Q.日本人が英語を話せない理由について。 No.281

Q.日本人が英語を話せない理由について。

 

A.1、英語の必要性のなさ

 私たちの日常生活において、日本語以外は、ほぼ使う必要がありません。また、学問などの専門知識の分野でさえ、翻訳などが高度に発達しており、日本語でほぼ理解できることも大きいでしょう。

 これは、英語など外国語を使ってしか学問知識を取り入れたり、最新の問題を論議できない国では考えられないことです。日本の翻訳技術、書物などの発行、映画などの字幕、吹き替えなどの多さ、早さと取り入れの体制のよさは豊かさの恩恵ですが、日本語の柔軟性も、その一端を担っています。

 

2、日本語の文字としての機能の高さ

 日本語は、文字として、表意文字の漢字(音読み、訓読みをもつ)表音文字のカタカナとひらがながあり、さらにラテン文字(ローマ字)ギリシャ文字なども用います。また、縦書き、横書きがあります。擬態語、擬声語、オノマペトなど、多様に言語や音や感情の表記機能をもちます。(ex.静かさ、閑さ)

 

3、日本語の音声としての機能の弱さ

 日本語には母音5つ、子音13くらい、その組み合わせを中心とした音数はわずか108200くらいです。そのなかで、認識するので、同音異義語が多く、誤解も生じやすいのです。反面、ほぼ似た音で即時、認識してカナで書きとれます。音声ではシンプル、音数も少ないことが、他の人とも似たように聞こえ、同じようなカナ文字にして共通に認識できるわけです。音数の少なさが、他の言語や音の取り込みを曖昧ながら容易にしているのです。

 それは同時に、言語以外の音も表記しやすく、オノマペトも多いことになり、さらにそれを補うために絵文字なども発達しています。(この点で、デジタル記号というよりもアナログ絵(GUI:グラフィカルユーザーインターフェイス)のような性格のものでしょう)

 どの外国語も、外来語としてカタカナで、多くを似て異なる発音で取り入れ、すぐに日本語に編入してきました。それが、反面で発音矯正の障害の一因にもなっています。(ex. va→バ)

 当然のことながら、母語で音の種類が多い言語を使っている人が少ない音数の言語を学ぶのは簡単であり、逆は新たに学ぶべき発音が多い分、難しいのです。

 

4、日本の歴史、風土、生活、性格

 日本は、かつては、あらゆるものを大陸から漢字(漢語)で、明治維新以降は、欧米から西欧の言語(外来語)で精力的に取り入れてきました。世界の情勢のままに、ポルトガル、スペイン、その後は、蘭語、そして仏語、独語、英語と、見境なく吸収してきたのです。(そのため、向こうに行ってきた人や、翻訳家、プロデューサーのような立場の人が偉く扱われることになりました)

 元より、日本人は、話す聞くよりも読み書き中心で生活し、その上に、学問、生活、芸能文化なども発達してきました。農業中心の島国であり、長老制、一子相続で家や村中心、以心伝心で察する文化の国です。人見知りをし、シャイで、見知らぬ人との音声でのコミュニケーションや自己表現を苦手とし、説得や交渉、自己主張をよしとしない文化風土だったのです。

 日本語もその性格を帯びています。息を強く吐かず、表情筋も、口、顎などをあまり動かさないで発することができます。体から大きく響かせない、明確に発音したり、語尾まで強く言い切ったりしない。

 教育においても家庭や学校でスピーチや討論も大して学ばない。敬語などの複雑なマナーなど、立場や使い方が優先され、音声表現のことまで気にかけられません。公の場での対話経験は少ないし、話し方や朗読の練習も大してしない。自分の意見を主張しない、ぺちゃくちゃしゃべらない、歯を見せたり声を出したりして笑わないなど、口に出さないことをよしとする精神文化がありました。

 現在でも、どちらかというと、会話は1,2分以上も続けて話すことはなく、相槌のなかで曖昧に進めます。そして、以前ほどに論争や口喧嘩もなくなったこと、メールなどの発達が、さらに日本人の音声言語力の劣化を進めることになっています。日本において、このような音声には、文字や書面ほどに信用がなかったということもあります。

 付け加えると、日本人でも、日本語より他の言語の方が、明確に意見を伝えやすい、他の言語の方が話しやすいとか歌いやすいと言う人も少なくないほどなのです。

 

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〇鍛えるということ

 

Q.喉を鍛えるのはよくないと言われました。

 

A.私は、トレーニングとは鍛えることだと思っています。ヴォイトレは、ヴォイストレーニング=声トレーニング=声を鍛えるです。筋トレ=筋肉を鍛える、ですが、これと異なり、声を鍛えることは、よくわからないことがたくさんあります。喉の筋肉を直接鍛えることも難しいです。

 鍛えられるということは、そこが弱っている人がいることからも確かですが、鍛えた筋力で声を押し出すわけではないからです。また、他の筋肉や骨のように壊して再生、強化するのでもないでしょう。

 声のトレーニングとなると声に関して行うトレーニングとなって、もっとぼやけます。でも「鍛えられた筋肉」というのに「鍛えられた声」というのを対置するのはおかしくないでしょう。それは確かに存在すると、多くの人が感じているからです。現実に、言語機能回復のリハビリでは「鍛える」ようにしているわけです。

 今のヴォイトレというのが、鍛えられた声を目指すとは限らない、むしろ、目指していないから、わかりにくくなっているともいえるのです。

 

○鍛える=柔軟に働く

 

 私は、自分のブレスヴォイストレーニングを、声を鍛えるトレーニングと位置付けています。筋トレも筋肉を鍛えたらよいというのでなく、目的(競技)に合わせて、より応用度が高く柔軟に働くように筋肉をしていくのですから、声も同じです。ボディビルダーのように、外側だけ美しくみえるようにだけ鍛えても何ともならないのは、アスリートも歌手も同じです。となると、歌手のため、役者のため、一般の人のための筋トレというのもあってもよいと思います。

 英語には、発音のための表情筋や他の筋トレなどあるようです。呼吸筋も大いに関係するでしょう。発声についても同じことが言えます。

 

○負荷=器づくり

 

 さて、ヴォイトレを特別なものと思うがあまり、あたりまえのことがわからなくなっている人が少なくありません。毎日、正味30分話している人が、ヴォイトレで15分声を出しても声は鍛えられません。発声法をよくするからといっても、30分間、声を出せない人ならわかりやすいのですが、30分間出せる人が30分間のレッスンをしているだけでは、2時間、目一杯に使えるところに至るのは難しいのは言うまでもありません。

 そのギャップを埋める。それには、出し方、やり方(口内を広げる、共鳴を集めるなどの方法)だけでは限度があります。下半身が安定していないから、投げられない、打てない野球選手は、走り込むことで体を変える=鍛えるしかないのです。そのギャップを埋めるのは、負荷をかけることになり、結果、器が大きくなってレベルアップするのです。

 

〇絶対量の必要性

 

 何事であれ、初期のレベルでは絶対量に時間をかける方が効果的なことが多いものです。

 筋力のない女性にプロのピッチャーコーチが投球フォームとコントロールを教えても、キャッチャーミートに届かない、あるいは10球で力尽きてしまう。それ以上、球種や投げ方を教えても、生涯、試合に出ることはできないでしょう。そこには、体=筋力のなさという、絶対的に使って鍛えてきた量(=時間)が不足しているという問題があるのです。

 2時間、目一杯声を使いたいなら、2時間以上、声を使う経験が、普通は必要と考えるのはあたりまえです。毎日、5~6時間、あまりよくない方法でやっていても…。楽なレッスンだけしかしていないことで、キャリアを積んできた他人に勝ることは稀でしょう。

 

〇刺激する

 

 声は声帯で息を音に変換するのだから、体の大きな筋肉の増強のプロセスとは、多分、異なるものです。といっても、舞台での肉体芸術ということでは、そこを支える心身に求められる条件は、かなりアスリートたちに近いのです。ですからトレーニングにおいて、いつも与えられている刺激量よりも小さいというのでは、はなっから変化は期待できないはずです。

 「軽く弱く出す」ような発声のレッスンを否定しているわけではありません。しかしそれは、「重く強く出す」のよりも本当にずっと難しいのです。誰でも軽く弱くは出せます。誰でもピッチャーとして投げられます。しかし、軽く弱く、絶妙のコントロールなどというのは、重く強くを支える体からの感覚を丁寧にしていかなくては、身につきません。通じるものにはならないのです。通じるものにするには、器を大きくする、つまり、支えをもっと大きくしなくてはいけないのです。

 

○トレーナーの死角

 

 しばしばトレーナーは、テクニックとして、自身が軽く弱く声をコントロールしてきたことの方向から人に教えます。しかし、自分がそこまでに身につけていた基礎力を忘れている、気づいていない、無視している、もしくは、無駄だったと思って捨ててしまっていることが多々あります。大体は、無駄と思ってしまった方法や長い時間のもつ効用を把握できていないのです。

 器を大きくせず、根っこを深くはらずに、表向きを調整して、出しやすくすると、発声は早く直ります。しかし、それでは、12割よくなって、そのままです。短期にみるとよいことでしょう。初心者は、そこでうまくいった、できた、身についたと思ってしまいがちなのです。しかし、それではその先にはいけません。そこから先は伸びません。

 まして、重く深くすることで、鈍く固めてきたような人は、トレーナーにつくとマジックのように声が変わるものです。苦節何年と苦労した人ほど、「新しく画期的な正しいやり方を教えてもらった」とか、「苦労の末、ようやく自ら気づいた」「発見した」「マスターした」と、得心してしまうのです。そして、自分の過去を全面否定してしまう、これは困ったことです。

 

〇マスケラ、ベルカントのマスター

 

 マスケラ、ベルカントをマスターしたという人の中でも、案外と合っているような人ほど大した声にもなっていないように思います。技術としてマスターした声が、それ以前より表現力に乏しくなっている人もいます。単に「楽に高い声を出せた」だけで判断すると、そういうことになるのです。そこが、ヴォイトレ、発声法、共鳴、マスケラ、ベルカントなど技術の習得を根ざす人が、マニアックに陥る罠です。ここは、本当は判断力での問題ということです。

 

〇充実感

 

 トレーニングで、もし自分を根底から変えるようなものがあるなら、それは、軽、弱、楽でなく、重、強、苦です。そこで練り込んだことを忘れた頃にできているものへアプローチは、それだけ厳しく辛いものなのです。

 とはいえ、辛いからといって、そのことがトレーニングと思うような人をみると、そうではないとも言いたくなります。辛いための辛いは、楽なための楽よりもよくないとも思います。長くなればなおさらです。自分を高める、向上していくための苦しさ辛さというのは、同時に充実した喜びでもあるはずです。自分を超えることに対しての大きな救い、歓びがあるのです。

 

○絶対量としてのトレーニング

 

 私がマシントレーニングを好きでないのは、スクワットを100回行うくらいは、階段で100段以上登っていることで行っているからです。それ以上、時間があるなら、山にでもいけばよいですし…。時間や場がないから効率的に行うのが、マシントレーニング、ジムなのです。

 若さゆえに私が間違っていたのは、急にたくさんのことを行いすぎたことです。少しずつ、ハードにしていくべきでした。どこかに述べましたが、人の10倍やって、12倍くらいの効果だったのかもしれません。しかし、それは若いために可能だった時間やエネルギーの使い方でした。絶対量としての、まさに量、そして、かけた時間でした。

 トレーニングというのですから、少ない時間で、より大きな効果を求めて、メニュや方法をつくっていくのですが、私は、声に関しても、基礎か表現か問わず、最低限の絶対量なくしては通じないと思います。芸事は声がすべてではないので、ややこしくなっているだけです。こんなことを論じることになるとは、という思いですが…。

 

〇マッスルメモリー

 

 長期の絶対量からは、効率的ではなくても、フィジカルやメンタル面で、得たものが多々あったと思っています。自信というのも、そこにしか根拠はおけません。それに加えて、継続していくことの大切さを身に入れました。その上でようやく、今の自分を把握して、うまくバランスをとれるようになります。

 そうこうしているうちに、体調が悪いときにハードな練習を行って、さらに悪化させるようなこともなくなりました。無理ができなくなったともいえますが、年を経ると知恵と技術がつくものです。

 若いときのトレーニングは、昔とった杵柄で、体に記憶されているものです。声を扱う喉のマッスルメモリーは確かにあります。ただし、他の筋肉よりも本当に微妙にコントロールしなくてはなりません。

 この辺りが、「声が太く鍛えられている人は、どちらかというと音楽的に鈍く、器用で音楽的な才能に恵まれている人ほど、声は鍛えられていない」という、日本人の独自の問題があるように思います。私は、そこをずっと追及してきたのです。

 なぜ、日本人は(特に歌手)、デビュー時でマックス、その後、34年で歌唱力が落ち、平凡で器用なだけになるのか、向うの人のようにしぜんに声を扱えないのか。それを取り巻く環境と共に研究し続け、ヴォイトレに結び付けてきたのです。

 

〇判断の違い

 

 喉の筋肉における運動強度の判断を、私は30年前から行ってきました。そこでも、きついくらいがよいトレーニングになるのは確かです。今の状態よりは将来に向けてということです。

 表現力が豊かなときの喉の状態は、ベストよりはやや悪いことが多いのです。つまり、すでに疲れてきているのです。これを歌手や役者は、感情や声の表情が出やすく客に伝わりやすいので、表現力になっていると思い、好んでしまいます。その区別のできていない人が、プロでも大半なのです。

 しかし、それは、あたりまえのことです。彼らはトレーナーではありません。表現を発声より優先するからです。だからこそ、プロデューサー、演出家、アーティスト、そして、本人自身と、トレーナーとは判断を異にしなくてはいけないともいえるのです。そして、その判断こそ、日本という環境で、日本人として歌い続ける歌手に対しては、独特なものとなっています。世界のレベルと異なるものを優先してしまうのです。(欧米では、日本人にとってはこの「疲れてきているくらいの声」は、「全く疲れていない声」として何時間も同じように使えているということです。このあたりは「トレ選」を参考にしてください)