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論5.ヴォイトレにおけるシャウトの位置づけ(シャウトについて練習やメニュ)

Q.シャウトについてどう考えられます。練習やメニュはどうなりますか。

「ヴォイトレにおけるシャウトの位置づけ」

○トレーニングメニュの対象とすべきものか? 

 シャウトの定義をどうするのかは、そのような唱法といわれるアーティストの声の使い方から直接推察するしかありません。
 以前の著書でいくつか私は取り上げてきました。また、アプローチや原理や説明もそれなりに試みてきました。練習に関しては、私自身はかなりの経験を積んだのに関わらず、歌やステージでの応用に留めるようにアドバイスしてきました。私からシャウトのレッスンを受けた人はいないはずです。これは直感による判断です。
 フェイクやアドリブと同じく、今でもシャウトとは教科書のようなものでノウハウを伝える対象ではないと思っています。むろん、見本、手本としても、他のことと同じく個人技扱いで、「私はこのようにしているけど…」どまりのものであるべきだと思っています。つまり、トレーナーが導くべき類のものではないということです。トレーナーが見せるべきものは、基本の感覚やイメージに直結しているもの、呼吸、基礎のデッサンまでで、歌唱や表現については、一流の実績のある人はともかく、厳密にいえば専門外ということにもなる訳です。
 むろん、プロの歌手の一人もいない村の診療所の医療と、そういうことを対象にしている医療とが異なるように、ここでは、私の研究所のことで述べているのですから、むしろヴォイトレとしても、一般的でないともいえます。「それならば、一流のアーティストから学びなさい」という、いつもの論になるわけです。
 
○表現効果としてみる 

 ちなみにシャウト唱法は、サッチモルイ・アームストロング)が始めたとも言われますが、あのトランペッターの名手の独得の歌い方を真似ようとして、多くの人(白人、アメリカ人)が声を壊したといいます。
 私はシャウトを人間の声と同じく音楽を損ねるが、その分、より伝わる表現の効果として考えるべきと思っています。三味線のさわり(障りと書くのは、障るということです)ほど必然でないが、ポピュラーではギターのギュイーンという歪みと似た位置づけでしょう。多用する人もいるからです。楽器はそういう音を狙った練習もできるのですが、その最初は感覚的な閃きでの即興であったのではないでしょうか。
 「人間の声と同じく」と述べたのは、歌や声は、楽器としてのレベルで必ずしも完全な共鳴を求められているわけではありません。ことばも同じ共鳴や母音の美しさを犠牲にします。それで伝えること(意味など)を重視したからでしょう。歌にことばをつけるのは、楽器の定義との最大の違いです。
 人間の声であり、しかも、ことばがのっているというところに、歌の最大のメリットがあるのです。(ボイパなどを私が研究としてしか、取り扱わないのは、楽器音のコピー以外の音こそ主とすべきだと思うからです)
 
○人によるといえるもの 

 さて、シャウトをその目的や効果を考えるというところから、おかしなものです。アドリブやフェイクの練習と同じく、こういうものは、フレーズの練習は、フレーズの微妙なニュアンスが+αとなる感じ、フィーリングで行えばいいものです。よいものが出たら使えばよい、いや出たなら無にしておき、出るものを楽しんだらよいというのです。
 ですから、「ヴォイトレやメニュで取り上げるもの」としてはどうかというものと思うのです。
 この取り上げるということも、歌についてはスタイルや持っているものが一人ひとり違うので安易に言えません。誰かにベストの方法が、他の誰かにはワーストとなることもあるし、時期においても異なっているからです。
 ですから、憧れのアーティストのシャウトをまねしていたらできたという人もいるし、できない人もいるでしょう。また、見本よりもよくなった人もいれば、その時だけよくても後で喉を壊すような人もいるでしょう。
 
○喉を壊さないという目的の是非 

 「壊したら強くなる」この考えは古来より日本に伝わっていました。邦楽、そして、役者では新劇あたりまで、仲代達也さんくらいまでの世代には、違和感のない考え方でした。しかし、これは今のヴォイストレーナーや医者にはほとんど賛同できない考え方となっているのです。
 しばしば私は、「科学的に」、「医学的に」という名の下で、まだ完全に実証できていないことをあまりにも、当然のごとく振りかざす、こういう風潮にも異を唱えています。
 「絶対無理してはだめだ」というのは、「無理」は「理がなし」のですから、今だけをみるなら、その方がよいのに決まっています。でも本当に「無理なことなのか」ということです。声が心配なら、あまり出さない方がよい。でも「声の心配をして、喉を守ること」が絶対的な目的や条件なのですか。本当の役者や歌手なら、いや、声を使う人であれば誰でも、「いつも心配しないで声を出せること、そのようになること」がもっとも大切なことのではないのでしょうか。
 
○トレーナーのネック 

 こういう当たり前のことがみえなくなったのには、大きな背景があります。ひとつは、一般的にヴォイストレーナーの扱う対象が、声に難点がある人、声域や声量のない人、喉の弱い人になりつつあること。
 例えていうと、体力のない人が対象であれば無理に走らせるのはよくありません。でも、この場合、目的が人前で走ること、つまりレースに出るということなら、体力のないのを、その範囲で調整して生活をおくらせていても、体に無理がないだけで根本的な力はつきません。むしろ、体力をつけさせることが肝心でしょう。なのに、そういう人ばかり扱っていくと守りに入り過保護になりがちです。
 多くのケースでトレーナーにつくのは、そのトレーナーより声のない人ですから、どうしてもこのようになるのです。
 無理しなくてはいけない時もあるのです。というよりは、無理ばかりでやり続ける力が、歌手、役者など、声や体をはってやるアーティストの魂ですから、他人にとっての無理が自分には無理にならないくらいに、トレーニングで無理していかなくてはなりません。
 無理といってもいろんな程度があります。早くレベルが高くなりたければ無理が生じますし、小さい頃からじっくりと時間をかけて取り組んでいくと、自然に無理なくすぐれることもあるでしょう。なのに、多くの人が「早く」と「無理なく」を両立させようとするので難しいのは当然でしょう。
 
 さらに最近は、トレーナーについて「声を損ねた」とか、「これまでより悪くなった」と言われると困るから、即効的な効果に走り、一方で無難に過保護にならざるをえないのです。「客に応じる」というとよいことばですが、芸や一流の力をつけるというのは全く別のことです。トレーナーは、医者やカウンセラーではないのです。(そういう役割も一部あるとしても)
 
○声力の低下 

 もっと大きな原因は、日本では歌に生の声の力が求められなくなってきたこと。一般の人の声力の低下が背景としてあります。
 声楽でも、声、声帯や喉を鍛えるという考えは、ここ20年、30年、かなり廃れてきたと思います。日本では音響や照明など、装置技術が著しく発展したために、どんな人の歌もへたには聞こえないようにできるようになりました。カラオケを考えればよくわかります。
 しかし、これは芸事の底辺を支えるものではありません。役者の応援団ばりの大声トレーニングも最近は昔ほどのものでなくなりつつあります。幼いころから大きな声を使わなくなった今の若い人には耐えられないからです。声を壊すリスクを増やすだけと思われるからでしょう。
 
○タブーとはいえない 

 仲代(達矢)流の喉の鍛え方も一流のなかでは、一理あるのです。当時は、体も鍛えていましたから、筋トレの筋肉再生理論のような感じで声にも応用されていたであろうことは想像に難くありません。
 ただし、ストレートに筋肉の理論が競技に影響するアスリートと、呼吸を音声の変換として使う発声という特殊なメカニズムが生じる歌手=アーティストを一緒にはできません。
 
○やったとあとでできるのか 

 団塊の世代あたりからの傾向としては、スパルタ式の人にハードに鍛えられ、彼らなみになれなかった人が、そういうトレーニングを否定しているわけです。案外と、声としては、紆余曲解を経て、最終的にはできている人が、「自分たちのようにやってはいけない」というのです。それには、私は必ずしも賛同できないのです。
 特にそれで声をダメにした人が「自分のようにならないように」言うならともかく、その後の指導や自分自身の発見したやり方でよくなったと決まって言うからです。その声で充分に人を教えているなら、「昔のは間違い、今のは正しい」とは必ずしも言えないのです。そういう鍛練や試行があったからこそ今の声があると私は考えます。この問題はこれまでたくさん触れてきました。(野村監督のあとの星野監督の優勝はどちらの手腕か、というようなことも) 誰でも昔の間違い、それを克服して今があると思いたいのです。今のが本当に正しいのか、昔のが本当に間違っていたのかは、簡単に判断できませんが、だめな私がこの方法でよくなったという成功ストーリーこそ、教える秘策ですから。
 私は役者やミュージカルの「悪役声」に経験や研究を重ねた時期がありました。やはり、その人の適性がものをいいます。しかし、この適性もトレーニングを続けていくうち、変化してくることもあるのです。まして、10年先、20年先までのデータはまだまだ不足です。
 確かなことは、声にはメンタルもフィジカルも、トータルとして関与しているということです。気弱になったり、充分に使おうとしないなら弱化していくのです。
 
○裏のトレーニング 

 シャウトに無理がかかるケース、無理のかかるシャウトには、無理、つまりリスクがあります。翻って、無理のかからないシャウトは、シャウトといえるのでしょうか。無理とは何かを定義して考えてみることです。
 シャウトをレッスン?や歌に使う分には、その後、声の調子が悪くならない(できたらよくなる)方がよいと思います。自主トレーニングでは用心してください。くせをつけたり、共鳴や発音を妨げたり、ピッチなどを不安定にします。
 歌として使うなら「何回やっても安定させられるか」でみるのも判断の一つです。
 私なら3回同じフレーズをシャウトして、一分の狂いもないものしか認めません。これはシャウト以外も同じです。もちろんその上で自在に変じるのは次のレベルでの判断です。
 そのためのトレーニングとなると正規のものはなく、「裏のトレーニング」となります。トレーナーの同意を得ず、本人が本人と格闘してみつけだしていくものです。この「裏のトレーニング」こそが、本人の表現世界を練り上げるための本質だと私は思っています。(「裏」だから書けませんからね)
 
○正論 

 トレーニングでうまくなる、うまくなってもやれるのは違うことです。(やれるようになるための条件づくりは何回も述べてきたので省きます)私たちはすぐにできないところを取り上げ、そこだけを集中的によくしようと考えすぎます。できない、直らないのには、理由があり、それはすぐに直らないということよりは、すぐに直そうと急いで適当に繕うことをして、問題は根本的に解決されていないため、すぐに再発したり、そこで無理に解決させたことにより、限界や他のところに副作用が出ることがほとんとだということです。安易に直すという答えを出さず、直らない問いを抱え続けていくということです。
 本当はしばらく雑念を払って、もっと本質的なことをやっていくことで、実力がつくれて、副次的に解決できればよいということと、私はみています。
 
○応用ということ 

 声域、声量などと同じく、私にはシャウト、フェイク、アドリブというようなことなども応用プレーの範囲です。ファインプレーは客を興奮させてくれますが、ハイリスクゆえ日頃の練習ではやりません。テクニカルなプレーもレベルの低いうちはそこを見せ場にしますが、本来はファインプレーとかテクニカルなプレーに見えずに、さりげなくこなせているのが真にレベルが高いということです。
 第一、一流のアーティストは、ステージでシャウトしても、シャウトの練習はやりません。だからといってステージでできないのを、ぶっつけ本番ともいかないので、歌のフレーズ練習に組み入れているでしょう。というのなら、声―歌の両極のどのあたりにそれを位置づけるのかを考えてみることです。
 
○何でもやってみる。もっている分にはよい。 

 どんな荒技も裏技も特技となる可能性があります。武器として、ある面では、使うことを前提としない特殊な技として身につけるのもよいでしょう。練習で試してみるのもよいでしょう。逆に、そういうバックボーンが、冒険心や挑戦心がないと、歌のうまさ、声のよさは、つまらなさになってマイナスになってしまうのです。
 どんな試みもプラスマイナスがあります。いつかはプラスプラスになることを目指しつつも、一つのトレーニングで何が得られるのか、そして何が失われるのかを知っておくことです。失われても後で取り戻せるものは、気にせずに冒険してみてください。ただ、取り戻せないケースでは、それでもよいのかをよく考えてください。
 そもそも、そんな心配をしなくてはいけないならやらないことです。誰も保証や限度を決めてシャウトしているわけではないのです。必要に応じて、表現は多彩に展開していくのです。

○まねるものではない 

 誰かがそういうもののあるパターンをシャウトと名付けただけです。それを切り取って練習しても安易なものにしかならないでしょう。形に囚われているからです。
シャウト=叫ぶというのは人間の日常生活のなかでは、一種、異常事態に対する行ための表れです。ですから役者や声優と同じく、歌手も歌などというのでなく叫んでいるものです。いかにも狙ったような男性ファルセットなどで伝えることよりも、よほどストレートな表現であることを、今一度思い出すべきなのです。
 結論として、やりたければやればよい。自分の責任と感性において、それで使うのも使わないのもあなたの自由です。表現に欠かすことができないものであれば、それはそれで成り立つ。問題はそこからどうみるかです。ですから、やってみないとわからないでしょう。つまり、そんな曖昧なことを大切な基礎レッスンの時間に、私は扱う気はないということなのです。