8割くらいの目的が集中してしまうのです。しかも、誰かの歌をカバーしたいとなると、今のプロは高音やファルセットも使うので、そのマスターが全て、いや前提のように思われてしまうのです。
 私は、声域などは結果論であり、人によっても違うのですから、メインの目的にはしません。
 しかし、求める人の目的には対応したいので、もともと高い声の出るようなポップスの先生よりは、少しずつ獲得していった、より完成度の高い声楽のソプラノ、テノールのトレーナーに任せています。
 日本のミュージカルや合唱、ハモネプなどは、ハイトーン、ファルセット、共鳴、ハモリ、ビブラートというのは、まさに音大のベースで一致するからです。声楽家でありながら、若くてそういう条件に恵まれた人は、目的もキャリアも、問われるものが違うのですが、大いに参考になるはずです。

○レベル

 私がサッカーを私のまわりのど素人たちと楽しむなら、シュートだけ練習したら十分です。でも、サッカー好きの少年たちに勝つためには、シュートよりも、ボールを受けパスを出したり、ドリブルする練習が必要ですね。「こういうのも何時間かやってみる」、というのが、今、行われているヴォイトレ、基礎と本番(試合)の真ん中にあるべきものですね。私が、もし本気で勝負に出るなら、まず、彼らに走り負けしない体力、走力、筋力をつくります。試合は5分ではありませんから、走りで勝てばおのずと勝利は転がりこんできます。走り負けたら、シュートのチャンスもボールの触れるチャンスもありません。こういうことなのです。まして、Jリーガー相手に考えたらどうなるでしょう。
 前にK1のファイターがパフォーマーに転向した話をしました。彼にあったのは心身とステージへの発想、直観です。それは、ファイターだったときも闘うだけでなく、人に伝えることをリングの内外で実行していたからです。

○高める

 プロとして、レッスンではヴォイトレや発声、技術の習得が前提ではありません。自分のもっているもの、もっていないものを知ること。そして、足らないものがあれば、それを身につけるかどうか決めること。その努力をして身につくかどうかチェックしていき、さらにフィードバックしながら、少しずつ高いレベルで自分のもっているもの、もっていないものを吟味していくのです。
 このプロセスでどんどんうまくいくなどというのは、肝心のレベルアップをしていないことが多いのです。
 それは、同じトレーナーと同じ6階級くらいのファイトだけをずっと続けて、「強くなった」と言っているのと似ています。相手のグレードが、ステージのクラスが上がると低レベル(まわりはやっていないか趣味程度)で、通用したことで、自分は「もっている」と思っていたものなどは、大して実践に役立たないとわからないのです。
 トレーナーはレッスンでそういうことをきちんと伝えなくてはいけないのです。トレーナーともども4回戦ボーイで、何回やっても何年やっても、最初に少しうまくなったら、そこで進歩が止まってしまうのは当たり前ではないですか。

○待つ

 「本当にやらなくてはいけないことをやる」「本当はやっても何にもならないことやらない」この2つを見分けるために、トレーナーというのは存在の意義があるのです。
 トレーナーには、それぞれに専門があります。その専門のところだけで使えたらよいのです。逆に一人のトレーナーが、何でも与えられるなどと思い違いしないことです。お互い、謙虚に相手に学んでいくことです。
 つまり、やるべきことはそんなに多くないのです。とてもシンプルに、表現と基礎、表現と自分を結びつける一本の線をみつけることです。いろんなものは捨て、あるいは、もっとそのことに才能のある人に任せ、自らの武器としては、自らのもっているものを強く鍛えていくことだけ。それを知るべきなのです。
 その一つが声というなら、そこに一時、専念します。いろんな歌い方や発声を覚えるなどは余興として、たった一つの絶対的な声を、声域も声量も何ら気にせず手に入れ、育てることのです。それが音楽となり、自らを歌い出すことを待つことなのです。