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「本当に学んでいくために」 No.275

○身につくということ

 本当に身についていることの結果は、身についているのですからそれでよいのです。そこで価値が本人に感じられていればよいのです。他人に与える価値ということなら、他人がそれを感じていればよいのであり、本人は知らなくてもかまいません。それでやっていることがうまくいっていることが、身についているということなのです。
 何も、「身についていますか」「できていますか」などと聞かなくてもよいのです。聞かなくてもわかるものであり、わからなければ、まだ、それだけのものなのです。
 また、聞かなくてわからない人もいれば、そうでない人もいます。自分の伝える相手が認めればよいだけのことです。日常、自然のことなのです。
 不自然なのは、身につけようとするからです。それを早くとか、他人、この場合、先生とか師とかトレーナーから学ぼうとするからです。それを特定の相手、あるいは、不特定な人々に、特別に認められようとするからです。不特定、と言っても、実のところ、仕事なら仕事をくれる相手と、その向こうの客と特定できるのですが。

○大きく学ぶには、選ばない

 自分に身についていなくて相手に身についているものは、自分には判断はできないのです。それを判断できる人を選ぶのに、自分でわかると思うくらいなら、それは身についていても大したものではないといえます。
 大きく学ぶことは、大きく自分を変えることです。ですから、エイヤっと直感的に当たっていくしかないのです。決心のための勘と踏み出す勇気がものをいうのです。
 あなたのこれまで人生経験の判断を元に「正しく」選べるくらいなら、きっと声などという、学ばなくても身につく、身についている人もいる分野では、すでに身についていなくてはおかしいのです。それゆえ、自分で選ぶときは、再度、あまりうまくいかない可能性が大きいようにも思うのです。
 それを変えたければ大きく、あまり選ばずに学ぶこと。少なくとも、トレーナーの人選なら、あなたが選ぶよりも私が選んであげる方が適切なはずです。そして、そのために大きく変じることこそ、つまり、勘をレッスンで磨くことです。その勉強をレッスンでするのです。

○伸びしろ

 「声は日常の中にあるから、楽器のようにいかない」ということは、先生やトレーナーを選んだり、方法メニュを選ぶのにも、思っている以上に難題となってくるのです。
 まして自分の性格、個性や評判などを気にするようになり、本やCDや、ネットの多くの情報に翻弄され、自我ばかりが大きくなってしまうと、もはや、伸びしろがほとんどない状態にあるわけです。
 自分の力をつけたい、変えたい、変わりたいから学ぶのであるなら、今の自分自身の学びの限界を破るのが目的であるはずです。それを自分の頭で考え判断するのは、自分で考えられる限界のなかで動くのだから大して変わらないということなのです。
 
○100パーセント

 他のスクールで、ヴィオトレで人が伸びないと相談を受けることがあります。大体は、本人が100パーセント出しきれていないからこそ、まずは全力でやるべきなのに、それをトレーナーを「お目付け役」として雇おうという感じです。これは、家庭教師でいうと机の前に、ただ生徒を座らせていたら、成績が伸びていくレベルです。教室で先生の話すことをまじめにすべて聞いたら、普通にできるというレベルです。問うレベルが低すぎるのです。それでは頭に入っていても体には身につきません。
 私は、状態と条件ということで大きく分けて述べています。そこで言うのなら、ヴォイトレのほとんどのレッスンは、状態の変容を期待するのに過ぎないのです。これでは、自らの声を100パーセント出したところで、出ただけでどこにも通用しません。それどころか、そこまでも行かずに6割で歌えるようにまとまるという、先のない指導が平然と行われています。即効的な対処では通用しないという、あたりまえのことを踏まえていないのです。100パーセント出させるのさえ、「お目付け役」は制限して、その場をしのいでしまうのです。全力を尽くすことなくして実力はつきません。

○カラオケ化するヴォイトレ

 本当に学ぶというのは、自分の理解をはるかに超えるところに学ぶということです。すぐれた人は、海外の一流のアーティストのステージや作品にストレートに学んでいます。ですから、ヴォイトレなら「どうしてあのような声が出るのか、まったく理解できない」が「実感できない」になり、「実感できてきたが、できない」が「できないのができるように理解できる」。やがて、「これだけ足らないと実感としてみえてきた」となっていくものです。
 ただ、この分野は、アーティストであっても一般の人にわかるようにレッスンするとなった途端、適任者でなくなります。ストレートから濃縮還元になるようにです。
カラオケ教室や本やDVDなども同じです。ないよりもあった方がよいのですが、それで人が育つことはめったにありません。0よりは1でもあればまだまし、という点では教育のノウハウの一つでなあります。それを100パーセントやったところで、必要な分の1割に達しないと思ってください。
 
○真逆へいく

 真理は、自分も超えているというのがわからないなら、自分の考えると正反対、真逆な方向が正しいことがよくあるということです。多くの人ができないことなら多くの人の進む方へ行かないことです。理解を超えるという意味では、一見逆の方があなたの可能性を唯一大きく開くという確率は高いのです。99パーセントの人は、自分の意にそわないものを選びません。ゆえに身につかない、大した力にならないとみればわかりやすいでしょう。
 それは、それなりに学べている実感があり、そこそこに満足してしまう環境だからです。目標が具体的にやれるように、あなたに合わせて下がってきている。そこに気づかなくなっていくのです。
 ヴォーカルのスクールや声優のスクールで一時、がんばっていても、10年あとにプロとして続いている人は1000人に1人もいないのです。決め手となるのは素質ではありません。が、学び方の素質というべきかもしれません。

○教育ビジネス

 夢がかなわないのではなく、それは真の実力が身についていっていないからです。
 この点については、クラスで平均点を取れたらよいとか3年続けたらよいなどという甘いものではありません。だから「わかりやすい」とか「やさしい」などというCS(顧客満足度)においての生徒の評価などに、教えるレベルを合わせてしまうと1000人に1人でも育たなくなってしまうのです。トレーナーがいかに優秀でも、育てようとするから育たなくなるともいえます。
 「教えてくれない」とか「わからない」というくらいで、「答え」を出してもらっていてどうするのでしょう。そこで自ら学んでいく力がある人か、学べるように力をつけた人だけに先があるのです。そもそも、生徒の尺度で考えて判断できてしまうようなものなら、その先に価値になるものなどないのです。「誰でも時間をかけたらできるレベル」で終わっては、その先がないのです。
 でも今の日本人の大半は、そういうところまでしかみないで動いているといえます。「○○円でレッスン○回を買っている」から、「毎回、その分の価値」という交換のような感覚だからです。さらに悪いことは、サービス業と堕したかのように、スクールやトレーナーが、それに応じることが大切だと、本気で思っているからです。それは、それで教育ビジネスのプロですが、生徒はいつまでも生徒であり、その先はありません。

○壁

 レッスンを通して、何を得るのでしょうか。それは新しい声、新しい感覚、新しい自分、つまり、大きく変わった自分に出会うのです。それを「今すぐに」というから、今の自分を変えていきたいというのも、変えるスケールが本当に小さく小さくなってしまったのです。ちょっとした気分の差で大きく結果が違ってくるくらいに小さくなったから、心身の状態のよしあしだけで大きく左右されてしまうのです。だからトレーナーが励まし、勇気づけるだけで、すぐによくなるのです。
 1000も1万かも見えないほどに相当な力がないと通用しない世界に、100か200で、「すごく効果があった」と思っても、それはそこで頭打ちです。2,3年先からの本当の実力をつけることに対して何の準備になっていないのですから、そこ止まりです。
 人前で通用するもので、始めて1日や1ヶ月でできるもの、出る効果などありますか。
 このスケールのとり方において、全てが異なってくるのです。どんなヴォイトレを行っても、その先にいけない限界を、壁を、本人が、トレーナーと共に強固につくっているというのが、一般的なヴォイトレにありがちなのではと思うのです。そのために、いつまでもやりたいことがわからないという人が多いのです。それは、まだ、やれることがないことの裏返しにすぎません。

○地ならしをする
 
何回か「バカの壁」に触れましたが、壁の内側にいると、外側は、その存在さえわからないのです。
 声は、レッスンの中でもトレーニングの中でも、常に、ではありませんが、あるとき次元が変わります。パラダイムが組み変わるのです。レッスンはそのためにあり、トレーナーもそのためにいるとさえ言えるのです。
 ただ、「そういう瞬間、そのうちのいくつかは偶然の産物で、その奇跡を待て」というのでは、モチベーションが保てない人もいるでしょう。そこで、その場とその時間をトレーナーのもとで、共有して底上げしていきます。少しずつ、感覚や体の条件を鍛練しては丁寧に整えて、その一瞬を起こせるように、気づけるように、整地、地ならしをしているわけです。
 ことばも、鍛練なくして整えたところで、その瞬間というのは望めません。精度として10分の1くらいに整えていても、1000分の1レベルで整わなくては、といったところです。
 鍛練といっても鍛えようなどと無茶をすると、バランスが壊れ乱れます。今までより悪く、10分の1も整わなくなります。それが自滅なのか、100分の1へ行くための遠回りなのか、それを見分けることが肝心です。そこにとどまって厳しく判断します。それは決して慣れあいのレッスンでは生じません。器を大きくしていくのに、自らの外を固めてしまっては内なる限界は破れないのです。

○師と創造

 私にとっての師は、わからないことをわからないままでなく、そのうちに認められるようになりそうな何かを感じられるヒントを下さるところにあります。その奥行や頭の中は読めないくらいでよいのです。自分の実力や個性を否定してくるほどに嫌なものでよいのです。そこで認められたら卒業ですから簡単ではありません。褒められたら、それが本心だとするなら、そこで終わる。また次を捜さなくてはならなくなるでしょう。
 師が認めたら世界中でやれるくらいに、シンプルな基準において高度に身についていくレベルを求めていくことです。
 わかりやすく言うと、こちらがわからないくらいに深読みできる相手でなくては困ります。他の人が誰でも同じように学べたり、もっと学べたりするというのはどうでもよいのです。自分にとって、が唯一の問題です。直観が働いたり、イマジネーションが感化されるような相手です。わからないから想像する、想像できないから創造する、しかしようもない状況に追い込まれるというのが理想です。
 こちらができないことができる人、というならアーティストや職人を捜せばよいわけです。師や先生というのは、そんなものではありません。先生の通りに歌ったり、せりふを言えるようになったところで、ものまねにすぎないからです。
 こちらが同じことを生涯やってもできないどころか、わからないようであって欲しい。でも、できないのに世の中では充分に通用するようになっている、それでよいのです。芸術はそんなものでしょう。師と同じものはいらない、二番煎じになる、同じにできないから、自ら創造するのです。

○スタンス

 学ぶというスタンスがわかっていない人は、学んでいるようでも大して学べないし先がありません。スタンスは、声を学ぶことよりも大切なことです。声を学んでいるつもりでも、学ぶのは声ではないのです。スタンスが学べたら声もものになる可能性が高まります。身につくところのベースができることがスタンスというものです。
 自分への評価などはトレーナーに任せればよいのです。一人でなく、何人かのトレーナーが認めているならば、それは力となり身になっているのです。ただ、やさしく甘いだけのトレーナーではだめです。厳しいトレーナーがいなくなってきたことが問題です。レッスンやあなたに対してでなく、声や表現に対して厳しいということです。
 トレーナーの基準(ここでは、トレーナーが自分で身につけたもの)だけでは、ダメです。世の中においての価値、それも創造的な仕事への評価においてみなくてはなりません。
 自分で自分をいくらよいと思っても仕方ありません。トレーナーをもっとも厳しい客として使うことです。トレーナーの力を判断しようなどとしたところで、より学べない状況から抜けられないようになってしまいます。それは、最悪の接し方です。自分の実力を自分で固めて、最低レベルに制限してしまうだけだからです。

○ギャップ

 「10年たったらわかる」のです。この「10年」は人によって何年かは違いますし、実際の年月は大した問題ではありません。積み重ねがものになっているのか、ただ年数を経ただけなのかということです。実質としての10年が一つの単位ということです。
 私は「ハイ」だけでも5年もトレーニングすれば通じるようになると思っています。少なくともそれだけをしっかりやると、腹から「ハイ」が出せるようになるのです。でも、多くの人はそれさえやりません。ですから、10年経っても通じる「ハイ」も出せません。呼吸も当初とさして変わらない。つまり、そんな「ハイ」もいらなければ、声も呼吸もいらなかったのでしょう。絶対に変わる必要もなかったのです。
 足らない、欲しいと強く思わなくては、ギャップは明確にみえてきません。その強さ、欲の程度が修得のレベルと表現を決めます。
 そのギャップがみえて、自分が劣っているのをわかっている人は優秀です。だから、学びにいらっしゃるのです。そこがスタートラインです。
 プロを含めて、その人のごまかしやテクニックを抜いて、その前の下手という方向にするのは、そのギャップを露わにするためです。
 トレーニングのメニュや方向性などを気にしても、さほど意味がありません。レッスンは、曖昧な目的をより具体化していくことに尽きます。反対方向に行っても、振り幅(=器)さえ大きくしておけば逆にも振れているものだから、身になっていくのです。

○邪魔

 本来は、上に大きく伸びつつ地中に深く根を張るのが望ましいのですが、ここでもいくつかのタイプがいます。深く深く根ばかり張るのが、目的になってしまう人もいます。深くしても上に出ないで浅く広く張る人もいます。上に伸ばす人も横に伸ばす人もいます。一時的にはどれでもかまいません。
 トレーナーはそのプロセスで、全体の大きさや位置づけをみえるようにしていけばよいのです。いわば、これは意図的な試行錯誤の時期です。なのに、トレーナーの大半は効率が悪いからと急いてストップをかけがちです。しかし、この、一見無駄な冒険にのるところに、放任して冒険させるところに、その人の個性や表現の核が現れ出るものなのです。
 下手にトレーナーにつかない人や合わない人の方がアーティストになるのは、トレーナーが邪魔しているせいというのは、残念ながら、ほぼ事実です。でも、それはトレーナーの使い方も悪いのです。
 
○価値をつくる

 一方的に依存する。たとえば、ときに自信にあふれた歌手が、他のトレーナーから私のところのトレーナーにつきます。しかし、やるべきことにすべて「ハイ」と従うだけでしたら、一通り終わっても「前の先生と同じことしかやってくれない」と思うかもしれません。自分が何かを出さないとレッスンはただのレッスンのままなのです。
 とにかく言いたいことは、あなたが先にいて声を何とかするのでなく、声からそのまま作品になるところにあなたが現れるというプロセスをとるということです。あなたには、あなた自身や周りの人が大切かもしれませんが、現実には、ここでは音声での価値を有するあなた、あなたの声、あなたのせりふ、あなたの歌などが価値の源泉なのです。そこをしっかりとみつめていかなくてはなりません。
 
○アーティストに学ぶには

 師である先生、トレーナーが表現者であるとき、あるいは兼任しているときは、その表現を型として学びつつ、ぶつけて離れるのか、似せていくのか、似せるとよくないのかは、そのアーティストのレベル、あなたの学ぶ目的、レベル、タイプなどにもよります。
 ただ、声に関しては、表現としてはプロのアーティストには、かなりの無知、独りよがりな理論、考え、方法、メニュなどが多く、それについては、ただの未熟なトレーナーよりも影響力が大きい分、気をつける必要があります。 
 昔から多くの人には、逆効果となるような、そのアーティスト独自の学習法や考え方はありました。しかし、ここのところ、ヴォイトレのなかでは当たり前、常識となりつつあることさえ、アーティストが教えているケースでおかしな使われ方がされていて、びっくりさせられることがあります。
 自分で仕事をしている分には、そんなにおかしくないのに、他人に教えるとなると、どうもトチ狂ってしまうようなのです。
 そのアーティストが天性というか天然の才でやれたので、それゆえに、そうでなかった多くの人には、そのようにはいかないことを知るとよいのですが…。その方法は、そのアーティストのものなので、少し離れておくスタンスをとることです。

○表現と基本

 アーティストからは、声よりもステージや歌そのものに学ぶことです。そこはプロなのですから、プロに対しては、どこのプロ、どこがプロなのかをきちんとみることです。ヴォイストレーナーの行うメニュや方法の方が、ヴォイトレとしてはよいはずです。特に、声だけでずっとみてきた人なら、声について、もっとも多くの経験を持っているので、そこは使い分けをすることです。
 確かにアーティストは、他の人の声についても自らの経験から判断とアドバイスをすることはできます。しかし、将来へ時間をみて育てていく専門家とはまた違うということを知ったほうがよいでしょう。その専門性に学ぶべきことです。ただ、その場での発声の矯正をヴォイストレーナーと考える人が多くなったのは困ったことです。
 基本とは、型であるのですが、私は、基本の基本として型以前の自然を学ぶように努めさせています。つまり、ただ一声でよいから体の声、これも「大きく響けば体の声で1オクターブまで」といえるものです。1音を体から、いつでも完全に出すのには相当な年月がかかるのです。周りの人、といっても誰でもよいのでなく、厳しい人、つまり、1000人に1人くらいしか認めない人が認めるレベルでの発声と考えてください。

○土俵を創る

 私なりに言えるのは、人生捨てたものでなく、個性や才能は一本道でない、多様なものだということです。スポーツのようにフィールドが決まっていると100メートル走でも、最初からそこそこに速くないと、生涯どう努力しても100メートルの選手にはなれません。しかし、アートは、同じでないものを創り出すところでの勝負、いえ、勝負というのは同じ土俵ですから、そうではありません。真の創造は、土俵を選びません。土俵を創り出すとさえいえます。声もまた、大きな自由と可能性を得ているということです。
 
○イメージを扱う

 私たちは、相手ののどや体を触れて動かしているのでないのです。イメージを介してコントロールします。迷ったりわからなくなるのは、これが曖昧なイメージのためです。レッスンは、それを明瞭に定めていくためにあります。
 医者のように、直接、手当や手術するなら患者は動かなければよいのです。武術もスポーツもイメージの力が大きいのですが、多くは実践を伴い、身振り手振りを交えます。楽器も最初は触って覚えていきます。
 イメージは、ことばを介していくので、ときに整合性がつかなくなることがあります。そこを流せるか、こだわるか、それが、「ことばで考える頭」か、「イメージで動かせる体」かの大きな分かれ目です。「頭に邪魔させるな」ということです。

○できない

 「できない」とときおり、生徒がトレーナーに言うのを聞きます。「それで?」と思います。できるのであればトレーナーは不要です。少しずつできていく、それは、できていないということを少しずつわかっていくことでもあるのです。そこから、どこまでどうできていないのかという細部へ入っていくことがレッスンの進化なのです。どうすればできるのかが頭でなく、体でわかってくるのです。
 「これをやってください」と言うと「わかりました。できました。次は」という人もいますが、これは例えれば、蕎麦打ちのように思ってください。わかってできて打ったあなたは、その蕎麦を食べればよいかもしれませんが、他の人は食べたくないレベルの蕎麦でしょう。
 「終わりました」けど、「できていない」のです。「わかりました」けど「できていない」のです。そのなかに一本でもハイレベル、通じるものがあれば、あとは時間の問題です。その一本からスタートにつくというのが私の考えです。体を少しずつレベルアップしていくのでしぜんになるのです。そして、もう一つ、イメージの発露を邪魔するものもイメージです。のどでしゃべろうとするほどに、のどは固まるわけです。

○ゼロに戻す

 声が通るのは、相手にきれいに技がかかったような感覚なのでしょうか。多くのケースでは、そこまでにかなりの準備が必要です。心身がいつも動けるような柔軟な人はほとんどいません。
 1日のなかで一番よい状態を知りましょう。まずはレッスンの場にそれをもってこられるようにします。3ケ月も経ってそういうことができるようになると、これまでのマイナスがゼロになります。楽しくて笑っているような状態、これを示すだけで、喜んでくれる人が多いのは、私には驚きであり意外なことです。
 他のスクールやトレーナーなら、ここが目的、到達点となっています。その声でせりふ、歌でOK。声はOKだから、すぐに歌に入りましょう、できあがり、となるのです。
 ただし、そこはゼロ地点です。そこから真っ直ぐ上に行くのはよくない。個性の発現は迂回するようになっています。その回り道に味がある。それをおおらかに見過ごしてあげないと、よくてもトレーナーの二番煎じのような声と歌になります。本当に高いレベルに行かせたければ、トレーナーに必要なのは、指導より忍耐なのです。

○教え方に合わす

 器用というのは、人間的に、ということなら、どのトレーナーともうまくやれることです。仕事の力に近いのですが、うまくレッスンの指導を取り入れて活かせるということにもなります。つまり、教え方に合わせられる才能というのがあるのです。
 その上でトレーナーの方から評価がよい。となると…。評価というのは2つあって、今の力があるということと、吸収力(伸びしろ)があるということです。
 レッスンということでは、後者が望ましいわけです。しかし、どちらもないよりは何でもあった方がよいわけです。教え方に合わせるのがうまいのと、それに振り回されるのは違うので、そこはチェックしています。
 私としては、あまりに教え方にうまく合ってしまう人こそ、その人と真逆のタイプのトレーナーを勧めるようにしています。大きく伸びたいのなら、逆タイプのトレーナーをも吸収できる器をつくれということです。ただ、限界を打ち破って広げていくのと、限界を踏まえてそのなかでギリギリに詰めていくのは、レベルでなく段階が違うのです。(勝負までの時期とか)あるいは、タイプでも違うのです。