「本物の声、自分の声」 NO.272

3つに分けてみる

 

 表現のためのトレーニングについては、私は3つに分けています。次のように分けて考えるとよいと思います。

1、心(ハート、魂)

2、体=息=声=共鳴=ことば

3、ステージ=表現の成立

これらの心身とステージまでをヴォイトレで扱います。

 

○声は1

 

プロなのか、一流なのか、表現者なのか、アーティストなのか、ともかくも、この世界に入ってくる多くの人が目指すレベルのことを成し遂げている表現者、ここの場合は音声でのということですが、そこにおいても「声の占める割合は1割」と、もう20年以上前から述べてきました。

 ちなみに「人は見た目が9割」とか「伝え方が9割」などというタイトルの本が売れていますが、それも私から言わせてもらえば、ここの「人」というのは、「仕事のできる人」ということでしょうが、「見た目」も「伝え方」も占める割合は1割でしょう。ただの人としてなら1割も必要ないかもしれません。それが9割であるというのは、他に何の取り柄もない人とどちらか選ばなくてはならないケースだけです。それは、クラスで班長を選ぶようなもので、接客、介護などでは好感は持たれるでしょうが、仕事では成り立ちません。

 ただし、プロや表現者にとっての1割というのは、とてつもない重みを持ちます。たとえば職人技の工芸品や一流画家の絵のなかで、1割おかしければ、その名声はすべて崩れてしまうでしょう。3割バッターなら強打者、2割バッターなら普通の打者です。

 たかが1割のようでも、そこがあってこそ、全てがのってくるのです。その重みを知るべし、です。まして、とても一所懸命やっている声のトレーニングでも1割ということです。ベースとなるものとしてあり、それでも声は1割とわかった上で、他に9割もやることがあると知らなくてはなりません。

 

○声から+αのプロセス

 

 ヴォイトレというのですから、それは声を学ぶトレーニングです。

 私は当初、声だけ取り出して、「ハイ」など声の1フレーズだけを価値づけていくレッスンを主眼にしていました。しかし、本が出てから一般の人が来るようになって、方針を変えざるをえなくなってきました。プロと行なっていたときには、プロは歌えるし、場があるので、まさに声の力だけを求めてきていたのです。それゆえ、レッスンはとてもシンプルでした。

 当初は力のある人が来ていたのに、プロダクションが絡むにつれ、段々と中心がデビュー前の人とか、歌手に転向したモデルさんとか、有名女優の二世さんとかになりました。そして、カラオケの先生のような、デビュー前の仕上げという仕事になってきました。声そのものにアプローチできなくなってきていたのです。そこで、一般からプロを目指す人とじっくりと行う研究所をつくったのです。

 当初は、素人といってもやる気があり、目標があり、実績もある人が来ていたので、声とその応用であるフレーズだけが課題でした。「ハイ」という声とカンツォーネなどの大曲のサビの「4~8フレーズ」の応用、その2つの精度を高めていくことが中心です。プロになるためにもっとも大切なものだけの、シンプルな割に本質的なレッスンだと今でも思っています。

 さらにグループなど他の人の声やフレーズを比べつつ、一流の歌手の歌唱フレーズから吸収しては、作品化していくことをフレーズ単位で行いました。うまい歌でなく、自らのオリジナルのフレーズをデッサンさせる実習を加えていったのです。

 方針が変わらざるをえなかったのは、そのことよりも音程やリズムなど、音楽や歌そのものに慣れていない人が増えてきた頃からです。それを補強するためのトレーナーも採用するなど、トータル化していくプロセスを取らざるをえなかったからです。来る人によって、よくも悪くも場は変わるのです。

 

○表現の定量化

 

 プロとして問われる音声の表現力を100とおいてみます。これを100%とします。すると、声は10、歌は10、このあたりが当初から私の考えた歌い手の条件でした。つまり声の基礎や歌の基礎をやりつつ(あるいは、習わなくとも自らできていて)、声がよい、歌が上手いというレベルで、声10+歌10=計20です。これで、のど自慢なら入賞できるでしょう。しかし、それなりのプロや表現者とは、まだ5倍ほどの開きがあります。

 そこでヴォイトレについては、声をオリジナルの声として100%開花させていく方向で、自分の声、本物の声を問うていくのです。

 そうなりたいと来る人に支えられてきた研究所ですが、その定義はありません。オリジナルですから。でも、このオリジナルを本当に目指せる人は、それほど多くありません。

 自分でない声、偽物の声、がもし使われているとしたら、それは、本音に対する建前と同じく、世の中では必要とされるものだからです。仕事上、丁寧な声を使い、普段は粗っぽい声でしゃべるとしたら、声として求められている価値のあるのは、仕事で使っている方の声になります。

 本人が、それを「自分の本当の声はでない」というのはわかりますが、仕事は相手の求めるものに応えることです。歌や舞台のせりふも自分の思う自分の声よりも、他者の求める役割の声が必要とされるものです。特に日本は、一般の仕事でも舞台でも、この差が大きいのです。これは、ヴォイトレでの声づくりを妨げる二重構造として指摘してきた通りです。

 

○二重構造の声

 

 本来は、人とうまくやっていくための声と、ステージで求められる声は違います。特に日本のように、丁寧なビジネス声が求められる社会では、接客マナーでのよい声は、ある程度マニュアル化されています。誰にも同じように、浅く軽く表層的な静かな声、あるいは、一方的に強く元気にあふれる声が求められているのです。前者はファストフード、後者は居酒屋などで典型的にみられます。一見、正反対のようであって、実のところ、その人の元来の声、オリジナルの声を全く省みていない点では、私にとっては同じです。

 つまり、10点止まりの声なのです。個性のある声は、リーダーや異なる人々の集う社会では、絶対条件です。ですが日本人にはいささか不快なのです。

 ここでのオリジナルというのは、誰もやっていない、初めての、というのではありません。その人の元来、本来の、ということです。それをしっかりさせると10の声が20に近づいていきます。それが私のヴォイトレの目的であったのです。

 つまり、基礎としての声に応用を兼ね備えた声、その人の潜在能力を、心身を持ってマックスに、発声技術を持ってマックスにすることで、芸となるべく声とするのです。一声でも違いのわかるレベルにしようということだったのです。

 それに対し、現在の声の状況といえば、オリジナルの声にオリジナルの表現でないと認められないレベルの高さにないゆえに、うまい人に似た、器用でよい声の使える人が代用されてしまう悪循環に陥っているのです。

 一般ビジネス社会ではともかく、業界でさえ、一般的な声、見本(以前のスターや売れた人)と似ている声を求めるという日本の未熟さが、ヴォイトレをカラオケレッスンに堕落させたといえます。どこの世界にアーティストに二番煎じを求める国があるのでしょうか。本人の基礎の上にのった応用としてのオリジナルのフレーズでしか通じないという大前提から外れた国が日本なのです。

 

○正道のプロセス

 

 レッスンにおいて声だけでなく歌においてもオリジナルのフレーズを求めざるをえなくなったのは、私のヴォイス本が「ロックヴォーカル基礎講座」というタイトルで最初に出たせいかもしれません。ロックのヴォーカリストになるノウハウの本と思った人が少なくなかったのです。

 本でロックヴォーカリストになるという、ありえないような誤解は内容をしっかり読めばおきないように書いてあります。この本は、ほとんどヴォーカルのことに触れずに、声のこと、その声の鍛え方や管理のしかたを述べた初めての専門書だったからです。

 ちなみに、この本で芸人や邦楽、外交官や政治家といった勘の鋭い方もいらっしゃることになり、こちらとしては大いに勉強にもなり、自信にもなりました。素人がプロのロックヴォーカリストとして活躍するより、現実として、異分野の一流の芸やビジネスであっても国際舞台で通用する成果につなげられたからです。(ここでは、本当に声の力は1割です。その評価なども大いに検証すべきですが)

 私としては、元より、日本人にとっては、直にロックなど欧米レベルのものを歌っていくよりは、体というか、声のレベルが違うのですから、役者レベル(当初は結構高かった)の声に35年で達してから歌えばよいという、否定することなどありえない正道のプロセスを示したのです。

 同時に、若いお笑い芸人や漫才師、噺家などもいらしていました。声の力、やる気、センスなどをみて、業界の中心が歌からお笑いの世界に変わることは、90年代にはすでに明らかでした。それゆえ、歌が声の力から離れていったのです。ロックをやろうとしたなかで、テクノやシンセサイザーの方へ鋭敏なアーティストが動いていったように私は思っていました。

 

○声20+20

 

 当初、研究所の処点を音楽事務所や音楽大学関連施設でなく、六本木の俳優座の事務所においたのも、声楽家より新劇の役者の方が、声が早く鍛えられていたのを目の前で体験していたからです。(その前は、今、声優の学校もつくった音響の専門学校におきました。恐れ多くも音楽療法MT)の桜林仁教授を顧問にしていたのです。医学と芸術の間にヴォイトレを意識していたからです。

 歌での10、(=うまい歌10)に加えるべくオリジナルのフレーズでの10、これは、音楽性をも伴うので、声だけでの判断では無理ですが、中音域から上の声で、役者には鬼門のところです。それでも声楽のテノールやソプラノほどの高さを当時は想定してなかったのです。ハイレベルの合唱やミュージカル以外であれば、1オクターブの確かな声、先の声の1020で、少々応用すれば充分に対応できたのです。歌は応用という考えは今も変わりません。

 一流歌手、プロ歌手が50年前のようにラジオ、レコードだけ(つまり、音声の表現力)で勝負するとしたら、声20+歌2040、これを一つの基礎とみることができたと思います。あとの60はその他の全ての要素です。

 100でプロ、それを超えて200とか、500とか1000とか。1000以上で天才歌手といったくらいに私はみています。しかし、表現者として目指すべき基礎のトレーニング面では、まずは100以上というところです。

 

100の内訳

 

 声20、歌20に加える60は、この研究所に来る人でみると、声20、歌20どころか声5、歌3くらいで、10くらいがダンス、作詞、作曲、アレンジで10ずつ、さらに演奏もあります。あとはステージやビジュアルと応用の作品での演出(ファンにとっては、のことで、私は何ともわからないのですが)のプロもいます。作詞作曲の力が303060くらいの人もいます。私が最新の著書で「読むだけで」(「読むだけで声や歌がよくなる本」)と安易なタイトルをつけたのは、ここで述べた100というトータルを想定してのことです。声を1020、歌を1020と伸ばしていく必要性を知ってほしかったからです。

 トレーニングさえすれば何とかなるのでなく、トレーニングはするもしないも、そういう世界を選んだら、選び続ける限り、持続させるものなのです。やめたときは、あきらめたときですから。

 要は、10になっているのか、20へ向かっているのかという最も大切なことを知ること、さらにその渦中にいると見失いがちな60を知っていくこと。

 私なりに、研究所内外で得たたくさんの要素を本やレッスンには詰め込みました。これも自らが知り、掴み、試み、挫折していく、さらに捨てたり、あげたりして、限界と可能性をみていくものなのです。

 

○トータルとしての声

 

 声の10の世界について、みるだけでも、広く深い世界です。あらゆるものがそこへと繋がっています。日常にも仕事にも声は使っていますから、芸としてのみ声を切り離すこともできません。しかも、これまで使ってきたプロセスも全て刻まれているのです。

 そういう面ではトータル、あなたの心や体と同じ、生きてきた結果としての声なのです。声もまた総合力なのです。(私としては、それが即効的な効果として機能の向上としてのみヴォイトレが求められてしまったのが、大きな方向違いだったのでは、と思っています)

 それゆえ、すでにあなただけの声だから、自分の声、本物の声といったときには、今の声を捨て、新たに声をつくるのではありません。別の声を真似したり、それらしくつくってみても、ものにはなりません。

 しかし、歌唱やステージなどに対して安易に声を扱うと、接客サービス声のように、何よりマイナスでない、反感を買わないような、説得力のない、浅く若い声になりがちです。これは、本物の芸に逆行します。

 昔は、幼稚とか、甘えた声ではそういうところでは通用しなかったのが、一般は元より、仕事や芸の世界でも許されてきたかのようにみえます。誰も注意せずスルーしています。

 つまり成り立ちを問えば、成り立つかどうかで成り立ってなければ全てダメだったのに、それを音声で厳しく求める人がいなくなり、問わなくなったとさえいえます。そこで、たまに音声で成り立っていると、すごいということになっているのです。今のところ、日本=日本人の声の劣化=耳の劣化(変容でもありますが)は止まるように思えません。

 

○自分の声、本物の声

 

 私もある程度は、相手やシチュエーションによって自分の声を使い分けています。少なくとも声のことで私に会う人には、それほどブレず、同じスタンスで、同じ声で対します。私は歌手や役者ではありませんから、よい歌声や、よいせりふをみせるわけではありません。トレーナーですから、トレーニングした声、自分の声そのものというよりは、相手がトレーニングをしたら得られる価値を提示できるような声を示します。

 どちらかというとレッスンでは「よい声の10」ですが、カウンセリングや普通の会話では「オリジナルな声の10」で対します。使うのに疲れず、楽であって深く、通る声です。私自身もそれで8時間以上、使って疲れたりしない声を知らずと選んでいます。一期一会、いつでもそうあるべきだと思い、備えてもいます。

 声を自分の声として求めるのなら、他人の求める声を出そうということ自体、不自然で無理のくることです。見本をみせてほしい、真似させてほしい、直してほしい―。それは他人のものがほしいと言っているだけです。そこで学ぶとしたら、声でなく体や感覚でしょう。

 まずは、自分のなかにある声を取り出すこと、出せなくなったら、その間に心身について強化鍛練しておき、取り出せる自分にしていく。それが本筋です。

 

○ヴォイトレの効果

 

 発声の原理、理論や発声のメニュ、アドバイスなど、私たちもたくさん公開していますが、数多くのヴォイトレのノウハウや教えがあります。これを使う前に、世の中にあるそういうものを使わずに歌手となって活躍している人の方がずっと多い。いや、むしろそういうものを利用してきた人はほとんどいない。ということを知るべきでしょう。(あるいは、トレーナーの接したプロでなく、トレーナーの育てたプロを探してみればよいでしょう。人気や知名度でなく、声の実力です。)

 でも、すぐれたプロセスがなく、現実にそうなっていないからこそ、それを補うものとしてヴォイトレもあり、トレーナーもいるのです。それをサプリとして使うのか、根本的かつ全面的に使うのかは千差万別です。

 だだし、身体の鍛練や精神力の強化をなおざりにして、いくらノウハウやハウツーものを読んだり試したり、トレーナーのところへ行っても、真の効果が出ないは当然です。(というと、ご自分のヴォイトレの効果を持って反論される人もいるのですが、それがよほど突出したものでなければ、検証などできません。「今よりよくなればよい」というのは確かですが、大半は、こまごました誤差の範囲内に入ってしまいかねないくらいなのです。「レッスンをしたら皆がよくなった」「学会や権威者に認められた」という曖昧なものよりは「たった一人でも世界のトップになった」という事例の方が欲しいものです。)

 私は、よく、ここでのヴォイトレ4回とジムやマッサージの4回と、どちらが声が出るようになっているかなどを疑ってみることがあります。「体のことや声のことをやれば声が出るようになる」という当然の結果、それをどうみていくかが大切なのです。

 

○雑念を切る

 

 よいトレーナーにつくのは、トレーナーやメニュや方法に振り回されなくなるためと思ってはいかがでしょう。自分一人でやるとそのプロセスに確信が持てず、疑問を持つことでしょう。そこで他の人に聞くのはよいことです。まして少しは専門家であるトレーナーの意見、アドバイスは貴重です。しかし、そこに客観性はさほどありません。そこにあまり期待すべきではありません。その理由はこれまで何度も述べてきました。

 他人からも自分の頭でも、「こうやれば、こうしなくては」、というのは、すでに対応を誤っているのです。なぜなら、本当にすべきことは自ら対応できる範囲を超えていることだからです。

 ならばトレーナーや本も含め、早くあらゆることを知った上で全てを忘れてしまえ、捨ててしまえというのが、考えすぎて悩むタイプの人への私のアドバイスです。雑念を切るのに雑念となるものをたくさん入れて、徹底していくことです。それに本もトレーナーも使えばよいのです。無意味を悟り、忘れるプロセスとして使うのは、最も高度な使い方の一つです。

 

○ベースをやるということ

 

 ベースとなるトレーニングは、できることだけをより丁寧にしっかりとやりましょう。

 調子のよいときは少し無理してもよいですが、悪いときはベースとなるトレーニングがしっかりとできるように戻すことでよいのです。つまり、本やトレーナーを使って、「できないことを無理してやる」のはよくありません。むしろ、反対のことをするべきなのです。「できることをていねいにする」のです。

 できていないことはできないのだから、そこをやるのではなく、一つ下のベースをさらに掘り下げていくのです。

 教えることも同じです。教えてできることなら教えなくてもできるのだから、教えても仕方ないのです。本人が気づくまで待つのです。それを問うたまま、どこまで、いつまで保てるかがトレーナーの力量です。

 できたのにできたと気づいていないなら、できたと教えることが必要なときもあります。

 ここでは「わかる」ということばは使っていません。「わかる」と「できる」は違うからです。

 

○判断レベルを上げる

 

 結論を言うと、発声とか歌とかが正しいかなどを問うのはありません。いかに声の状態を正しく把握できているかを問うていくのです。いや、正しくというよりは、その把握を少しずつ深めていくのです。

 私はあなたの声で「ハイ」だけで100のマップ(声の図)は描けるでしょう。歌の声なら「わたしは」という1フレーズの歌詞だけで、この4つの声の状態から、歌としてのよしあしを「わ」について「た」についてと、点数をつけられます。しかもプロの歌手が聞いても納得するだけの説明ができるでしょう。もちろん聞く耳のある人であればですが…。

 私は見解を示すとともに、必要であればプロデューサーや外国人など、他の一流の人の耳ではどう聞こえるのか、その相違をことばにすることもあります。場合によっては、本人がどういうつもりでどのようにやろうと試みて、その結果、どこまでうまくいき、どこでだめだったかを、代わって説明するでしょう。それは高度な仕事上の能力ですが、私はレッスンを通じて、そういう耳の力をつけさせるようにしています。

 

○ど真ん中の声

 

 自分の声を聞く。「そのなかに本物の声が必ずある」とはいいません。この声は、思いとか言いたいことではなく、そのまま声という意味です。本物の声というとわかりにくい、誤解を招きやすいので、私は、「あなたのど真ん中の声」と言います。

 バッターでのど真ん中はストライクゾーンの真ん中ということになりますが、私がいうのは、そのバッター個人のど真ん中、つまり、彼がもっともホームランにできるコースを示していると思ってください。

 ですから、私は最初のレッスンでは、音の高さも声域、歌詞も、曲も全てを無視することもあります。

 一声だけ、最もよく出せるところで、声というもの、発声と言うものを徹底して把握するように言ってきました。声を伸ばすだけ…しかし、そこに何ら感じられない人がどうして本物の声などにたどり着けましょう。

 声はトータルの1割と述べましたが、数秒の声一つで、ある瞬間には全てになります。1フレーズあれば、歌手は感動させたり、エンディングを魅力たっぷりに聞かせたりできるのです。

 

○明らかになる

 

 「できない」とか「うまくいかない」と思うのはともかく、発声や歌で悩んだり苦しむのは逆効果です。レッスンやトレーニングは楽しみましょう。

 できないことをやるからめげるのです。できなくても、うまくいかなくても、先に行けないのではありません。ずっとできないし、うまくいかないかもしれません。しかし、それがわかったら、その先にはいくつも道があるのです。多くの場合、そこが曖昧だから深まらないし、抜けられないのです。

 同じことをくり返す。そして深める。できることをくり返す。そして確かにできるようにしていくのが本筋です。

 日本人はどうも学ぶプロセスに123101112、…20と考えがちですが、実のところ123とうまくいかないから、126162などが起きます。元より、先述したように、声や歌に1020も必要、基礎の力がある方がいいとはいっても、必ずしもその1020が必要なのではないのです。両方が人より足らなくても100に近づけることも可能なのです。

 声そのものの可能性に見切りをつけるヴォイトレもあってもよいでしょう。それだけがレッスンでも、まして表現でもないし、人生でもないのです。

 だからこそ表面上に、声が届いたとか届かないとか振り回されて一喜一憂するヴォイトレは卒業しましょう。自分の個性、可能性、限界の全てを明らかにしつつ、より深く丁寧に声の世界を掴んでいくようなスタンスで構えていってほしいのです。

 

○使えない教材

 

 声はメンタルとフィジカルの要素がすごく大きく関わるものです。だからこそ、やる気で大声を出すしか取り柄のないようなヴォーカリストだけ活躍できているのです。(ここでは日本人より海外のヴォーカリストのことを言ったつもりです。今の日本人のヴォーカリストはセンシティブすぎるくらいです)

 だからこそ、シンプルなメニュなのです。私は、ほぼ初心者しか買わない日本の発声練習やメニュ、ヴォーカルの教材、教本などが、あまりにハイレベルなので驚きます。

 私の基準でみるなら、「それがこなせるくらいなら、その教材を使う必要はない」と思うのが多すぎます。「喉の状態の悪い人に喉を絞めてしまうメニュ」であったり、「高い声が出ない声に人にハイトーンのメニュ」中心であったり、大体は、独学で使うでしょうが、より雑にいい加減になって、悪化はしても、よくはならないでしょう。

 できないことをやらせるとそのうちできるようになるかのような考えでつくられたものが多いのです。そういうメニュで無理して高く出していたら、その高さに届くようになったり、そのパターンをくり返していたら音やリズムが外れなくなった、という表向きのわかりやすい効果を狙っているのです。そこまでのメニュでは、その先はありません。つまり、本来の限界以前に、くせをつけて少し伸ばして、そこで可能性を止めてしまうものなのです。

 大体は、それなりに声に恵まれ、すぐれているトレーナーが自分の使ったメニュなのです。そのトレーナーさえ音がとれているだけで、声としては、ろくにこなせてないのも多いし、喉声の人もいます。

 いわば、最近、私が述べているヴォイトレの名のもとに、声そのものは扱っていないという代表例です。しかし、つくる側の立場としては、そうなるのもやむをえない事情もあるし、それもわかるので批判はしません。何と言っても、つくる方は大変なのです。また、それでうまくいくところまでで充分という人もたくさんいると思うからです。

 

○囚われない

 

 シンプルなフレーズの繰り返しで、頭のなかを消すのです。ここのトレーナーは「頭をからっぽに」とよく注意します。頭でなく身体から動かないと声は出てこないのです。

 それを知るトレーナーは、発声のためには、体力づくりや身体の柔軟管理を第一の条件と考えます。

 発声をすると喉が疲れるという人に、「声帯の仕組みと使い方を学んで、それにそって出してください」などと言うのは、一つ間違うととんだヤブ医者になりかねません。

 この場合、原則として、ということは、大半の人には、ということです。喉のことは忘れて、イメージ、耳、体感で自分の状態と声のチェックを優先すべきです。最初はトレーナーの耳を使って、そのうち、それを参考に自分自身で判断できるようにしていくのです。そこに集中しなくてはいけないのです。

 眼を開けつつ目に映るものに囚われてはなりません。

 鏡での姿勢のチェックは一つのレッスンとして大切ですが、それだけに囚われてもよくありません。声の出やすいようになら、どんな姿勢をとってもよいというアプローチもあります。姿勢から声を方向づけるもの一つのやり方ですが、その前に声の出方から姿勢を考えたり変えたりしてみるのもよいことでしょう。

 そういうことに気づき、レッスン外でどう試みるかが学んでいくということなのです。トレーナーは「よくなった」と言ったとしても、「今の自分にはこの方がよい」と、それが正しいかどうかは別にして、今のあなたの気づきとして得ていくもの大切なのです。

 

○くり返す

 

 シンプルな繰り返しをするというのは、そこからシンプルにできることのなかにいろんな試みをして、自分の状態やできたことを把握していくということです。ただ、回数をたくさんくり返すとか、たくさんのメニュをやるというのではありません。

 発声のスケール練習やコンコーネ50などで、全てのパターンを覚えるのは、一つのことだけを何回もやっていては、変じられずに飽きて鈍くなり、気づかなくなってしまうからです。数を増やしたり、バリエーションを知るために、次々にやればよいというのではありません。

 時間で稼げる若い頃には、量だけの徹底も大きな力となります。これは、あとで効いてきます。特に身体の応用や、聴く力は飽きるほどくり返す行為の中で高まります。

 コンコーネ50(ポピュラーなら15番のメニュくらいまででもよい)を発声として使うのは、「コンコーネの1番」ですごい(ポピュラーならおもしろいでもいい)と思わせるためです。日本中の音大生がこの50曲どころか、それ以外に他の教材まで手を出し丸暗唱できるのに、この一曲だけですごいと思わせる人は、全国で1ケタもいないでしょう。スタンスや方向がよくないというのはこういうことなのです。

 

○基本と極端、はみ出し

 

 他人が与えたメニュで難しいことをやるよりは、自分の選んだ一つのシンプルメニュを使うことが大切です。それを極端に長くしたり大きくしたり高くしたり低くしたり変じさせてみるとよいのです。その方が気づきやすく学ぶところも大きいでしょう。気づけるようにメニュをセットしなくては、メニュを使う意味がないでしょう。

 プロ歌手は、ヴォイトレのメニュを使わなくても、そういうことを一つの声や一つのフレージングでやっています。

 私の述べた声の1010、歌の1010の練習を、彼らはスケールということでしていなくても、歌のフレーズできちんとやってきたのです。(ただ、デビューしてからこそが勝負なのに、そこからあまりやらない人が多いので、よくないのですね)その間にバランス感覚(まさにプロのプロたるゆえんは、この常識感覚ですが…)を極端な試みを楽しむうちに捉えてきているのです。

 これは、応用性を、はめを外さず即興でまとめるために、なくてはならない能力です。MCやタレント能力もこれに含まれます。(ただ、プロになってから余りはみ出さないようにする人が多くなったので面白くないのですね)

 私はトレーナーの立場を超えて、この極端をかなりレッスンにも取り入れていました。一般の人が多くなって、かなりのものは納めざるをえなくなりましたが、昔の会報から学んでください。

 

○タフさ

 

 極端にする必要性は揺れ動かすため、大袈裟にいうと、パラダイムの揺さぶりのためです。どうしても人は一つの見方に偏りがちです。「細かく丁寧に」と、「思い切り大胆に」は両立しにくい。しかし、表現は、そのギャップの狭間に生じるのです。つまり、どちらも自由に行き来できなくてはなりません。

 それを学ぶのが、人につくということだったのです。「俺に惚れて弟子にきたのなら、俺の心地よいように振る舞え」などと言ったのは、談志師匠でした。

 人前に何かを表現しにいくのは、弾の中を生身で歩くようなものだからです。

 「メンタルに弱い」とほとんどの人が、プロも含めて、相手に初対面から言えてしまう、今の日本の状況では、声や歌の前に、タフな基礎力育成が必要です。

 舞台のレベル、特に音声力、身体力、精神力は日本では著しく落ちてきています。私は高度成長期の日本のセールスマンくらいのタフさがあれば、今ならば、この世界の仕事は引く手あまたと思っています。それくらいに人材も少ないのです。

 

○習わしと慣れ

 

 嫌な人、客、スタッフなどはどこにでもいます。表現するようになると、知名度が高まると、そういう人が刃をかざしてきます。嫉妬、妬み、引き摺り降ろす、この、個ではなく世間体のような、見えない圧力の大きさは、日本では今も昔も大して変わりません。ただ露骨でなくなって、陰険になりました。自分の意見として、自分の顔と体と口でもって突っかかってきた時代の方が、お互いにその後の成長の可能性もあったと思うのです。

 精神力という心の問題は、慣れることでかなり解決します。

 ここでも、レッスンに「来たくないときでも決めたことは実行しましょう」とアドバイスします。週に1回でも2回でも、他人であるトレーナーと会い、その前で声を出す。まず、慣れからです。その習わしと慣れが習慣となり、毎日のトレーニングや意識の改革になります。外の環境が変わることで内なる環境がよい方に変わってくると、本人に力が宿るものです。そして、トレーナーや周りの人にも少しずつ認められていきます。

 それを買物のように、「もっとよいトレーナーいませんか」「もっとよい方法ありませんか」「もっと安く便利に早く」などと言っているとどうなるでしょう。研究所自体はいつもいろんなクレームを受けて、日々改革されてよくなっていきます。感謝です。でも、それではあなたは変わらないでしょう。そもそもご自分を変えにきたのではないのでしょうか。

 

○相性

 

 あなたが好きなトレーナーは、あなたが好きだからうまくいきます。ただ、それは人間関係であって、レッスンの成果は必ずしも同じではありません。仮に、あなたが合わないトレーナーとうまくやって、そこで成果が得られたら、それはもっと大きいはずです。(ここでトレーナーを方法というものに置き換えてもよいでしょう)

 なぜなら、声は日常のこれまでの経験の上に使ってきたものだからです。普段の生活レベルでの習慣や環境はなかなか変わりません。しかし、そこを変えることこそが飛躍のカギなのです。オペラ歌手にとって留学が勉強になるのもそのためです。弟子入りというのもその手段です。

 よほどのエネルギーがないと自分では無理難題や不条理なことはやりません。無理とか難題と思っているからでしょうか。いや、イメージにないからです。でも、それは相対的なもので、同じ以上のことを難なくやっている人からみると当たり前のことなのです。

 自分のプライベートな生活だけで、そこに必要がなければ誰もわざわざ嫌いな人や合わない人に会いには行きません。仕事なら、必要があれば否応なしにそういう人とも会います。そこでうまく合わせていくうちに、嫌いでなくなったり、合うようになってきます。それは、あなたが変わった、いや、大方の場合、慣れたのです。そういう相手も異常者でないのですから、これまであなたが自分のイメージに囚われていただけです。

 表現の仕事のほとんども否応なしのもの、自由に選べるものなどほとんどないのです。自由になるための不自由ななかで自由になれることが必要です。その判断が固まってくる分、若い人に可能性があるというだけで、固めないことが大切なのです。声や歌もそのように考えてみるとよいでしょう。

 

○自信にする

 

 慣れるということで、当たり前にできてくると、「慣れればできる」という自信になります。レッスンの一つの大きな目的は、一人でやるなかでなくトレーナーの前でやりながら慣れていくことで、自信をつけていくことです。どこかに長くいると、あるところまではおのずと上達するのは慣れる力のなす業です。だから続けることが大切なのです。

 下手にトレーナーが教えようと急がない方がよいのも、慣れていないところでは、身につかないし、付け焼刃にしかならないからです。

 コツコツと積み重ねていくと、そのうち「できなくてもできる」と思えるようになります。それは自信過剰と違います。周りはOK、でも自分ではNOという自己評価です。

 オリンピックは皆、自己更新タイムを狙います。自己更新とは、出せていないタイムです。それに当り前のように挑む、不可能に挑むからできたときにすごいのです。

 できたことは過去のことです。それをくり返しているだけではクリエイティブでもアートでもないのです。(しかし、私も少し過去の整理をしなくてはなりませんね。先ばかり進めてまとめていないのが気がかりになりつつあります…)

 プロや芸能人のなかには、私の本を知ってその日に、アポを取ろうとしてきた人もいます。考えるより行動してしまう、そして、その力で自分や周りを変えていく。連絡したら会ってもらえなくてだめもと、自分には会うはずだという確信も、これまでの実績や自信からでしょう。私はあまりタレントの名前は知らないので、それで動かされることはないのですが、そういう行動力には、ときに舌を巻きます。(まあ、私も大それた?先生方にたくさん会ってきた方ですが…)

 

○身につける

 

 早口ことばは、声の応用例の一つです。声の力がなくても滑舌としてアナウンサーのレッスンなどをしていると器用にこなせるようになります。楽譜に正確に歌うことと同じく、レッスンとしてはやった分、確実に身につくので、スクールやトレーナーにはありがたいメニュです。

 ただし、どちらもヴォイトレの中心の声をつくるメニュとは違います。でも、どちらも暗誦するほどにくり返すとよくなることは共通します。複雑なものがシンプルになってくるからです。すると、少しずつ、声の動き、呼吸の動き、体や感覚の動きが感じられ、結びついてくるのです。私が言いたいのは、深めていけるのなら、どんな入口、何をどうやってもよいということです。

 正しくできたかどうかを問うのでなく、そこでの声を問うのがヴォイトレなのです。

 なのに、そうでないレッスンばかりなのですね。表面的なもの、頭―口の連動からでも、身体に入ってくると、そのうち頭も口もさほど使わなくてもできるようになる。それにつれ、声も少しずつよくなっていくからです。

 これとは反対に、無理に高いところや大声で合わないところばかりでやり続けている人が多いのです。その場合、何年経っても、発音や読譜力(初見)は上達しても、たいして声そのものは変わりません。そう教えている人も多いのです。それなのに、ヴォイトレを何年も続けてきたという人やトレーナーがいます。その判断力の方が問題です。

 

○レポートする

 

 ことばが身になってくる。これはレッスンでも同じで、トレーナーのアドバイスを頭で理解はしなくてもよいと思うのですが、(そこで理論や科学的根拠を必要とする無意味さは、論点でも述べました)要は、身につけていくのです。それが思考とか精神といわれるものです。

 私がレポートを課しているのは、私自身もそうでしたが、あらゆる一流の人がノートをつけているからです。レポートなら、自己完結せず、トレーナーや仲間という読み手がいます。これはお互いに協力してレッスンをよくしていこうという姿勢でもあります。

そして、たゆまない改良のためです。レッスンを2倍に増やせなくても、レポートで2倍の効果になります。提出については本人次第で、強要はしていません。でも利用しないのはもったいないと思います。

 レポートは、自分の状態を把握し、改良するための最大のツールです、しかも、本当に効いてくるのは忘れた頃からです。忘れないために、未来の自分に書いて遺しておくのです。3年、5年後、あるいは、その世界に出てから役立つのです。レポートを書いたときには、わからなかったことばや、やっていることが、後でわかってくることに本当の意味があるのです。

 

○会報のレポート

 

 レポートもまた、慣れ、習慣づくりの一環です。それが難しい人のために、他の人のレポートをサンプルとして毎月会報で紹介しています。まさに至れり尽くせりですね。すると、自分の気づきとも比べられます。他の人の質問や理解の仕方もよい学びの材料です。一つのレッスンを最大に活用できるように膨らませていくのです。

 これはまた仕事をしていくためのノウハウでもあります。私は、20年にわたり、他の10名以上のトレーナーのレッスンへのレポートを読んできました。それだけで膨大なデータ量となります。会報のバックナンバーをロビーに置いてあるし、ホームページでも一部、公開して追体験できるようにしています。(私は皆さんと違い、相手の名前や日付、目的や付帯情報まで知っているので、さらに学べるということですが、それはトレーナーをまとめる立場として必要なことです。皆さんはむしろ特定されていない事例として、普遍化したもので学ぶほうがよいと思っています)

 グループのレッスンや地方のレッスンなどで、とても役立っていました。自ら主体的に学ぶための習慣づくりとして課しています。

 よく学べる人は気づきもよいのです。また、そのことばや文章にも特色があります。少しずつ、個性や味が出てくる人も、最初からそういうスタイルを持つ人もいます。小説家や文章のプロの人もいらっしゃいましたから。

 自分の書いたものが実のあるレポートになっていくのも、レッスンと同じく一つの成果です。なにしろ表現です。当初はトレーナーの報告書よりよいレポートがたくさんあるから、皆さんにも紹介していたのです。今は、むしろ、どんなものでも人それぞれだというサンプルですね。

 

○読み込む(ゆとり教育批判)

 

 私は、ゆとり教育を当初から否定してきました。理念はともかく、現実として実践しようとしていることが全く理念と違って悪い結果しかもたらさないことが一目瞭然だったからです。それよりなら、昔の軍事訓練、寺子屋、農業実習などを経験させる方がよいと、今さら言っても仕方ないのですが。

 日本では銃を持ったり、憲法を変えたら戦争になると信じている?人が多く、今だにこういう発言はタブーなのですが、「はだしのゲン」の一件でもわかるように、よくないことが描かれたものは隠せと言い、一方で、そういう反対があれば、すぐ引っ込める。世間ともいえない一部の主張に及び腰で、何でも事なかれ主義で対してしまう。何でも気にくわないことは全て悪のように言ってしまう住民、言われるままににしてしまう役所の人たちの方が、よほど怖いではないでしょうか。全く一個人としての思慮がみられないのです。

 たくさんの知識は、暗誦レベルで身に入るのですが、そこで何かしらインパクトを受けたものが、その人の精神、思考を形づくります。その組み合わせから、それぞれに異なる個性も行動も生じるのです。

 レッスン室では声のプレーだけでも、適宜、こうして確実なことばを与えていくことがとても大切です。インプットが充分でないとアウトプットたるクリエイティビティは生じないのです。

 

○活字の力

 

 15年ほど前まで、研究所の生徒はリソグラフで両面刷った会報を、自分でホチキスで留めて持っていきました。(今は印刷です)しかも、6080枚くらいあり、1ページも3段で、私も通して読むと丸一日かかるので、一回しか校正できませんでした。それを皆、食い入るように読んでいたものです。

 「なぜヴォイトレなのに」という問いには、当時はこう答えていました。「レッスンでは頭を真っ白にして欲しいから言いたいことは全て会報に書いておく」と。

 (私のレッスンでは、原則として、特に最初は、曲の由来も語学、発音、楽譜など、あらゆる解説なし。音源と来た人の声だけでした。もちろん、フォロートレーナーがグループレッスンにも個人レッスンにもいたためだでしたが、私自身は会報でフォローしているつもりでした)

 そう言いつつ、レッスンで話したことをできるだけ会報にリライト(レッスン録アーカイブ参照)していましたから、結構しゃべっていたようです。生徒のコメントも話でした。今ならYouTubeにでもアップするでしょうか。いえ、読むには忍耐力がいるし、イマジネーションが必要です。ですから、私はやはり活字にしています。

 

○ことば力

 

 緊張して話せない人、ことばがなく話せない人、ことばにできない人の多い、「葦原の瑞穂の国は神ながら言葉解せぬ国」(柿本人麻呂万葉集)の日本では、アグレッシブに論じたり、諭すことが、ますますできなくなってきました。リーダーのような立場の人さえ、話させることの大切さを説くばかりになりました。日本国民総ヒーラーかカウンセラーですね。声に問題を抱える人に対し、ヴォイストレーナーにも、それが求められるのは当然なのでしょうね。

1、 たくさん聞いて、たくさん声にする(歌う)

2、 よく聞いて、よく声にする(歌う)

聞くのは歌い手なら歌がことばです。この2つの主題なくして

1、 たくさん話す

2、 よく話す

が努力目標になってきました。私としては、たとえビジネスや日常生活でも

1、 たくさん聞いて

2、 よく聞く

という前提は崩せないと思うのですが。

 

○鍛練

 

 「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とする」

これは、宮本武蔵のことばです。

時間、挨拶、身だしなみ、ことば遣い、整理、その上に練習(レッスン、トレーニング)があります。そこに加えるのならレポート、スピーチなど、ことばで記録し記憶するとともに、人に伝えるという行動です。

 すぐに動画をアップできる今の時代、これは万能のツールといえなくても、手段として大きな可能性を持っています。才能のある人が早く広く認められるという点においてです。(特にビジュアル、ダンスなど動画に映えるものに強いのですが、声も音ですから、プラス面が大きいでしょう)

 しかし、私は研究所のヴォイトレをアップしたり、他の人がアップしたものを参考としていません。いつもここのものは、作品でなくプロセスであるという思いと、そういう目で見てしまうがために見えなくなってしまうことの害の方が大きいと思うからです。

 (本もかなり似ています。ただ、ときに活字の働きかけの方が、相手のレベルが高くイマジネーションが豊かな場合ならより有効です。その人のレベルにアレンジされてクリエイティブな形で受容でなく導引するからです)

 

○生産する

 

 レポートには、その人の個性が見えるのですから、これも表現の一つです。プロのレポートは、私が、ときにお金を払ってもよいほど、学ぶ人たちに与えてもらえるものがあります。(ここには、アーティストとしてのプロと、生徒、もしくはレポーターとしてのプロと、2つの意味があります)

 作品の鑑賞レポートも、「お勧めのアーティスト」などとして、転載しています。これにもピンからキリまであります。以前はよいのを選りすぐっていました、ここのところ10年は、よいとか悪いとかに、私の評価や選択は入れていません。

 トレーナーやレッスンと同じく、いらっしゃる人によければよいと思うからです。そのよしあしには、売り物としてのよしあしでない、自由があります。無責任とは言いませんが、極論や、下手な人や初心者、入門レベルの感想レポートも加えています。だからこそ、役立つ人もいるということです。

 以前、レポートをみて、「こんなすぐれたレポートばかりでは、自分には書けません」と言われました。私共の以前の体験談では、読まれると「こんなすぐれたものを書ける人ばかりのところへ私などが入ってよいですか」と言われました。レッスンですぐれていけばよいのであり、最初からすぐれていたらレッスンは必要ありません。そう思って、敢えて無作為をしてみたのです。

 

100点の表現へのアプローチ

 

 一つのシンプルフレーズでみる声の変化の方向

1、 長くする、低くする[呼吸]

2、 高くする、低くする[基本周波数]

3、 大きく(強く)する、小さく(弱く)する[音圧]

4、 音色[フォルマント]と共鳴[ビブラート]

母音(5つ+α)子音、バランス(頭声―胸声)

スケールとして5音をとる()ドレドレド ソ()ドシ()レド

 

音が届いているとか、声が出ていると、それゆえに、OKとして先に進め、いつまでも雑になってしまうのを避けるべきでしょう。そこでは肝心の体や息が伴っていないケースが多いのです。

a、浅・軽 頭声 響きから降ろしてくる 引く

b、深・重 胸声 体の呼吸から声にしていく 乗せる

 

同じ分量の息の使い方

同じ分量の声の使い方

体、息、声の大きさ

 

○テンポを変えてチェックする

 

 4行のフレーズどの起承転結をみる

14行のテンポアップ 2倍のスピードで全体掴む

21行でのテンポ 3倍遅くして声と息と体の不足を知る

2倍遅くして発声、共鳴の不統一性、入り方、切り方をチェックする。

音色とフレーズのニュアンスをみる。

3、「Ah~」と出してみる。

1、 デッサンの動きをみる。

2、 練り込みと浮遊をみる

3、 体―息の線が繋がっているか、なめらかか。(声は切れても、きちんと入るべき位置で入ってきているのかをみる)

これは3次元として、筆の空中の高さをみるようなもの、流れ、度の太さ、鋭さ、スピード、変化でフレーズが描かれていくのかをみる。

 

○オリジナルへのアプローチ

 

・一フレーズでの高さ、大きさ、長さ、音(発音)での完成、それらのMAXのもの

・全体のしっかりとした流れでのデッサンのよいもの

・軽くバランスと流れがスムーズ

・出だしの声一つで全体が動く、変じていくもの

同じ声や歌い方はないのですが、共通として、そのヴォーカリストのもつ固有性、他人にできないオリジナリティをどこにみるかは大変な問題です。

声楽家は声1011020

    歌1011020(ただし発声レベルとして共鳴上での歌唱)

メンタル―元気、威勢のある、楽しい

     威厳、説得力、重さ

     余裕、懐の深さ

スタンス―引いている、小さくまとまる→解放

声    くせ、かぶせる、おとす、もたれる、ほる→芯と共鳴

フレーズ 押しすぎない、ひっぱりすぎない

構成   変化(みせ)―収め方

 

○パワフルと調整

 

 声量は、強い高いところで裏がえるときには弱くします。

 地声メインにあげていくのは、声域獲得には難しいので、調子のよいときに留めます。本番はトレーニングの成果を求めるよりも、心身と発声を整えて、頭では忘れてステージに専念することです。裏声中心に高音を獲得して、それの崩れない範囲の声量でバランスをとります。

 ただ、同じキャパを声量5、声域5で使っていたものを声量2にして、声域8にしたところで一時しのぎです。(すぐに効果の出るヴォイトレの正体は、およそこの配分の変更につきます。ただし、初心者が混乱したり迷わないで上達した実感になるのには、もっともよい"方法”です)

 カラオケの高音歌唱に向いている、というだけで、それを上達と誰もが思うのです。

 本当は声量5を獲得した声域にしなくては問題は残ったまま、目先を変えただけですが、カラオケならこれでOKです。共鳴でカバーしても、それもできるトレーナーはほとんどいません。(その違いがわかっていないことが多いのです)

 声楽家は声量が落ちたら届かなくなるので、以前はしっかりとした声で声域も獲得していたのです。それを今は、安易に共鳴でカバーして、喉を壊すリスクを全面的に避けています。その結果、まるでポップスの歌手のようになっています。

 もっともその傾向の強いのが、最近のヴォイトレです。高音はマイクがあるから、歌唱上はそれで可であり、その方向のレッスンもここでは行っています。しかし、本当は声の力そのものはあまり伸びていないのです。そこを注意しなくてはなりませんね。

 

○日常のトレーニング

 

 普段の話も大きくすることについては、練習でないときはよいのですが、ステージやトレーニングを歌唱目的でやっているなら、疲れの回復を遅らせ、慢性の疲労になりかねません。

 特に相手のいる会話では、正しく発声する余裕はないので、せめて一人のときに朗読などで行うようにしましょう。

 練習のヴォイトレ、母音、ハミングなどに比べて、せりふは子音などがあるので、ややハードなもの(疲れやすいもの)です。中心は、母音とその共鳴(レガート、ロングトーン)などですね。