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「科学、科学に関しての論」 No.280

Q.科学的なメソッドに基づくヴォイトレはありますか。

 

A.「科学的」については、「ヴォイストレーナーの選び方」で詳しく述べてきました。結論からいうと、発声の現地について、科学的な論を引用しているようなメソッドは、いくらでもあるのですが、科学的にヴォイトレの効果を証明したものはないということです。

 科学的というのは、客観的な根拠が必要です。そしてそのデータから帰結された結論、主張が、第三者によって実証されているということです。

 ですから、発声や発声法を、物理学や生理学で科学的に実証されたデータ、理論からの説明をしたところで、それはヴォイトレではなく、その分野で実証されたものを引用、付記したのにすぎません。科学的なメソッドというなら、それを使ったときの効果を証明したものです。ヴォイトレの効果の測定での実証というと、とても難しいことになります。(データとしてなら、私どもの研究所が20年以上にわたって研究しています。そもそも何をもって効果とするのかから始めなくてはなりません)その前に、発声の原理の全容の解明が必要となります。その部分がヴォイトレでどうなることで、そう改善されるのかということになります。(ポリープを手術でとると、しゃがれ声でなくなるなどは、わかりやすい例ですが)

 

○科学の限界

 

 もう一つ踏まえておくべきことは、科学的であることは、絶対に正しいということや実践に使えることとは、程遠いこともあるということです。後日、新論で否定されてしまう可能性があるからです。ですから、本当に科学的な態度とは、新たな発見でそれまでと全く異なる論が証明されたら、すぐに、それまで行っていたことと正反対の立場をとることになります。これは、アーティストやトレーナーにとっては、両刃の剣です。

 私自身は、科学の可能性と限界を踏まえ、当初より一貫した主張を続けています。そうした信条、信念を簡単に変えるのは信用にもとるという立場でもあります。その反面、柔軟に、何でも効果があれば取り入れるという姿勢で、いろんな人と行ってきたわけです。誤りがあれば、それを認めることにやぶさかではありません。

 つい20年前、医者であり、声楽の分野でも第一人者の専門家の出した本に「裏声は、仮声帯で出す」とあります。今さら、私はそれを挙げるつもりはありません。その方もすぐ新たな論を述べることになりました。

 そのときにそれを読んで、今も述べているようなトレーナーもいます。トレーナーは、自説の補強として、科学的な根拠をもってきたいので、よく起こす誤りといえます。こういう場合は、科学的な所見、説を取り入れたあと、そのままにしていたための間違いです。科学的というのは、常に最新を追っていかなくては、間違いを流布することになってしまうのです。

 ですから、科学的なことを、過去に出した文献に対して批判しても仕方ないといえます。批判は、少なくとも現在のものに対して行うべきです。私の20年前の本や、10年前の研究所を、今の見地から論評するとしたら、それは科学的な態度ではありません。科学も変わるし、人も学んでいくのです。

 つまり、人が学んで変わっていくことを学んでいない人には、わからないことなのです。私も、何かを言われて、「まだその時点にいらしたのか」と驚くこともあります。

 何よりも言いたいことは、私はその先生の本を読んで、自分の仮声帯で裏声を出そうとも思わなかったし、裏声は出しましたが、そこで仮声帯が働いていようがいまいが、うまく出ていたらよかったからです。私の周りでも同じです。

 それを読んで仮声帯で裏声を出そうとした人がいたら、困ったでしょうか。私も引用して自著に入れなくて幸いでした。でも、その説を入れていても、ヴォイトレをしている人には、ほとんど影響はなかったでしょう。仮声帯だけを動かして発声するようなことができたはずはないからです。そんなものです。

 

○本質を観る

 

 私のところは研究所ですから、科学的な態度は尊重しつつ、現実の場で起きることをしっかりとみて、自分や他のトレーナーの身をもって、実際に試しながら伝えています。(最初に研究所をつくったときに、グループとして始めたのもそのためです。そこで研鑽したこと、個々の可能性と限度を踏まえて、全てを個人レッスンにしました。大人数を相互に比較することで個人レッスンではわからないことがたくさん得られたのです)

 科学的ということによって、害をなすことの方に気をつけるべきだと思っています。よくあるのは、新しい科学的なデータをいくつか示して、自分の他のすべての方法を肯定させるように使うことです。

 それにしても、21世紀にもなって、「科学的」ということばに、あまりにも弱い人が多すぎると思います。トレーナーも医者も学者も、「科学的」の前に、常識的に間違ったもの、おかしなものまで、そのまま信じてしまう人があまりに多すぎるのです。

 その一つの原因は、ことばを使うことを学んでいないからだと思います。知識、理論は、次のがきたら変わるのです。だからこそ、自分の頭も変わるのです。考えも話も変わっていきます。それゆえ、声といった身についたもので信用するということの価値があるのです。私たちが翻弄されないためにも、もっと深く人間の芸、芸術、宗教、哲学などを学ばなくてはいけないと思います。

 

Q.いろいろとたくさん読んでいるうちに、何が正しいのか混乱してきました。どう考えればよいのでしょうか。☆☆

 

A.まず、このような説明と現場のトレーニングの場とは、分けて考えた方がよいと思います。私のに関しては、現場のフォローとして述べているので、シンプルに言っていることも多く、そこだけで正誤や論議の対象にできるほどのものでないことは何回も述べてきました。

 内容に関しても、答えではなく表現の一つであり、問いの立て方のヒントといったもので公開しているのです。なかには、異論、反論、及び、不快に思われルもの、極端なケースでは、そのまま誤用して実害を被るケースさえあるかもしれません。

 質問という形で受け付けたものは、その回答の限界も示しています。回答のなかには少数意見も、大多数の人がそう答えるであろう意見もあります。因果関係や科学的、実証的見地からは、疑わしいものあります。それらの是非について正しく判断できる人は、この分野にはいないと思います。むしろ全体を通して「正しく」とか「判断」についての考え方を伝える方が主になっているとさえ思います。

 これだけの情報量になると、却って混乱し、あるいは正論の不在、対立、矛盾が明らかになることもあります。研究所として、そのときどきに、それらの問題を抱えることを公開しています。まずは、自分だけが正しいと言う前に、現状を明らかにするところからスタートするべきだというのが、この分野の今の段階なのです。

 とはいえ、これらも皆さんへの支援であることを理解くださる人がいることです。それに支えられて続けていること、問題の提起であり、トレーニング現場の否定でなく、その改善のための一石となることを願っています。表現の前にある現場、現実をみて考えて欲しいと思っています。

 

○絶対に正しくなりうるもの

 

 正しいのか間違っているのかという、二択の対立構図でないことは「トレ選」で再三述べています。それでも正誤にこだわりたいという人はとて多いので、次のように考えてみてください。これは、自ら歩んでいく人のためのアドバイスであり、トレーナーや学者や批評家、専門家に言うのではありません。

 まず、前提として「あなたは絶対に正しく、あなたのすべては正解になりうる」ということです。だから迷おうと迷わまいと「自分の思うように続けていけばよい」のです。あなたの存在もあなたの表現も、顔も声も、そこに間違いなど最初から最後まであり得ないのです。ですから、あれこれ周りを気にする必要はありません。「あなたがあなたを認めればよい」のです。

 そこの上で、仕事や生活となると、という話です。そこでは、「他の人に認められること」が必要になってきます。

 私も研究所でのレッスンで、その人の目標に応じてスタンスを分けています。

 オーディションやレコーディングやライブに近いときは、第一には、ワンポイントアドバイスと応用のトレーニングをさせる。第二には、基礎のトレーニングを入れつつ、近い目標に全力であたる。その比率を相談から決めます。本当の基礎のトレーニングは、必ずしも急ぎません。

 仕事は、まずは、他人に求められている表現ですが、そこに占める声の割合が下がっているので悩むことが大半なのです。そのため、求められる表現が、あなたの声の状態とずれていることが少なくないからです。これも一方が正しく、一方が間違いではないのです。

 トレーナーにすれば、後々のことはヴォイトレで、目先のことは、付け焼刃の技術でカバーしたいと思うかもしれません。しかし、そのスタンスもまた、本人が決めたら本人には正しいのです。

 

○人に学ぶ意味

 

 ならば、独りよがりでやっていけばよくて、人や他人に学ぶ意味はあるのか、ということでしょう。そこをいうなら、まさに、「すべてが正しくなりうる」というのであって、まだ決して、「すでに正しい」わけではないのです。「あなたが絶対に正しく、あなたの全てが正解になる」ため「あなたがあなたを認められる」ために、あなたは、いつか他の人の力が本当に必要になると思うでしょう。そこで、必要となる人と出会っていくのです。そこまでにもいろんな人に学んでもかまいません。どんなトレーナーでも、あなたがしっかりと学べば次がみえてくるし、次にまたどう出会うのかもみえてきます。すると、あなたに必要な人に出会っていくのです。うまく出会えないとしたら、あなたがまだあなたをきちんと学べていないからです。

 どこで何をやろうと、どのトレーナーでどんなやり方でやろうと、あなたの力があれば、あなたの力がついていけば、「あなたの正解」に至るのです。

 これは、「発声やヴォイトレとは、目的地が同じでプロセスが違うだけという山の頂上への登り方のようなものだ」とよく例えられています。声楽や合唱で皆と声を合わせるのなら、その通りでよいのかもしれません。私はそうは思いませんが、その人の山の頂上なのですから、それらは表現、歌、演技で表現されたところに伴う声なのです。

 

○単純の声の絶対化

 

 研究所では、特に私は単独に声としてみています。その人が自らを導びき、その人の正解にしていくのです。というのは、その人の好みでなく、その人のもって生まれたものが最大限に出るところにしようということです。

 歌も演技も声の力に頼れなくなったのに、そこでヴォイトレとしてこだわるのなら、声そのものの絶対化をするしかないとなります。差別化や個性化よりも、さらに強い存在としての絶対的な声を目指すしかありません。ここで「他人に認められる」のでなく、それを超えて、他人などがどう思おうと「あなたの声」にこだわることになります。ただし、ここで間違って欲しくないのは、他人の判断を超えるのは、他人に判断できないレベルを超えてなされていることであって、他人に認められない、期待に応えられない声ではないということです。

 一方で、単に高いだけ、音程、リズムが正しいだけ、カラオケの高得点が出るだけなどという発声のための、切り売りや継続したレッスンがあるのは、こういった歩みとまったく別のことです。

 私なりの正解についての考え方は、何回か述べました。他人がそうすると間違いになるような表現もどき、くせ、まねなどを、自分がやると「ど真ん中の正解」となる、そのような声と表現を求めるということです。ですから、あなたがやれば、すべてあなたの正解ということを目指すということなのです。

 

3つの目的

 

 私は、当初、ヴォイトレを行う自分に対し、3つのことを声に求めました。

1、 外国人が聞いても、専門家や一般の人が聞いても、その道のプロとすぐにわかる声

2、 何時間も耐えられる声、心身の不調にまったく影響されない声

3、 話すように歌になる声。

 そして、それが私にとっては求める目標であり、正解であったのです。やってきたことすべてが正しかったとは思いませんが、結果として、出てくる声は、一つです。そのプロセスも半生という大きな時間でみると、一つです。その一つが正しかったとするとすべてが正しくなるのです。

 発明家が5000失敗して、その次に発見したら5000の失敗は、もう失敗でなく成功へのプロセスになる、つまり、実験1から実験5000になるのです。

 ですから、私は、声に関しては、内容や方法で論じるような愚かなことを行わず、プロセスに役立つと思われることを出すようにしているのです。

 ですから、私やここのトレーナーが否定している方法やメニュがあったとしても、それは間違いでないし、それで教えているトレーナーがいても間違ってはいないのです。そのままで正しいのかというと、どういう人にどう使っているのかによりますが、他の私の方法やメニュと同じく、すべては正しくなりうるということなのです。

 残念ながら、この分野に限らず、日本人は皆、学び始めると、学ぶにつれ、目が曇り、間違いや否定的態度で悩みだします。上達したら、その都度行き詰まるのは当然なのに、これまで超えてきた、その壁を越えようとせず、手を抜いて頭で解決しようとしてしまうのです。「この方法は正しいですか」「このメニュが役立ちますか」

 そうなると、まったく喉に素人でありながら、感性の鋭い一部の人の方が開かれた眼をもっているのです。そういう人に聞く方が、次に進めることが多いとさえいえます。

 

○段階として考える

 

 正しくなりうる人が使っているうちは、どの方法もどのメニュも、まだ正しくなっていないのです。ただ、トレーナーは、段階に応じて、それなりのOKだしをしているだけです。本人の中でOKでも、他人への働きかけではNOとなります。だからレッスン、トレーニングなのです。

 習っていくと、上達につれ自信をもち、充実もするので、本質が見えなくなっていくケースが一般的です。

 また、トレーニングを知識、理論中心に考えていると頭ばかりが進んでいくのです。トレーナーなども大半は、少し長く習ったくらいで教え始めた人なので、まったくの初心者に教えているうちに、教え方にくせがついて正しくなくなっていくといえます。しかし、そういったのも、すべては正解になりうるのです。すべては、そこからのあなたしだいなのです。

 

 ですから、体制(トレーナーもその一つの形です)に合わせるのでなく、自分のやりたいものを見つける。見つけられるかどうか、そして、それができるのかどうかです。できないなら、周りを変えられるのか、つまりは現場での、表現での価値からみるということです。

 ヴォイストレーナーよりも舞台監督や演出家、ディレクター、プロデューサーなどが、多くの歌手、役者を選び出し、現場で育ててきました。ただ、選べるだけの人があまりにいない現在、それぞれの業界においても、求められるようになった声もまた、複雑になってしまったので、大変わかりにくくなっています。ここでシンプルにしておいてください。

 

 私について補うと、3の「しゃべるように歌う」のはまだまだできません。1のところで、まともに歌えたのは、この半生で2回です。ですから、歌手ではありません。その至高の体験が、絶対的正解として私自身をここまで支え、また、何人かの方に伝わったであろうことは確かです。

 誰でもできるものでもないし、誰にも伝わるものでもなさそうではありますが、もっとよいものもたくさんあり、+αが天から降臨しやすくなるために、基本トレーニングとしてレッスンがあるというふうに考えています。

 

 ピアニストならピアノと一体化し、無意識に音が動くレベルにまで準備しておく、そこでどのくらい+αが降りてくるのかは、そこまで到らないとわかりようもないことなのです。

 声ですから、ジャンルなどは関係ありません。それを介して相手に働きかけていたらヴォイストレーニングとしてはよしとします。もしジャンルのなかに認められるというくらいなら先人のまねのレベルを出ていないゆえに、プロとしてもアーティストとしても、一流ではありません。一方、この時代、一流とかいうよりも先がありません。アマチュアで売れていなくても、本人のベースの声の上で、何かを表現している人がいるのも事実です。でもまだそこには、大きな可能性があります。

 

Q.ヴォイトレは脳トレになりますか。

 

A.「脳トレ」は、音読などとも関わっていたので、大きな関心をもってみていました。しかし、多くは、「○○という脳トレをすると脳が活性化する。だから○○すれば脳がよくなる」というものでした。脳の活性された状態が、簡単にセンサーできるようになったため、データがたくさん出たのです。しかし、この活性化と変化、成長のもたらす効果との結びつきの証明がないのです。「○○すればα波が出やすくなる。悟りをひらいた高僧はα波が出ている」からといって、「○○すれば仕事ができるようになったり、成績が上がる」とは何ら証明されていないのと同じことです。

 脳が活性化していようがいまいが、表に効果が出ていることにしか意味はないのです。

 ヴォイトレも同じ勘違いをよく起こしています。歌手のα波を測るくらいなら、客のα波動を測るべきでしょう。脳トレの限界は何回か述べてきました。MRI(磁気共鳴画像法)についても同じ見解です。