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「ヴォイトレの現状と対策」

○制限しない

 何をやってもよいのです。何でもやればよいのです。その点については、私はどんなトレーナーや教育者よりも無制限、オールOKです。他のトレーナーが絶対やらせないこと、禁じることでも、死なないならOKです。喉を傷めることも、知って学べ、何でも自分で確かめることを勧めています。
 それを過保護扱いして先に制限されると、おのずと自立しにくくなります。さらに狭いところから抜けられなくなります。そのあたりは、トレーナーでなく、一流のアーティストに学べということです。
 
○トレーナーよりアーティストに

 トレーナーになりたいという人もけっこう出てきたのに、世界に通じる一流のアーティストを出した一流のトレーナーというのは未だ日本にいないのです。音楽については世界に出て学べというのですが、世界に出ても学べていない現状をみると、ますます一流のアーティストにストレートに学べということになります。
 なぜなら、一流のアーティストは自らのトレーナーとしては、トレーニングや日常の管理についても一流と通じるものを持っているからです。ただし、「○○はだめ」と言うようなアドバイスは、あまり聞かないようにしましょう。私が知る限り、アーティストには、おかしな、本人だけにしか通じないジンクスによるようなものが少なくありません。
 まあ、彼らは、「君の思い通りにやれ」ということでしょう。思い通りやらせないのは、限定された既製品づくりですが、日本人はそういうのが好きなのでしょうね。

○疑うこと

 アナウンサーなどは、話や声の専門家でも何でもありません。ほとんどは、サラリーマンとして、中途半端なマニュアルを丸覚えにしてきただけです。プロというのは、報道のプロ、パッと渡された汚い字を、感情を抑えたポーカーフェイスで正確に発音し、伝達することのプロなのです。それ以上にいろんなことができるようになった人もたくさんいますが、それは本人の個性、キャラクターとその努力によるものです。
 ヴォーカルや役者のスクール(養成所というのも、今やスクール化していますから)でも、そのような傾向が増しています。
 日本の学校教育は、そこから出ている人材をみる限り、劣化していく一方ですから、それに似たスクールや教え方というのは、一から疑ってみる必要があります。自分で主体的にやらないまま他人からマニュアルを与えられ、それから抜け出せずにいる人ばかりになっています。
 昔のようにとことん、自分一人で思い通りにやってから、全てを否定される現場にくるというのが、もっともリターンの大きな教育となっていったのです。

○ヴォイトレでの立場

 ヴォイトレとヴォイストレーニングを略するのは、日本人が2拍、しかも2×2拍(4拍子)を好むからです。本当は、これもボイトレの方が日本人にはよいでしょう。パーソナルコンピュータ→パソコン、合同コンパ→合コンなど、あらゆるものを○○/○○と略するのは、日本人のリズム感覚と拍感覚の一例なのです。欧米の3拍の感覚にやや近いのは、東日本でのマック(マクドナルド)が、関西から西日本で、マクドになる。この辺りは機を改めて述べましょう。

○合唱でのヴォイトレ

 ヴォイトレを表現と基礎と両方でみるという私の立場は、当たり前のようでいて、業界では異質です。それはたぶん、執筆した本が多く、新たな分野からのチャレンジャーが多かったこと。あるいは、こちらから出ていく必要があったからだと思うのです。
 すでに実用の範囲が定まっている分野では、細分化され、分担されていくものです。合唱団であれば、指揮者兼歌唱指導をする声楽出身の先生がいます。私は、この指導はヴォイトレと異なるとも思いますが、小中高校生には、トータルとして管理(フィジカル、メンタル)が必要なため、比較的早く体系化できたのだと思います。

○体から声をとり出す

 発声、共鳴までと、そこからの応用(歌唱、せりふなど)は、本来、楽器の製造、調律と演奏家ほど異なるものです。しかし、楽器と違って、声はすでに一人ひとりが製造(=生存)しています。調律などなくともに日常で歌い、しゃべっていますから、歌唱という演奏しか指導の対象にならなかったのです。
 しかし、ここでは2つの理由で、ヴォイトレで、純粋に体から声を取り出すところに焦点があたりました。
 1つはプロの、さらなる高みへの要求です。技術を一通り応用した限界になったとき、一つ掘り下げ、心身の問題に向きあわざるをえなくなります。
 もう1つは、もともと心身の問題のあった人です。人並みに声が出せない、使えない、トラブルがあるので、直面せざるをえません。
 研究所にくる人に、この2つのタイプが多いので、私は常にヴォイトレの中心=本質に触れてきました。病院に行くのは、高額な人間ドックに定期的に行く人と、病気の人、病気がちな人です。ですが、世の中、心身のところから声に問題を抱える人が多くなってきたのです。

○スクールでの限界

 ヴォーカルスクールやカラオケ教室は、私からみると、普通に歌える人がすこしうまくなるところです。本人がとてもうまくなりたいと思っても、根本的にはさして変わらず、短期で少しうまくなって終わるところなのです。
 それはうまいということが、聞く人に価値を与えることと異なることさえ把握しないままに、へたでなくしているだけだからです。(限界にぶちあてるということを避けているのです)
 表現というものの、大半のヴォイトレもまた、そのレベルで行われています。ですから、まだ本当の問題に切り込んでいないと言っているのです。
 批判しているのではありません。本人に必要がなければ問題として上がってこないからです。街のフィットネスジムでは心身の健康づくりができていたら充分です。病状の重い人やオリンピックを目指す人は行きません。ヴォイトレとして、心身や身体だけに深く入り込んでいくのも一つの方向です。そこから応用(歌など)に対しては全く触れずに行っているものも増えてきました。
 最近のヴォイトレは、私からみると中途半端なリラックス、ストレス解消レベルのものが多いのです。その効果はまさにフィットネスジムに行った後の声の変化と同じくらいです。昔からやっているところでは、なかなか体=声=心をしっかりと捉えて本質的な変化を出しているところもあったのですが、少なくなりました。

○応用の目的ありき

 私が応用、つまり、目的を念頭においているのは、結果がでなければ失敗、それをきちんと踏まえてフィードバックして、常によりよく、プログラムを改善していこうとしてきたからです。試合のないフィールドでいくら練習しても、自己満足だけになりかねないからです。と言うまでもなく、もともと最初から過大なる結果が問われるところでの、ヴォイトレばかりしてきたからです。つまり、あらゆるところに生の現場がありました。ヴォーカルスクールなら、それは発表会ですが、私の相手は一度きりの大舞台、あるいは、連日の公演などへの対応です。
 そこで全て成功などということは言いません。ありえません。ステージでは一度もミスはなく、完璧だったという人もいるかもしれませんが、私の立場上、そんな仕事は、さほどありません。プロでくるのは、よほど調子を崩した人以外は、完璧主義者でまわりがOKでも自分が許さないという厳しい基準を持った人です。
 ですから、この応用で厳しく、基礎で声を厳しくみているヴォイトレというのは、他にはあまりないと自負しているのです。
私からみると、誰もに通じて誰もがよくなるヴォイトレなどというのは、トレーナーやトレーナーでなくとも、誰でもできるレベルのことで言っているとしか思えません。医者もお手上げのケースでも、何とかしなくてはいけない、でもうまくできない。そういう難しいケースに直面したことのない人にしか言えないことではないでしょうか。

○表現=基礎の普遍性

 私はいろんな分野で、初めてヴォイトレを行い、成立させようともしてきました。
 たとえ、どんなに分野が違っていても全ての人の心を打つほどのものとなれば、分野を超えて、同じものだという表現(応用の応用)、そして他方では、芸や人によって個性や個人差はあるとしても、もう一つ掘り下げたら、人間としてのベースは同じものだという基本(基礎の基礎)これを本質として、捉えているからです。
 とはいえ、何回も失敗もし、誤りも、謝りもしてきました。そこまでの仕事をしたトレーナーもいないでしょう。名医というのは、100パーセント成功という人ではありません。他の医者があきらめ、手をつけない患者を治そうとするから、成功のパーセントは自ずと低くなります。その勇気と大きな痛手が、その人を学ばせ、さらに高めていくのです。
 ですから、私はトレーナーには「奢らずに、しかし、細心に、他の人からのアドバイスも受けて独善にならずにやりなさい」と言うのです。

○プロゆえの欠点

 「プロはプロゆえにみえなくなる」と言うのは近代医療をみればよくわかります。「医者に殺されない本」がベストセラー、それも医者が書いているから、ふざけた話でもあります。医療において不正な行為や利権などよりも、命を救おうと考えるために起きている構造的な矛盾を、私たちは知らなくてはなりません。
 がんの告知から500日、41才の若さで急逝した、金子哲雄さんの本に、奥さんの後書きがありました。自宅で危篤状態で119をまわして、救急車を呼ぶと、延命処置されて生かされてしまうから、本人の望み通り、医者を呼んだとありました。終末というもっとも大切な問題を、ほとんどの人の死と直結する医師、医療は解決していないどころか邪魔をしているケースもあるのです。そこで、自然と長期にという東洋医学や漢方なども見直されているのです。
 ヴォイトレも、応用のための基礎なのに、全く応用をみないでどうするのでしょうか、というケースもあります。プロ歌手になりたければ、声をよくする、歌をうまくするのでなく、プロ歌手になろうとすることで動かなくてはいけないのです。

○一人での限界

 プロ歌手のレクチャーなどは、「同じような実演の場をもつ人にはアドバイスとして意味があるけど、他の人には」などということが多いのです。そもそも、声や歌の技術に必ずしも支えられていないところに無理があります。
 一方でトレーナーやこういう方法論を云々する人も、ただの自慰行為で終わっていることが多いのではないでしょうか。現場の現実とレッスンの場が結びついて、トレーナーとプロ歌手が結びついてこそ、マックスの効果が上がるものでしょう。
 そして、プロ歌手は歌うことに、トレーナーは教えることに専念すればよいのです。しかし、本業が自分の才能を満たせなくなると、どこでも転移が起きます。それもOKです。いろんな人が参入することで、何事も豊かにもなっていくのですから。
 ただ、本人が何を元としているか、そこで欠けているもの、補うべきものは何か、それはどうすればよいか、誰に学べば最良になるのか、こういうことについてはトレーナーもヴォーカリストや役者と同じように、もっと考える必要があるのです。

○部分と全体

 基礎、応用で述べたかったのは、部分と全体との関係です。いくら喉だけみても、あるいは、直したところで、トータルとしてよくならないということです。医者が声帯を手術して、完璧に治したとしても、そのようになった原因は、発声のしかた、さらにその人を取り巻く環境や習慣があるのですから、それを変えなくては、また同じことをくり返す率が高いのです。
 そこで、私のところなどを紹介していただくため、さらにそういう人の問題のありようや解決策の事例が、研究所に溜まっていくということですが…。医学ももうホロニック医学と言われるように、ホロン=全体は、常に視野に入れておかなくてはなりません。大局あっての各論です。
 しかし、トレーナーや生徒さんは、各論を好みます。日本人は頭がいいというか、知識があるから対症的な技を好むのですね。注射や薬が、プラシーボ効果(擬薬)でも、もらうと嬉しいし、効く。効くのはメンタルに、ですが、私は何でも効けばいいと思っています。ただ、それにお金や時間を使うの?とは思いますが。(参考、10月号論点の「あえて“反科学”の勧め」)

○「同時に」ということ

 基礎―応用、部分―全体、それにもう一つ加えるなら、同時に、ということです。
 私は初めて本を書いたあとに、こんなふうになるのかとため息をつきました。当時の私のレッスンは総合的なものでした。声を出すのをみると、普通のトレーナーなら次々にメニュをくり出すのでしょうが、私は飽きるほど程度にくり返します。ひたすら本人の自覚を促し、感覚とその修正能力をチェックします。2回目、3回目も、本人のメニュは進まず、本人がシンプルなメニュにどう取り組んでいけるのか、そこでいろんな声や声の当たり方(共鳴)、変化(声量、声域など)を実感していくことを黙ってみています。
 つまり、現状のより厳しい精密な把握と本質(中心)へのアプローチ、その共有化がレッスンでの中心です。
 あとは、レッスンの時間でなく、トレーニングの期間として、心身の状態が条件的に高まっていくのを待つしかありません。つまり、基準と材料を与えて、本人にシェークさせていたわけです。
 始めから1,2,3,4と順番に与えていくことがよいものと、一遍にやらなくてはいけないものは明瞭に区別すべきなのです。私は、同時、瞬時、全体的に与えるべきだと思っています。ですから混沌として何かが起こりえるかもしれない“場”の設定にこだわるのです。

○一流は両立する

 たとえば、サッカーを試合だけでなく、ドリブル、シュート、パスと部分的に分けて、丁寧に習得していく。筋トレやプレーに使う動きを身につける。一方で、練習試合で1on1、3on3、5on5、11on11と、実践、応用面をつける。これが基礎=応用です。今では、ジュニアでもやっているでしょう。
 そのなかに部分―全体も含まれるのですが、一流のプレイヤー同士は、お互い、このような条件を持っているのですから、攻めも守りも互角になっていくわけです。しかし、スーパースターは、そこで確実に得点をゲットする、つまり、人間離れしたプレーが出るのです。それは先見力、発想、集中力、身体能力、全ての能力の複合化された結果ですが、瞬時かつ同時、部分にして全体、基礎にして応用なのです。
 少しわかりやすく言うと、形としては、ファインプレーは危険なとんでもない体勢で行われますが、本人の技術や基礎能力、たとえば、体幹などがきちんと支えていることで可能にするわけです。たとえば、オーバーヘッドシュートなど打つと、普通は怒られるでしょう。しかし、一流は、普通のシュートのように打って入れてしまうのです。

○学でなく論

 私が一貫してヴォイトレ論でしているのは、学問としては、今だ成立しえないものだからです。しかし、常にその方向へアプローチしているつもりです。その上で、「成立しえない」のだから、それに振り回されないようにアドバイスしています。
 一方で、声楽もまた、声学とはなりえていないのです。発声に関連した学会はあるのですが、果たして学問のレベルで行われているのかは疑問です。
 データとして出すところまでは出ても、少数のサンプルで、データの統計も人数表だけです。データの間で推察したり、再現性のある実験(同じ条件での再検証を第三者が行うようなこと)で科学的なものとして、客観性を得ていないのです。
 とはいえ、同一条件で行うとなると、医学的なものを別にすると、歌やせりふでは、そのデータに囚われてしまいかねないので、本質的に「学」とはそぐわないものかもしれません。わかりやすく言うと、「科学や学問や知識、部分や中途半端な基礎や順番などにこだわると、限界や可能性のなさばかりに囚われる」ので気をつけなさいということです

○アグレッシブ

 いいところよりは悪いところをみてしまう。これは日本人のペシミスティック(悲観的)好きに通じるものなのか、ネット社会で表面的に多くのことを知るためなのでしょうか。でもその結果、増加するのは不安、不満だけではないでしょうか。それは、今の世界的な傾向かどうかはわかりません。ただ、現実にデモなどをみると、トルコ、エジプトでも、サッカーより教育費と言うようになったブラジルも、アグレッシブです。私も「日本人よ、欧米人やアジアの他の国の人々に学べ」と言うごとに、何かと冷やかな視線を感じますが…。
 創造というのは、主体的なものです。声についても学び方よりもスタンスを間違えないでほしいということです。
 志して「より高く」「より強く」を掲げましょう。「より正しく」「より安全に」とか「よりよく」「よりうまく」「より美しく」「よりきれいに」よりは、「よりおもしろく」「よりすごく」にしましょう。「当たり前」でよいと思いますか。
 つまりは、過去に認めたものからみるか、何年か先の世界からみるかです。
 今のものなら、未来志向にすること。今のあなたではできないからこそ、将来のあなたをきちんとヴィジョンとして描き、そのギャップを埋めるべくトレーニングするのです。そのためには「学」でなく「論」を基にすべきです。つまり、例えて言うと、目指すべきは地球学でなく、宇宙論なのです。