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トレーニングにおける効果について No.283

○トレーニングにおける効果について

 私は、あたりまえに考えるべきあたりまえのことを、なぜ多くの人は自分で考えずに人に聞くのか、人に聞いて、それを鵜呑みにするのを不思議に思うことがよくあります。
 私もいろいろ聞かれる立場なので「私はこう思うよ」と言うこともあるのですが、これは、この研究所でトレーナーも私を習って身につけた美徳でしょう。それは「私にとっては今のところ、こう考えられるよ」ということです。「あなたにとっても」そうであり、しかも「あなたの将来において」そうである保証などはないのです。「今のところ」ですから「明日の私」は別のことを言うかもしれません。
 しかし、トレーナーに関わらず、教える人は「あなたはこうなる」と断定のように話すわけです。もし、それがほぼ、これまで正しかったとしても、あなたがそうなるとは限りません。大体は、それが正しかったと思ってしまう人だけが、トレーナーの周りに残るので、さらにそこに合わせて、トレーナーの考え方や方法も偏っていくものです。そういったものが、これからもあらゆる人に正しい保証はありません。偏っているからこそ、その偏りに合わせたい人だけが来るのでうまくいくとも評価できます。
 私としては、トレーナーの偏りに注意して一般的なところへ戻して(初心にかえらせる)いくのと、さらにその偏りを進めて独自の強い分野を持たせるのを併行しています。
 A.一般的、平均的、普遍的。誰にでも当てはまるレッスン。
 B.特殊、偏向した独自の相手や時期を選ぶレッスン。
 と2つあることで、その間にもさまざまな可能性にあるメニュも生まれやすくなります。しかも2人での組み合わせで4パターン、3人で8パターンとなりますから、複数のトレーナーで併行させてレッスンさせる意味が、まさに相乗効果となるのです。
 そこに 達人の経験とか、研究者の科学とかが入ったところで、その確からしさは、“相対的”に上がるだけです。まして、例外的な一人、それがあなたならあなたにとってはすべてが別です。当てはまらないとしたら100パーセントはずれるわけです。しかし、本当は、その全くの間違いから大変革のチャンスがあるので、人間や人生というのは、すごくておもしろいのですが。
 
○当てはまらない人

 これはこれまで述べたように、天才的、あるいは、オリジナリティあふれる人、これをプラスの極とすると、全く人並みから離れてうまくいかない人、これをマイナスの極として、この両極の人には、ほぼ当てはまらないのです。これを一本の線上に並べてプラスマイナスの極とみるよりは、平均的な人を真ん中に、円の周辺の人になるほど平均的なことは当てはまらないとみるとよいと思うのです。多くの人はどことなく当てはまり、どことなく当てはまらないのですが、それをよしとみるか、違うとみるかだけなのです。
 私のところのトレーナーは、ほぼ皆、声楽専攻で音大にいましたので、そこでの標準化されたやり方やそれによる一般的な習得プロセスは、ほぼ理解しています。十代後半で普通の喉をもつ、優秀なのかどうかはともかく、ひどい損傷のない人への確実な上達方法は知っています。
 しかし、一般社会へ出たら、年齢も育ち方も全く違う人たちがいます。同じ日本人とはいえ、千差万別、「そのなかのルール」に当てはまらない人は、相当数いるのです。少なくとも、音大生はドの音を出してドを出せない人を身近にみてきていないのです。そういうトレーナーにいきなり異分野のプロを任せるのです。するとショックを受けて厳しく育ちます。
 よいトレーナーは、自らが育つトレーナーですから、育つようにします。すると、生徒さんもそうなるからです。
 
○分析の限界

 私は、声のレッスンを科学的にも分析してきました。それは実験科学のようなことです。とはいえ、いくら何をやったから(方法)、こういう効果(結果)が出たといっても、その因果関係は証明できません。
 私はときおり、学会に誘われます。「十数名に実験したところ、この方法を用いると半分以上の人がよくなった」というような発表を聞くことがあります。それは、その方法を用いなかった人と用いた人を比べるだけで、決して全員がよくなったということではないのです。それよりも、サンプルがわずかに十数名で発表できるというのは悲しい。何よりもその母集団がどのくらいに一般化できるのか、(つまり属性、年齢や経歴…)という点だけでも疑問視されることが大半です。これでは、単に「相対関係がありそうだ」「そういう傾向なのだ」ということにすぎません。大半は、データでなくてもわかっていることであり、そんな細かな分析作業よりも、もっと前提とすべき大きな条件を問うべきことが多いものです。
 たとえば、「風邪で薬を飲んだら熱が下がりました」というのは因果関係でなく、相関関係としてのデータが当てはまったとしか言えないのです。薬を飲んでなくても熱はいずれ下がります。そのために治験といって偽薬とその薬とを何人もの人に試しては、効果を調べます。100人のうち、偽薬で30人、本物で60人に効果があったら、この薬は2倍も効くので有効とされるわけです。一人の同じ症状のときに2通りの薬で試すことはできません。ヴォイトレの効果では、もっと複雑な条件下で起こっているのです。それを参考にでなく、そのまま信じてしまう人の方が問題です。でも、結果は自らのその後の歩みで出るからよいでしょう。とはいえ、何もしなくても10歩は歩けたはずなのに、早く3歩歩けたと大喜びする人がとても多いのです。そのため、トレーニングの残りの7歩や97歩などがみえなくなってしまうのです。それをはっきりと示すのが、トレーナーの第一の使命に思うのです。それは、数多くの人を長くみていくことと将来の予測を広くできなくてはいけません。到底ですが、そこへ挑んでさえいないのが問題だと思います。
 ヴォイトレの結果に、「絶対」「100パーセント」「誰でも」は、ハイレベルにおいて、ありえません。
 
○偏りをつくる

 偏りのない人はいません。そういう人が仮にいたとしたら、すべての人に無力なように思うのです。私のところはあらゆるタイプの人、他のスクールやトレーナーでは通じないような人も多く来ます。そこで、トレーナーやレッスンについて偏りをなくすよう努めるのでなく、すべて受け入れられるように、違うタイプ、すべての偏りをセットし用途してきたのです。
 
 私は、薬もヴォイトレもダメと言っているのではないのです。トレーナーもレッスンを受講する人もこのくらいのことは知っておくべきだと思うのです。本来は、レッスンの受講生はこんなことを知らない方が、早くそれなりの効果が出るのです。しかし、今は、情報に振り回されている人が多くなったから、振り切ってあげるために述べています。中途半端な情報で効果を減じている弊害の方が多いのです。それなら本当のところまで深く知った方がよいと思うのです。どのトレーナーがよいとか悪いとかいうなら、好みでなく実力の判断というならば、このくらいは知って、うまく使ってくださいということです。

○思い込み

 話は戻りますが、偽薬が効いた人は、飲まなくてもよかったのでなく、偽薬を薬と思って飲んだから効いたのでしょう。大切なのは、薬の真偽とともに本人の心での真偽、つまり、意志や信心でもあるということです。治そうとする意志や治るという確信が案外と影響するのです。
 となると科学でなく心理学です。ですから、科学的というなら、せいぜい統計として扱うべきことなのです。ヴォイトレも同じです。薬を飲むと、よく効く人も、あまり効かない人もいます。体質も症状の程度もその効果も個々に違うはずです。つまり真実はありません。そこに因果関係があるというのは、私たちの思い込みです。そうであって欲しいという心理の成せる業にすぎないのです。それが高じると信仰になります。
 こういうことは、マジックや錯覚でよく利用されています。自分に外にあるものを、どこまで客観視できるのかの実験です。同じ長さの2本の線なのに長短にみえたり、効いていないのに効いているようにみえたり、ピンクなのに緑にみえたりする。脳にそれに反応するニューロンがあれば、私たちはそういうふうにみるのです。聞くのも嗅ぐのも、すべてそうなのです。
 真実を知りたくても、五感で捉えているのは、事実でなく、感覚の世界、脳の認知する中でのことにすぎません。真の存在というのでなく、存在を感知した脳の回路の活動なわけです。となると、感じる状況によって、かなり大きくぶれるものです。しかし、その心理や信仰を利用しての芸や作品でもあるわけです。
 
○信仰心

 きれいな人がきれいに盛り付けた料理は、そうでないものと同じ味であっても、やはりうまいわけです。私たちの仕事も内容だけでなく、表現や演出を考えていかざるをえません。声自体は、基準が曖昧と思われているのに、舞台で使う声となると二重三重にも基準も揺らぐわけです。その結果、声そのものを重視していないヴォイトレばかりになりつつあると危惧しています。
 例として、
1次元に元の声、
2次元にせりふや歌としての声、
3次元に音響使用の音声表現、
4次元に客に聞こえる音声表現
 と、少なくとも4つの異なる判断の軸が私にはあります。
 ジェットコースター、お化け屋敷でのデートや吊り橋の上でコクると成功するとかいうセオリーのようなものも入ってくるわけですね。「ロミオとジュリエット効果」とかいうのもあります。
 声、ことばでは「ブーバ・キキ実験」、これはヒトデのような形で一方は丸味を帯び、もう一方は尖っていると、名前から丸い方をブーバと考えてしまう人が多いというもの。これは直感というものですが、語感でもありますね。
 思い込みの排除を進めているのではありません。それを超えて信じ切れるところまで踏み込めということです。a.ずっと思い込みだけ b.思い込みから信じ込みへ c.すぐ信じて、その後裏切られたと思う d.すぐに信じて、ずっと信じ込む e.不信から 信心へ このなかで多いのはa、d、勉強するとbかeです。cは最悪の学び方です。

○歌の凋落

 よく「聞ける歌がなくなりました」と言われます。それはどの時代でも年をとるにつれ、若い人の新しい感性についていけなくなるから当然です。確かに、20世紀の歌、その歌手のもつ力に比べたら、今や風前の灯ともいえます。その理由について、私は相手によっていろいろと答えてきました。いくつかあげてみると、
~カラオケが普及し、一般の人が歌う時代ですから
~ラジオやレコードの時代ほど耳が肥えていませんから
~あらゆる曲のパターンが出尽くしてしまいましたから
~小さい頃から歌に親しんでいませんから
~皆で歌える歌がなくなりましたから
~もっとおもしろくて楽しいことがたくさんありますから
~いい曲や歌い手が少なくなりましたから
 それぞれについて、異論もさらなる各論もあることでしょう。残念なことに、日本人の定番だった「蛍の光」「仰げば尊し」「君が代」も外れました。老若男女、すぐに口ずさめる曲は、どのくらいあるのでしょう。相変わらず、「あの素晴らしい愛をもう一度」「翼をください」あたりまで遡ることになるのでしょうか。

 流行するもの廃れるものは、時代、市場の動向によります。とはいえ、よりすぐれたものにすぐれた才能が結集したときに生まれます。そこは時代の産物であっても、市場は新たにつくれるわけです。
 
○アーティストの凋落

 客がどうこうだから廃れたというのは、アーティストや創り手側は口にしてはいけないことです。ただし、アーティストというものを人が欲しなくなったら?そんな日がくるのでしょうか、と言っている人は平和呆けです。スターも、もはや絶滅危険種なのですから。私の関心は、そういう点まで押しつめたところでの関心なのです。
 ステージと客席、創り手と受け手が分離しないのが特徴的になってきつつあります。生産者と消費者のことでいうなら、消費者は、自ら欲するものを自ら作るようになったのです。
 歌については、日本に洋楽は入ってこなくなった、と言う前に、海外でも世界的なヒットを連発するようなものでなくなりました。もはや20世紀の盛り上がりの方が特殊であったということになりそうです。あとは、ポップスも大ヒットした作品のうちのいくつかが、オペラのように継承されていくだけでしょうか。事実、もうすでにカバーブームです。
 ただし、世界中に歌や音楽は、まだまだ生活に根付いているのに、日本では、カラオケを除いては、甚だ心もとない現状です。歌手という職業の存在もまた消えようとしているかのようです。今や市場の半分は団塊の世代のノスタルジーによって支えられているにすぎないのですから。
 欧米の、特にアメリカのポップスの世界戦略にハリウッド映画と同じく巻き込まれてきた日本、あるいは、世界の大半の国と同じで、グローバル化の問題に触れないわけにいきません。民族主義キャピタリズムの行く末は?ということです。
 先に述べたように、政治的、社会的影響としては、マイケル・ジャクソンとマドンナをピークに過ぎました。
 日本では、私は、そのエンディングを紅白歌合戦の前の、レコード大賞がピンクレディ(「UFO」)光Genji(「パラダイス銀河」)だった年でビフォーアフター、1978~1988年あたりにおいています。しかし、本当のピークは世界も日本も1968年くらいだったのではないでしょうか。そのようなことが、ようやく50年経てわかってくるわけです。日本では演歌から歌謡曲、そして欧米ポップスの全盛期ということです。テレビの時代―それも終わろうとしていますが、テレビというメディアのメイン番組でみると、その時代を支配していたものの移り変わりがよくわかります。そこも、スポーツから音楽で述べたことがあるので省きます。

○タレント化と共感

 私たちの時代において、歌い手は、生涯歌い手のはずが、大いに転身しました。プロデューサー、作詞家、作曲家、プレイヤー、DJ、タレントなど、音楽を生業としていくなかで、自らの才能をより活かすために、あるいは食べていくために模索し、転身しました。
 歌手は、歌でしか食べてはいけないわけではありません。比較的、強いパーソナリティが問われるもの、特にポップスでは、役者やタレント業とも重なるところが大きいのですから、異分野との兼任も違和感はありません。日本では、大歌手美空ひばりはじめ、ほとんどの有名な歌手は、同時に映画の大スター、そして、舞台では立ち回りを演じてもいたのです。
 特にシンガーソングライターというのが一般的になってからは、自作自演の能力を、そのまま楽曲提供、プロデュースと振り分けていくのも、しぜんな流れでしょう。表現が演劇、映画へ広がっていくのも延長路線でしょう。今のお笑い芸人と同じ、いや、お笑い芸人がそこに取って代わったと言うべきです。そのあたりのことも述べました。詩人、作家→役者、歌手→お笑い芸人が、日本近代表現者史です。
 その後、単独ステージよりコラボなステージが親しまれるようになりました。スター不在、高いところからすごいことを一方的に与えるのでなく、共感というキーワードで観客席で一体となる、AKB48に象徴される「普通の子」のステージと、ソロのスターを目指すのでなく、振付と観客としてのノリに溶け込み、一体感に満たされる、その形は、ピンクレディ、古くはグループサウンズザ・ピーナッツなどにもみられましたが、今や、観客はオーディエンスでなく主役なのです。(「表現から共感へ」という日本らしい変化についても述べましたね)
 
○トレーナーという職

 今、日本では、フィジカルのトレーナーがよく取り上げられます。高齢化社会、老化に対して健康に関心が高くなったことも、若い人にも心身の問題が大きくなったこともあります。
 私は、トレーナーとしての先も予期せぬまま踏み出したものですから、信じられませんが、最初からトレーナーになりたいという人が出てきたのが2000年くらいからでしょうか。研究所にくると、活動をしていない私をみて、その方向にひきずられるという、それと現実、歌手としては食べられなくても、トレーナーとしてなら食べられるという発想になったのでしょうか。(ゴルフ界でのプロゴルファーとレッスンプロで述べたことがあります)

○中心としての声

 ポップスを私の立場から捉えますと、感情を表していた声が、構音変化による加工での、発音を経て、ことばとして意味をもち、共鳴の利用によって歌になった、その延長上でマイク、音響という拡大、加工装置の発達と使用があります。
 とはいえ、その原点に体と心があるわけです。呼気を通じて体内でつくった音を変じさせたのが声です。舞踏が体の動きの延長上に様式化されたのと同じく、歌は、声の動きの延線上に様式化されたものです。ことばでなく、声の響きの延長なのです。
 元々は、私の目指す発声ヴォイトレは、歌でもせりふでもなく、声一つだったのです。その結果としては、私の今使っている声ともいえるのですが…。しかし、それが周りの要望により、ロック、ポップス、カラオケ、声優、ビジネスマン、語学習得者、一般の人を対象に応用させられて、目一杯膨らんでいったのです。あまりに対象が広がったために、研究所として役割分担をする一方で、原点に戻ると決めたのが10年前でした。
 
○トレーナーの責任

 よく私は、「声と表現とは別」と述べていました。しかし、表現のために声を学ぶ人たちには、表現のための声が必修であり優先されるので、そちらからみるようになりました。そのうち、そこをみるばかりになってきたのです。ロック、カラオケ、ハモネプ、コーラス、役者のせりふ、アナウンサー、朗読、声優の音色(使い分け)果ては、腹話術やホーミーまで、どれも声と関係があるので、日本中、世界中、巡って学びました。
 トレーナーは、それぞれの分野のプロとは違うのです。確かに歌のうまいトレーナー、役者なみにせりふを言えるトレーナーもいます。その人の出身がそこのプロであれば当然です。ここのトレーナーでも、声楽家ならオペラを歌えます。普通の人よりも、その分野をやってきたので当然です。とはいえ、他の分野では一流のプロには及ばないのです。
 ヴォイトレのトレーナーゆえにトレーニングは教えられても、プロの歌い手よりヒットさせることはできません。プロの俳優、声優、アナウンサーの代役も難しいでしょう。ソロとしてヒットさせた後にトレーナーになった人はいますが。まして、ここに習いにいらっしゃる落語家、伝統芸能家の芸などまねるだけやぼです。

 ゴルフのレッスンプロと同じく一流のゴルファーだった人が必ずしも教えているのでなく、教えることにおいてのプロといえる人が教えている、大多数は、そうでなくても自分よりもやっていない、できない人に教えている、その図式で成り立っているのです。
 表現活動で食べていけないから、食べる手段としてトレーナー、あるいは教職を選ぶのです。これを否定したら日本の声楽界は成りたたないでしょう。教えることで学べることも大いにありますから、教えることを兼ねるのは悪いことではありません。芸を継承させ、将来を後世に託していく使命もあるのです。
 しかし、その結果が凋落ではいただけません。古来より、廃れていった分野は数多くありますが、まずは隆盛していたわけです。一人の天才が創始あるいは、継承して、一時はそのジャンルを超える幅広い活動、大きな影響力を世に与え伝えたのです。そのために、それに憧れ、それをやりたい人が集い、また客も客が客を呼び、増えていったのです。そこからが問題です。
 これが、ポップスなど海外からのインポートものになると、憧れで、本人も客も本当の意味で舞台が成立しえないうちに流行してしまうから事情は複雑なのです。
 それはともかく、保護、援助しなくては存在できないものをどう評価するのか。建築物ならともかく、人間の活動です。予算ということなら同じお宝を保護に回すのか、新しいものの台頭への助力へ回すのかということにもなります。それを誰が決めるのか。お上か庶民か。(この件は、文楽と橋下大阪市長補助金騒動でのやり取りがわかりやすいので譲ります)そして、トレーナーの位置づけ、これが単に自分よりもできない人の引き上げでなく、自分よりできる人にすることにあるべきと思います。そこから一般化していくならよいと思うのです。そうでないケースでは、評価は自己満足でメンタルトレーナーのようなことになっているケースが多いからです。
 
○身体からの声、歌からの声

 表現というものとは別に、声単体の評価が成立するのか、それこそが私のライフワークというべき課題でした。いわゆる、声が本当に表現に化したときに声は消えます。私も話し終わって「声がよい」と言われるよりも、「何か温かい気持ちになりました」と言われる方を嬉しく思います。しかし、声そのものとその使い方となったときに、そこには発声と歌唱のように距離があるのは確かです。
 声楽は一つ伸ばした声の高さ、大きさ、長さ、音質が比較的その人の体からみてベストをみやすいものです。その条件は、オペラ歌手としてのプロとしての感覚、体、技術で鍛えられ、明らかに一般の人と変えられています。もちろん、一流のレベルにおいてで、そのプロセスなのか方向違いなのか、異様にふしぜんな日本の声楽は別にしてください。
 一流の舞台での表現と素人としての日常での表現力は、一見離れているようでも、自然であることでは一致してもいるのです。それに対し、中途半端な歌やせりふは、つくられたもの、その人もいなければ役も出てこないのです。
 ポピュラーの歌については、体からの声との乖離度がますます広がりました。その一端がカラオケの歌です。エコー(リヴァ―ブ)が包み込んで曖昧にし、聞き苦しさをみえなくしてしまったのです。カラオケの普及は私も一役買ったことがありましたが、一人でステージで何かするのに不慣れな日本人に経験を積ませること、これはカラオケBOX出現で消えました。そして今や、マシーンの採点への挑戦でゲームにしてしまいました。キイやテンポを変えて、歌を自分に合わせベストにできるという最大のメリットもなくなりつつあるのです。日本人って、とても残念な意味で、すごいと言わざるをえません。視覚や味覚にすぐれているからといって、ここまで聴覚をないがしろにしてよいのかと私は心配するわけです。
 ついでに言うのなら、その他の分野、役者などでも、日本人で国際的に通じるのは、50代以上の一部の声にしか残っていないとさえいえます。ここまで、地力としての声について述べてきました。
 
○処理と創造

 声を身体からみるか、歌からみるかで私は2つの立場をもっています。そして、その都度、変じたり、その割合をミックスして評価、判断、アドバイスをしてきました。これまでも述べたように
A.器を大きくする(ゼロから1へ)
B.優先順を決める(2,3,4番を1番のものに)
Aは破格やインパクト、パワーであり、Bはバランスや使い方で、収め方、残し方です。
Aは押す波、Bは引く波です。
 この掛け合いで歌もせりふも表現も成り立ちます。ところがAがなくなった、いえ、元よりそこが強くなかったのが日本人の音声です。
 たとえば、半オクターブでもまともに声を出せない人が1オクターブ半を歌おうとすると、これが露わになります。本来、声を1オクターブ出せるまで話すポジションで歌えるはずがないのに、歌声という特殊なレシピをつくり、マイクやリヴァーブでカバーするのです。
 クラシック歌手からみたら、最近のポップス歌手はそれに当てはまるでしょう。しかし、そのカバ―能力こそがポップス歌手のプロとしての処理の能力ともいえるものです。丁寧にしっかりと歌えますが、ポップス歌手の、カバー能力のなかでのもう一方の、より重要な創造の能力、破格、インパクトやパワーに欠けるのです。それがあれば世界の一流の歌手になれる条件となります。当初のポップス歌手は、声そのものの質感のよさがインパクトをもっていたものです。
 この破格とは、声においてのオリジナリティの素です。クラシック歌手はいまだに向うへ近づけない(追い越せまでいかない)、正直なところ、一時よりも後退しているのです。日本のなかでクラシックもポップスも対立せず、ヴォイトレも共有できているのは、実のところ、裏で同じ問題を宿しているわけです。それゆえ、ヴォイトレは、歌においては守り、喉を壊さないためだけのもので、今や不毛の方向にあるのです。

○メニュが合っているのか

 他人のメニュ、レッスン、指導と自分で行っているやり方について、そのよしあしをよく尋ねられます。他人のメニュを、つくった人が望んでいるほどのレベルに使えるのは、誰が使うにも、つくった人と同じくらいに手間暇がかかると答えています。そう思えば間違いありません。たまには、使うやいなや、それを超えてしまう天才のような人がいなくもありませんが。
 メニュが自分に合っているかどうかを多くの人はとても気にします。しかし、実のところ、合っていなくても大した違いはありません。
 自分に合ったトレーナーをみつけるというのも同じことです。結局は、自分に似た人を選んでしまうので、すでにトップレベルの人はよしとしても、残りの人には、大した効果は望めません。(研究所では、私やスタッフが選んでいます)
 メニュが合うというのは、最初からやりやすいということです。自分で合いやすいように選んで使ってしまったメニュですからあたりまえです。その使い方によって新たに革新が起きることはないのです。ラジオ体操のように、毎日の状態をうまく保つのによいというだけです。本当の実力の向上には結び付きにくいのです。そのプロセスを養い、大きな結果をとりにいくのが、真に必要なメニュです。

○プロへのステップ

 参考に、次のような話をします。チベットにティンシャという直径7センチくらいの2つの皿のようなものをぶつけ、澄んだ音を出す鐘があります。その鐘を鳴らしてみてください。5回鳴らしたうちのもっともよいのを選んでください。それはあなたにもわかるし周りの人もわかるでしょう。次にその1回の音色を5回続けて出せますか。できるのには何日かかかるでしょう。次に同じようにできたら5回のなかでもっともよいのを選べますか。こうしているうちに、少しずつ耳と技量がステップアップしていくでしょう。いずれ、10回、20回と全く同じに出せるようになるはずです。50回、100回できるようになったとしたら、それが基礎力のようなものです。
 例えていうと、トレーナーとして、本人が声を100回そろえていく力のなかで判断します。その100を覚えて、分類し、違いをトレーナーは言語化して説明、あるいは実演します。ほとんどの人は、どこかの段階で違いが分からなくなるか、できなくなります。ですから、何らかの手を打たなくてはならなくなります。そこに使うのが方法やメニュです。それをもっともよいタイミングで、もっとも適切なものとして与えるのが本当のトレーナーの仕事です。つまり、声でなく、声を引き出す手段を与える耳の仕事なのです。
 たとえば、卓球台の両端に置いたピンポン玉を石川佳純選手は2回のスマッシュで2つとも落とします。土門拳氏はライカというカメラを買って、毎日1000回シャッターだけ切る練習をしたといいます。あらゆる仕事の本当の基礎力は、シンプルで明確です。
 この判断というものは、最初から難しいのではありません。初心者が木刀を振るようなもので、10のうちのもっともよい1は誰もがわかる。それは、振るのに初心者レベルだからです。ほとんど自分のもつイメージよりも乱れているからです。判断の力が実力より上にあるのです。
 しかし、上達すると周りはわからなくなり、本人のみわかるようになる。そのためのトレーニングをくり返ししていくからです。その逆ではだめです。その本人のわからないものもわかる。それこそがプロのトレーナーなのです。
 もう一つの話は、これに関連して、歌を100回うち1回しか歌わないがアマチュア、100回聞いて1回歌うのがプロということです。これは復習方法の革新です。(この話も以前にしたので割合します)
 
○歌

 ですから、声=歌の行き来をしつつ声の評価と歌の評価を噛み合わせていくのです。プロデューサーやバンドは、声や体よりは歌、あるいは音楽で判断します。その人の声のベストよりも作品としてのベストです。とはいえ、その人の声のベストで見てから作品に歩みよっていけるプロデューサーも、稀有ですが、います。その上でトレーナーは、その手段としてのメニュ(方法論)をもつということです。

 ピアノの一音の完成度は楽器、その調律、その弾き方(発する音)です。しかし、演奏はメロディ、リズムという流れの中でのバランスです。1音をきちんと弾くよりも優先されることがたくさんあります。ましてミスタッチしようものなら大失敗でしょう。
 同じ音でも、単にそのタイミングで音が出ればよいというわけではないのです。弾き方の評価はあります。完璧な演奏、間違えない演奏に対して、基本の基本が問われるのです。正確さは間違えなければよいのでありません。丁寧さも雑でなければよいのではないのです。奏者にとって、演奏の基礎技術は、音が一体化するために最低、必要な条件です。
 それを声で、となると、なぜこんなに何でも許されるのかが不思議です。特に日本では雑なものです。1番と2番で、ことばの違いはあっても、声のコントロールが全く違い、本人さえ気づいていないことがよくあります。この理由も述べました。だから世界に通じないということでもあります。
 その人の声であり、ことばであるからこそ、歌ゆえの説得力が出てくるのです。そこに甘えて、音楽の演奏ということがおろそかになるということです。音としての作品でなく、パフォーマンスやその人柄、情熱、努力などでみてしまうと、わからなくなるものなのです。
 日本では、プロでなくても誰でもできてしまうためにプロたるものがわかりにくいのです。そこでギャップや上達のステップが、プロほどわからなくなっていくのです。
 むしろ日本での歌のプロは、うまい、正確ということでの応用力を問われています。そこからみるとアーティストとしての評価は、全く別になるのに関わらずです。これをガラパゴスとみるか、低レベルとみるかは人によります。結局は、日本で日本人相手にやるのだから、それでいいとなるわけです。

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○実践からのトレーニング

 実践における基本の能力差を埋めるために、これまでにもさまざまな基本トレーニングが生み出されてきました。それは実践でのパワーアップよりも、正確さも含め、調整のためにシミュレーションされたものが大半です。大きくは器を広げるものと、より器を完全にするもの、つまり、パワーアップと確実性(正確さ、丁寧さ)の2つが必要なのに、後者だけしか使われてこなかった。日本人がまねた欧米というものも、大半がそうだったというのは、これまでも何度も述べてきました。一時、日本でそういうものがよく使われた時期はあったようですが、主流になりませんでした。
 マラソンにおける高地トレーニングなどは前者の一つでしょう。より大きな刺激、過酷な条件を得ることで、量、スピード、長時間でメンタル、フィジカルを鍛える。それによって、より完全、確実にするのです。
 この2つを伴わせてなくてはならないのです。一方に偏ると害になります。パワートレーニングばかりではフィジカルは強くなっても実践に向くわけがありません。こういうことは日本でも気づいた人はいました。調整だけでは厳密に調整できないからとパワーが一時重んじられたのに、形にまでできず、再び調整中心になったのでしょう。スポーツではありえないことも、音響のフォローで可能のように思われたからです。
 バッターなら、大振りして当たったらホームランという力をつける、球威に負けないパワーが必要です。しかし、本当はより確実、正確にするために大振りでなく、シャープに振り切るスピードのパワーが必要なのです。
 そこで実践だけで声は育て、あとはそれを模したフレーズトレーニングだけを中心にした方がよいという考えが反動として出てきます。せりふや歌でいうと、舞台に出すもので実践の練習することが第一であると。その考えは、劇団などでは今でも主流であり、落語、邦楽などでは、まさに実践練習だけで声もコントロールしていくのです。
 そこだけをトレーニングとして分けたのがヴォイトレですが、不要なものというわけです。せりふの暗誦ということで練習の優先順位からもそうなりがちです。すると、パーフェクトを目指す一流の人か、他の人に声からついていけない人にしか、その需要がないということになります。この二者に必要性がわかりやすいからです。

○プロに通じるヴォイトレ

 あるベテラン歌手から「ヴォイトレに行ったが大して効果がない」という話を聞きました。「メニュの大半は歌唱のなかでできているし、それ以外は特殊で、自分の歌に使える代物ではないから」ということでした。ありきたりの典型的なヴォイトレのメニュ、方法論、つまり、形式への否定意見なわけです。
 そこで私は、まったく異なるアドバイスをしました。これまでの歌の中のもっとも歌いやすいフレーズと声を出してください。もっともよい一音中心と、曲の1フレーズだけのメニュです。
 書道での墨の付け具合と、その一筆をみる。ピッチャーならもっとも勝負できる球、最高のスピード球と最高のコントロール球をみます。実践では、状況や相手により配分を変えて、表情もフォームも読まれないようにしますが、ここではまったく自然体にします。ストライクゾーンも無視です。もっとも楽に走る球を体で覚えることを最重要視するのです。すると最高のスピード球と最高のコントロールのよい球は、なかなか一致しないということになります。
 声なら、強い声、高い声、長く伸ばす声、質のよい声(情感のこもった声)、響く声までそれぞれに違ってしまう。何かを優先すると何かが犠牲になる。しかし、それでよいのです。
まずは、そこでの自覚が大切です。

○独自のメニュづくりを

 「スピリッツ」連載中のグラゼニの凡田夏之介は、年下のピッチャーに、ストライクゾーンの枠外の9点に全力投球ができるかと試すところがあります(2014.11)。相手が打ってしまうかもしれない危険なストライクゾーンに入れるのでなく、そういうギリギリのボール球をコントロールできないと、プロとして通用しない。ストライクの各コーナーを全力で入れる練習をするのは誰でもやりますが、ボールになるよう全力で投げる練習を必ず毎日するピッチャーは、そう多くないでしょう。発想の転換、それによる独自の練習法、メニュです。まさにヴォイトレで考えるべき意味というのもそこにあるのではないでしょうか。
 各要素ごとの声をチェックし把握し、次に組み合わせて自在にする。
 歌とステージは観客に届かせるところへ、プロほど神経がいきます。ポップスではマイクがある分、いろんな加工ができます。声の表情にもこだわれますが、ややもするとつくりすぎて、客に媚びすぎて、あるいはリスクを回避しすぎて、もっともよい発声を失ってしまって気づかずにいることが少なくありません。
 クラシックも、一流になるほど、理想的な発声フォームの上に共鳴を備え、作品を一致させようとします。多くの声楽家もこのレベルまでいかず、歌の声域や動きによってフォームで慣らしていきます。そこはポップスも歌唱でなく発声のレベルで大いに学べるものと思います。

○声のチェック

 トレーナーは、プロの前に歌って見本をみせてまねさせるなどでなく、その人において本質的なものの必要性を示すべきです。相手が下手なら、こうしてとまねさせる方が早いので、そういう教え方が多いようですが、まねても大してよくはなりません。本人自身が、声の可能性に新たに気づくヴォイトレが必要になります。しかも、声から見た可能性となると、時間も手間もかかります。
 今の歌唱を修正するのとは違うからです。その否定から始まるともいえます。表現と声との間に歌唱を新たに生み出す、つまりプロといえども、今までの歌唱を一時、封印しないと次のレベルに行けないということです。大抵は、トレーナーがよくても、声のなかで比較的よいところを残して、そのレベルに他をそろえることで終わってしまうものです。
 声の要素別にみると、
1、高さ―もっとも出しやすい高さ、人によっては高音、低音でもっとも出しやすい2種に分かれることもあります。
2、大きさ―これは次の長さでもって試すこともあります。厳密には異なるのですが、もっとも楽に伸ばせる大きさがあるはずです。上級になるほど小さい声が長く伸ばせるようになります。
3、長さ―長く伸ばすほど粗がみえやすくなります。呼吸や共鳴のチェックにも使えます。
4、音色―声色、声の共鳴としてもっともよいもの、芯が合って心地よく響くものを目指します。
 1音「ハイ」でみるときと1フレーズ「アー」(母音のどれかかハミング)を伸ばしてみることもあります。この伸びは、長さと関係しますが、ビブラートが安定してかかっていること、無理にかけないことです。
5、発音―主に母音の中から選びます。子音やハミング、リップトリルからでも、よいものがあればかまいません。

○歌でのチェック

 これは、選んだフレーズを声のチェックのベストレベルのもので変えていくことです。

 拙書「読むだけ…」では、「つめたい(レミファミ)」でのメロディ処理を説明しています。たとえば、
1~3、声の高さ、大きさ、長さはテンポに変えてみます。つまり、まずは1フレーズでよいのです。これは4小節くらいですが、ケースによっては1つのワード(1~2小節)や1息(4~8小節)でもよいと思います。ただ半オクターブ以内、難しければ3音(3度以内)応用したければ1オクターブにしてよいでしょう。メロディをアレンジすればよいのです。
4、音色、これこそがすべての判断の中心でであるべきです。
5、発音<母音子音のもっともやりやすい発音やその組み合わせにかえる。ハミングもありです。

 こうして歌詞、メロディ、リズム(テンポ)を声に合わせてもっとも完全なフレーズをつくる、あるいは、知ることで基準をつくるのです。
 一時の歌唱と発声と分離がわからないから多くの人は迷うし、ヴォイトレを理解したり習得したりできず、使いかねているのです。
 
○ヴォイトレの中に表現を宿す

 歌やせりふの下にヴォイトレでのベストの声があるのではありません。ヴォイトレの中に歌もせりふもあるのです。
 他の国では、このヴォイトレ=日常の声となっているのです。しぜんでおおらかで柔軟に富み、変幻自在、だからこそ日常の感情表現をボリュームアップしてステージにそのまま使えるのです。どこかで学んだ発声(法)やヴォイトレで、ぎこちなく歌っているのではありません。日本のオペラ、ミュージカル、ポップス、その他の歌唱やせりふでは大きく違うのです。そのために「トレ選」でずっとくり返しているのです。もう一度、示しておきます。
1、体と心
2、呼吸
3、発声―共鳴―発音(高低/強弱/長さ/音色)
(母音/子音/ハミング/他)
4、表現、せりふと歌唱(ことば/メロディ/リズム)
これを一つずつ別々にチェックして(メニュ化)最高の組み合わせでチェックして(プログラム化)していきます。このときに高―低、高―中、中―低などに2つの異なるベストの声が出たり、裏声(ファルセット)と地声、人によってはその間の声がもっともよいとなるときもあります。
 一方で、ポップスでの歌や曲に合った声や客の求める声というのは、ヴォイトレの体に合った声とずれることもあります。どちらをとるかということの前に、どちらも煮詰めてよりよくしていくことを考えます。多くのケースでは、どの一つの声もベストとして使えない、並みの上あたりのことが多いのです。だからこそ自分のベストを知り、完全にコントロールする、その声を元に歌唱やせりふの世界を捉えていく、それではその声で歌に活かすのでなく、その声を捉え、練習しておき、歌やせりふは求められるものを使っていくということです。