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評価のスタンスとレッスン No.274

○評価のスタンスとレッスン

 

 私は、歌を評価するときには、大きく2つのスタンスに分けてみています。トレーナーとしてと、プロデューサーとしてです。研究所で、トレーナーとして対しているときは、歌のよしあしそのものでなく、声のトレーニングとしてのオリジナリティにおける可能性で判断しているわけです。ですから、単に「どうすれば歌がうまくなりますか」というのには、そう簡単に答えられません。そこに「プロになる」「聞く人を感動させる」「価値を与えられる」というようなことが入るのであれば、なおさらです。「うまくなる」のと「オリジナルな価値」とは相反するものでさえあるのです。

 

○評価とレッスン、トレーニング

 

 「こういうトレーニングやレッスンをすれば、こうなります」という、基礎づくりについてはアドバイスできます。レッスンを受けるということでないとアドバイスしないというわけではありません。しかし、結局は、その人にみえていないものは、レッスンでみえるようにしていくように、トレーニングで補わなくてはいけないのです。ただの一言アドバイスは、それを必要としないくらい勘と感覚のよい人を除いて、大半の人には自信をつけるための励ましと慰めにしかなりません。

 声も歌も、その人が生きてきた歳月や環境に基づいているだけに、本当のことをいうと、一人で大きく変えるのは至難の業です。また、小さく変えてみても、大して大きく変わらないのですから、こういうスタンスにならざるをえないのです。

 

3つの次元を分ける

 

 判断について、本人を中心に考えると

1、 本人の声

2、 本人の歌

3、 本人の表現

と、それぞれにオリジナルのものを判断していくのがよいと。思います。何よりも、本人を元にしたヴォイトレであるべきだと思うからです。しかし、こうしたオリジナリティというのは、他にないものゆえ、認められがたいので、ある程度スタンダードな基準を仮に置くようにするのが、一般的な学び方です。今の研究所も、基準を設けて一本通るようにしています。

 つまり、個性・才能なのか、一人よがりででたらめなのかを区別するのを、他のものへの応用性、柔軟性でみる、あるいは、他との比較、競争から、相対的に力をつけるというやり方です。

 

○やり方と学び方

 

 やり方というのは学習法、勉強法ということです。(ただ、日本の場合はこれが目的になりがちなので、ここで「仮に」ということを強調しておきます)もちろん、天才は全く他人を参考にせずに、一方的にすぐれていくのかもしれません。直しようもない、あきらめるしかない強烈な個性が、歌や音楽へ開かれていたら才能としてみるわけです。

 ただし、音楽という再現芸術においては、発想やひらめきだけでもっていけることはないと思います。少なくとも、一流は、その前の一流に学んできたのですから、その学び方を学ぶのがレッスンの役割です。

 

○オリジナリティをみる

 

 本人のオリジナリティをみるとすると

1、 声のオリジナリティ

2、 歌のオリジナリティ

3、 表現のオリジナリティ

はそれぞれが違います。

 どれかが抜きんでているか、総合的に力があればよいのですが、その配分こそがオリジナリティというようにも思います。配分というよりは、組み合わせという方が近いかもしれません。

 

○声におけるオリジナリティ

 

 オリジナリティというのは、声においてはど真ん中の声です。(人によって高音も発音も声量も異なります。今もっともよいのと、将来もっともよくなるのともことなります)。それに対して、歌をここで「歌のオリジナリティ」と区分けしたのは、歌全体でなく声のフレージング、音声の描く色や線のことです。声が音色、歌がフレーズということでもよいです。絵の基礎デッサン(色と線)にあたります。

 歌手の場合の表現は、音の世界にみるなら、ステージ>音楽>音声(声、歌)と絞り込んで、そのデッサンの組み合わせとしての絵としてみるのです。歌のオリジナリティは声のフレーズの組み合わせなのですが、私は、声=色、歌=線、表現()その組み合わせとしてみることが多いです。

 

○内なるものと外からのもの

 

 声も  

a.内なる自分の声

b.仕事などで求められる声

があります。aからbを包括するa⊃bが望ましいのですが、aがみえぬままbでつくってしまうことが多いのです。つまり、日常の声力がもっとあれば、もっている声を使うのですが、日常の声力がないとトレーニングで補ったり無理につくらなくてはなりません。つまりaがbに並び、何とかプロ、それを超えるにはa⊃bまで基礎としての声力を高めなくてはいけないのです。これは歌についても全く同じことがいえます。ここの「声」を「歌」に置き換えても通じるということです。

 カラオケやもの真似のうまい人は2a⊃2bです。(2aは内なる歌のフレーズ、2bは外から求められる歌のフレーズ)もちろん、ただ下手な人よりは2aの力もあります。

 しかし、bを目的にしてはよくないのです。aをトレーニングしてbが包括されるようにしていくことです。この関係は本来、1a⊃2a(声⊃歌)でもあるべきです。日本人の場合、歌の求める声域、声量、リズム、音程すべてがbとして、aより大きくなっています。それでは歌って精一杯、まして真の表現には至りません。

 

○表現の目標

 

 表現(ここでは3とする)をどうみるかは、声も歌も曖昧な世界のポピュラー歌手や役者においては、最高レベル世界のトップからみるしかないということで、トップダウンの考えを述べてきました。ここでも、3a=世界、3b=日本と考えて、3aを目指すべきです。なのに3aに届かないから3bを目指すことしかしていません。それどころか、3aをみないで、知らないでとなりつつあります。(a=内なる表現b=仕事の表現)

 3aからみるからこそ、3a―2a―1aと一貫した基準と真にオリジナルな作品、歌、声が明確に見ることができるのです。私が日本の音声の表現舞台、しいては、日本の歌の判断を好まないのは、3c、3b、3aとバラバラななかでの器用さに長けていることを選ぶよう強いられるからです。

 確かに音楽のルールを守って、きれいな声で、うまく歌っている。そのことに文句はありませんが、本人不在なのです。整形美人のようなものですから、どれも同じように心地よく、それゆえ、飽きてしまうのです。

 ここで気をつけたいのは、aをみないbの勉強がレッスンとして行われることがほとんどであるという現実です。

 

○「結果オーライ」という理論

 

 一方で、いつも「結果オーライ」の基準を私は提唱してきました。よい方法かどうかなどを問うよりも、その人がよく生きていたらよいものを得ているということです。

 たとえば、リットーミュージックで出した拙書のヴォーカル教本のほとんどは、「響きにあてるな」「共鳴させようとするな」「当たってくるまで保て」「共鳴したらよいがさせてはいけない」など、従来の方法やプロセスを否定するようなことばを使っています。

 そうしたい人に「そうするな、そうなるまで待て」と言うのはおかしなことですね。しかし、そうしたいことが本当の目的でなく、プロセスにあるのですから、そうしようとするのはよくないのです。もう一例、ピッチを正しくとか、リズムを正しくというのも同じです。正しくないから合わせようというのは、初歩のトレーニングというよりは、低次元を目的(ごまかし、付け焼刃)としたトレーニングです。

 

○表面より内面から

 

 幼児向けというのなら、時間をかけて成長とともに変じていくというのでいいのですが。しかし、大人であれば、まずは感覚を変えていくことです。気づいたら合っていたというようにしないと間に合いませんし、高いレベルで使えません。リズムやピッチを「正しい=遅れない」というレベルでは、間違っていないだけで、合ってはいないのです。合っていても、それは、けっして心地よい音感、リズム感にならないからです。

 とはいえ、そこからトレーニングを始めなくてはいけない人もたくさんいます。それはそれでよいのです。ただ、そこで目的かゴールと思わずに、あてるよりもあたること、やることよりも聞くことを重視してください。

 

○逆こそ真実

 

 こうして考えるとプロセスを進めていくマニュアルというのは、正しさを求めるゆえに自ずと間違えてしまうことになるのです。いろんなヴォイトレ本が出ています。しかし、レッスンのマニュアルは、それゆえに大して効果が出ないというわけです。

 つまり、

1、誰でも

2、すぐに(早く)

3、楽に

4、間違えることなく

5、効果が上がる

というものは、肯定できないということです。さすがに全否定はしませんが。

 

○本当に満足?

 

 いつも、12週間や12年のうちに12割よくなって、それから先は限界というものになります。

 多くは経験が乏しく平均以下の人が他の人についたため、少し声を出し曲に慣れたため、人並みになったということです。ですから初心者で入り、そこで終わる人にはとても評判がいい。その程度のものを効果と思える、しかも、ノーリスクだからです。本当の意味でのオリジナルなものとして世の中に通用しません。

 それで満足する人が多いのにも驚きます。いつか、自分の才能のなさや練習の足りなさのせいにして、少々伸びたことで満足して自然に諦めるプロセスです。

 私はそういう方に「ヴォイトレで声が変わりましたか」と尋ねます。体から表現しているアーティストをみて、それを望んでいたのに、体や息や声を全く使わないで、あて方を変えただけです。それで大きく変わると考えているのなら、これは鈍い。ゆえに、可能性のある方法を選べていないといわざるをえません。

 

○真偽の見分け方

 

 表現においては、歌のフレーズで、1フレーズを、そして声は、声の一声をしっかりみることです。全体をみながらも、自分の体のパーツを一つひとつしっかりとチェックします。そこから出る音一声を一つひとつチェックします。

 ただ、声を出して曲の通りに変じさせていればよいというのではありません。声を出すのは、心地よいので、しかもどんな声であれ自分の声で少し感情を入れるとくせがついても表現になるので、そこで満足してしまいがちなのです。

 とはいえ、自分で満足できればよいという世界でもあるので、そうなればそれ以上に、レッスンをする必要もないのです。それゆえ、私も自己満足している人の歌を指摘するようなおせっかいなことは不要と思うのです。

 声のよさを聴かせたいのも一つ、歌のよさも一つ、表現力も一つ、どれでもその方が満足して、そこで聞いている人もよいという場に、レッスンもトレーナーもいらないのです。 

 私がここで述べているのは、それで満足できない人に対してです。それでは、言われただけのことをやれば誰でも声、歌、表現が身に付くのかというとそうではないのです。すべてというもののない世界です。私が言いたいのは他の世界では「全身全霊で訓練しました」ということのプロセスがとれて、結果は人によりいろいろです。そのプロセスをとれるようにするということなのです。さらに、しっかりトレーニングして、できたとかできなかったとかを超えていくことでしょう。少なくとも時間だけ経って、トレーニングした実感もなかった「楽だったけど何が変わったかわからない」というのではレッスンではありません。「大変だったけど変わった」その分の苦労をセットしていこうとするものなのです。

 

○基礎と応用

 

 表現は歌のフレーズの応用、歌のフレーズは声の応用、とみています、私たちは常に応用しているつもりで、応用されています。そのことで何かを得て何かを失っているのです。基礎のままではいけないから応用します。そして何かを得ているのですから、そこでよい効果が出ていたら、それをよしとします。ここで大切なことは、基礎から欠けていたものを補うことは応用でなく基礎として行うことです。

 また悪い結果が出ていたら、それをやめ、基礎で欠けたものを補い直す。基礎そのものが本当に基礎なのかを疑って、もっと基礎を固めることが必要なことが大半です。

 

○内感覚

 

 体の動き一つ、呼吸も、歌や発声に対して、本当に正しいというものは、体でなく感覚と実態です。これは、自分の内部へ厳しく感じます。そして感じられるように高めていくしかないのです。

 先日、ストラディバリウスについて、「かつてはオリジナルのと、形、木の厚みを同じにしたから同じ音を再現できなかった。今は木の特質に合わせ、同じ共鳴をする形や厚みに変じさせているので追いついた」というような話を聞きました。目的は同じ形のものをつくるのでなく、同じ音声そのものをつくることなのですから、自明のことです。参考にしてください。

 

(参考)

ストラディバリウスと声

 

 これまで、現代のヴァイオリンと音を弾き比べたときに、すぐれた聞き手でも2~5割くらいしか、当てることのできなかったストラディバリウスですが、それに反して演奏家には絶対的に人気があるという秘密を知りたくてみました。

一流のヴァイオリニストにおけるストラドの評価は

1、音色が澄んでいる

2、粒が揃っている

3、芯がある

です。これは声や歌にも通じます。

NHK番組での最新の科学的な分析では、方向(指向)性があるということでした。それゆえ、豊かで遠くまで深い音色が伝わるということでした。

 新しく最高のヴァイオリンをつくるのに、形をそのままにまねても同じにはならないので、板の振動(密度)からアプローチして、近づけていったというのは、音から考えてみれば当たり前のことなのに、と思います。つまり、同じとか、近づけていくよりは、もはや、木ではない素材をも試し、最新の研究でというなら、その形を超えるものをつくるべきなのですが、しばらくは追いつけ追い越せの技術開発なのでしょう。

ヴァイオリニストが弾き、それをすぐれて聞くことのできる人がストラドをもとに判断している限り、ストラドのような音は超えられないのでしょう。それと、ストラドの音で名手のように弾きたいという人間の欲が囚われとなります。車はすでに全自動運転できるようになっているのに、自らの手で運転したいという人間の欲がなんとなくそれ以上の発展を妨げているのと似ています。

何をもってすぐれたと音というのか、演奏というのかを、もう一度、原点から考えるべきなのです。とはいえ、聴覚の世界では、そこの状況、ホールや音響などの影響もあり、アプローチは至難の業です。やはり、もっともすぐれた楽器をもとに考えざるをえないのでしょう。

演奏において、もっともよい音を目指そうとすると広すぎるので、ヴァイオリンというワクで絞り込むのは無理ないことですね。シンセサイザーでどんな音をつくることができても、ヴァイオリニストやピアニストは、不滅の存在なのでしょうか。

名楽器は、もっともすぐれた演奏家と、もっともすぐれた耳を持つ人と、楽器のつくり手という3つの条件がそろわなくては難しいのです。ただ、もっとも大切なのは、それを判断できる聴衆の存在です。

それにしても、楽器として、生きたままの人間の声帯とか体というのは、木よりももっと難しいわけです。声や歌の解明はまだまだ進んでいないといえるのです。

 

○個性とくせ

 

 「個性」と「くせ」の違いは、基礎に基づくかによってであり、それは

a.確実な再現性

b.さらなる高次の可能性をもたらすか

にかかっているのです。

 ここで私は、天才(最高レベルのもの、日本では天然としてもよい)と凡人(人並みを目指すもの)は、なぜか共通して調整としてのレッスンをメインにしておくとよいと思っています。それゆえ、日本のヴォイトレのレッスンは調整ばかりでした。プロもカラオケの人たちも調整して、自らの力の100パーセント発揮を目指したのです。

 

○日本の発声マニュアルはヴォイトレでない

 

 日本のヴォイトレのマニュアルは、ほぼ調整のためのヴォーカルアドバイスです。しかし、この100パーセントをベースのこと、つまり最低条件とした場合、これはほぼ無意味に転じます。

 つまり、今の日本のように日本のトップレベルの歌唱でブロードウエイに通じないというケースなら、100パーセントという本人の能力の精一杯でなく、絶対量としてみなくてはなりません。今が100なら100を発揮し尽くすのでなく200にする訓練が必要です。

 だからこそ、トレーニングをすべきであり、ヴィオトレはその名の通り、声のトレーニングなのです。さらなる高次の可能性をもたらすための器づくり、器の拡大、体や感覚の強化トレーニングとして捉えるべきなのです。

 

○本の役割

 

 どんな分野でも、教科書というようなもの、古典的なものは、初めて書かれたり、長く使われていたことで価値があります。先人の知恵へのインスピレーションが鋭ければ役立つものです。しかし、そこからの受け売りのようなものは大体が、「過去」の「他人」の「答え」に過ぎません。もっともよく整理されているのを「知識」というのです。「今の」、いや「未来」の「あなた」の答えには到底なりません。いや実用として使えるのなら「知識や本から学べないということを知ること」が最大のメリットです。これをいくら読んでも何にもなりませんが、一生、かけて、あるいは、何年か経って、そのことに体をもって気づいたらよいということです。

 

○レッスンの役割

 

 学べないということさえ学ばないとわからないのですから、こうして学んでみるのは、有意義なことです。本や他の人の言うこと、レッスンなどに惑わされつつも、多くの人は生涯、よい本、よいレッスンだったと、疑いもしないで終わりかねないのです。

 私は「問い」のつくり方を述べています。こういうものを参考に自分で「問い」をつくれるようになること、そして自分のルールブックをつくるのです。

 トレーナーがすぐれていたら、そのすぐれたところの近くまでは歩めるかもしれません。ただ、生活のなかで身に着いた体感、考え方は、簡単には変わりません。それを壊すためにレッスンはあるべきなのです。

 

○壊すということ

 

 壊すというのは、めちゃくちゃにするというのではありません。何かうまくいかないのは、何かしら、うまくいっている人のようにやっていなかったところがあり、そこをスルーしてきたからです。そこを攻めること(動かせたり、声や歌にしたり、感覚や筋力をつけたり)を意識して、覚えさせていくのです。それがレッスンです。

 

○レッスンのよしあし

 

 レッスンのメニュや方法だけをみて、そのレッスンのよしあし、正誤を判断することはできません。

 なぜなら、大きな目的に添おうとしたら、さらなる可能性を追求し、可能性を大きくするためにくせをとるか棚上げにしなくてはなりません。個性(オリジナル)として取り出すためには、壊す必要もあるからです。

 そのためにはマニュアルなどにあることと全く逆のことや、そこで禁じられていることも必要悪となります。力のあるトレーナーとは、そこの幅を大きくとれる、つまりマニュアルから大きく、長く離れて、結果OKに導けるということなのです。しかし、大半のレッスンは目の前の小さな目的、早くということに囚われているので、壊すということはほとんど起こりません。器の小さい人には、どんなトレーナーも器を大きくしないことには大成させられません。壊すにはこわせるだけのものが必要だからです。

 

○トレーナーのタイプ

 

 私のところのトレーナーにもいくつかのタイプがいます。相手により、やり方もかなり変えています。壊すような対処をするのはリスクも伴うので、どのトレーナーも行うわけではありません。また、誰にでも行うことでもありません。才能や実力があっても本番中の舞台をもっている人などに、あまり大きなリスクは与えられません。両立できる器用さとか切り替えというような、実力というよりは仕事力もみなくてはなりません。

 人によって可能性は様々です。誰もが同じことをできるわけではありません。どの方向へ可能性をみていくかは、声だけでは判断できません。トータルとしての目的を、より具体化していくことを併行します。そこで、本人の目的、プロセスと研究所としてのレッスンの目的、プロセス、さらにヴォイトレのトレーニングの目的、プロセスを定めていくのです。

 短期的に大きく変えようとするより、長期的に2~3人のトレーナーに併行してレッスンを受ける方がローリスクで大きな効果が得られるものです。まあ、これまでみてきたところ、本人が誰よりもすぐれていて、日本一のトレーナーと思うような人(思うとすでにそうであるのは違う)は、必ずこれに反対するようですが。

 

○逆行マニュアル

 

 平均的なマニュアルとは、逆行するような指導例をいくつか挙げておきます。私共のトレーナー共通Q&Aブログをみると、もっと極端な例もあります。

呼吸 鼻でなく口で吸う

たくさん吐くように

これは、呼吸で声の流れ、深さ、均等、声の深さ、均等、芯を養うためです

   

この研究所に限らず、よく発声のわかっている人が現場で許容することは、次のようなことです。許容とは、より大きな目的のために、見逃す、無視することです。

ことばの不明確さ

ピッチの下がり、リズムの遅れ、呼吸(ブレス)の遅れ

音色の暗さ、金属的な響き

息の漏れ音

声域の狭さ

レガートの雑さ、声区チェンジの悪さ

裏声ファルセット、共鳴の悪さ

ビブラートの悪さ、ロングトーンの続かなさ

声質、音色を徹底して中心にみると、上記のことが後回しになるのは当然でもあるのです。

 

○体を例に

 

 達人の手技をもつ先生が来所されました。その元で体験したことは、武道にも通じる、神経というか経絡というか、ある感覚を思い出しました。誰しも年齢を経ると日常のなかで、これから進行していく老化に抗うことを考えます。1年に1パーセントずつ、筋肉が動かなくなっていくという説もありますが、それでは私自身どのくらい、これまで全身を動かしていたのかと考えてみると、人間としての可能性の半分以下でしょう。たとえば、幼いころから又割りをしていたら180度開脚できていたでしょう。脳にいたっては使っているのは1ケタパーセントと言われていますね。

 発声も肉体が楽器ですから、同じことがいえます。私は「老化で発声が悪くなった」と言ってくる人には、発声のよかったと本人のいう頃の体力と気力を戻すことを条件としています。

 どんなに若くとも、理想的な動き、体の使い方や動き方が完全にできている人はほとんどいません。発声に使う喉の周辺の筋肉の動き辺りが、最初は注目されていますが、私がみる限り、全身との兼ね合いの方が、より根本的な問題です。

 

○呼吸を例に

 

 体の動かし方の再調整と強化、それに呼吸を伴わせることが第一です。そのために吐ききってみる、発声のコントロールや呼吸保持などは、体から息の吐ける人が次の次あたりのステップでやるべきことです。しかし、マニュアルのメニュでは、最初から少ない息で丁寧に声にすることの大切さを説くことに終始していることが多いわけです。素人は荒っぽく息を無駄に使ってきちんと声にできていないのですが、その息さえきちんと吐けているわけではないのです。何事にも量と質、全体の荒(粗)と細部の丁寧さとは、相反するようで両輪のように使うべきなのです。部分よりは全体から入るのが原則です。

 

○トータルとしてみる

 

 自然にするためには不自然にする。力を抜くためにストレッチする。力を入れて脱力する。そのように、人はやりたいことがあるのに、やれない。それゆえ、そのことが問題になる。それは、やりたいことができないからやりたくないこと、つまり、その逆をやることでアプローチするのです。

 そういえば、練習も続けてやりたくないから嫌なのですから、続けてやりましょう。やりたいようにしかやらない人には大した力はつかないのです。

響かす―共鳴→必要以上に響かさない、声が通るための「声の芯」という考え

大きく―声量、声で体に負担を与え、支える

高く―声域、低く重く下に向ける(これは案外知られていますが実行されていない)

長く―呼気コントロールと声立て

私が思うには、声中心に考えると、せりふを言うのも発音も不自然、歌うのも不自然なのです。これが自然と思えたら、すごい歌、すごいせりふにつながる声が出ると思うのですね。

 

ロングトーンを例に

 

 抑揚(ここでは、心地よいビブラートの意味)をつけるには、少なくとも、強弱、高低、長短、艶(音色)の変化が4つあります。それぞれ個別にして試してみましょう。

 息から、発声=共鳴のところでも、その効率をどのようにするかは、声の立ち上げ方(声立て)のスピード(息と声のミックス具合)として、これまで、硬起や軟起でしかみてこられなかったのです。そこでは、ハスキーな声やため息もあり、ただし、これは表現での応用となります。

 ただ、私としては喉への負担、リスク面で、嗄声は、表現(せりふ、シャウト)からのアプローチに限らせています。悪声や喉声も声優や俳優では必要になることもあるでしょう。しかし、表現上の練習以外はタブーです。

 共鳴からは、倍音組成、フォルマントへ、そして母音形成、子音調音となります。このときは、呼吸の量、スピード、長さも変えてみるとよいでしょう。

 

○一流の歌

 

 世界レベルの歌い手は、ことばをメロディにのせて歌っているのではなく、歌との距離をとって、音の流れのなかで自由に声の表現をクリエイトしています。歌のメロディや楽譜にべったりとくっついていないのです。日本の多くのヴォーカリスト30代以降、世界では60代以降は、残念なことに、メロディ、流れの心地よい声が使えなくなり、さらに音楽にも距離が出て、ことばの投げ方に凝りがち、しかもパターン化するようになります。

 日本では役者的で、音楽性に欠けてフレーズ感が鈍っていても、そのインパクトとその反動の収め方でステージはもつのです。ステージのバックグラウンドに、若い時からの音楽や世界観が積み重なっていて、ファンは、そこのベースを読み込んでくれるから楽しめるのです。日本のベテランになると、表舞台は最近の歌、ステージなのに、このベースへの観客の優しいノスタルジアでもつことが多く、残念です。でもお客さんが満足しているならよいのでしょうか。

 

○目標のつくり方

 

 目標設定は、今の立ち位置を捉えることと目的地(心、体、発声、歌、表現、すべて)を予定すること。これには数年かかるものです。

1、 強化、鍛練、基礎、体、呼吸、声←役者レベル

2、 調整、応用、チェックとアドバイス、感覚―耳←声楽レベル

声は、表現においては媒介であるだけに曖昧です。これをいかに明確に具体化していくか、それこそがレッスンの目的です。

 0才から今の年齢までの育ちの環境と、今の取り巻く環境、それを把握しましょう。そして将来に対して有利に、少なくとも年齢とともに有利になるように変えていくことが大切なのです。