相手を知り、我を知る

○相手を知り、我を知る

 私はこの30年、同じことを述べてきました。なのに、手を変え品を変え、今だに同じことを述べています。時代や相手が変わったからとはいえ、このロスを何とかなくしたいために収録して、いつでも読めるようにしているのです。
 真実を知るのでなく、真実をみる眼を養うために古典、歴史から学べと言っています。30年も続けていると、この分野では、私も古典の一端に近づきつつあるでしょう。25年近く前に出した本を改め続けていると、少なくとも初めに出された本よりは、歴史的に磨かれてくるでしょう。
 情報に振り回されて、いろんな人に振り回されているうちに、本質を見抜く眼が育つならよいのですが、私の経験では、それには、量や時間が必要です。さらにそれだけでは無理なのです。すべてにおいて、量から入って質を得ていく人もいます。たとえば、子供のころの遊びや学習などでは、量でよいのです。しかし、大人になると、その量がとれないから、効率を考えます。ところが多くの場合、理論や知識に振り回されてしまうのです。1回で100気づく人も100回で1も気づかない人もいます。学ぶには、まず学び方を知る。そのために学ぶ。敵(目的、対象)を知り、我を知ることなのです。

○原則ルール

 声に取り組んでいる多くの様々な人たちに共通して言うべきことがいくつかあります。するとほぼ、全ての人が悩みから救われるとは言わないまでも、うまくいかないのは、その人の考え方の掛け違えのせいだとわかるように思うのです。その原則とルールを述べます。
1、 基礎と応用は違う。よってトレーニングと本番も違う。(レッスンの位置づけは、それぞれなのですが、以前詳細に述べました)プロデューサーや演出家の、よしがだめ、だめがよしということもありうる。それに対して、本質的なトレーニングということはブレもせず判断と矛盾しません。正直、気になる方が自然なのですが、切り離してトレーニングに専念することです。スポーツなら、体力づくりやフォーム改良と試合を同時に同じようにやる人はいないはずです。オンとオフで、目的も含め、やることや判断は異なります。次のa、bを分けておくことです。
a、トータル、総合、無意識、調整、リラックス
b、パーツ、部分、意識的、強化、無理、不自然

 レッスンも本質的、基礎の基礎、本格的になるほどに、感覚や体の内部的なところからの掘り下げになります。無理―自然、非日常―日常。

○批判・反論しても

 同じことを述べるだけでは、ずっと読んでくださっている方、読み返してくださっている方にも失礼なので、もう少し踏み込みましょう。
 私は、現場での、現実対応を強いられてきた、ゆえに続けてこれたトレーナーですから、理想論とか、基礎のための基礎などについても、きれいごとは言いません。
 歌い手や声優にも、声より大切なものが出れば、声を捨ててでもよしと伝えます。声や歌のよさだけで、判断することばかりではありません。むしろ、安直に「どの声がよい」とか、理想や見本、「正しいのはこれだ」と決めたり、押し付けたりすることに用心しています。
 私は、私以外のトレーナーや外部のトレーナーのやり方を批判しているのでなく、むしろ、そのよいところも悪いところも含めて、研究所のなかで実践しようとしています。まずは、取り入れることがもっとも大切なことだということをわかってください。
 トレーナーだけをみて、判断について、いくつかの例を単独であげて、その正当性、正確さ、適正さ、など論じるのは、ばかげたことなのです。10人に7人くらいに7割くらいは当てはまるというのが一般論ですから、0.7×0.7=0.49、50%くらいでよしとしたものを、正当化しようとしているのは論じるだけ、皆で、さらに薄めているのに過ぎません。
 もちろん、このパーセントもいい加減です。49%とか10%高めるとかというのは、そもそも論じることができる対象ではないのです。方法、メニュ、判断についても、ある条件下によってしか、突き詰めることはできません。なのに、その条件は記述しきれないのです。ですから、どんな理論にも反論はできてしまうのです。

○ぶれない

 トレーナーとしては、よくも悪くもスタンスがぶれない人を、私は一緒にやっていくための条件にしています。あとは、そのトレーナーに合う人、いや、生徒さんは、ここの場合、千差万別どころか、ヴォイストレーニングの枠を超えていらっしゃる人もけっこういるので、多種多様なバリエーションがある方がよいわけです。
 邦楽出身のトレーナーなどは、他のヴォイストレーニングのスクールなどではいないでしょう。しかし、役者、声優(今ではアナウンサーも)必修の「外郎売り」などの口上なら、古典芸能の方が専門で本職なのです。
 基礎の基礎や本物のレッスンを、となると、私などが口上の指導をするのは本当にビギナー向けで、企業研修くらいならよいのですが、お門違いです。
 入門から本物に触れていく方がよいに決まっています。ということで、外部スタッフも充実させているわけです。しかし、どんなにトレーナーを整えても、本当の問題は、やはり学ぶ人の方に、大半はあるのです。

○声への成果

 責任がどちらにあるのかが、サービス業との違いだと思っています。なかには、金を出すから早く身につけたいとか、殿様気分でいらっしゃる人もいるのですが、そういう人は私のところにはきません。しゃれた街なかにある豪華な建物や、大きいビルの、美人受付嬢が3人くらいいるところに行くでしょう。(これは私の、日本にある英会話の学校などのイメージで、どこかのスクールなどを揶揄しているわけではないので、念のため。そこまでヴォイトレは、ゴージャスなところはないような気もしますが…ありますか。あったら是非、ご招待ください)
 つまり、ヴォイトレは声のトレーニングですから、トレーニングすると声に成果が出るものです。その結果、副次的に、声量、声域、共鳴、発音、表現、歌、せりふなどに完成度が得られるのです。もし、これらが目的なら、声量トレとか高音トレとかした方がよいでしょう。でも、目的としては、声そのものより、その使い方、機能、あるいは、声からはるかに離れた表現らしいテクニックなどになってしまうわけです。何に成果を求めるのかをはっきりとさせていくことが大切です。

○ヴォイトレの対象

 ヴォイトレの対象はこれまでも述べてきています。簡単にまとめますと、音色がメイン、声域(基本周波数)、声量(音圧)、発音(ファルセットに調音)はサブ、ましてメリハリ、間といった、せりふの要素や音程、リズムなど、歌の要素は、私からみるとかなりの応用です。
 よくプロデューサー(小室哲哉さんなど)が、「ヴォーカルは声が絶対、それだけで選ぶ」などと言っていますが、それは音色であっても、音楽的な感性をからめた歌唱時の声の共鳴の具合と働きで、声そのものであってもそうでないのです。
 でも、ヴォイトレで、この音楽的な声にすることさえ、ほとんどやっているところはありません。音程、スケール、リズムの練習をしてカラオケの得点を上げるような結果を求めているからです。
 トレーナーも生徒さんもそれを求めるのだから、当然、そうなっていきます。私のように、それを全く想定しないトレーナーの方が稀有の存在なのです。(カラオケの点数については、別述)声そのものか、歌唱の声かも異なりますが、どちらも(あるいは、どちらかが)大切なのに、あなたのヴォイトレの対象になっていないのではありませんか。

○優先度と重要度の違い

 現場で要求されることが早急の課題となるのはしかたありません。私どもも、3~6ヵ月後のデビューやオーディション、1ヵ月後の結婚式の余興まで、まさに真剣に対応しております。
 しかし、この優先度に振り回されている限り、もっと重要なことが後回し、遅れるというならまだしも、その可能性が損なわれたり、小さくなることも現実には起きていると思われるのです。
 芸道やスポーツなどでは、小手先の器用さで、早く頭角を現したものの大成しない例はいくつもあります。才能や努力を評価するのは難しいところですが、後で大きくなるための基礎と、その時点で凌ぐだけのやり方とは全く逆になることがほとんどなのです。
 しかし、日本は若い時期のチャンスを優先すべき、つまり、実力なくても若さだけで出られる、いや、実力のないのが若さだから、それゆえ出られる。それが、歌い手だけでなく、声優、アナウンサー、タレント、役者に蔓延しています。それゆえ、若い歌手の素人声(「ジャニーズ声」というと、叩かれるでしょうか)はどこにでもあります。誰でも出せるということです。それは大人になってもそう変わらないのです。(彼らは、声の魅力で売っているのではないから、その必要もないのですが)

○問題なしの問題

 ヴォイトレなのに声が不在というのを、私のようなヴィストレーナーが述べているのは、「医者に殺されないための本」を医者が書くようなものです。あるいはCIAのエージェントがリークする内部告発?とはなりませんでしょうか。
 私はトレーナーの不正や非を訴えているわけではありません。薬をたくさん出してくれという患者に、好きなだけ出す医者は儲かりますが、トレーナーはそんな自覚も不正感も持っていません。その医師は、相手の体調が悪くなることを知っているなら大罪です。避難されてしかるべきです。でも、人により効果はかなり違うものでしょう。
 私も、彼ら(トレーナーというか、私自身もここのトレーナーも含めて)を非難の対象とも思いません。
 しかし、トレーナーは「こうしてください」に対して「こうしました」そして「ありがとうございました」とお礼を言われてwinwinで、適正な謝礼をもらっているのですから、何ら問題はなし、というのが問題なのです。これまで他の業界で起きるような改革改善などもあまり聞きません。まだまだ質も高くないし人数も多くないこともありますが…。

○ヴォイトレの問題

 「問題として扱わないことが問題」これは私がヴォイトレの問題として、これまで、とるに足りないことを「問題としてしまうから問題になる」と述べてきたことと反対です。
 私からみると、声という未成熟な分野は、その表現の世界である歌、演劇などからみても若く、層の薄い分野です。「話し方教室」のようにストレートにビジネスマンや一般の人の能力のサポートに位置づけられるだけのステイタスも歴史もありません。
 プロで活躍している人がたくさんいる分野からみると、趣味やサークルのようなものかもしれません。ただ、昔よりは本気の人が増えてきて、それはよいことのはずなのに、あまりに人材の層が薄く、レベルが高くないために、ビギナー市場のようになっているのです。
 いくら仕事やネットで知識を得ても、扱うのは人間の体や感覚です。なのに、机上でだけ、解剖学辞典を頭に入れたヤブ医者や学生のようなレベルでは、受け手(レッスンしにくる人)と似たようなものですから、批判はしませんが、その位置づけやレベル、自らの力(自分の芸の力でなく、人に対しての力)を知ることがあまりにできていないとも思えるのです。

 以前、ここにいらっしゃる人のほぼ9割は、ここで初めてヴォイトレを経験しました。そのとき、私は歌をうまくするのでなく、声をトレーニングする、ということでスタートしたのです。しかし、応用を自分たちで学ばない人が増えると、こちらが手伝わなくてはいけなくなり、どんどんとサブのカリキュラムが増えていきました。いつ知れず、音楽スクールや専門学校のようになってしまったのを経験しています。
 いらっしゃる人の望みにストレートに応えていくとそうなる、というよりは、こちらも若かったのでしょう。そこで、どんどんと何でもサポートすると、サービス業化していきます。当然、最終的にはプロデュース業になってくるわけです。そして、また声という原点が忘れられてしまう、日本の優れた先人たちと同じ轍にはまっていきかねなかったのです。
 今はそこからようやく抜けられました。一方で、この分野も広くなったので、半分以上は、他でヴォイトレをやっていた人や一般の人がいらっしゃいます。プロよりも一般の人を対象にトレーニングすることで、また、同じような轍にはまりやすくなっているのかもしれません。
 ここのトレーナーを把握すると、日本の今の声楽の見取り図ができますが、ここの生徒さんを把握すると、ほぼ全国のヴォイストレーナーや指導者の見取り図ができます。その結果、ここには、日本の声の指導の膨大なデータベースが備わりつつあります。セカンド、サードオピニオンのできるバックグランドは、25年にわたる、このデータベースです。

○ヴォイストレーナーの盲点

 ここを出てヴォイストレーナーになった人のところからも、ときおり生徒さんがここにいらっしゃいます。そのトレーナーの話で興味をもっていらっしゃる人と、そのトレーナーに反発していらっしゃる人とがいます。どちらにしても、そのトレーナーが生徒であった時期を知っていると、すごく明確に、そのトレーナーの教え方がわかります。つまり、何がうまくいくか、何がうまくいかないということがみえるのです。元々、そのトレーナーのもっているところや長所については、ヴォイトレで得たわけでないので他人に教えられていない。つまり、指導ではネックとなりやすいところです。
 ヴォイストレーナーになろうという人は、歌手で続かなかった人もいますが、まじめに学んで、まじめに教えてあげたくなった人もいます。挫折を避けた教師タイプのまじめさが、生徒にはメリットにもデメリットにもなります。まじめなトレーナーにまじめな生徒がつくと、舞台からは遠くなっていくこともあります。そういうタイプのトレーナーは、長所をみつけたり伸ばしたりすることよりも、短所の補強中心でずっと時間が経ってしまうのです。
 そのトレーナーのもっているようなよい声や音楽センスをもっていないのに(大体、トレーナーというのは、どちらかもっています)その弱点をなくしてもらったところで、普通になるだけです。つまり、発声の力の不足が若干補われたところで、プロになりたいという人であれば、プロになれる方向に向けられていないのです。

○判断の深さ

 よくこのような例で比較しています。
1、 早く(半年くらいで)1,2割よくなるが3年くらいで(早ければ1年)進歩が止まる。
2、 一時、実力は落ちるが、3年くらいから(人によってはコンスタンストに)伸びる。
「歌や演技は応用で、声が基礎」とすると、基礎が応用に効いてくるのは後からなのです。徹底した基礎をやりたいと言う人が、その期間として「2,3ケ月くらいで」と言える時代になりました。
 基礎にもピンキリがあります。世の中、それなりにまともに評価されている芸で、徹底した基礎というなら、10年を切るものなどありません。
 ですが、2,3ケ月の基礎どころか3日とか3週間でできる基礎、それどころか、目標達成のできるというようなチャッチでレッスンが売られている時代です。
 それをいうなら、私も「読むだけでよくなる」というような本を出している、と言われかねないのですが、それは、基礎の力が応用に転じられない人へのヒント集だからです。
 多くの人には3ケ月くらいでは「基礎とはけっこうかかるものだ」とわかってもらうためのレッスンです。この3ケ月のことで目的はOKというなら、やめればよいのです。あとは本当の基礎となるまで自分でやるというならそれも自由です。基礎の深みがわかることが、まずは基本ということでしょう。

○3段ロケット(B→A→C)

 基礎の力については、なかなか伝わりにくいので、私がレクチャーで話したことを転記します。
 ここは、基礎と応用をやるところです。基礎を徹底してやれば応用に効いてきます。基礎がBとしたら、それは応用のCに届くのです。(Bはベーシック、CはウルトラCのつもり)
 それではよくセミナーにある、この2つをつなぐアドバンス=Aというレベルはどうなるのでしょう。
 私はCを見据えてBだけに専念する期間をとれるかが、本当に大輪を咲かす条件であり、また「条件を変える」ということばで述べています。
 ところが、多くの人はすぐに応用Cに結びつくアドバンス=Aのところばかりやるのです。
 Aのなかでよくするのは、状態のなかでよくするだけです。ときたまCに届いても、ウルトラCなど出ません。つまり、Aでは-A、Aが+Aになるくらい、これが普通のヴォイトレです。これは研究所内でもやっています。ただし、私の考える究極の、いや本来のヴォイトレはB→Cなのです。

○高音の問題

 J-POPSで高い方を届かせたいという、もっとも多くの課題。これは音大生のテノールの最初の壁に通じます。コンコーネ50では、2つほど、高いラの高さまでありますから、嫌でも高音のクリアが中心になってしまいます。
 ポップスでは、ファルセットを使う人も多くなったために、やたらとミックスヴォイスや声区の問題が出てきました。私どもでは、発声の理論などいくら捏ねていても何にもならないことを知っているので、現実的に具体的な対策をしています。
 「方法やメニュを教えてくれ」とメールでよく聞かれます。しかし、こういう限界域のところでは、本当にいうのであれば、万人に共通なものなどはありません。
 あなたの元々出しやすい母音や子音で応用していくのです。この、出しやすいことイコール高音に最終的に向くかは別問題、しかし、これも徹底されてはいません。ただ、あなたの高音をもっとも出しやすい音として、イメージしておきます。もっともわかりやすいスケールで挑むことです。
 初心者、ヴォイトレをやったことがないのに、高音を望むなら、テノールやソプラノのトレーナーとやりましょう。ポップスで、もともと高音好き、高音向きのトレーナーよりは、声楽の方が相手のタイプを選ばないという広さと基礎の身につけ方はあるからです。

○自主の高音トレーニング

 プロやいろんな人とやってきた人は、ここにいらっしゃると中低音での発声や、共鳴を見直し、大半のケースでは、ほぼやり直します。ここでは共鳴以前の発声、呼吸、姿勢まで基礎づくり、多くはイメージづくりからです。
 声の方向性や共鳴の焦点、体感のイメージといった判断基準や優先度は、トレーナーによってかなり異なります。とはいえ、ともかくもイメージを持ち、それによって丁寧に繊細にコントロールできるようにします。
 まあ、日本で行われている高音トレーニングなどは、声量を絞り込んで、弱い響きで集めて、届かせるだけという技法が主です。私共のトレーナーの半分以下の声量で高い音に届かせる、あてるだけの結果となりがちです。それで満足できないというのなら、基礎で条件を変えなくてはいけないのです。
 一人ひとりは、違う喉で出しやすい音や高さも違います。それを一つの方法で押し付けても、それでうまくいく人も、うまくいかない人もいます。すぐできる人も、時間がかかってできる人もいます。私の見てきた限り、ハイレベルでマスターするなら、すぐにできないことを、時間をかけて工夫して習得していくのが本道のようです。

○ミュージカルでの応用

 どこまで高い音をとるのか使うのかは、ポピュラーもソロなら、高さより声の音色で決めるべきです。ただ、オペラやミュージカルは、声域が決まっていることが多いので、声域の獲得と、確実なキープが、出場の第一の条件になります。特にミュージカルに声楽の基礎のない人が抜擢されたときに、高音の共鳴がここでの主な課題になります。
 30代くらいまでは、案外とラフな発声でも耐えられます。ダンスや役者出身の人に多いタイプで勘もよいからです。
 演出家が、「声を大きく」とか「発音をはっきり」と言っても、「強く出したり口をクリアに動かさずに結果がそうなるようにする」ことで、喉を助けましょう。
 大きくクリアに開けることと大きくクリアに出すことは違うのです。小さくても強い感情を表すことはできるし、口の形を大きく動かさなくても明瞭に聞こえるようにもできるのです。
 特に、大―小、強―弱のような大ざっぱな動かし方しかできない人に、鋭―鈍とか、加速度、間、呼吸などでみせていくのは、こういう舞台でこそ、声の処理として応用を必要とするからです。応用は、自分の持つものの延長上で処理しなくてはいけないのが原則です。

○未成熟な声への判断

本来、表現で問うべきものを、「大きく」「小さく」とか、「早く」「遅く」とか、「音程」とか「ロングトーンのキープ」「ふらつかない」とかを使わざるをえません。現場での注意には、残念ながら、声や歌に対して未成熟な日本らしさを感じます。
 一つには、本番前の稽古に、「せりふを間違えないで覚えてきてください」と言わなくてはいけないような役者を、オーディションで選んでいるということ。(これは、役者でのたとえで、歌手の例です)
 もう一つは、歌で選んだのに、やはり、「歌詞を間違えたり、音程を外さないでください」と、そこまでの注意ではないのですが、私からすると声についての初心者なみの注意を受ける人しか、けっこうな一流の舞台にもいないということです。
 演出する人の層もレベルも、それを支えるスタッフのそれらも、けた外れに、向こうとは違うのです。
 大きな舞台をたくさんやっているところはありますが、声や歌、音楽に重きをおいているのではないように思います。(それゆえに続けられるのでしょう)
 たとえば、フォルテッシモ=ffはとても強く出すのでなく、感情が強く表れるような表現、つまり、客に対して伝わることでみるべきものです。

○連日の喉の疲れ

 「個性のある声」で「高いところ」までもっていく、この両立が現場での最大の難関です。役者と声楽的な要素、昔の宝塚の男性役スターなどに若干みられた、それなりの熟練度も今や風前の灯です。
 話す声はガラガラで障害を起こしても、1~2オクターブ高いところで歌えるとか、裏声だけとか地声だけ、どちらかが出ないとかが多くみられます。
 こうなると、ガンの宣告のように余命長くて10年、年齢とともにステージに上がるまでには回復できなくなり、いずれ自主休業かドクターストップです。
 たまたま、私が関わってきた人たちのところが、連日連夜の出演をするところでした。普通は、週1回くらいのライブのペースですから、中6日登板なら喉が回復する。それでプロとして続いている。もし売れっ子になれば、とても連日持たない喉なのです。できていないということでは同じなのです。
 役者でも喉を壊します。一流のレベル同士なら、はるかにせりふの方が負担は大きいのですが、高音がない(ピッチが問われない)ので、ガラ声で続けられるのです。これも問題です。

○形と実

 現実としては、トレーナーは、現場では歌手や役者の身を(喉を)守らなくてはなりません。
 現場の指揮者にも、さまざまなスタンスがあると思いますが、作品の評価をよくすることが第一義ですから、表現中心であり、それに耐えられない人に、過度の期待と負担をかけることになります。
 すると、どうなるのでしょうか。スポーツのアスリートのように明確な基準のある場合、これは単純です。
 100m走男子では、世界は9秒の壁に、日本は10秒の壁に挑んでいます。ときに日本人選手がいいところまでいきますが、アスリートの世界ではNO.1、金メダルを目指しているので、日本人の選手より速くても金がとれないなら、他の種目に出る選手もいます。8位に入ったから世界で8番目ということにはなりません。
 音楽のプレイヤーもけっこう明確な基準があります。ルックス、スタイル、MCでなく、演奏、つまり音で全て判断されることです。高度に演奏する技術なしにプロになれません。
 しかし、歌やせりふの声は、総合力の要素の一つです。となると、一流を目指すよりも表現よりも、安定、安心が第一になりかねないのです。

○教育の平均化

 集団で行うもの、合唱やミュージカルでは、特に他人に迷惑をかけないこと、コンスタントに平均点をとり、総合点をキープできることが、この国、日本では求められます。しかも、スターはいらない。ミュージカルは、スターを生み出すのでなく、スターを別のタレント(ここでは知名度のあるということ)を連れてきてまかないます。どちらも、型から入って、形に終わることです。私の感じる声での表現の形の成り立ちのプライオリティは、とても低いのです。
 形というのは、ステージ、舞台、音楽としてのハコがきちんと整っているということです。それは今や前提なのですが。新人歌手も音大生なども、平均のレベルは高くなりました。それは、トレーナーやスタッフの貢献といってよいかもしれません。
 昔の音大生のオペラなどは、人前に出すものとして破たんしていました(失礼)が、今は、最後に拍手がくるだけのものになりました。でも、ストライカーがいません。それは、トレーナーの責任と貢献ゆえの負の部分かもしれません。
 ステージでせりふを忘れて泣き出す子は、ある幼稚園ではいなくなりました。CDで流れるせりふに、フリだけつけているのですから、そういう失敗が起きないのです。進行としては、きっちり時間通りに終わります。失敗をなくす―見事な教育です。皮肉ですよ。念のため。

○個性と成長

 型にあてはめられて、そこで個性が死んでしまうというなら、その程度のものに過ぎないので、そういった型がいけないとは思いません。ただ、型がなくとも形にはまってしまいやすい人がいます。トレーナーの言う通りに動く人、つまり、器用な人、上手く立ち回る人、正確な人、いつもそれなりの力をキープできる人、絶対に休んだり、遅刻しない人、こういう人を私は、優等生と呼びますが、そういう人ばかりを選ぶことがよくないと思うのです。
 しかし、現実がそうですから、それに対応するためのトレーナーも、相手をその方向にもっていくわけです。そもそも、トレーナーは優等生が多いのですから、頑張って育てるほどに、そういうふうに育つのです。
 「個人の色よりも、組織集団の色が強く出る」のは、日本の会社も劇団もプロダクションもそうなのです。よしあしは両方ともあることでしょう。
 しかし、喉や声は個人のものであって、他に合わせようとするにつれ、中級レベル(アドバンス=A)には早く到達するものの、上級レベル(ハイレベル=C)はいかなくなりかねないのです。トレーナーは、そこに手をつけるのには細心の注意をもってあたることです。

○同時に、一瞬に得る

 ヴォイトレというのなら、声に向きあうことです。まずそこを原点としておいてください。体の肉声を出すこと、その上に発音や声域、声量などもあるのです。
 そのために急がないことです。声に向きあわないのは、覚えることや、そのまま間違えずにくり返すこと、せりふや歌詞に加えて、ピッチやリズムといった楽譜の情報に囚われて、全てを同時にマスターしようとしているからです。
 ある意味では、こういうものは「同時に、一瞬に得る」ものです。それまでは、あるいは、そこを経験したら、また細かく分け、順序だて、一つ上の次元を目指すのです。そのために体を用意し、感覚を磨いて保つのです。
 せりふも歌もそれを仲介するメディアに過ぎないのです。どんなことば、メロディでも、それを正しく再現すればよいのでなく、演者が魂を吹き込み、ありありと舞台にリアリティをもたらさなくてはなりません。やらされている。歌わされている、すごかったもののコピーをしているだけ。それでは、ディズニーランドレベルです。

○限界の対処へ

 トレーニングを行うのは、「限界を知るため」です。限界というのは、メンタルとフィジカルともあります。最初に声を出して、このあたりが限界というのは、まだ自分の思い込みです。これをメンタル0、フィジカル0とします。そのまま、あるいはリラックスしたり柔軟をするとメンタル-1、フィジカル-1、トレーニングを受けるとメンタル-3、フィジカル-3くらいになります。
 特にビギナーは、やっていないのですから、初めの状態が変わると、その日でも3ケ月くらいでも、10~30%くらい(何をもってかも、この数値も適当ですが)、実力はアップします。そこを最初の限界としておきます。
 それを大きく変えたいなら、「体から変えること」と言っています。この数値を声域か声量だけでとるのは、本当は、あまりよくないのです。優先したいものにバランスが偏るからです。そうすると、高い声ばかり出そうとすると声量が出なくなるし、声量ばかりこだわると声域は狭くなります。

○限界の突破法

 限界と指導との関係でいうとよく「喉が…だから」「歯や歯並びが…だから」「かみ合わせが…」「舌が…」「声帯が…」「口が…」できないと言うように注意をするのが大半のトレーナーです。
 一般的には、あることが原因で難しいということは、確かにあります。しかし、他のトレーナーや他の方法で解決が図れることもよくあります。
 「医者に行け」と言うのは簡単ですが、医者ならどこがよいのか。医者よりもトレーナーや、それ以外の専門家がよいこともあります。他人のアドバイスというのはけっこう雑なものです。
 限界というのは、破壊して超えるためにトレーニングすることです。
 本当に起こる必要があるのかを知ること、時間や実力にその成果が見合うのか、むしろ、他に力をかけた方がよいのではないか、他の人と違うハンディキャップがあるとしたら、それを克服して限界を、より厳しく知るなかで対処する方法を編み出せばよいということなのです。

○自分に合ったやり方

 声の弱かったために、丁寧に丁寧に声を扱っていた平幹二郎さんと、強く出し、潰しては強くしていった仲代達也さんの話は以前に述べました。自分に合ったやり方をつくること、見出すこと。ヴォイトレも、そこでは表現と同じ、個性と同じで、一人ひとり違うのです。どのやり方がよいというのを自分不在の、机上の空論に巻き込まれないようにしましょう。
 誰かがよいと言っても、大して根拠がありません。まして、あなたに対してどうなのかとなると、妄言に過ぎないこともよくあります。電化製品と違うのです。レストランの評価でもかなりばらつくでしょうが、人によって味覚も違うのです。未熟なトレーナーほど、自分が一番よい方法を知っていると思っているものです。
 自分×将来への時間×努力×やり方(メニュやトレーナー)という変数を無視して、一つだけを見て、云々言ったところで何にもなりません。もし、あなたがレッスンをあまりうまく役立てられていないなら、こういうことをもう一度考えてみてください。