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体で学べるようにするには  No.285-2

○声は音の世界

 声は音ですから、聴覚で捉えます。とはいえ、自分の声は、骨振動でも自分に伝わっています。他の音も体でも捉えているわけです。限度を超えた低周波や高周波は、人間の耳の鼓膜だけではとらえられません。映画館やお祭りの大太鼓、花火の音など、重低音は、心臓や胸、脳、足などにダイレクトに伝わりますね。それは触覚といってもよいくらいです。もちろん、波動の世界でもありますから、その高いところに光、色の区分け、視覚もあるのですが。
 かつては、ラジオやレコードに長らく耳を傾ける時間がありました。そこは聴く力を磨くベースになりました。遊びも仕事もアウトドア、自然のなかで行っていました。そこが体で感じるベースになりました。今の私たちは視覚優位の世界にいます。インドアの、さらにPC、スマホのスクリーンのなかにいます。それを切り替える時間を意図的にとる必要があると思うのです。

○胎内巡り

 会社の研修などには暗闇を歩くようなものがあるそうです。そこでは耳や体の感覚が鋭くなります。
 お寺のなかで、いつも、あるいは特別な時期に、仏様の下を潜ることがあります。有名なところでは、長野の善光寺や京都の清水寺ほかで、私も何回か体験しました。真暗な床下に降りていき、壁や手すりを頼りに進みます。
 経験のない人は、お化け屋敷や洞窟、鍾乳洞の探検などを思い出してみてください。
 耳と手がセンサーとなり、嗅覚も、全く見えない中で視覚も研ぎ澄まされます。頭をぶつけないように腰はかがめることでしょう。
 なぜ、ライブやコンサートで消電といって照明を消すのかというと、ステージに集中させるためです。特に歌では、耳だけで聞いてもらいたいものほど、明かりを落とします。ピンスポ一本にしますね。注意や集中力を喚起するためです。
 闇にする。これは、耳の力を取り戻すよい方法です。

○体感

 人工のセンサー万能の時代になっても、トレーニングや修行を積んで研ぎ澄まされた人のもつ感覚には、いつも驚かされます。千原ジュニアの番組「超絶凄ワザ!」を見ると、達人の技は、センサーや精巧な工具を今もって超えています。1000分の1ミリなどというのが触感や削り出す技術に使われたりします。そういえば、坂本龍一氏※が、リズムで1000分の1秒で異変に気づく、1000分の40秒で明らかにわかるというようなことを述べていたような覚えがあります。
 トレーニングした人と、トレーニングしていない人との差は著しいものです。
 小さな頃、野球でいうフライを獲るのに、うまいのと下手なのがいました。何秒後、何メートル先のどこにいたらキャッチできるのかを予測して行動する体感力です。高度な物理学でも計算は難しいし、そのようなロボットはまだまだできないと思います。天空に上がったボールを射撃することはできるかもしれないが、ピッチャーのフォーム、バッターの捕え、打撃音から瞬時に検討をつけ、大まかに位置方向を捉え、予測して動き、調整、修正してキャッチするのは、経験と勘です。そこでは、どのくらいのデータがいるのでしょうか。
 高度に発達しつつあるAI、センサーやロボットは自然の世界や、しぜんに生み出した動植物に追いつこうとしています。でも、ようやくダンスや階段を昇降できるレベルになったところです。最後までロボットに取って代わられないのはどこなのかを考えることです。

○流れ

 ひしめく日本人によるスムースな横断を見られる、渋谷の109前の交差点は、外国人の観光名所になっているといいます。私は、高校生で上京したとき、渋谷駅でたくさんの人を見て具合が悪くなりました。その話をしたら母がたいそう心配したのを覚えています。学生の頃には、いつのまにか人にぶつからずに大勢の行き交うなかを歩くことのできている自分に気がつきました。部活のバスケットボールの経験が活きたとも思っていましたが、考えるまでもなく、東京に住んでいる人ならぶつからないのです。
 ラッシュにも鍛えられました。その秘訣は、誰でも知っていることですが、この先、大切なキーワードとなるので言います。流れに逆らわないこと、脱力すること、自らを無とするということです。つまり、大きな流れに入って、そこに身を委ねるのです。結果としてスムースにしぜんと電車に乗り、しぜんと階段を上がっているのです。自分で乗ろうとか上がろうとせずに、その流れに加わり、周りから押されるのを受けていれば、しぜんに足が動いて、なるようになります。
 ここまで述べて、日本のラッシュは、個人の意識や行動する力を奪う働きをしているのではないかと気づきました。それゆえ、「降ります」と、流れのないところで電車の出口に近づくことに、大したプレッシャーを感じる社会になっているのです。ちなみに私は、ラッシュでは、座席になだれ込まないように流れをくいとめる大魔神のような役割でした。筋力を最大限使って支えていました。背が小さく宙に浮いてしまっている女子高生と、どちらが大変だったのでしょうか。

○馴れる

 私たちは頭で考えて動いているつもりで、決してそうではありません。むしろ、頭をストップした方がうまくいっていることを知るべきなのです。目的地くらいはセットしなくてはいけませんが、これも同じところへ毎日行くのであれば、家を出たら会社や学校に着いているものです。これもトレーニングであり体が馴れて、そして覚えたということです。もっとわかりやすいのは、自転車や車の運転でしょう。
 私はペーパードライバーから車を運転し始めてしばらく、頭を使うとわからなくなることが、ときにありました。アクセルとブレーキを間違えたり、左足でブレーキを踏もうとしたこともありました。慌てるとさらにひどい、ギアをPとかNに入れたり、パーキングブレーキを解除し忘れたり…。私よりは鋭いと思われる人も、教習所のときを思い出してください。そのことから、人は考えてやるのではなく、考えなくてもやってしまうものであると知りました。考えるとできなかったり、うまくやれなくなることを、もう一度捉えてみてください。

○頭を切ること

 スポーツをしたり自転車に乗ったりすること、これらは大脳の働きでなく小脳が司ると教えられました。頭でなく体で覚えると言われてきました。頭での思考や理解が全くないとはいえませんが、練習を重ねることで、誰もがあるところまではいきつくのです。反面、いくら考えても体を動かしてくり返さない限り、何ら身につかないのです。
 もっとわかりやすいのは、できないことができたときです。スポーツも、自転車も、ピアノを弾くのも、すべて、考えることが切れたときに体でできていたでしょう。つまり、考えが切れていたときに起こるのだから、考えてはだめということです。
 これは、できたあとに頭が働くことでもわかります。我に返って気づくのです。ここで考えや頭というのは、意識というようなことでしょうか。
 ピアノでいうと、一曲、何も見ずに丸ごとなら弾けるのに、途中で一か所躓くと、そこから先は弾けない。そういうときに、何も考えずに頭からやり直せば、大体はまた弾けますが、間違ったところはどうだったのか考えたら指も動かなくなる。考えないなら指が動いてできるのに、考えるとその日は全くできなくなって、それを忘れた翌日には弾けたりする。歌の歌詞などを忘れるのも似ています。ですから、禅などでは、頭を切る修行をするわけなのです。

○体で聞く☆

 昔の人、というと失礼ですが、私が研究所を始めたときには、レッスンの質問というのは、ほとんど出なかった。それは、レッスンを受けるまえに大方片付いていた。大体は、事務的な質問だったわけです。レッスンでは、参加者はひたすら体で吸収することに専念していたともいえます。
 もしかすると、私に聞きづらかったのかもしれませんし、そういう雰囲気でなかったのかもしれません。当時、私には、質問を聞こうとする姿勢も教えようとする姿勢も、今ほどにはなかったのを認めます。
 それは時代のせいでも私のせいでもなく、いらした方が優秀、かつ自立していたからだと思うのです。私も若輩でした。でも、他のトレーナーには質問しやすかったせいか、そこを介して質問回答集などをつくっていました。レッスンでは感覚を集中させたかったからです。
 今と異なり、レッスンで学びに行くのに質問するものではないという風潮もありました。体を使った人は黙ってコツコツと変わっていくのに、頭を使った人は身につかず口から文句が出てくるようになったのは、まさに対照的でした。
 
○質問の意味

 私も、自分の先生に、本当に知りたくてという質問というのは、したことがありません。挨拶代わりにコミュニケーションのツールとしては使いましたが。いつかはまともに質問できるレベルになって選び抜いた質問を、と思っていました。せっかく会えるのに、下手な質問をたくさんするのは愚かなこと、周りの迷惑にも先生のレッスンの邪魔、ひいては、自分のレッスンの質が落ちるとさえ考えていました。
 質問して答えをもらったところで何ともならないし、質問を褒めてもらいたいなら別ですが、それでこちらが見透かされる恐怖もあったのです。今も、大体はそれで合っていたと思います。ただ、そういうものは、その関係性、目的、レベル、タイプ、そして場、環境にもよるでしょう。当然、時代や育ちにも。
 私は、自分が自分に対して否定しているものでさえも、皆さんの場としては、選べるものを提供しようとしてきました。そうする器をもつ努力をしています。
 仮に質問は不要であり不毛だと思っていたとしても、(そんなことはありませんが)研究所はあらゆる質問を内外から受付け、回答しています。<Q&Aブログ>は、この分野では世界最大のものとなっています。なぜなら、質問から学ばされるのは私たちだからです。これはクレームと同じく、大切な気づきの材料です。

○パントマイムの人もくるヴォイトレ☆

 今は、いきなり声を出してもらうことはありません。
 本人が望めば、声やせりふ、歌のことを学んでいくのですから、当然、まず聞かせてもらう方がよいのです。しかし、メンタル面に問題のある人や声の病気をもつ人が来るようになり、かなり変わりました。声をうまく出せないのでなく、声自体を出せない人もいらっしゃるからです。
 さらに、声を出す必要のない人、ダンサーやパントマイムなど、呼吸を学びに来る人さえいるのです。故障などのリハビリを早く終わらせるのにも有効です。そういう人も、呼吸を深めたり、指導や共演のときのために声が使えることは必要だからです。
 
○受け身体質では

 幼い頃、大きな声で騒いだり叫んだりしていたのが出せなくなったのは、教育のせいでもあるのでしょう。マナーということでは、声を荒げないのは日本だけではありません。が、受け身体質として、主体性をも奪ってしまう日本の学校教育、音大も含みますが、それは反面教師としての役割を果たしていたのでしょうか。
 何よりもアーティストになりたい人は、アーティスティックな毎日のなかで研鑽していくものでしょう。先生の教え方とか、トレーナーがよいとか悪いとか、考えること自体、無駄なことに思うのです。
 私は、なぜ、自分の表現を、つまり、自由な表現を目指す人が自ら不自由に教えられようとするのか、教えてくれるところにしか、自由も表現もないと思うのかわからなかったのです。むしろ、逆でしょう。
 しかし、こうして、30年も同じことを続けていると、なるほど、日本人というのは、先生だけでなく生徒も不自由をよしと、人に動かされることをよしとするのだとわかってもきたのです。でも、方法やメニュで教えてくれたものなどは役に立ちません。学び取ったものしか、ものにならないのです。

○人を選ぶ能力とマッチング

 人を選ぶのもその人の能力です。出会いも同じです。私たちは、必要な人とは出会うように生きているのです。たとえ選び損なったと思っても、その経験を基にして選び直せばよいのです。そんなレベルで、どうのこうの言うだけ時間の無駄です。そんな暇があれば動けばよいのです。やることがないから愚痴っていくと、それで生涯を終えてしまいます。そういう人たちに「そうでないように変われ」と示しても改心できなかったとすれば、それも私の力不足ですが…。
 理想というのも相手あってのもの、ニーズに応えつつ、少しずつ方向を変えていくのも必要だと思って、私は焦らなくなりました。自らの理想ははっきりとしているので、ニーズについては、それを、それぞれもっとも適切な人と役割分担すればよいわけです。
 教えられたい人には教えたい人をマッチングすればよいということです。どんな形であれ、声の研究ができているのなら、声の研究所です。
 というか、そのおかげで私は一人でやるよりもその10倍の学びを得られるようになっているのです。もっとも多くのトレーナーと接することで、もっとも多くのことを教えられたのです。
 研究所のブログなどは、そのプロセスであり、私からのお返しということです。どうマッチングしていくのかこそ、自らの世界をつくる最大の秘訣なのに、なぜそこを学ばないのでしょう。

○叩き台と絶対量

 私は、自分で考えたことをしゃべっていますが、人に「考えろ」とは言いません。本やブログに「考えるように」と書くことはありますが、それは考え尽くさないと考えることがやめられない、人間の性や業へ対してです。こういう文章を元に考え尽して、「もういい、考えたって仕方ない」と開き直るために必要な人もいるからです。
 声は出さないと出ません。ピアノは弾かないとうまくなりません。それだけなのに、今は、そこが絶対的に足りない人が多いのです。私を支えているのは、誰よりも声を出した日々があったこと、そこだけです。
 昔はそこが充分だったので、その逆に、考えること、頭でなく体として感じることのステップアップとして叩き台が必要だったのです。今回も、このレベルくらいで述べたいのですが、まずわかって欲しいのは、「絶対に足りていないこと」です。
 これでは、医者やトレーナーに何を相談しても何ともなりません。モチベート、気力、取り組みといったメンタルについて、今や9割の人たちの問題となりつつあります。何にもならないのに、何かになっていそうに思ってメソッドや教本が使われるのです。それでは抗うつ剤のように思いませんか。

○個性

 個性的というなら、少なくても役者、歌手なら、昭和の時代の方が多かったでしょう。5人から48人で歌うような人たちを歌手と呼んでよいのかという時代錯誤な疑問は置いておくとします。でも、声一つ考えても、アーティストは違うものでしょう。
 集団化、シンクロナイズにおいて、日本は北朝鮮の上をいくほどで、共産国家、独裁国家よりも一糸乱れないように教育、いや牽制しあって育ちます。世間を重んじる国民性でもあります。それを美しいとか、仲間とそのように楽しみたいとかいう人は、それでよいでしょう。
 でも心身はどうなのか。というのは、声一つにもそういう気質は現れるからです。つくった表情や作り笑いは、しぜんで健康的なものとは違うのと似ています。個性が出ていなくては魅力はありません。
 
○個声

 私は、かなり客観的に、「どんなヴォイトレもよい」と全てを認めています。トレーニングなのだから、それ自体に正誤はなく、自分にプラスになるように使ったらよいと。それをマイナスになるように使うのならやめればよい。そのために、まず、何がプラスでマイナスか学ぶべきです。
 こうして述べていくと自らのヴォイトレやヴォイトレ論だけで浮いてしまっている居心地の悪さを感じます。
 正しい声、正しい教え方、正しいヴォイトレを求め、そうでない声を否定する。そういう流れは居心地よくない。しかし、そういう声ばかりになりつつあります。
 歌手は、役者は、もういない。使いたくないのではありません。でも使っているレベルが落ちたのも、客も、多分、つくり手の多くも気づいていないかもしれません。俳優、声優も同じく、表舞台から消えつつあるのです。やがて、浪花節や時代劇と運命を共にしてしまうのでしょうか。個声がなくなっていくのです。それでよいはずがありません。

○声量のこと

 文明が発達すると声は小さくなるようです。子供が大人になり、プリミティブな社会だったのが先進国になると声は大きく出さなくなる、ただし、それと、大きく出せなくなるとは異なります。
 声の大きさは一つの要素で、必ずしも大きな声がよいのではありません。しかし、トレーニングでは大は小を兼ねる。大きくしか出せない声はよくないし未熟ですが、大きく出せて小さく使うのが、本当の芸に欠かせない技術です。
 それは、器と丁寧さとの関係です。いつも述べているように、大きく出せるという器で細かくメモライズして丁寧に使う。
 マックスは使わず、マックスが想像つかないという、底の見えないところ、それがバックグランドとしてあるから魅力となるわけです。
 ですから、その懐の深さをもって、今度はきめ細やかに声量の差、メリハリをつけ、さらにミニマム、ピアニッシモの声でもきちんと伝えられるように出す。声量は力でなく、力があるから、力を出さなくても声量となるのです。そのために呼吸、発声、共鳴ということを学んでいるのです。
 声量は、今の日本人のもっとも不得意とするところです。すぐにマイクでカバーしてしまうため、声質(音色)とともに忘れられつつあります。それゆえ声の魅力をもてず、世界レベルへ達しないのです。
 カラオケがハイトーンの競争に陥ったように、発音や高音(声域)というわかりやすい低レベルの基準で、あたふたヴォイトレをしているのです。
 先の2つに比べ、後の2つは大したことのない問題です。原曲キィで、本人のように歌おうとするから問題が生じるだけです。そればかりにこだわっては、本当の個声を追求できず、才能も磨かれずに終わりかねないのです。

○よくないことの勧め

 「気を付けの姿勢で胸を張って歌いなさい」最近はこういう指導は、あまりされていないと思います。「大きな口、口を大きく開けて歌いなさい」もかなり減ったでしょう。
 でも、人によっては、場合によっては一時試みるのも悪くはありません。トレーナーからは、それなりに否定の理由があるでしょう。胸を上げすぎると腰のところに空気が入らない(支えやら深い呼吸がしにくい。口でなく口の中を開けるべきだ、響かず、浅くなる)など。
 しかし、何事もやってみることはよいことです。よくないことさえ、やってみるのは悪いこととは思いません。もしかして私の想像を超えたよくないこともあるかもしれませんから、それがよいこととまでは言いませんが、試すのはいけないことではありません。
 頭で、教えられたとおりにやってもみずに従うよりも、自らやってみて、よくないと知ることも大切です。注意されないように頭で考えるようになるのはよくありません。最初からやらないのでなく、やって注意されて、気づいて修正していく方がずっと大切なことだと思いませんか。

○何でもやってみる

 トレーナーについているのですから、きちんと使うことです。きちんと使うとは、新しいことを知ってやってみるのでなく、これまでのことを新しくみるということです。
 プロのピッチャーは、まずきわどいところに投げて、今日のアンパイアのストライクゾーンをつかみます。一流のピッチャーはきわどいカウントを逆手にとり、そのストライクゾーンを自分に有利に決めていくとさえ聞きます。
 頭のよい優等生は、間違いだと思う答えは記入せず、平均点以上をきれいな回答で収めるそうです。しかし、本当に優秀な人は、すべての欄を記入します。そのくらいでないと、絶対に間違っている答えを堂々と記入して、たまに1つ当ててしまうような、勉強ができない人の直観力や処世術にも、いつか負けてしまいます。

○思いっきりよくの勧め

 私はよく、「思いっきりやってみなさい」と言います。「めちゃくちゃはみ出せ」と、それがよくなければ自分でわかる。わからなければ言うからと。何を恐れることがあるのかと。
 オーディションなら、作品そのものでなく自分をみせる場なのです。はみ出ださずに、どうアピールするのでしょう。熟練した技など得意にひけらかす人を誰がとりたいと思うのでしょうか。(でも日本では、そんなのを、安全というのでとるのも多いから困るんで…)
 はみ出てひどすぎたら注意されるから直せばよい、自分を出して、それが合わなければ何か言われる。そこで修正してよい。はみ出た上で作品をチェックする権利があると思ってください。
 
○はみ出す、自分を出す

 私が教えないのは、トレーニングは、内なる自分を出す、そのプロセスだからです。いくらバランスよくまとめて声を整えても、インパクトなしには何の魅力もないのです。
 特に自分の世界を打ち出していくときに…。
 自分を出す前に何を教えるのでしょう。先生のやり方、ミスしない方法、カラオケの点数アップ?「それでよいのですか」と問うても、「お願いします」というのが、この国のこの頃です。
 自分でまとめなくても、はみ出たのがひどければ、自ずとまとまってきます。客を前にして、自ずとまとまろうとします。自ら注意すべきことに気づきます。調整はそこからでよいのです。
 歌やせりふで私は「プロや一流は、あなたたちが思う以上にはみ出しているから、あなたがどんなにはみ出しても足りないと思え」と言います。やりすぎたら注意すると言って、注意する程にやり過ぎる人、むしろ、そういうことのできる人は、ほとんどいません。日本でよく聞く自主規制、自己規制、それは魅力規制です。そんな人ばかりで、いくら集まってもつまらないものにしかならないのです。

○禁じない

 私は「――しなさい」は言いません。それは強制であり、「それ以外してはいけない」という禁止です。子供のような生徒でも、子供扱いすると子供のままになります。自由奔放な幼児にまで戻せるならよいのですが、自由を失った子供に、声や歌まで受験勉強のようにさせてどうなるのでしょう。
 教える先生やトレーナーの自己満足では、高校の管理野球のようなものです。日本の合唱団もそういう体質でしたが、義務教育の一環と、アートや大人としての場は違うとしましょう。
 なのに、「教育したがる人―教育を受けたがる人」の絆は、強いのでしょう。それでは私は失格となるのでしょうね。
 教えたい人の熱意はよいのですが、それが、相手の呼吸や意志をコントロールしてしまう。心身を緊張させた状態においてしまうことが問題です。レッスンでリラックスさせた分、本番であがってしまうのでは…。
 声を声で教える、怒った声や命じた声は、悪い見本でしょうか。役者や声優は、そういう声も使うので参考になるかもしれません。一人の人間にいろんな声があることを学ぶのならよいでしょう。そういう意味で声の表現力の弱いトレーナーは、別に見本をおくようにすることです。