土俵を創る No.277

 

○土俵を創る

 

 

 

 私なりに言えるのは、人生捨てたものでなく、個性や才能は一本道でない、多様なものだということです。スポーツのようにフィールドが決まっていると100メートル走でも、最初からそこそこに速くないと、生涯どう努力しても100メートルの選手にはなれません。しかし、アートは、同じでないものを創り出すところでの勝負、いえ、勝負というのは同じ土俵ですから、そうではありません。真の創造は、土俵を選びません。土俵を創り出すとさえいえます。声もまた、大きな自由と可能性を得ているということです。

 

 

 

○イメージを扱う

 

 

 

 私たちは、相手ののどや体を触れて動かしているのでないのです。イメージを介してコントロールします。迷ったりわからなくなるのは、これが曖昧なイメージのためです。レッスンは、それを明瞭に定めていくためにあります。

 

 医者のように、直接、手当や手術するなら患者は動かなければよいのです。武術もスポーツもイメージの力が大きいのですが、多くは実践を伴い、身振り手振りを交えます。楽器も最初は触って覚えていきます。

 

 イメージは、ことばを介していくので、ときに整合性がつかなくなることがあります。そこを流せるか、こだわるか、それが、「ことばで考える頭」か、「イメージで動かせる体」かの大きな分かれ目です。「頭に邪魔させるな」ということです。

 

 

 

○できない

 

 

 

 「できない」とときおり、生徒がトレーナーに言うのを聞きます。「それで?」と思います。できるのであればトレーナーは不要です。少しずつできていく、それは、できていないということを少しずつわかっていくことでもあるのです。そこから、どこまでどうできていないのかという細部へ入っていくことがレッスンの進化なのです。どうすればできるのかが頭でなく、体でわかってくるのです。

 

 「これをやってください」と言うと「わかりました。できました。次は」という人もいますが、これは例えれば、蕎麦打ちのように思ってください。わかってできて打ったあなたは、その蕎麦を食べればよいかもしれませんが、他の人は食べたくないレベルの蕎麦でしょう。

 

 「終わりました」けど、「できていない」のです。「わかりました」けど「できていない」のです。そのなかに一本でもハイレベル、通じるものがあれば、あとは時間の問題です。その一本からスタートにつくというのが私の考えです。体を少しずつレベルアップしていくのでしぜんになるのです。そして、もう一つ、イメージの発露を邪魔するものもイメージです。のどでしゃべろうとするほどに、のどは固まるわけです。

 

 

 

○ゼロに戻す

 

 

 

 声が通るのは、相手にきれいに技がかかったような感覚なのでしょうか。多くのケースでは、そこまでにかなりの準備が必要です。心身がいつも動けるような柔軟な人はほとんどいません。

 

 1日のなかで一番よい状態を知りましょう。まずはレッスンの場にそれをもってこられるようにします。3ケ月も経ってそういうことができるようになると、これまでのマイナスがゼロになります。楽しくて笑っているような状態、これを示すだけで、喜んでくれる人が多いのは、私には驚きであり意外なことです。

 

 他のスクールやトレーナーなら、ここが目的、到達点となっています。その声でせりふ、歌でOK。声はOKだから、すぐに歌に入りましょう、できあがり、となるのです。

 

 ただし、そこはゼロ地点です。そこから真っ直ぐ上に行くのはよくない。個性の発現は迂回するようになっています。その回り道に味がある。それをおおらかに見過ごしてあげないと、よくてもトレーナーの二番煎じのような声と歌になります。本当に高いレベルに行かせたければ、トレーナーに必要なのは、指導より忍耐なのです。

 

 

 

○教え方に合わす

 

 

 

 器用というのは、人間的に、ということなら、どのトレーナーともうまくやれることです。仕事の力に近いのですが、うまくレッスンの指導を取り入れて活かせるということにもなります。つまり、教え方に合わせられる才能というのがあるのです。

 

 その上でトレーナーの方から評価がよい。となると…。評価というのは2つあって、今の力があるということと、吸収力(伸びしろ)があるということです。

 

 レッスンということでは、後者が望ましいわけです。しかし、どちらもないよりは何でもあった方がよいわけです。教え方に合わせるのがうまいのと、それに振り回されるのは違うので、そこはチェックしています。

 

 私としては、あまりに教え方にうまく合ってしまう人こそ、その人と真逆のタイプのトレーナーを勧めるようにしています。大きく伸びたいのなら、逆タイプのトレーナーをも吸収できる器をつくれということです。ただ、限界を打ち破って広げていくのと、限界を踏まえてそのなかでギリギリに詰めていくのは、レベルでなく段階が違うのです。(勝負までの時期とか)あるいは、タイプでも違うのです。

 

 

 

○可能性は無限ではないが

 

 

 

 現実に何かを成し遂げるには、可能性を追求していきます。そして、その可能性の限界を知ることでしょう。そのためには、まず限界以上のことを目指して行うことです。それによって、己の本分を知ることになったら、そこから本当の勝負は始まります。そこまでには、ゆうに3年から5年はかかります。それが修行といわれる、いわば、基礎を身につける時期です。

 

 その作業をしないうちに、予め自分で制限を設けていては、あなたの可能性は著しく狭められます。つまり、まだ十分でない自分の現在の力のなかで、そこそこに応用した選択となってしまうのです。レッスンに通うのは、方法などを求めるのでなく、この自分の器を破るためなのです。

 

 それなのに、ノウハウ、メニュばかりを勧める方法がヴォイストレーニングで一般化して、そういうことを生業とするトレーナーばかりになりました。それは、そういうことをトレーナーに求める人ばかりになったということでもあります。

 

 それでは、すでに才能や実力が充分な人、ごく一部の人を除いて、現実味のない夢に邁進することになります。仮に、100パーセント、そのトレーナーの教えを受けて、うまくできたところで夢のまま、現実との接点がつかないのです。修業どころかプランニングさえできないままに終わります。困ったことに、なまじ有能な歌手、役者、演出家が教えるとそうなりがちなのです。

 

 

 

○力づくと全力の違い

 

 

 

 若い時は、夢と現実との距離がわからないことが最大のチャンスなのです。そこに全力でチャレンジすると無茶や無駄がでるからです。恐れず行動してみることです。そこから自分に合った勝負の仕方が見えてくるのです。

 

 大海に出て、現実の力のなさを知り、夢の現実化の手段を知っていくことです。(それは、決して発声の方法などの差ではありません)

 

 なのに、これまでの狭い経験のなかから自ら選ぶようなことをしては、そこそこで止まります。歳をとると可能性が狭まるのは、歳のせいでなく、知ったふりして冒険ができなくなるからです。多くの中高年のように安定志向では、それゆえ大きくは伸びないのです。

 

 

 

○時機をみる

 

 

 

 私は、ヴォイトレを、とにかくがむしゃらにやればよい時期と、自らの限界を知って選択していく時期とに分けています。問題は、その境目の時機をどうみるかです。しかし、多くの人は、まだまだ、そこまで達していないのです。自分について判断するまえに諦めたり、やる気をなくしたり、仕上げたつもりになる人の多いのに驚きます。

 

 レッスンは、ときとして最初から後者になりがちなのです。レッスンの目的に効率や合理性を求めるとそうならざるをえないからです。

 

 できたら、それまでに自分でできないところまで試してみることです。それが充分でなければレッスンをやりつつ、試みればよいのですが、レッスンで視点を得つつ、それと関わらず大きく思い切ってやるというのは、なかなか難しいのです。

 

 今のヴォイストレーナーのレッスンは、総じて、後者を求める人用にできています。すると、それに反することになり、矛盾したり中断したくなります。実のところ、そこでふんばることが大切なのです。人まねでなく、自分自身のもつ可能性を知るために、です。

 

 

 

○真面目からの脱却

 

 

 

 どんなこともやむにやまれず、闇雲にやっていくなかで何かをつかんでいくというのが、およそ芸の本道です。一方、ときに手を抜いても、ともかくも持続させていくのは、大人のやり方です。あまり真面目に意味や定義など考えたり、全てを賭けすぎて完全燃焼してしまうと、そのうち、それに疲れてしまい続かなくなります。人に対しても仕事に対しても、絶対とか正しさを求めると、どうにもならなくなるのものだからです。

 

 

 

○価値観と伝統

 

 

 

 研究所としては、関わる人のどんな愚痴や批判でも、ポジティブな改革への提案として、くみ上げられるようにしています。何かが日々起こっていることは大変にありがたいものです。トレーナーが10人いると10倍、キャパシティがあるわけです。

 

 クレーム、要望を少しでも早く吸い上げ、改善するように、ここでは努めています。ですから、愚痴より批判、批判より提案がありがたいのですが、日々、何百もの改善は考えてもいるので、似たような提案よりは、新鮮な愚痴や思いがけない非難がありがたくもあります。

 

 私がいろんなところに行くと、ここもあそこも直せばよいのにと思うことだらけです。でも、そこにはいろんな事情もあるということもわかるのです。私も、研究所で変えたいことは山ほどあるのですが、自分の勝手と周りの迷惑との板挟みで保留せざるをえないことが少なくないのです。

 

 革新者とよき同志とはなかなか両立しません。それには時間がかかる、いや、時間をかけなくてはいけないのです。具体的に述べたいのですが、キリがないので、西郷隆盛大久保利通、あるいは、信長と家康の処世法、そこを考えてみましょう。

 

 仕事や対象や目的の優先順などにもよるので、徹底すれば価値観になります。オリジナリティとなります。一貫せずに、つきつめられていない、深まっていないから価値にならないのです。トレーナーの方法や皆さんの方法にも同じように感じることがあります。

 

 自分が選んだつもりで、向こうに選ばれている、こちらが辞めたつもりで、辞めさせられている、ということもあります。長く続けるために変えるべきこともあれば、変えてはいけないところもあります。それはなかなか外には、他の人には、短い期間ではみえないものです。それを踏まえて、永らえてきたものを伝統ともいうのです。

 

 

 

○マナー、愛想よくする

 

 

 

 たとえば、接客サービスにもっともすぐれている、おもてなしの国、日本、世界の人がそれを学び始めています。一言でいえば、感じよく対応するというのを「おもてなし」というのです。しかし、これはホスピタリティとして万国共通のものです。日本人のすぐれているのは、相手によって大きな差別をしないことでしょう。とはいえ、これも、身分差別こそ奴隷制のある他国ほどなかっただけで、むしろ、些細な差にこだわる根深いものがそれなりにあったわけです。

 

 

 

○リスクをとること

 

 

 

 ビジネスは、リスクと報酬が表裏一体です。責任をもつということは、成功したら、その分を多くもらうが、失敗したら、その分を多く失うということです。そのことによって決定する権利=義務が伴うわけです。これは戦いの指揮官でも政治家でも同じことです。

 

 組織になると、この権限(地位、肩書)と、報酬(リスク)とが、階層(階級)となって配分されます。参加するとともに、否応なしに地位に伴うリスクを負わされるわけです。

 

 人間関係は究極のところ、信義に基づくものです。これは、どの世界でも同じです。芸能界は言うまでもなく、小学生のクラスや劇の発表会でさえ、この関係は成立しているわけです。

 

 ですから、等価値で交換が成立すべきなのですが、そこが難しいわけです。そこでの価値の決め方という価値観がまさに人それぞれ、さまざまだからです。

 

 それをつくりあげていった人の考え方を表すことになるわけです。これは必ずしも損得での勝ち負けを結果とすべきものではないのです。日本のように革新を嫌う社会(=世間)では、当然、保守的で既得権、利益を守るものとなりがちだからです。

 

 

 

○教える

 

 

 

 他人に与えたいという欲求が、教えたいということで職になると教師です。しかし、大抵の場合、教師でなくても、人に働きかけたい気持ちは、人として誰もがもっているものでしょう。

 

 他人に教えたくないとしたら、そのことが自分のデメリットになる場合でしょうか。教えることが自分の地位や収入や生活を脅かすとき、人は隠します。相応の報酬(金銭に限らず)があれば引き換えに、ありえない相手に情報を渡すこともあります。自分の仲間や国の秘密を売るようなことさえ、人は条件次第で平気にするようになるのです。

 

 そのときの判断は、その人の生まれ、育ちとともに歴史の織りなす縦と横に軸がどのくらい通っているかで異なるようです。なかには、使い走りとして使われ、誰かのために行ったのに責任を取らされ、投獄されたり殺されたりした人もいます。そういう役割であったのに、死んでも気づかない人もいるのです。

 

 そういう形で、最初に、巻き込まれてしまうのは、若くて何もみえず、やむを得ないことが多いのですが、そこから抜けられないのは、全体の構造をみないから、みえないからということです。とはいえ、そんなものはみえないことが多いし、全体がみえることなど凡人には決してありえないでしょう。

 

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