日本人の音声力の弱さ NO.269

○日本人の音声力の弱さ

 日本人の音声力の弱さと、その原因について異なる面から、指摘をしたいと思います。これまで、私が述べてきたのは、日本人、日本の特徴として次のようなことでした。
 島国、村社会での生活。
 アイヌなどとの混合はあったが、比較的、移民、流民は少ない固定化された人間社会。
 「壁に耳あり障子に目あり」の、木と紙の狭い家、プライバシーのない「家」社会。
 農耕社会の長老政治。長いものに巻かれろ根性。
 農業は、天気などに左右されるもので、若者がリーダーとなる狩猟と違い、長年の経験がものをいいます。しかも、稲作などでは集団での作業で和が尊ばれます。
 日本人はアフリカからもっとも遠い地まで逃げてきた、世界の中でも穏やかで争いを好まない、その多くは滅亡したような類の生き残りの民族だったのではないかと思います。
 その証拠は、世界でも稀にみる長期に継続している天皇制です。何事も上からの変革だけで継続性が高く、他の国にみられるような民衆による激しい革命がなかったのです。

○日本人と日本語

日本は、古くは中国から、近年は欧米からの影響を大きく受けました。そのために翻訳による知識の導入、そして、読み書きが中心となります。それが、日本語という言語を特殊に発達させてきたのです。
 日本語は文字に複雑ですが、音声にはシンプルです。音声での言論である対話、議論、対論などの気質に乏しいのです。
 日本の社会は、上意下逹年功序列、終身雇用を中心とし、リーダー、エリートの育成ができないという、この傾向は21世紀になり、さらに大きくなりつつあると思います。相変わらず個人としての実力よりも、集団、組織が優先であり、個としての信用、保証は未だ重視されないのです。
 
○対話と会話

 「日本には会話しかなく対話がない」、と言われてきました。対話とは、第三者を念頭においた対談を考えるとわかりやすいのでしょう。1対1で話していても、それがその2人の中で完結するものでなく、他の人が聞いてわかる、つまり、映画の冒頭の出会いのシーンのように、観客がいても、そこへの説明が同時に確立しているようなもののことです。簡単にいうと素性を知らないもの同士の話のスタイルです。
 私はワークショップでは、1対多で、そのなかの一人の相手に語りかけるようにしています。そのときに、常にその人だけでなく、その人を通して他の人に伝えようとしています。これは対話です。
 時間的制約があるのと、1回きりのケースなどでは、初対面で何の事情も知らない相手の前で進行しなくてはいけないからです。むしろ、全員に語りかけても伝わりにくいことを、伝わりやすくするため、もっとも適切と思われる候補を選んで、その人をだしに進めていくという方が本当のところでしょう。
 このように1対多では成り立たせなくてはいけないことが、1対1でもそうなっているのかというのをみると、それが会話か対話かわかります。親しすぎるなかでは、多くのことが省かれて会話となります。
 
○日本語は会話向き

 日本語は、対話型のコミュニケーションには、不向きな言語です。すでに関係ができている相手に伝えるには、うまく使えるのですが、初対面、特に1対多では、混乱しやすくなります。日本では大人でも人前で話すのが不得意な人が普通でしょう。
 主語を出さず、受け身で婉曲に伝えるようにするからです。伝えるよりは、相手が察していくようなもので、かなり「ハイテキスト」なコミュニケーションといえます。
 言ってみれば、誰でもが知り合いの同郷の徒、つまりrural(田舎)での交遊のためのものなのです。今、使われてよく批判されている「…にほう」「…から」「…とか」という、方向でぼかす婉曲表現も、その一つの例です。主体性に欠ける自己責任を問わない社会、匿名、世間、派閥といった、集団を中心とする社会の特徴がよく表わされているのですね。

○主語のない日本語?

 「日本語には、subject(主語)がない」などというのは、欧米のグラマーに日本語をあてはめているからでしょう。ボクシングのルールで、柔道をjudoにしようとするような、いや、してしまったのですが、乱暴なルールだと思います。
 しかし、伝承や伝統を尊重する私も、このところの柔道、相撲、さらに野球といった、かつて花形であった各界の幹部のだらしなさには、今さら日本の古いものの頑なさをみるとともに、時代の波のなかで、急に風向きが変わって、対応に大変なのだと同情もいたします。まるで、上からはしばかれてきたのに、下からはパワハラと訴えられる、板挟み、中間管理職の悲哀ですが、そこを乗り越えて改革しなくては未来はないのです。
 そこでみえてくるのは、組織、集団の中で責任をあいまいにしている、個人としての主体性のなさそのものです。まさに日本人らしいものです。
 相手によって自分の呼称さえ複雑に変えなくてはならない日本語は、そういう宿命を背負っています。自分以外であれば、相手が誰であれ、ばあさん、じいさんも、子供も、一人でも何千万人でも、youだけですます、傲慢などこかの国の言語を見習うことも、ときには必要だと思うのです。

○文字への思い入れ

 私は欧米のことばにやや近い感覚のものとして、これまで関西弁、広島弁や博多弁などを挙げてきました。音声以外の日本語の研究はいやというほどあるので、興味のある人は、そちらで学んでください。それは、言語で文字によって表せるものなので、書物で学ぶのにピッタリだからです。
 文字の発明、紙の発明、印刷の発明、本の発明、それ以来、研究というのは、ペンで綴られ、読まれてきました。欧米ではアルファベットのタイプライターの発明で、飛躍的に多くを記録し、伝えることができるようになりました。(日本ではワープロの開発、普及を待つのにかなりのタイムギャップが生じました)
 一方で、音声は、20世紀のレコードとラジオの普及、21世紀に入り、マルチメディアであるパソコンが普及して、利用も研究も本格化しつつあります。
 日本人は、特に文字に対して大きな思い入れをしてきたのです。これは私が思うに、常に翻訳を絶対条件としてきた輸入文化ゆえの宿命でした。しかし、元はといえば、日本人のビジュアルへの鋭い感性のために他なりません。(欧米にもフォントはありますが)韓国や中国のように、伝達の効率を重視した文字の改革などはあったにせよ、そこそこにセンスよく守られてきました。それは現代においてさえ、絵文字、記号など、新しい発明が、一般のレベルでどんどん行われ、飛躍的に改革されています。今やカタカナ、丸文字を超えて、新たなる日本語の開発のスピードと量には、私も驚くばかりです。

○ネットと世間

 世界に有数の、日本の、質はともかく、数を誇るブログや掲示板などへの無記名の書き込みは、よくも悪くも昔ながらの「世間」の存在を感じさせます。私のように常に読み手と向きあい、匿名で文章を書いたことのないものには、少々理解しがたいこともあります。
 そのエネルギーには、よい意味では「読み人知らず」のような習作、俳句や短歌づくりのような、日常にある文化の定着を感じますが、一方、悪い意味では全国版、日本語ですから、全世界にはちょっと無理の、井戸端会議のは安氏です。ただ、そこに集うのは、およそ同じ層の似た思考の人ですから、そこで論議を重ねていくのはどうなのでしょう。会っているなら悪友でもよいのですが、匿名で吐き出し合う、ときには罵り合うだけですから、自分の成長になりません。(でも全く吐き出さないよりはよいので、その後にそこにとどまるか、次の一つ上のレベルへ抜け出せるのかの差ですね)
 成長したい人は、私もその一人ですからそうしてきましたが、もっと自分に役立つことに時間と頭を費やすことです。類は友を呼ぶで、自分のエネルギーを累乗でマイナスにしないこと、自分を高める人との交流に使うことです。
 見たり聞いたりするだけでも、悪い方に疲れるから避ける。そういう感性がないと、引き込まれてしまうのでしょう。不満こそ、身の内にためて作品や仕事へ昇華させた方がよいと思うのです。そんなプラス思考の人はそういうのは読まないのでしょうが。

○日本語の遍歴

 日本語は、ざっと総覧してみると、万葉の頃は、歌垣として、情愛の声での呼びかけでした。(歌垣は、言霊という呪術的な力の働きが加わるとはいえ、今のコンパのようなもの)その後、お上の勅選和歌集あたりでは、選者が、墨をつけて記述していきました。
 ぱっと思い浮かぶのが、紀貫之土佐日記「男もすなる日記というものを…」というカバちゃんスタイル、女装や女体、いや、女性体、女性語で書かれたものが「かな」文字です。
 話すときのことばと、書くときのことばは、区別されていたのです。和語(「よみ」)と漢語(「こゑ」)と呼ばれたこともあったようです。
 その後のことはともかくも、公家、武士、僧侶や女房(女性)、幼児と、使う人によってことばは異なり、ややこしくもあったわけです。しかも、中央と地方とで全く違います。このあたりは世界の国々でも、村一町―市―県や州―国などという全国統一のプロセスで変わっていくのと同じです。

○共通語の誕生

 日本ではずっと、中央は京(京都、奈良)でした。それに対して、近世に取って替わったのが、江戸(東京)だったわけです。ちなみに、江戸でも初期の頃の文芸、井原西鶴浮世草子近松門左衛門浄瑠璃などは、上方のことば遣いでした。江戸、武士、男ことばなどは、荒っぽく粗野なイメージだったわけです。
 それが、江戸歌舞伎や洒落本を経て混合していき、19世紀の文化文政以降、滑稽本人情本では、江戸語といってもよいほどの完成を遂げます。公家、僧侶から町人、庶民階級の人々のことばに変わっていくのです。
 一方、大衆を相手にする語り口は、平家物語の頃から、ずっと受け継がれてきたと思われます。森岡健二氏によると、今の標準語が成立するまでのプロセスは次のようになります。
1、 抄物(経文、漢語、古典の注釈)
2、 江戸講義もの(漢字、国語)・説教(仏教)・道教(心学)
3、 明治講義もの
4、 演説

○江戸の語から共通語に

 一対多で話すと、おのずと講義調、説教調、演説調のようなスタイルが確立していきます。これは、今の報道、ニュースをみてもよくわかるでしょう。調から体へ、「だ」「である」とか「であります」「ございます」なども文体を経て、話のスタイルができてくるのです。
 問題は、この江戸の語が全国に広まり、共通語になっていくプロセスです。
 明治になり、欧米に追い付くために、日本語は「ローマ字」で統一しようという論議もありました。漢字は知識人によって多く用いられていたので、福澤諭吉は、「漢学制限論」を説きました。
 その後は、漢文直訳体の仮名まじり文から言文一致、つまり、話しことばと書きことばの一致への運動になるのです。
 明治20年代、二葉亭四迷の小説「浮雲」の「だ体」、山田美妙の「胡蝶」の「です体」が、代表例です。それには、江戸落語を大成した三遊亭圓朝の影響があったそうです。彼の「牡丹灯籠」などは速記によって出版、大ヒットしたといます。
 
○標準語から共通語へ

 「標準語」ということばはstandard language、岡倉由三郎が最初に用いました。(1890年)それが東京語に準拠することになったのは「口語法」(1916年、国勢調査委員会)によちます。とはいえ、最初の国定教科書「尋常小学読本」は1904年、すでに口語体の文章でした。これがラジオ放送(1925年)の開始で普及するとともに、整えられていったのです。私は、飯田橋の凸版の印刷の博物館で、いくつかの教科書をみましたが、よい勉強になりました。
 「共通語」とは、異なった地方の人々が意志を通じ合える言語です。これは、common languageで、第三の言語と考えたほうがよいでしょう。現実としては、私たちは共通語を使って話しているといえます。これが、東京で一般的に使われていることばとは、必ずしも一致しないのは、NHKのアナウンサーを聞いたらわかりますね。
 標準語というのは、理想的で人為的で、上からの押し付けのような感じがあってか、使われなくなってきたのでしょう。最近は方言も復活してきて、方言と共通語のような対比で使われています。

○「グロービッシュ」の登場

 最近、出てきたグロービッシュということについて述べます。これは、標準の言語などは一つに決めることも示すことできないから、誰でも使えるように簡易なレベルにして共通範囲を決めましょうということです。その代り、若干、文法、ルールが省略化され、現実のものと異なります。しかし、健全なアプローチといえるでしょう。ことばにはどちらが正しいかわからないものもたくさんありますから。ネイティブスピーカーでない外国人が使うのに寛大ということです。
 日本でも地方に住む人には、共通語などは外国語と同じで、一生話さない人もいるでしょう。東京でも関西弁で通している人も少なくありません。一方、東北などの人は方言にコンプレックスを抱き、小さい頃から、日本語のバイリンガルとなろうとしていますね。
 グロービッシュは、イングリッシュとグローバルからの造語です。英語を母国語としていない人のための英語体系です。シンプルな言語体系にして、コミュニケーションに使えることをメインにしましょうということです。
 私も、50カ国以上の旅まわりを、英語とジェスチャーと筆談で乗り越えましたが、ネイティブなニューヨーカーに対しては、今でもビギナー同様です。加減を知らない人は恐いもので、ネイティブで日常的に英語を使っている人は、英語が使えない人のことがわからないのです。私などは、自分と同じく第二言語、第三言語として英語を使っている人との方がスムーズに英語でコミュニケーションをとれるわけです。

○語学学習のコツ

 教えるということ、伝えることでもよいのですが、これには二つの必要条件があります。まず、「自分が、あることを知っている、できること」、です。あなたが日本語を教えるとしましょう。すると、あなたは日本語を知っていて、できる(話せる、書ける、読める、聴ける)ことが必要です。
 日本で育った日本人なら、日本語は知っているし、できます。でも、それを教えられるか、伝えられるかというと、「それについて相手が、どう受け止められるかを知っていること」が必要になります。
 アメリカ人になら、あなたが英語を話せると、かなりスムーズに日本語を教えられます。でも、アメリカ人ばかりに教えている人が、中国人を教える相手にすると苦労するでしょう。
 つまり、相手の言語を知ることで、それと異なる自国語の特殊性がわかります。そこの違いから切り込むと、効率よく教えられるようになります。
 単語、文法、発音、リスニング、説明などに分けて分割するのは、共通化、ルール化して法則を覚えることで、学びを効率化させるわけです。方言しか話せない人が共通語を学ぶときも同じです。それぞれにグレード、難易度をつけて、簡単な方やよく使う方から入るのもノウハウです。

○英語や日本語を簡単にする

 共通語は、現実のコミュニケーションのために使うものと言いました。今のところ世界の共通語の位置づけにあるのは英語です。中国語やスペイン語を使う人も多いのですが、国を超えたところで話せることばとしては、特にインターネットなどにおいては、元から使われているから、英語が有利ということになります。
 とはいえ、他の人が学ぶには、英語は、かなり複雑でいい加減なルールの言語ですから苦労します。こういうときはエスペラント語ではありませんが、シンプルなルールの共通語に英語を変えていけばよいのです。たとえば、使う英単語は1500語以内を目安にするということです。
 日本語でも海外の人が学びやすくするためのグローバル・ジャパニーズというようなものを提唱する人もいます。しかし、こういう場合、言語は文化でもあるので、変えてはいけないという保守的な人々の大変な反対にあうのです。そのおかげで、漢字も日本語も生き残ってきたのでもありますが、外国人向けには、読み書きに難しい日本語を制限して2000語くらいで通じるようにするとよいでしょう。それは、日本語のネイティブである私たちこそ、その区分けを覚えるべきなのです。それを知る外国人とは、その制限下で話せば、すぐにコミュニケーションがとれるからです。
 いや、日本語がすぐうまくなる外国人の心配よりも日本人の心配をすべきですね。外国人とは2000語以内で話す。ですが、日本人とはこれまで通りに、であり、日本語を2000字だけにしろと言っているのではありません。

○アナウンサーの話し方

 日本の共通語は、東京の下町ことばをもとにしていながら、実際は、放送のために使われているものです。共通語は、私の考えでは、NHKの編纂によって認可されたり、変えられたりしていく、どこでも話されていないことばです。(「日本語アクセント辞典」などが教典)
 日本人の規範好きの性格は、細かいところまでこだわり、制限、ルールを統一させ、全員に普及させるのに並々ならぬ能力を発揮します。全世界でNHKほど一様の基準で、アナウンサーたちだけがことばを扱っているような国はないでしょう。列車の発着時間と同じくらいに几帳面なのです。(ちなみに、フランスなどは、全国民に自国文化や言語を大切にするための制約があります)
 世界でもこんなことができるのは、他にドイツ人くらいで?頑張っているのは北朝鮮くらい?でしょうか。これは明らかに先に述べた標準語としての理想化です。
 私はNHKのアナウンサーともいろいろ関わってきましたし、今は技術者で、ここに通っていらっしゃる人もいますが、アナウンサーのように話すという基本は、民放のパーソナリティは別として、声優、朗読家の人にもけっこう共通しているものを感じます。そこから離れる苦労を先日、松平定知氏の本で読みました。

○発音アクセント中心主義

 アナウンサーになりたての人の発音、アクセント絶対主義の基準と、TV、ラジオ放送のベテランや一流と言われる人の語り口が一致しないことは述べたことがあります。
 ここではアナウンサーの専門である発音について述べます。ベテランのアナウンサーの能力に私がもっとも驚かされたのは、その人の出身地を当てることです。これは、科学捜査班レベルで、ときに犯人割り出しにも使われることがあるほどです。
 いろんな地方出身の人の発音アクセント矯正指導をすると、おのずと鋭くなるのでしょう。言語(方言)の特徴がわかるのと、直し方が開発され、マニュアルとなります。私どものレッスンにも通じるものがあります。発音、高低アクセントの矯正はアナウンサーに及びませんが、私も塩原先生という、この分野のオーソリティにご教示いただいています。五十音の練習文例などを集めたり、つくったり、アナウンサーの教育の基礎をつくった方です。ベテラン勢のアナウンサー、ナレーターの多くも、彼の本で基礎を学んでいます。

○観衆ばかり☆

 母音を、切り離すという練習法は、劇団四季の浅利さんが、今や劇団を超え、日本の子供たちにも教えている方法です。私は、舞台の表現としては、主宰者の好みとなりますから、口をはさまないのですが、日本語の発声や歌としての方法については、いくつか別の見解を述べてきました。しかし、アナウンサーの基礎や子供の教育に母音の口の形が入ることくらいはよいと思っています。
 声や表現というのは、少々、時間をかけていかないとわかりにくい、というか、変わらない人がいるのに対し、口をはっきりと動かし発音を明瞭にするというのは、誰もができるようになることで、その効果も確認しやすいからです。
 特に、視聴者がサウンドよりもヴィジュアル重視の日本人ですから尚更です。今や聴衆は少なく、観衆ばかりの日本人客だと私は思っています。
 いわば、すべて形、型から入るということです。顔の筋肉、表情筋さえ、あまり動かしていない人には、とてもよいことです。
 ただ、私としては、歌や芝居に表情はつくもので、トレーニングとしては、筋トレのように表情筋づくりのレベルで行うならともかく、発声や声質がチェックできないような曖昧なことになるのは避けるべきだと思います。(これは、前に「両極を極めましょう」で述べました)