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論4.あえて”反科学”の勧め(発声に関して科学的なトレーニングの是非について)

Q.発声に関して科学的なトレーニングの是非についてお伺いしたいのですが、そういうものは本当に科学的に実証できるに値いする効果はあるのですか。

「あえて”反科学”の勧め」

○でていない成果

 科学や理論は、これまでも触れたように、完結したもの=知識となったものもありますが、そこまでのプロセスでは仮説―反証―新仮説の繰り返しです。音声についてはここ20年、発声、歌唱についてはここ10年くらいでめざましく進歩しましたが、その知見とトレーニングでの成果というものは必ずしも結びついていません。
 それに対し、経験的な直観による指導は、少なくとも、発声、歌唱においては、はるかに優位にあります。とはいえ、ときとしてそれはトレーナー個人の力量や個別の方法において、ということで否定されやすいのです。
 しかし、私がみる限り、この分野において科学や理論こそ、未だ個人の仮説のなかに留まっています。マイナスをゼロにするという医療のレベルにおいて、日本の喉に対する診療技術は、世界的にも評価できるものと認めています。ここでゼロというのは、救命する、痛みをとる、元通りに復元するという意味です。
 しかし、一方で、オペラを代表とする発声、歌唱技術について、日本では、音大生レベルでは世界の平均に達してきたものの、マスターレベル(ハイレベル、世界一流レベル)では、相変わらず二流であるばかりか、アジアやアフリカにも抜かれているではありませんか。ポピュラーもしかりです。
 一般の人が、声楽家としてあげられる日本人の名前は、多分、昭和の頃の方が多かったでしょう。今、声楽の演奏だけでプロとして食べていける人は1ケタしかいないでしょう。
 客観的事実、方法、分析も、その成しえた結果からみることです。それこそが科学的態度であり、実践していく人に大切なのは、そうであろうとなかろうと現場で使えるもの、成果を上げるものです。

○限界より前提レベルの段階
 
 現代の日本の科学への信仰主義は、スポーツなどの進歩と、センサー技術での計測値分析の普及に影響されていると思います。ただ、その前提に、日本のこの分野では、相反するくらい大きな違いがあることを忘れてはなりません。
アスリートたちは20世紀よりもはるかに上をいく記録を出しているのです。人間の肉体という限界に対して、同じ種目でそれ以上に記録を塗り替えていくためには、科学に基づくフォームの改良や筋トレ、体幹トレなどと道具(ユニフォーム、シューズ、フィールド)の改良しかありません。それは時に流体力学から革新的なフォームを編み出したりします。
 とはいえ、それもほとんどは、選手やトレーナーの発想の転換によっての好成績を、後で科学は分析し実証したにすぎないものだということも忘れてはなりません。
 翻って、今の歌手、役者は、少なくとも日本においては、大半は20世紀の歌手、役者よりも体力、精神力、忍耐力、持続力など基礎能力が落ちています。それを補うために、医療レベルで科学を使おうとしていれば、それは一時的にはよくなっても、根本的な問題解決になりません。そのことは、私はくり返し指摘してきました。

○対処療法の限界

 マイナスのためにゼロにするための治療は、昔より喉や呼吸については医療が荷ってきました。老化防止にさえ、医療は、対処療法しかできない。つまり、自分で生活のなかで、足腰を毎日鍛えるしかないのです。メンタル、フィジカルの弱っているのを科学や理論で補おうとするのは、最初から方向違いなのです。占い師に頼っていくようにメンタル面での効果としてしか効能はないのです。サプリや薬もあくまで補助なのです。
 現実に、この対処療法のようなレッスンを求め、行ってきた人がここにくるのでよくわかります。そのトレーナーとともかくやってきたことが、そこ以外のところに一声でもトレーニングの成果を示せる力がついていないのです。なのに、どこが科学的、もしくは理論的なのでしょうか。いえ、それこそが、科学的で理論的であることの限界だからこそ、プロとして第一線級にいる人たちは、直観的にそのようなことに囚われないのです。
 MBAを取得してきたのに、現実の日本の会社で、それを有効に使えない社員や、経済学を学んでも会社を経営できない日本の教授や経営士などと同じで、日本らしい一面だと私は思うのです。
 この分野の真の科学や理論の発展は私も望んでいますし、それについては研究所ですから相当の研究や勉強もしています。しかし、それを使うのは、5年、10年、20年と結果を出していったあとのことであり、そこを間違えてはいけないと警告をしておきます。

○意義と責任

 私が今、このことに詳しく言及するのは、その意義と責任を感じているからです。
 第一に、私のところにいらっしゃる方や質問をしてくる方は、どちらかというと真面目、かつ勉強熱心な方が多いことです。それが時として、新説や新理論に振り回され、考え方が片寄ってしまうことが少なくないからです。それがトレーニングの方向や、やり方によくない影響を与えるからです。
 第二に、私のところは複数のトレーナー制をひき、また、私自身セカンドオピニオン的な仕事を長く続けてきたからです。つまり、それは客観的であろうとする努力であり、同時に科学的、理論的、実証的であることを求めていくことだからです。
 第三に、「声のしくみ」(ヤマハ)を筆頭に、いくつかの著書にそういった成果を私なりに汲み取り、まとめ、発表してきたことに関係しているからです。その本で先に述べたようなことに関心をもった人もたくさんいると思われるからです。
 第四に、トレーナーにつく人や、なろうとしている人をたくさん引き受け、さらに連載「トレーナーの選び方」に、長らく、一人よがりを防ぐための客観的な立場を持つことの重要性を訴え続けてきたためです。

○正しいとしても使えない

 客観的であろうとする私が、それゆえ、ときとして、科学や理論を否定するかと思われるべき発言をせざるをえないのは、いくつかの理由があります。まず、その科学、理論がエセとはいわないまでも、まだその名に値するほど確かなものでないこと。次にそれが完全に実証され、正しかったとしても、正しいという範囲内においても、それでトレーニングとの関係が定かでないものが大半であること。
たとえば、誰かの方法を、そこで使われている用語の使い方などをミスとして、正しく指摘したとしても、その指摘した人の提唱する方法がよいという証拠はどこにもないのです。でも、多くの人はそこに気が付きません。
 バックグランドとしては、そのようなものに基づいて教えられているはずの生徒さんに成果がほとんど出ていないことです。なかには、「そのトレーナーだけには、とても認められている」のに、というケースもあります。その方が実は問題です。二者間、もしくはそのグループ内だけでのクローズの関係性のなかでのみ成立しているからです。
 トレーナーや指導者は、その仲間内や学校などでもそうなっているのかを常に疑い、反省すべきです。私自身は、それを自らのまわりで検証し、10年かけて排除しました。日本の家元で一代にして潰してしまうのは、イエスマンで回りを囲み(世間体をよくすることで)、本人と弟子のみ満足する裸の王様たち状態になるからです。形は残っても内実はなくなっているケースも含めます。

○否定でなく成果を

 育てている人をもって実証する。それを1つめの理由とすると、2つめの理由は、本人(トレーナー本人)のことです。
 私のところには、様々なトレーナーから生徒さんがいらっしゃるので、日本の現状のブレはもっともよく知る立場にあります。ただし、上手くいかなかった人がくるので、前のトレーナーの悪口を言われても、それが、そのまま実情であると思うことはありません。どこに行っても上手くいかない人や誰からも学べない人もいます。また、誰かにつかなくては身につかないわけでもないからです。
 
 ここで改めて申すまでもなく、他人の言論について、特にこのように記述されたものを、それ自体で論じるのは、ほとんど意味のないところです。そういうときに、科学的知識とか、生体学、原理、理論などを持ち出すと、一見、誤りを指摘し、論破したようにみえますが、実のところ、本人の自己満足になっていることだけなのです。
 一つには、誰もが手探りでよりよくしようとしている段階で、それを上から否定しても何にもならない。それに代わる提案をし、実践をし、成果を出さなくてはならないということです。が、大半の人は実践さえせずに言葉上での否定をしているだけです。

○何をもって正しいとするのか

 もっとも問題なのは、「本人だけが正しく精通し、この分野を理解している、それゆえにそうでないから、こういうのはダメだ」という輩です。自分で用語を定義して、それにあてはまらないから、間違っているというのでは話になりません。(用語の定義は、それ自体、この分野ではかなり難しいこと―というのは、共通の理解と確認が、そこで成されないといけないからです。現場に根ざした相当に密なコミュニケーションが必要であり、統一された大規模な組織でないと、それぞれがまた派閥のようになり、論議をくり返すだけになります)
 仮に、その理解が深く、指摘が正しく、否定も正しかったとしても、だから何だというのでしょう。現場では何らそういうものは通用しません。
 それに代わる具体的方法や理論はあるのか―それをどこから持ってきたというならそれもよいでしょう。それで誰をどう育てたのか、そこで育てた例をみると、全く声や歌の力では評価されていないタレントなどの名前くらいしか上がっていないというのでは、一体何なのかということでしょう。

○マスターのレベルでみる

 現実はレッスンを受けた人がどうなっているのかの現状、結果をみなくては何ともなりません。私の知人の邦楽の師匠が「腹式呼吸とか横隔膜呼吸なんていうからおかしくなるんだ。腹から出ているんだから腹から出せばいい」と言っていました。声楽や科学的な見識をもって、これを否定したところで、邦楽は元より、声楽も進歩するでしょうか。
私は以前、述べたように、横隔膜の位置を正確に伝えては(それはよいとして)却って、深い呼吸はやりにくくなるケースも多々あると思っています。みるべきことは、ことばの正しさでなく、その師匠の弟子がその教え方で基礎をマスターできているかどうかです。
 
○事実と反するのがあたりまえ

 「ことばの使い方が事実と異なるからだめ」という幼稚な指摘は、机の前だけで考える人がよく犯す”間違い”です。バスケットで、「膝でシュートしろ」とか、野球などで「腰で投げる」、「腰で打て」とか言うのも間違いでしょうか。コーチは、「科学的?事実として間違っている」のを知っているのに、なぜ、こういうことばを使うのでしょうか。当然、効果を出すためです。
 事実に基づく正しいことばが、プレーとしての勘違いを、現実に助長しているなら、事実と異なることばを使ったほうがよいということです。
 ことばはトレーナーとそれを受ける生徒さんのなかでのイメージを引き出すキーワードです。そこに正しい知識とか定義された専門用語を使うべきなどというのは、論破のためのトリックにすぎません。

○効率で判断しないこと

 こうした理論家は、効率を最優先に考えます。「早く楽に上達すれば、それがよい」というのは、もっとも入門者や生徒さん、ビギナーを惹きつける魔法のことばです。しかし、「一日セミナーでよくなった」というのは、せいぜいワークショップや公開レッスンのための処方です。私自らもやったからわかるのですが、今、流行の「3週間で…」「1日で…」「3日で…」「1分内で…」の類と同じです。
 素人の固い体と頭をほぐせば声は出ます。そういうトレーナーのレッスンと、他のトレーナーのレッスン、あるいは、ヨガ、整体師、マッサージなどと比べてみるとどうでしょうか。その成果にたいして変わりはないのです。(リハビリのヴォイトレでも、その方法で元気を取り戻していく人にどのくらいプラスになったかは判断しようがありません)

○誤解、曲解のおこる理由

 現場で創案された一つひとつのイメージ言語に、医学や科学の知識や言葉の定義を持って反駁するほどむなしいことがあるでしょうか。成人になってからは、さして大きくならないという肺活量ですが、「肺活量を大きくしましょう」という言葉でそうイメージさせても、結果がよければよいのです。問われるのは、現場での実績が上がっているかどうかです。
 それを、本や理論として発表すると、それを読んだ人が誤解や曲解してとんでもないことをする。そこに注意が必要だというだけです。
私の本もずいぶん誤解、語用されていますが、それも著者の理論や知識の欠如の責任なのでしょうか。もちろん誤解を防ぐ努力は、最大限に尽力すべきですから、私は、本も毎回書き改め、こういうものでもフォローしています。しかし、活字の限界というものを知らないと、こういう情報は答えでなく、問いかけに過ぎないことを知らないと、本当には何にも役立ちません。
 新しい分野であるということは、知識や科学の方がどんどんと変わっているということです。そちらの方が本当に信じこんではいけないものであるということくらいに見抜けないものでしょうか。
 勘や判断力をつけさせるために、いろんな方法、イメージを与えていくべきなのです。それを、型(知識や科学、理論)にあてはめ、「全て同じようにしなくては間違い」としたがるような人こそが、結果として、もっとも反科学的、主観的なことをしているのです。

○トレーナーの未熟さ

 さらに、「早く成果が上がるのがよいとするなら、それは、早く次のレベルへ高められる、その時間がとれる」ということがあるからです。早く成果が上がったために次のレベルにいけずに限界になるとしたら、それは本来は否定されるべきことでしょう。
トレーナーこそ長期的な視野に立って、それをあえて指摘しなくてはいけないはずでしょう。なのに、多くのトレーナーは、求められるままに、今すぐによくなる(かのような)方法をすぐに教えます。
 「一時、遠回り、場合によっては悪くなっても、それが後日、大きく開花すればよい」という考えはないのでしょうか。
 基礎の基礎をやることは、成果を一時お預けにする。自己流やくせを取るのもそういうことです。一流になった人の多くは、試行錯誤を繰り返し、あるトレーナーのもとで学んだことを、次には疑ったり、自分のやり方を全否定したり、年齢とともに方法を変えたり、プロセスとしてかなり非効率的なことをやっていることを知ってください。私はずっと間違った方法でやってきたが、あるとき、この方法で開花したなどというのは、アーティストとしてはともかくトレーナーとしては、未熟そのものなのです。(だから、その方法を教えるというのが自己啓発書レベルの売りになるから、そうなりがちなのです。)

○結果から反省する
 
 効率がよいのはありがたいし、そうでなかった先生ほど生徒のために効率よく教えてあげるのは教授法の進歩としても、それで生徒はより早く、ではなく、より高いレベルにそのトレーナーのレベルを超えられたのかが問うべきことでしょう。超えていないのなら、生徒の才能を自分の能力の範囲内で拘束するレベルに閉じ込めているとさえ言えます。
 先生というのは、生徒の中でも比較的、有能な人がなります。そして、生徒もその先生のようになれたらよいと、その先生レベルを目的におくのです。そのためにそれを100パーセントとして、7,8割、早く近づけるレッスン(方法や教え方)がよしとされ、評価される傾向になります。
 特に日本の風土ではそういう権威に反する人は疎まれますから、先生となれたまじめな先生ほど、親切に、よい人間関係において自分よりできない人ばかりを自分のレベルまで引き上げるだけのレッスンを唯一のものとして行います。
そして、代々、トップの力は落ち、平均の力は上がるのです。つまり、革新や部外者を認めない、そこでは徹底して、保守的、かつ、権威主義なのです。それがオペラも邦楽もスターを出せなくなった一因だと私は思います。日本のすぐれた先生たちは、他の先生のやり方を認めず、また本番では協力もしません。それも自分の牙城を守るためです。

○大きな声への否定

 「大きな声を出すな」これは声楽でもポップスでも近年の指導者に黄金律のように守られつつあることです。効果より発声、特に声域(高音)とコントロール、全ては喉の管理のためです。ポップスではマイクもあるので、なおさらです。結果どうなったか。喉のリスクは避けられるようになりましたが、大きな声は出せなくなりました。
 歌には大きな声は不要な場合もありますが、世界の歌手や役者などは大きな声が出ます。ただ、必要ないなら使わないのです。大きな声が必要かどうかの議論をする気はありません。でも、出ないより出た方がよいでしょう。などと述べると「大きな声とは喉声で、声は共鳴させるものだから間違い」「大きな声を出したら喉が痛くなった」みたいな反論を受けそうです。

○普通化、法則化にそぐわない

 一流の歌手や役者は、科学的なことからは、まだ説明できないことを可能としています。そこに科学的論拠がないからといって、それを否定するのは何の意味もありません。
 私が述べたいのは、一人ひとり違うという個性は、科学や理論では人間にあてはまること、つまり共通のところで進めていくために無視されてしまいがちだということです。トレーナーにできなくても、生徒さんにできる人がいるかもしれません。これまでにできなかったこと、絶対できないと思われていたことが、ある日、誰かによって成し得ることがあるかもしれません。ある生徒にはベストのやり方、あるいはベストのトレーナーが、別の生徒にはワーストにもなりうることを述べたことがあります。(高いレベルになるほど、これは、むしろ必然になるのですが、どこで伝えるかはそれぞれに考えがあってよいことでしょう。)

○ていねいの目的

 「ていねいにすることの大切さ」については、私のレッスンでは一音で一時間もやるくらいですから、この世界でもバカがつくほど丁寧です。音域や音程やリズムさえ入れずに音色だけで絞り込みます。
一方で、一見、粗野や乱暴と思われることを許容することもあります。またそのようなアプローチがうまくいくタイプもいます。全体をパっと把握するのには、案外と向いています。私自身は、絵でいうと対象の本質を把え、個をもって表現すべきであり、寸法通りに正しく描くとか、うまく描かせるのがよいことだと思いません。
(ここで考え方の違う人は、私の論など不要です。)

○OKの範囲

 音色は一人ひとり違います。声楽家がノーと言ってもマイクを使うポピュラーでは、よいということはたくさんあります。私のヴォイトレからいうと「再現が堅実にできる」ならよい、そこは声楽家と共通しますが、声楽家としては通用しない歌い方や音色も表現力からみてよければ、当然OKになるのです。

○パワーの必要性

 「正しいヴォイトレのしかた」というものに基づいて、表現力よりも、喉にかからないだけの声や、コントロールしやすいだけの声の方を取るようになれば、ポピュラー歌手としては終わりではありませんか。現実には、そのようになっています。これでは歌のパワーが宿るわけはありません。お客さんが読み込んで、ようやく成立している歌が、どれだけ多いでしょうか。このパワーは、力だけでなく、説得力、伝達力、表現力、アートとしての力も含みます。

○ヴォイトレの2つの役割

 ヴォイトレの役割には、フォローとしてステージを安定させ、長く活動するために選ぶべき技術、スキルというのもがあります。しかし、それは第一に表現力があってこそのものです。つまり、歌う歌があってこそ、歌い方が問えるみたいな関係です。これが逆転した人を、声楽家については私は何も言いませんが、ポピュラーや役者であればヴォイトレに関心を持つ人や、ヴォイストレーナーにも多いので困っています。こういう人は、理論や発声から他人の歌や教え方を否定することを、専ら意欲をもって行っています。それゆえ、そういう人のためにも、私は述べています。

○管理術に堕したヴォイトレ

 今やヴォイトレは声の管理術に堕してしまったのです。ただ、リスクを避けるために調整するだけ、音響技術のおかげで調整だけで歌らしく整えることができるようになったからです。ところが、アイドルなどでは、そうしたレコーディングテクニックも対応できず普通の声さえ出ないから、声を出せるヴォイトレという、さらにレベルの低いことが生じてきたのです。私もここのところ、医師のレベル対応しているケースが多いわけです。(医師につれていくこともあります。)

○実践レベルをめざす

 さて、発声の生理学への科学的アプローチは、私はトレーナーとして音声分析(音響物理学)と同じくらい、興味をもって、その成果をみています。しかし、研究の補助として使うのがメインです。トレーニングやレッスンには、直接の影響は及ぼすようには意図していません。いずれスポーツ科学や医学のように実践レベルになるのは望ましいし、期待もしています。しかし、これまで述べたことの説得力を高めるために使うというなら、トレーナーとしては本末転倒ということになるでしょう。

○無意味な混乱

 トレーナーも生徒も、曖昧なヴォイトレに科学的根拠を与えたいがために、こういう知識、理論が過度に流用され、却って混乱を引き起こしているのが現状です。いや、混乱ならまだ救いがありますが、鵜呑みにして、そのまま疑わず、結果も出せず、という状況がよくないと思うのです。
 「腹から声を出す」に対し「声は声帯、息は肺からで、お腹から声は出ないし、そんなところに共鳴しません」というような正答に何の意味がありますか。「喉頭のなかの声帯を1秒間に○○回ベルヌーイの原理によって開閉(振動)させ、声道で共鳴させましょう」と正しく改めたら、よくなるのでしょうか。

○分析より、活かし方

 私は、それぞれの筋肉やツボ(経絡)などの名前や働きなどをトレーナーは知っておくように勧めていますが、生徒さんには求めていません。知りたければ何でも勉強しなさいと言うに留めています。
 科学は、ものごとを分析していきます。
私が医者などの専門家に生徒をみていただくと、当然のごとく喉に問題のある自覚のある生徒さんは、それぞれ普通の人に比べ、こういうところが劣ると具体的に教えていただけるわけです。喉頭や声帯の周りの構造や大きさ、角度、左右の対称度など、それは事実ですから、レントゲン写真と同じで、知ることは悪くないのです。
しかし、それをどう活かせるのかは本人次第なのです。私やトレーナーが知り、本人が知ったところで、その日からのトレーニングは変わりません。変えるべきでないことの方が多いでしょう。
それは、医者の声帯の所見よりもトレーナーの経験からつくる判断の方が少なくともトレーニングにおいては現実的な解決へ結びついているからです。医者の処方するステロイドなら劇的な効果がありますが、それ以外は、どこの筋肉をどう使うということ自体、スポーツで使う大きな筋にもまして不可能なのです。

○欠点はあとまわし

 客観的な所見での欠点としてだけの自覚、これだけではモチベートを下げてしまいかねません。成果が出ないときに、それを全て喉の構造のせいにしかねないのです。つまり、改良の余地のない現状の把握より、すでにもつ体としての現実から、よい方向へスタートさせることがもっとも大切なのです。少なくともトレーナーの役割はそこにあります。

○指導法

 1秒間に「声帯が420回しか振動していませんからもう20回アップさせてください」こんな指導法はいるでしょうか。
 ピッチが少し下がっているとしたら、それを自覚させること。そしてピッチが合っているイメージに修正する。それに基づいてピッチがとれるようになる。つまりは統合されたイメージに導くことしかないのです。感覚を磨いて発声器官の働きを調整していくのです。
 総合的同時統合ということで可能になるのであり、ベルヌーイとかで声帯のカーテンに空気が流れるからくっつくとか、その振動の形を喉頭カメラでみたように動かそうとしても無理なのです。

○イメージからリアリティ

 事実(現実)でなくイメージ、リアルでなくリアリティが大切です。少なくとも、医者がそうしているように、私はトレーナーとしての説明責任以外に声帯の働きを知ったり、教える必要を感じません。出た声の分析の方が、まだ本人の上達の比較研究に使えるでしょう。何よりも一流の歌唱から統合的な感覚イメージを磨く方が実践的なのです。総合的かつ相互に複雑に関わって出てくる結果としての声は、分離しても無意味なのです。

○未熟な音声発声分野

 何事も知ることは悪くありません。しかし、解剖された喉頭は死体で、つまり、この研究所においてある3倍の喉頭模型と同じです。生理的でないのです。ここを引っ張るとこういう声が出ると言っても、あまりにシンプルな働きしか見せられません。
 いかに科学的に実証できなかろうと、先人たちは何ら科学的な手段なしに、偉大な歌唱や音声芸術を生み出してきました。
今やスポーツは科学なしに教えられませんが、芸術、少なくとも音声、発声については、過去を凌駕したなどと言える人がいたら、学者、トレーナーでも誰でも教えてほしいものです。

○プラシーボ

 理論や知識は+αで使うべきものであり、その前提として、心身の条件、状態を整えるだけでなく鍛錬がいると思えます。今の歌手の喉は昔の歌手ほど、心身共に鍛えられていたレベルに到底達していないとするなら、そこを補うところからスタートです。
 それなのに、心身が使えないゆえに心身のリラックスがヴォイトレのメインとなり、ちょっとした科学的な知識や理論がプラシーボとして大きな効果(マイナスをゼロにする)をあげているというのなら笑止千万です。こうしたトリックの中に関係者の多くが巻き込まれるということに気づくべきだと思うのです。

○本質の再把握から

 和田アキ子尾崎紀世彦も大きな声でした。それゆえに、声の調子もしばしばよくなかったというのであれば、声の調子のよい、すぐれた歌唱力を持つ人を育てることでしょう。
 生涯伸び悩む人は、せっかく追いつこうとし、努力しているのに、それゆえ早く限界をつくって、そのワクのなかで満足してしまいます。やたら科学や理論ということに頼るようになります。それは、ときとして、さらに本質を見失わせ、その人の本当の発展を妨げることになります。
 +αとして科学の発達とその計測という手段には大いに期待したいものですが、その前にやれることがたくさんあります。やるべきことをやらずに使っても先人のレベルを超えることはできません。また、使うとしてもそれを全面的に頼るのはおかしなことなのです。

<参考>声と歌の話

「朝9時から夜8時まで庄内川の橋の下で歌い続ける。同じ歌何百回歌うと、いつの間にやらマネがとれ、角がとれて、今日の自然体の田端式発声法ができあがった」
「バタやん奇跡のカムバックと人は言うけど、そんなもん執念の歌ですわ、これは。私は、歌手としてどんな不遇の時代でも、歌手としての心を忘れまへなんだ。カムバックやおまへんのや。私は歌うてました。ず~っと歌うてましたんやで」

○声の色 五十嵐喜芳

「美しい声の人はたくさんいます。でも、その声を聴き、感動する、そう言った声の中に色が出てくる、そういう方は本当に数が少ない」「本当に自然な発声で歌う」(ティート・スキーパについて)「もう出来上がったというのはないのですから、声には」

○腹から出せ 野村萬私の履歴書

 「声は大きく、腹から出せ」と怒鳴られては、何遍もセリフを繰り返させられた。(中略)
 舞台に立つものになるのは声と体だ。悪声とか声量がないと苦労する。しかし父は「声のいいヤツは声に溺れて小器用に傾く弊があり、悪声の者は習得したことをよく守ろうとし正しく謡うので、結果として美声家をしのぐケースが少なくない。苦しんできた声には妙味がある」と言っていた。

<参考>「キャリアポルノは人生の無駄だ」からの引用

 谷本真由美さんの「キャリアポルノは人生の無駄だ」自己啓発書を何冊も読んでいるのに、なぜ、スゴい人になっていないの?―という本です。反“科学論”の参考に掲げておきます。

○電車やバスの中にも、派手なスーツを着た著者の写真を全面に打ち出した広告が山のように掲げられています。そのような著者は、地道にビジネスをやってきた人ではなく、ネット広告で物を売り手数料を稼ぐ「アフィリエイト」というサービスで財をなしたと「自称」する人であったり、まだ若いのによくわからない方法で資産何億円を得た「起業家」という肩書です。なぜか、そういう本に掲載されている著者近影は、人気のラーメン店にいそうな強面の店主に似ているのです。

 また、「ハーバード」「東大」「ケンブリッジ」「外資系」「MBA」「マッキンゼー」などの「一流他大学名」や「カタカナ企業」の名前もずらっと並んでいます。本家ハーバードの授業では教えられておらず、学生は誰も知らないようなことが「ハーバード式」とされています。ケンブリッジ大学卒業生や現在ケンブリッジに在籍している研究者たちが聞いたこともないような「書籍」や「ノウハウ」がこれらの本では「ケンブリッジ大学方式」として紹介されています。
 5日間でマスターすることは絶対無理なはずの「MBA」で学ぶ内容がたった一冊の本にまとまっています。

○日本人の競争好きは、店舗に行くと、やたらと「これは売上げ何位でした」「わが社は業界何番です」と競争をあおるランキングが貼ってあることからわかります。特にヨーロッパでは店舗の壁にべたべたとチラシを貼ることは、インテリアの美観を損ねることもありますし、(日本の人は町や店舗の美観にはあまり興味がないようです)、お客さんも何が売れ筋かなどには興味がないので、ランキングなど貼らないし、だいたいどこの店舗で何がどのくらい売れているかを買う人が気にすることそのものが滑稽なのです。しかし日本では、お客さんは称されたもの=ランキング上位の者=競争に勝ったもの、を好むようです。

○「自己啓発書」は「キャリアポルノ」だ
 英語圏には「フードポルノ」(Food Porn)という言葉があります。(中略)
 「読んだり眺めたりして楽しんで欲望を満足させる。しかし自分で料理したり何かを食べるわけではない」という点で、食べ物や料理の写真や動画を眺める活動を「ポルノの鑑賞」に例えたものです。(中略)
 このような番組を見ていると、視聴者は番組を見ることで食欲が刺激されて、さまざまなものを食べてしまう、しかし、自分で活動したり料理するわけではないので、さらに肥満になり不健康になるので健康によくない、という批判が高まっているのです。