出口のコントロール No.278

○出口のコントロール

 

 ヴォイトレも、言われたような声を出すのでなく、自らのなかにそれを感じて取り出すものです。出口をコントロールするのではありません。出口の前で、すでにコントロールされているのでなくては何ともならないからです。

 それを司るのは外からの指示でなく、内なる感覚です。そういう意味で多くのヴォイトレが、「ヴォーカルコントロール」と私が称したように、出口でのコントロールだけを学ぶように陥っているのは残念なことです。

 その教え方は、言われたように声を出させるのです。それは感じたままに声を出してうまくいかないから一手段として、( )に入れてやることなのです。この( )は、やり方も期間も人によってさまざまです。

 私が「ヴォイトレの方法論は机上の空論で無意味」と言うのは、トレーナーの数とレッスンする人の数以上に組み合わせがあるからです。入口である自覚で行っていれればともかく、出口、目的となっている、そのことが、とても浅いのです。

 

○コントロールするものとは

 

 自分の心身や周りの環境は常に変わります。そこに、適宜に応じなくてはなりません。曲や発声が変わるのに振り回わされず、そのような他の条件の差よりも、自分のなかでの差を大きくしていくことです。その積み重ねによって、あたかも自然のように、おのずとそうあるように振る舞えるレベルへと向上します。

 届かない高さや広すぎる声域などに振り回されて、できた、できていないなどと言っているのは、その音が出せたとしても、まるでできてはいないものだからです。

 とはいえ、( )付で試みたり、結果としてどうなったかのチェックとして行う分にはかまわないのです。目的(この場合、目標)なのか、結果なのかを明確にすることです。

 

○不自然に

 

 どこかのレッスンをやめてきた人には、声を出してもらったり、歌を聞かせてもらうと不自然なので、すぐわかります。しかし、それは本来、( )の時期だからなのです。

 ヴォイストレーナー声楽家は、一般的に、他の人の教えのついている人を嫌います。最初から自分が教えたら、こんなに不自然にならないと皆、思っています。お互いにそう思いあっているということです。

 他の先生のレッスンを辞めてきた人はみていても、自分のところを辞めた人を、他の先生がどのようにみるのかを知らないし、関心がないからです。

 この問題については、「あとで大きく効果の出るレッスンほど、最初は不自然になる」のがあたりまえと思えばよいのです。この不自然さは一つの型ですから、あるレベルにいくまでは、外れないのです。

 

○型の自然化

 

 武術の基本の動きを参考に述べましょう。その演技、型をみせてもらうと、初心者ほど不自然です。それが上級者になるのつれ、美しくたおやかにみえてきます。師匠になると、もはや型がないほど自然になっているわけです。それを身についたといいます。

 ヴォイトレの問題は、武術やスポーツよりわかりにくく、すぐれていることの判断ができない人が多いことに尽きます。声ゆえに分かりにくいとういうことです。

 ( )が外れないままであること、あるいは、トレーナーや本人が( )をつけたままでよしとしていることなのです。こんな初歩的なレベルのことを20年以上私は言い続けています。他分野なら、1年目にあたることを生涯スルーしているからです。

 第一線の歌い手も知らない。歌い手だから歌えたらよいのですが、歌はともかく、声を教えるとなると( )に入れることを目的として、疑うこともないのです。よくあるレッスンメニュは、それにあたります。本人は、すでに世に通じているからよいのですが、その人以上の人が育たないのはそのためです。また、本人も( )のためにやれている半面、限定されているのです。それを外しにくるようなプロもここにはいます。

 

○ど真ん中

 

 声の先生もまた、自分の型ではない型がみえるのが嫌なのです。あるいは、理解できないのです。そのまま自分に置き換えると不快だからです。歌手であれば尚更です。教えるには自分に置き換えて兆候をつかみます。ですから中途半端な型の上に乗せていくよりは、その型を否定して外すことから始めるのをよしとするものです。

 教え上手の先生のケースとしては、カラオケの上手い人のくせをはずして、下手にしておいてから伸ばしていくのと似ています。

 レッスンの場やトレーナーを変えた人の多くは、前のところでは身につかなかったから「まったくゼロからやり直したい」と言ってくることが多いのです。そのためにトレーナーと意見が一致して「最初からやり直しましょう」となりがちなのです。それを相性とかタイプで片付けてしまうのです。多くのケースでは「よい先生に会った」という根拠は、「やさしい、親切、わかりやすい、自分を認めてくれる、評価してくれる」という、トレーニングとはほとんど関係ない要因です。ただ、ホスピタリティ、サービス精神に通じていることも、教える人としては大切でしたが、何よりも大切になった時代だからです。

 

○鋳型と自己流

 

 型は、土台ですから、完成に近づくまで、ほとんど中途半端でしかないのです。それをどうみるかが問われるのです。私は、どんな型も元の型のように考え、できるだけ活かそうとしています。そうでないと、研究所でトレーナーたちの方法と両立できません。いろんな生徒さんがいらっしゃるのですから、いろんなアプローチがあって当然です。

 その理由は、以前に述べたように、よくも悪くも最初についたトレーナーの型が鋳型として大きな影響をもってしまうからです。ですから、私はできる限り、そこを肯定から始めたいのです。

 それゆえ、自己流、我流にも、私は寛大に対応しているのです。自己流も他に教えられたものも同じくらいにその人自身のど真ん中の声から、それていることが多いので、同じことです。どちらにしても9割は、浅く、程度として低い状態に変わりないのです。それならば、自分独自に試したり誰かに教わって、少々違う方向に偏っていても大した問題ではありません。何をしても見えていない分には偏るのです。それを是としていくことも大切なのです。それは大きく見ると無視できる範囲です。それよりもど真ん中の声、ど真ん中にくるであろう声をみることです。

 

○型と不条理

 型を守ることを教えられると、その型から出られなくなるものです。型とはいずれ、型から出るための型なのです。意味があるとするなら、崩れたときに戻るところとしての型です。本来は「いつでも外せる」「脱げるように」と教わるとよいです。いえ、「いつか外す」いや「いつか外れる」の方がよいですね。

 そのために、名師匠は、わざと抜けたくなるような窮屈な型を押しつけるものなのです。それが言動や生活にまで求められると不条理な抑圧ともなります。つまり、退路を断ち、一心に打ち込める覚悟を迫るのです。

 ゆえに、型は、不自然を通り越して不条理なのです。理で求める人を拒むのです。「型破りはよいが、型なしはよくない」よく言われることばです。

 

○腹筋不要論について

 

「腹筋を固めるな」「腹直筋を鍛えると呼吸や発声によくない」と言われ出しました。そういう質問に、私は「世界一流レベルにでも近づいてから考えたら…」と、にごしていたのは、考えるに値しないことと思ったからです。また、言わないほうがうまくできるし、上達すると考えなくても、よいように働いているものだからです。とはいえ、何回かは、具体的に答えてきました。

 これは、インナーマッスル体幹が大切と言われた頃から、外側の筋肉を固めると内側の筋肉がつかないというような流れできたものでしょう。

 筋肉の働きについて、一般の人がよく知るようになったのは、悪いことではないのですが、それを理論として、頭で考えて体を働かそうとすると、伸びやかにトレーニングをしていたような人よりも悪い結果となりかねません。

 言えるのは、ボディビルダーのように筋肉をつけたからといって、あるいは、腹筋が100回を200回できるようにしたからといって、あまり発声と関係ないということです。そういう苦行トレーニングの先に、よい発声や歌唱があるというなら幻想だということだけです。

 こんなことを今さら言うのもはばかられるのですが、舞台で声を出すのに、腹筋が普通の人並みにもいらないなどということはありません。ヴォイトレにおいて、そういう極端なことばを受け売りして、頭でっかちになってはよくありません。

 本人が足らないと感じたら補えばよいのです。むしろ、足らない、補わなくてはいけないと具体的に感じられるほどの高い目標をセットすることこそ、レッスンで行うべきことなのです。身につけることの必要性を与えるということです。

 

○理由を知りたい症候群

 

 「どうして、こうしなくてはいけないのですか」という問いは、以前はさほどありませんでした。今や何事についても、その理由や結果を知ることを求める人、それを知らなくては行動に移せない人、続けられない人が増えました。

 研究所へは、本の読者から関わる人が多かったので、理屈先行タイプが多いのも確かです。それでも、かつては「そこを聞くのは失礼」とか「聞いて答えてもらったところで何にもならない」という直観があったのでしょう。いい具合に、聞くべきときに聞くことが聞かれていたように思います。

 実際にはそう簡単には答えられないこともあります。(でも、答えようとすれば、大体は、教科書的な答えとしてわかっているわけです。そのためのQ&Aです。)私は、そういうときもそうでないときも言わないことが多いです。何でも言うことは、よくないことにもなります。今はよくても後ではよくないことと、今はよくなくても後でよくなることのどちらを取るかということです。私は迷わず後者を取ります。そういう人が少なくなったということです。

 正直なところ、「こうしなくてもいけないことはないのですから、こうしなくてもよいですよ」「なら、好きなようにやりなさい」でもよいのです。が、それではアドバイスされた人が困るでしょう。「その理由は、私もこうしてやって、できたからです」などを言わなくてはいけないのなら、すでに信頼関係もないでしょう。

 一つひとつを疑われては説明を要するなら、レッスンの多く時間が失われます。それによって、もっと得られるものがあればよいのですが、失われることの方が多いと思います。もし、それが安心感というのなら、よくないことではないでしょうか。

 

○説明の限界

 

 「レッスンでは説明を受け、納得できたら家で自分で練習します」と、そういう考えの人もいます。そのために、私は本や会報でできる限り、ことばにできるところは述べてきたのです。さらにブログにも最新のQ&Aを入れています。

 あなたを安心させるだけの説明なら、いつでも何でもできるのです。ただ、あなたのことを十分に知らないうちに、こちらの模範解答や正解を与えても、それは決してよい結果になりません。ただの知識欲、自己満足になりかねないからです。それでは、レッスンの意味がないのです。

 自分の考える正しさが誰にも通じるものだという自己暗示にかかってトレーニングを始めるトレーナーも少なくありません。そういうやり方がレッスンの真骨頂だと思うトレーナーであって欲しいとも思いません。

 「こうしなくてはいけないのでなく、こうしたいと思ったから言ったのです。あとは自分で考えなさい」と。譲れるのは、ここまでです。

 因果関係や理由なしにはできないと思わないことです。そういう問いと答えをたてたら最後、大した成果をもたらさなくなるということを、数多くの体験から述べておきます。この世界にいると、奇跡はけっこうよく起こるのです。説明がつかないからこそ、魅力的なのです。

 

○メニュという型

 

 メニュとは、一つの型ですから、繰り返して、何かを身につけていくために使います。そこには元より説明できるものはありません。ノウハウとしてのメニュをたくさん集めるよりも一つの型を材料として判断力を高める基準づくりの方に重点をおきましょう。

 多くの初心者の方が期待しているような、絶対に正しい一つの方法や、魔法のような万能のメニュはないのです。あるとしたら、心身を目一杯使って元気に生きるということでしょうか。

 しかし、自己表現の結実である歌でさえ、一つの型の表れといえなくもありません。その型に人は惹かれ、ファンは魅了されるのです。

 トレーナーの示す、わけのわからないものにどう対処するか、どう対処できる能力をつけていくのか、その力を養うのが、実践に通用するレッスンです。そこで自然にこなせていれば、こなせるようになっていけばよいのです。

 少なくともそんな疑問ばかり出る人は、うまくいかないものです。出し尽くして忘れましょう。考えてはいけないのです。そのために思うように歌えないことが多いのです。レッスンでは、疑うことよりもイメージを大きくすることに費やすことです。

 誰もできないのではありません。誰でもできるのがメニュです。しかし、できたようでいても、よりできる人からみたら、まだまだできていないのです。つまり不自然なのです。

 

○レッスンの目的

 「こんなことできない」とか「こんなことおかしい。やる必要ない」と思えば降りればよいのです。レッスンにきたからやらされるのですから、嫌なら自分の思うように歌っていればよいのです。

 思うように歌えないのは、多くの場合、そこまでやっていないのですから、やり続ければよいのです。問題は、そのうち、自分一人では思えなくなること、イメージが広がらなくなること、そこからが対処できないから、レッスンの意味があるのです。つまりは、イメージを決めていく、それも可能性を高める方向にイメージを持っていくのがレッスンなのです。

 世の中にはこんなことをやらずにプロになった人も、うまく歌える人も、魅力的な人もいます。しかし、そういう人たちは、この型を与えられても、あなたよりもうまくこなせます。あるいは何らかの形をとって凌げます。それゆえ、そのあたりを踏まえ、チェック方法をシンプル化して一つのメニュとして示しているのです。

 でも、なかには、型にまったく対応できないのに、すぐれたアーティストもいるでしょう。スポーツや楽器ではありえないことも、声、ことば、歌ではあるからおもしろいのです。それゆえ、これ以上、述べられないということです。

 

○ことばは、イメージのため

 

 腹筋についても再度述べると、本来はトレーナーが「やれ」とか「やらなくてよい」とか「やってはいけない」とか言うものではないのです。あなた自身が、発声をやっているなかで不足を感じたらやればよいのです。それを100回とか200回とか、何分間とか、絶対的に正しいかのように定めるのはおかしなことです。でも定まらないとやれない人が多いから目安として与えているのです。

 自分なりにやっていくなかで少しずつ綿密に定めていけばよいのです。呼吸なども同じことです。

 あるトレーナーは3秒吸って12秒吐くのを勧めています。15秒で一回、1分で4回、大した根拠もないのでしょうが、その人なりに続けやすい秒数、覚えやすい秒数にしたのでしょう。そのときにトレーナーの言語力で、受け取る人のやり方や効果が大きく違うものです。私は、「吐いて吸う」というように述べていますが、「吸って吐く」というのを勧めるトレーナーもいます。考えや経験でそうしている人もいるし、ただ、考えずにそうしている人もいます。言語力はイメージを導くのにとても大切です。キャリアや実績は、こうした使い方一つでわかるものです。

 

○セットしてから

 

 いろんなメニュに大した根拠はありません。本当は、必要に応じて、また、その日の心身に応じて、セッティングするものだからです。このセッティングの能力こそ磨かなければいけないのです。学ぶべきもっとも大きなことなのです。それを対面してこそ、できるレッスンで学ぶのです。

 すぐれたトレーナーは、その日のその人の状態と理想、目的のギャップの間に即興的にメニュをセッティングします。その段階までいかないときは共通のメニュをくり返し、同じことのなかで、わからせていくことに時間をかけるものです。

 ここに述べてきたような質問については、何と答えても、そのやり方において、頭でっかち、かつ、あまり発声に役立ちそうもないものです。それゆえ、トレーナーが熱心に真面目に応えるほど、そこから抜けられなくなるのです。

 あなたのことを思えば、最初から答えない方がよいことの方が多いのです。でも、正直に「自分の体に聞いてください」と言うと困りますね。「それがわからないからトレーナーに聞くのです」と言われそうです。でも、トレーナーにもわかりません。わかったふりをして、不安なく取り組ませることが必要なときは、そうするのですが…。しかし、本当はすべてわかっていると勘違いしているトレーナーの方が問題ではあるのです。トレーナーが予定しているくらいの上達なら、今や、自主学習で充分できます。トレーナーが予知できないレベルで、その人から何が出てくるかを問えるようにセットするのが、本当に意味のあることなのです。

 お互いに研究のできていくようにレッスンをセットします。勝負はそこからです。そこまでは、淡々と迷わずにトレーニングしていけばよいのです。

 

○プロセスに入る

 

 声が身についてくる道筋は、本当のところはわかりません。ここにはトレーナーが十数人いて、メニュやプロセスをそれなりに説明もしますが、それは本人自身の経験とこれまでの関わった人との経験をもとにしているにすぎないのです。

 それは、あなたにもっとも合っているとは限りません。細かくみると、異なるのがほとんどだと思います。異なるべきなのに、同じにしたいとしたら、それは、トレーナーの都合、レッスンがやりやすいということによります。(それも大切ですが)合っていることがベストではないし、合っていないからといって合わせられないわけでもないのです。

 トレーナーが十数人もいると、一人のトレーナーにだけつくよりも比較が容易にできます。その人の個性もつかみやすいです。基準も、より厳格かつ柔軟になってくるのです。

 本人にとって自分の考えに近い人や遠い人もいるのがわかります。より多くのことを、早く気づいて学べるようになるはずです。近い人より遠い人から学ぶ方が大切なこともあります。自分だけでは学べないものです。そのような人には、この研究所がとても向いています。

 

○結果で修正

 

 私はトレーナーや専門家の紹介もしていますが、あなたとトレーナーとの本当の関係は、これからの月日をみていかないとよくわかりません。大体は、縁のようなもので思ったままにいくのですが、何割かは期待以上であったり、うまくいかないときもあります。この、うまくいかないケースを認めているようなスクールやトレーナーは、少ないことが大問題なのです。

 やっていくなかで、プロセスをみて、あなたの声だけでなくプログラム自体も修正していくことが、より重要です。ですからトレーナーとのやり取りやレポートは、必ず私も目を通しています。

 わからないことをわかったことにしていくと、わからないことさえわからなくなるので、そこをはっきりとさせています。とはいえ、あなたが何年後かのあなたをわからないように、私たちも完全にはわかりません。でも本人のあなたよりもわかることは多いのです。

 語学学習なら習得について大体の予測がつきますが、声は、これからどういう生活やトレーニング時間をとるのかによって、かなり違うものです。月に何回かのレッスンよりも毎日のトレーニングや過ごし方のほうが、大きく声に影響するからです。

 ただし、一人で悩むよりも、トレーナーにアドバイスを受け、あるいはトレーナーを悩ませて、言われたようにやっていく方がよいのは確かです。少なくとも具体的に結果が問えます。そして、修正しつつ方向も定まるからです。

 

○同じものと新しい自分

 

 私の本は、ほとんどが同じ内容を書いたものですが、書くごとに表現が違っています。以前のものを編集しただけにみえても、そこには、必ずトレーナーや私の現時点での持論が入っています。現在進行形なのです。

 それと同様、いつも、同じというのが型なのです。だからそれを求めていらっしゃるのでよいのです。毎回、本の内容もレッスンのやり方が変わっている方がどうかと思いませんか。メニュは同じでも、それをどう使うのかが肝心なのですが。

 そこが、今、ここにきている人とのリアルでの橋渡しのところ、過去でも海外でもなし、あなたと、私やトレーナーの感覚や体などの言語化された部分です。そこでは日々、変化します。そのなかからアップしているのです。

 

○くり返しだけではない

 

 レッスンのほとんどは、ことばになりません。言語化されないことの方がほとんどなのです。ただそのなかで、こうして同じことを繰り返し入れていくことで、ことばも型もできてくるのです。

 イメージや思考は、体の型と同じように大切です。なぜなら、ただのくり返しだけでは、身についたとしても、その先に行けないからです。やればやった分だけ誰でも身につくところまでは、時間と引き換えに得られるものにすぎません。その先に行くために本当のレッスンはあるのです。

 身についたままのもので対応するのと、それを壊して、新たに創造するのとは次元が違います。そこでは、自分の中のものを出すだけはありません。自分のなかにあると思わなかったものも含めて、すごいものが出てしまったというようになってこそ、価値があるのではないでしょうか。

 創造的なことのために、どういうレッスンが必要か、もっと考えてもよいのではないでしょうか。

 

○少しの違い

 

 「少しの差」からものごとというものは、決まっていくものです。音楽でのリピートでの快感の積み重なりは、まさにそうでしょう。同じことがくり返されるから、ちょっとした変化に敏感になり、感覚も高まるのです。つまり、興奮して感動できる状態がもたらされるのです。

 レッスンやトレーニングもおなじです。同じことのくり返しでの少しの変化から快感になってくるのが理想です。そうなっていないとしても、その「少しの差」がわかってくればよいのです。

 同じことをやることで、慣れからくる安心感や、継承感だけで充実し、満足するのではありません。そこから出てくる、あるいは気づく「少しの差」に新しい自分の可能性を嗅ぎつけるところに本意があります。それは、心身の感覚センサーのなす術です。

 この働きを助けることがレッスンの第一なのです。これを邪魔して、トレーナーが自らの指示に従わせることがレッスンの目的であってはいけません。それはプロセスだからです。

 未来への一歩、「何ができた?」「何ができる?」は、このわずかな差に気づくことにあります。それをくみ出すことこそが、芸なのです。だからこそ、同じメニュを真剣にくり返す必要もあるのです。

 

○目的とスタンス

 

 レッスンやトレーニングは、必ずしもこういうところに落ちていないと思うこともあります。肉体もそのために鍛練し、テキストも、そのために学ぶものなのです。

 あなた自身は、私やトレーナーの考えと違っていてよいのです。でも、同じことを行ってみないと本当の違いもわからないということです。せっかくの先人の残してくれたものを使うことです。トップレベルで使えるようにしていくことです。

 その少しの違いに敏感でない人は、すぐれたアーティストになれません。トレーナーとしても未熟です。

 他人に、自分とは異質なものを発見し、そこを拡大できるようにしていくことが大切です。大半の日本人はそれが苦手です。同じことができるようにしようとか、他人に合わせることをよしとするからです。特に、トレーナーには、トレーナーゆえにそういう体質に染まっている人が多いので要注意です。