レッスンの状況とことば No.279

Q.次のような理由で、ことばでのQ&Aに限界を感じますが、どう思われますか。

1、ヴォイトレにおいては、紙面(文字、ことば)では伝えられないことが多い。

2、ことばのアドバイスを誤解して捉え、声をつぶしたり間違ったテクニックを覚えかねない。

3、ことばで説明することは難しいし、ことばで残るのはよくない。

4、当事者同士のことばは第三者には、正確には伝わらない。

 

A.簡潔に答えます。

1について、これは、多いどころかほとんどだと思います。

2、これは悪い方向にいくということですが、情報のあることで、よい方向にいくことも、間違いを避けられることもあります。読み手の使い方しだいです。それを、どちらで捉えるかということです。

3、ことばでは難しいし、不可能に近いことも、不可能なこともあります。しかし、ことばでの説明の努力は、怠るべきでないと思います。残す=記録ということも、よしあしがあります。

4、レッスン中は、ある状況が二者間にあって、そこでは、説明やアドバイスに適切なことばを使えますが、その状況を離れたところでは、その状況がわからないので、ことばが一人歩きすることは避けられません。それを第三者へ公開することは、よくないということでしょう。

 私は、情報については、ないよりもあった方がよいと考えています。それをどう使うのかは、無視する、捨てるを含めて、その人の自由であるからです。また、情報をうまく使うことこそ学ぶべきことと思います。なぜなら、仕事もアートも声でさえ、情報を発することは緊密に結びついているからです。

 

○レッスンの状況とことば

 

 情報を公開することは、それを信じたり、使ったりすることを強制しているわけではありません。研究所のサイトには、次のような注意を入れています。 

 

 「回答は、トレーナーの見解であり、研究所全体での統一見解ではありません。また、目的やレベル、個人差により、必ずしもあなたに当てはまるとは限りません。参考までにしてください」【rf:他に詳しく答えているのがあるので、それを参考にしてくださいという表記です】

 

 情報については、トレーニングということに関してなら、すべてについて正しいとはいえません。正しいのもある、ではなく、絶対に正しいのは一つもないということです。

 状況にもよりますが、同じ状況というのは、厳密にいうと2つとないのです。本人の今の状況と目的があってこそ、トレーナーは、より明確なアドバイスをできるし、それを聞いてメニュ、方法も活かせます。最初は伝わらなくても、回を重ねるごとに理解できるようになることが多いのです。

 相手が違い、目的が違えば、効果が逆に出ることもあります。ことばでその状況と状況ごとの対応を、すべて表すことは不可能です。

 まして、ときには、本人不在の問いもあります。つまり、「こういうことを聞いたが本当でしょうか」などとなると、状況が二重にベールに包まれていて、もはや、答えられるものではありません。「聞いた人に聞いてください」となります。

 私のところでは、複数のトレーナーについているので、一人のトレーナーのアドバイスや言ったことを、別のトレーナーに聞くときに、同じようなことが生じます。でも、一方のトレーナーのことを他方に聞くとしたら、そこに何か事情があるわけです。私として

は、当のトレーナーに聞くように言っているのですから、その事情をみるのが狙いです。

 

セカンドオピニオンの役割

 

 私は、研究所の内外問わず、他のトレーナーのレッスンのことでよく聞かれます。本を出しているから、国内は遠方からも多く(遠方ゆえに)海外からもいただきます。(訳書もあれば日本の書籍も売られているのです)

 原則として、そのトレーナー本人に聞くように促した上で、それでもアドバイスを必要とするなら、セカンドオピニオンとして、見解を述べます。セカンドオピニオンとは、担当のトレーナーを否定、批判するのではなく、その説明を補足する役割です。担当のトレーナーの話が信用ならないから聞きにいくのではありません。ですから、まったく反対の見解であったとしても、それを担当のトレーナーにも伝えてもらい、担当のトレーナーとよりよい解決を図るために利用するべきなのです。

 担当を変わるのではありません。一見しただけで、長くみているトレーナーとの事情に立ち入るべきではありません。それでは、セカンドオピニオンでなく、次のトレーナーになってしまいます。ですから、他のトレーナーのやり方で相談にいらした人に、そこをやめるようなことは決して勧めません。だから皆、安心していらっしゃいます。

 

セカンドオピニオンの勧め

 

 私の場合は、研究所内のトレーナーでよく知っているケース、外のトレーナーで、ある程度知っているとか面識があるケース、そこから生徒が何名かきていて知っているケース、私のところのトレーナーがよく知っているケース、誰もまったく知らないケースなどがあります。ただ、多くの生徒さんのいるところからは、必ず何名かはいらしているので、だんだん事情もわかってきます。すると、最初は分からないことがあっても、少しずつ、なぜそう教えているのかがみえてくるのです。その方向、可能性や限界も学ばせてもらっているのですからウエルカムです。

 日本で30年近く第一線でやってきたのですから、どこよりもその事情には通じていると思います。是非、セカンドオピニオンとしてご利用ください。

 

○言語化の必要性

 

 ヴォイトレは、声を身につけていくトレーニングですが、ことばや文章化することを頭から否定するのは関心しません。それには、いくつもの理由があります。

 まず、第一は、トレーナー自身の勉強と研究のためです。他のトレーナーの状況や方法、さらに、そこで述べていることを読んだら、もっと学べるからです。すでに同じようなケースを自ら体験したり、人に教えて同じ状況に面したトレーナーたちのことばだからです。

 もし、状況に応じて答えというのがあるというのなら、トレーナーの答えは同じになるはずです。しかし、そこは、千差万別です。違う見解や他の対処方法もあります。記録しないと比較や検討や検証はできません。

 第二に、トレーナーの指導の技術として、声に対する処方とともに、的確なことばを使うことも学ばなくてはいけないということです。レッスン中にも、それ以外でも、ことばでいろいろと伝えることは必要となるでしょう。ことばやその使い方を学ぶことは、トレーナーとして必修です。ことば一つの使い方で、生徒がよく理解したり間違いを回避できるからです。ヴォキャブラリーが豊富で、イメージや例えをわかりやすくできると、生徒はよりよく学べます。これは長くトレーナーを経験したら誰でもわかることです。ここのトレーナーもまた、私や他のトレーナーのことばやことばの使い方を学んでいます。

 実際に教えられた生徒にとっても、トレーナーのことばの記録は、将来に必ず役立ちます。さらに、トレーナーの他人へのアドバイスを見たり読むのも役立ちます。会報やブログはそのために出しています。そのトレーナーの他の生徒へアドバイスしていることばを知り、言動をみると、より早く深く理解することができるようになるからです。

 そういったことには個人差が大きいとはいえ、まずは、そういう状況を明らかにする方が、方法やメニュが合うとか合わないとかを考えるよりも先であるはずです。自分にはうまくいっていないレッスン(方法やメニュ)で大きな効果を上げている人のことを知ることは、いろいろと参考になるものです。そこから、自分に足らないものの存在に気づき、大きく伸びるきっかけとなるものです。

 また、ことばや情報というものの理解のためにも、自分がことばにする、情報を発信することは欠かせないことです。それは、世の中で実践していく力にもなります。

 

○第三者としての言語

 

 問題は、第三者、直接に関わっていない相手が読んだらどうかということです。これを否定してしまえば、スポーツ、武道、芸術、医学なども、伝わらないから、一切、言語化して残すな、伝えるなということになりかねません。どんな書物であっても心身に関しての処方の記述に完全なものはありません。どの人が使っても、安全で必ず一定の効果が、いつ現れるなどというようなものはないはずです。

 一方で、トレーナーが面倒だから、ことばにしたくないという怠惰さは忌むべきことです。ことばに残す努力をして一流になった人が、芸術家やアスリートにも少なくありません。

 私は、誰よりもこの分野の多くの情報に長く接してきて、多くのことを発言、発信し、書き残してきました。そして、誰よりも本やホームページを読んでいらした人のトレーニングをみてきました。それだけに、いかに情報がいい加減、かつ使えないもの、誤解、誤用を防げないものかを知っています。読み手と書き手、両方の立場から知っています。実際に、そういう体験もしてきたからです。それでも、ことばの力を信じるのは、大きな効用があるからです。

 

 まず、ことばはインデックスになるということ。イメージによるものは、なかなか捉えられないし、まして人に伝えられません。私たちは、言葉でも、絵でも、ボディランゲージでもよいのですが、何かに例えて説明せざるをえません。トレーニングの意図や、レッスンのあり方についても伝えます。声だけでみせたところで、すぐにそのままできるような人などはいません。まして、声は、まねができても、よいというものではないから尚更です。

 レッスンは、ことばで伝わるのというのではなく「実習+ことば」ということです。「+ことば」として考えて、ことばがないよりもあった方がよいでしょう。声のイメージを伝え、共有していくためです。

 それらは、私の考えというよりは、むしろ、いらっしゃる人の要望でもあります。私は、しばしば、ことばの使い過ぎや説明を抑えるよう、トレーナーに注意しています。

 

○要は使いよう

 

 一人で、黙々とやっていくときも、人は考え悩みます。いろんなイメージ、ことばが思い浮かびます。ほとんどは雑念です。それを切るには、何も考えないことです。でも、そんなことはできないなら考え尽くす、つまり、ことばから離れるために、ことばをありったけ使い尽くすというのも一手です。公案のようなものです。

 習い事を、真っ白の心で始めて、そのまま無心でうまくいく、身についていくのなら理想です。ですが、本気でやろうとするなら、そういう人はほとんどいません。

 一流になる人は、少なくとも、誰よりも一流の人の演奏を聞き、本などもありったけ読んでいるものです。それは、芸事でも同じでしょう。より新しく、より高く、より深く物事を極めていくのに、どうして過去の偉業や他の分野の一流の人から学ばないことがあるでしょうか。

 理想というよりは、ことばは必要悪なのです。「ことばは、不要」というのは、「歌なら歌っていればよくなる。声は出していればよくなる。レッスンはいらない」と言って少ししか伸びない人の考え方と似ていると思います。もちろん、そこでうまくいくならよい、いかなければレッスンにいけばよいのです。本や会報も同じです。使えると思えば使えばよいし、使えないなら使えないのです。活かせるように使えばよいのです。

 方法やメニュを使うと悪い方にいくと言うのは、「声楽を学べばポップスが個性的でなくなる」と言うくらいに安易な考えです。ポップスを聴かず、自分の表現も追及せず、声楽でも言われるままにしか声を出していなければ、そうなるだけのことでしょう。それしかしていないのですから、自分のしたことしか出ないのはあたりまえです。

 本や会報のQ&Aを、いくら覚えたところで、声も歌も身につくわけがありません。日本人は、検定クイズのようなものが好きなので、こういうものにハマってしまう人もいるのでしょう。それを戒めるなら、「ことばは、不要」といえます。

 

○総括し比較し気づける場に

 

 ここでは、私が一人で答えるのでなく、何人ものトレーナーの答えを一緒に載せています。若干、過保護かもしれませんが、これは、いろんな答え、というよりは、いろんな意見や見解があるということを知って欲しいからです。いろんな状況もあり、いろんな人もいて、それぞれに異なるということです。より客観的にしているのです。

 自分だけが正しいと信じているような人に教えられるものではありません。多くのトレーナーはそれぞれに、それぞれの立場で自分の考えに基づいてレッスンを行っています。ですから、トレーナーもまた、自分が正しいと信じているものなのです。

 昔の私もそうでしたから、よくわかります。しかし、いつも、誰にも、どんなことにも正しいことはありえません。正しいといいうこと自体が絶対的なものでなく、相対的なものなのですから。常に、より正しい自分よりも目的や時期や、その人にとって、より正しいトレーナーは世界のどこかにいると思うべきです。

 今は、トレーナーたちと客観視して使える環境をつくり、それぞれの正しさを信じつつも疑いながら進めています。厳しくなるほどに、絶対的に正しいことなどはないことがわかるのです。

 この分野は、未だに、どの生徒にも自分の知っている一つのやり方を、よしあしはともかく、工夫もせず惰性でずっと行っているケースの方が多いと思うのです。ましてや、レッスンにも通わず一人で練習している人の思い込みやトレーニングの非効率なところは本人にはわかりません。

 

○一般論でなく各論

 

 声楽家は、他の分野よりも、発声を他人に習うことの必要性を知っています。オペラという舞台が日本人の日常とはかけ離れたところにあるからです。その点、クラシックバレエに似ています。(なのに、なぜバレエは、世界レベルに達したのかということです)習ったからといって必ずしも一流になれないのはなぜでしょうか。そのトレーナーやレッスンを受けている人や、一人でトレーニングをしている人を批判しているわけではありません。すべての方法や考え方は、対立したりどちらかに決めるものでなく、欠点を自覚し、相補充して、今よりもうまく活かせたらよいということだからです。

 この分野は、未熟なせいで、正しいか間違いかでしか考えない人が未だに多いのですが(トレーナーや先生方も悲しいことに、そういうレベルに安んじているのですが)一般論でなく各論、自分にとって、今よりよくなるかどうかだけを考えればよいのです。☆

 そのためには、今の自分を絶対視せず、正しいと思っても、常に学ぶことを怠ってはなりません。仮に天才であって、すべてが正しかったとしても、教えることまで正しいということにはなりません。言動の記録はその一助になります。もちろん、記録をみて、すべての内容を捉えられるのではありませんが。

 

○動画とことば

 

 動画も多くなりました。ことばで伝える何百倍の情報が、動画では一瞬で、声や歌でも数秒で伝えられます。ことばよりも動画はわかりやすいため、よく伝わるように思える反面、間違いやすいことにもなります。

 これだけでヴォイトレがうまくなるなら、現実のステージを見て、まねていると、皆、うまくなるはずです。それは理想です。仮にそれでうまくなっても、足らないからヴォイトレがあるのです。さらに必要に応じて、ことばというものがあるのです。

 こういう分野なので、文字でなく音声や動画をもっと使うべきだと思うことは多々、あります。音声検索ができるようになれば、もう少し、動画を使うと思います。今しばらくは、使いたいところだけ選んで学ぶには、文字の方が100年の長があります。それをきちんと踏まえて動画版をつくるのなら、たぶん、より効果的になるでしょう。ということは、メリットもデメリットもより大きくなるということです。あまりに具体化するために、イメージ、想像力の働く余地がなくなりかねないのです。また、音声より画像に気が取られるでしょう。音声ならTVよりラジオで学ぶ方がよいと思いませんか。

 

○伸びない理由

 

 一流のアーティストは、作家でなくとも、皆、すぐれたことばや文章を残しています。それは、まさに、世界観、思想というものです。ことばには価値判断を迫る力があって、それによって、本人がよしあしの吟味を厳しくし続けてきたのだと思います。まして、アーティストよりも、厳しい判断をして、修正を促すトレーナーが、使うことばに説得力をもたずによいはずがありません。ことばを使うというのは、おのずと己を考えることになります。考えずに指導していては、同じことのくり返しで行き詰まります。

 それゆえ、アーティストタイプのトレーナーは、特定の人だけを特定の方向にしか伸ばせないし、あまり変わることもないのだと思います。自分の見本を見せてイメージを説明する、それは、アーティストタイプのトレーナーのもっとも有利なところでしょう。それと異なることができる人は限られています。学校でも似たことがそこそこにできる器用な人はたくさんいますが、それゆえそこで終わります。そういう伸び悩みの例は巷にあふれています。目的がそうなっているのですから、当然なのです。(アーティストタイプのトレーナーもまた、器用な例の代表ともいえます)

 

○変わり続けること

 

 ヴォイトレについて、日本には、世界に冠たる重鎮はまだいないということです。トレーナーゆえ、トレーナーが優秀というのは、世界に冠たるアーティストが出たことで裏付けられるのです。むしろ、声の力もトレーナーも歌い手も役者も、発展途上国レベルから後進国レベルへ後退していると私は思っています。

 体力や気力が衰え、頭だけ理屈っぽくなっている人が増え続けているのが今の日本です。それゆえ、頭でっかちにするなと言うのは、私も同じ考えです。

 私は、レッスンで、肝心なときだけに、それも最小限のことばしか使いたくない。ことばに気をとられると感じなくなるからです。それゆえ、私のレッスンは静かです。そこで言いたいことは本で述べ、本に述べられないことは、会報やブログに載せているからです。

 時代も生き方も異なっていきます。トレーナーも多くのことを常に学び、人を育てるなら発信しなくてはなりません。自分の考え、やり方、メニュの改良、自らの変わったことも伝えていかなくてはなりません。もし、若い頃に習ったままでずっと通じると思っているのなら若い人は育ちません。私も研究所もここのトレーナーも、変わり続けることをよしとしています。よいにしろ悪いにしろ、常に学び、考え、情報を発信する姿を見せていくべきだと思っています。ステージでも歌唱でも演技でも、そういうことでは情報の一形態です。

 

○掲載の仕方について

 

 私は、会報に、生徒や皆さんの質問や投稿を、できるだけ載せています。省略という形(最小限の編集の形)で個人の事情や不必要なことばを抜いています。それは、一般化して、他の人が読んだときに、自分の問題として捉えやすくするためです。皆さんも答えるトレーナーも記名していないのは、いつの時代も、どこの人も、使えるようにです。具体的な一事例を取り上げ、その人にでなく、そういう人たちに普遍化して述べているのです。(本人には、本人宛てに応じることもあります)

 

Q.情報や知識が多すぎて、調べるほどに混乱します。どれも疑うとキリがなく、不信に陥ってしまいます。

 

A.情報や知識は、いつでも誰でも手に入るのですから、そんなものを調べるのに時間を使うのはムダです。ネットや本で調べて覚えることも不用です、ここでも、Wikipediaをみれば詳しくわかることなどに関わるようなムダはしません。現場と先生たちと、昔からのオーソドックスな考え方を元に対応しています。

 

○アーティストに向けて

 

 日本人というのは、まじめで受容能力が高く、いろんな情報から選ぶ能力は長けています。それゆえ、海外に追い付け追い越せの時代には有利でした。ネットの時代、料理をつくるのにレシピを利用するというなら、それでよいでしょう。どれが今日の自分に一番よいかを選べばよいのです。

 しかし、私の接しているアーティストたちには、そんな正解は不要、まったく役立たないからです。これからの世界をつくっていくのですから、Wikipediaの情報や知識などは使えません。彼らは、主体的に創っていくのに必要なものを、私やここから取り出しているのです。それは直感的な力です。私もそれに対応できる回答、いやヒントを出すようにしています。その一部をここに公開しているわけです。

 

○創造すること

 

 たくさんある情報を、どのように整理し、組み合わせて使うのかを学ぶことです。選ぶとか正誤を判断するというスタンスではなく、自ら創ること、それに役立つものを引き出すという考えをとることです。選ぶのでなく、少しでもヒントになるなら、そこからつくりあげるということです。その努力を惜しんでは創造できません。まさに私がこの回答をしているのと同じです。

 「合わない」「間違った」とネガティブに捉えてフィードバックするのでなく、行動していくのにポジティブにフォワードへ情報を使っていくのです。そうでなくては、現実の世の中を切り拓いていけないでしょう。

 しかし、日本人には、そういう、ポジティブに世界へ売って出ようというエネルギーはなくなりつつあるのではないでしょうか。出れば打たれるのはあたりまえ、無理するから失敗もするし、間違いも起こします。でも無理しなければ、そこから一段高いところにある本当のことを学ぶこともできないのです。

 まして、これを読む人が、これを活かすのでなく、自分の頭で白黒つけようとしてどうなるのでしょう。そんなに私のファン(アンチも含めて)でいたいのでしょうか。

 私がいつも述べているように、物事はスタンスによってよい方にも悪い方にもみえます。生涯かけてやっていくことに、あるいは、そこまでかけなくても、ネガティブにみることに何の意味があるのでしょう。まず、自分自身が、否定でなく肯定されるべく行動することです。

 

○感謝と願い

 

 先を読みたい人、深く本質を読みたい人が、多少でもいてくださるのは、私もありがたく存じます。その人たちに恥じないように書いているつもりです。そうでない人が、ポジティブな考えになれるのなら、それはとても嬉しく存じます。

 情報も知識も方法、ノウハウもメニュも、断片にすぎません。ですから、私はものの考え方、捉え方を述べています。材料でケーススタディして、その判断基準を誰かに教えられるのでなく、自分でわかるようになるように、あなたの勘が磨かれるように述べているつもりです。

 

Q.どんな質問でもいいのですか。

 

A.この質問でもいいのですから、質問する人に遠慮はいりません。スルーさせていただくこともよくありますが、それも一つの答えです。私は、当人が質問という形でよこしたところに、何らかの存在と、その存在の意味を見出したく思っています。

 多くの読者や多くの生徒、多くのトレーナーや多くの先生方がいなければ、私一人ではこんなものは生まれなかったのです。そこから誰よりも学ばせていただき、心より感謝しています。

 存在しているというのは、すでに理があるのです。このように理をつけていくことで、その存在もみえてくると思います。

 

Q.ヴォイトレに、声としての物理や、生体としての生物を学ぶ必要はありますか。

 

A.ヴォイストレーナーにもそこまでは求められていないと思いますが。しかしマクロコスモスとミクロコスモス、物理学を究めると、仏教の世界のように生命に辿り着くし、生物の細胞レベルでは、物質と宇宙に関わらずをえませんから、同じようなことかと思います。