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メニュ No.287

○メニュ

 伝えるにはシンプルにしなくてはなりません。シンプルだから、そのくり返しで質や深さということが感じられてくるのです。シンプルにあるものを説明すると複雑になります。わからなくなります。そこで、ともかく「息を吐いてろ」などということになるのです。
 今のレッスンや本では、それでは雑すぎるということで、それらしきメニュをつくります。多くは自分の経験でなく、それを基に、形として整えて出すことになります。
 ですから、メニュなどは、元より形です。本当は、何であれそこで行われていることでの深みが大切なのです。なのに、いつ知れず、何回何秒行うこと、などとマニュアル、つまり、やりやすいように形になってしまうのです。
 そこには大した根拠も道理もありません。何もないよりは、これから使ってみて、気づいて考えて直していくように、そのために使ったら、という叩き台にすぎません。
 こちらが叩き台として出しているものを大まじめでバイブルのように扱う人たちが出てきて困りました。メニュだけで、その効果や是非など論じられるわけなどないのです。「これで水をすくえ」と投げた空き缶を、どのくらい価値があるか値踏みして騒いでいるようなものです。そもそも、体やその人自身を離れたところにメニュなどあるものでしょうか。

○声と体のイリュージョン

 体の使い方をどうこうすることで、声が出るのではないのです。声が作品の素、あるいはツールだとしたら、それは体に一体化している。すでに声は体なのですから単体として扱っても仕方ないのです。
 例えば、難しいのですが、荷物や他人を背負うのと我が子を背負うのとの重さの違いを考えてみましょう。同じ20キロとしても、かなり違うはずです。
 子共が寝ていたら重くなる。起きている体は、バランスをとって動くので軽いでしょう。自転車の後ろに乗せてもわかることでしょう。これらを実際の重量で判断するのは愚かなことでしょう。感じる重さと測った重量は違うのです。声や耳の世界は、事実と異なることがたくさんあります。科学的より想像的であるべきです。
 生きていること、連がっていること、さらに関係、深さというなら、むしろ愛情の深さで重さは大きく変わるといえばよいのでしょうか。
 自らのなかに取り込むこと、荷物でないから人の声はすでに取り込まれ、体と一つになっているものです。それを外側から取り扱い、仕様に沿って動かそうとするのは、よいアプローチではありません。

○声と歌、せりふ、結びつきの強さ

 声と歌やせりふ、この関係も似ています。体と声が一体化のように、それらの内にも距離がない方がよい、バラバラで捉えるより、関係性で捉えられるのがよい。さらに一体となれば、もう正しいも間違いもないのです。
 強い声は、ないよりもあったほうがよい。しかし、それは、体を強く使って出すのではありません。強い体から出る、あるいは、体との強い結びつきから出るのです。となると、強い声を目的に鍛えるのは、あるところまでのことで、そこからは変えなくてはなりません。結びつきを強くする、強い体にする、ということです。
 体、筋肉を強くするなら、トレーニングの量と時間です。研究所では、そこにおいては、音大くらいの声づくりの成果は充分に出しています。しかし、歌やせりふで判断するとしたら、それは量、時間よりは質、深さとなるのです。大きなターニングポイントです。

○トレーニングと一流の差

 トレーニングは、確実な地力をつけていくためのものです。崩れても最低限支えられるだけの器、フォームをつくり、再現性を確保する。まさに礎づくりです。
 再現性=基本は、私のキーワードですね。何回も登場しているので省きます。よく読んでもらえばわかると思いますが、再現性の確保は、目的ではないのです。より大きな飛躍、高い次元を生じさせる、その可能性を高めるための下準備、前提条件にすぎずません。
 一般の人の参加するスポーツなら怪我しないとか、毎日健康に過ごすというのも、最低限での再現性といえます。これは、情報を集めておけば、あるとき閃くかも、というようなものにすぎないのです。
 毎日、徹底的に基礎を重ねなくては、「あるとき」も来ません。この主従関係を捉えないとトレーニングは益なく終わりかねません。そういう人に限ってトレーニングの成果とかやり方に一喜一憂して云々言うので不毛なのです。

○くり返し

 シンプルなトレーニングメニュをこなすと、その単調さに飽きる人もいます。しかし、そのことを無意識に際限なくくり返していくと、普通は、意識は次のレベルのものを捉えようとします。そして少しずつ深まります。より細やかに丁寧に、しぜんと大きく深くなっていくことを狙ってのことです。
 メニュをこなして次のメニュに行くというのは、メニュをやっているだけで何の意味もない。それでも、あとで、くり返してみて気づくこともあるので、一通り、どんどん進めるのは、アプローチとしては悪くないのですが、その場合には、一通りやり終えた後で、もう一度詰めなくては何にもなりません。
 与えられたメニュをやることで自分の感覚を殺している人も多いように思います。それによって自分の感覚を解放し、気づきを得なくてはいけないのに、どうしてなのでしょう。生徒もトレーナーも共に、教えて、教えられる関係だと思うからです。トレーナーがメニュを教えるのでなく、生徒がメニュで気づかなくてはならない。そこでは、トレーナーは私心を入れず、公平に仲介するだけに専念することです。よかれと思って、自らの思惑で邪魔してはよくないのです。歌い方を教えるなどとなると、尚さらのことです。あまりに形だけのレッスンになっているのに気づいたなら、そこから問うことです。

○剥き出す

 レッスンに、理屈、言い訳、責任転嫁といったものが許されるようになれば、それはもはやレッスンではありません。でも、これまでにそういうことさえ学ぶ場も時間もなかったのなら、それを学ぶという使い方からでもよいと思っています。
 これも、いつかでなく、今すぐ、ワープして欲しいものです。声を通したら一瞬にできるはずなのです。
 そういった、周りの余計なもの、余分なものを削いでいかなくては、本質を剥き出せません。剥き出すには、耐え難い覚悟もいるかもしれません。周りの声というのは、それに影響を受けやすい人には、ときに大きな邪魔や障害になるものです。
 生きている、その実感においてしか人に本当に伝わるものはつくれないのです。そうした実践は、頭でなく体で行うしかないのです。

○鍛練の注意

 鍛錬することで鈍感になってはいけない。これは、体や声にはまることへの注意です。しかし、恐る恐る接するくらいなら、とことん鈍に浸るのもよいでしょう。そこから抜け出さない、抜け出せないなら、それだけのものだったということです。
 教えることで、相手を鈍感にしていく例はいくつもあります。教えないことが相手を鋭くしていくのと反対にです。きっとその方が多いのですが、本人がよければそこまでなのです。それ以上のものを感じられるようにできるのかということです。
 なかには、甘え、理屈や言い訳ばかりがうまくなっていく人もいます。周りの影響も大きいのです。
 できる人は狐として群れない。ということで、鈍くなるのを防いでいます。どこでも群れたがる人が主流派になります。不毛な集団化ですが、そこに加わると安心する人も少なくないのです。人数が多いのは、何も生み出さず、それゆえ同じようなメンバーを結びつけようとする力が強いからです。それも周りの人とうまくやっていける才能と言えなくもありません。このあたりが、本当の意味でのセンスが問われているということころでしょう。

○検証

 鈍くなると、痛みがきてもそのうち感じなくなるとか、いつか明日の糧となる、などと考える人もいます。こういう思い込みは無謀です。無駄はともかく、無能がどれほど生じてきたのでしょう。それを乗り越え、それゆえリーダーになれたものが、そのプロセスをきちんと検証せずに他人に伝承すると、その弊害は大きく長く続くのです。
 ハードなトレーニングは、その見返りを求めます。そのトレーニングのおかげで上達したとなりやすい。それがなければもっと上達したかもしれないという疑念も消してしまうのです。
 あくまで達したレベルの高さをみるべきなのですが、そこがわかっていないケースが多いのです。歴史をみるまでもなく、日本人はいつもそれをくり返しているように思います。

○聞く

 言われるままにやっていたら何とかなる、ここにいたら何とかなる、それでは全く反対のケースさえイメージしていないのでしょう。言われなくてもやることでしか何ともならない。ここにいなくても何とかする。その上でここを使うのです。すべてをゼロから組み立てるつもりで臨むのです。
 成長の度合いは、その人の目的意識、どの高み、どの深みを欲しているのかによるのです。
 そういう意味では、間違いも正しいもない。人生なのですから、その選択のくり返しなのです。
 伝統や精神論、権威などは、いろんな形が目隠しをしてしまう。
 だからこそ聞かなくてはいけないのです。それは自分の心の声などというものでない、自分を超えた天の声のようなものです。かといって、毎日のように聞こえるはずはない。いつもいつも求めて聞くのです。

○精度

 毎日のトレーニングが成り立っているという感じは、とても大切です。ただし、そこに頼りすぎるのも危険です。力任せを充実した感じに思うことも多いのです。
 回数や量での再現性で見るとよいときもあります。しかし、いつも再現できるようなやり方を覚えてしまうことで、くせとして固定してしまうことも多いのです。要は、精度なのです。
 再現のプロセスをとらずに形をとる。声でいうと、カバーリングするといっても、ほとんどがくせ声なのです。そこで作品がつくれたり評価されてしまうからたちが悪いのです。
 再現もまた、固定するのでなく、常に動いて、結果としてピタッと同じような形をとっているようにみえるということで、同じということが絶対条件ではありません。
 とはいえ、固定したものの方が、細かく見るとぶれてしまうのです。動いているからこそ、定まらないので活きるのです。変じるのです、そういうプロセスには時間をかけることです。

○基本の程度の差

 多くの人が勘違いをしているのは、基本について、です。教えられたままに疑問に思わず、2、3年でできていると思っている。2、3年くらいやっていたような人から基本と言われたことをやっていく。それを誰もが身につけているもの、動きやフォームのように考えているのです。
 それなら呼吸や発声の基本のできていない人などはいなくなってしまう。事実、そうでしょう。だからこそ、私はオペラ歌手、10年くらいのキャリアでの基本あたりを最低ランクにおいています。
 一般の人にも、発声や呼吸の基本を教えるとは言わず、しっかりやっていくと何年か経つと身についている、かもしれない、くらいでアドバイスしています。
 確かにテニスでも、その基本は、初心者レベル、中学校レベル、高校レベル…などと分けられるわけではないが、程度の差があるでしょう。しかし、テニスの基本とは、一流選手が共通してもつものとした方が明確です。多くの人が一生かかっても手に入れられない、身につけられないのが基本なのです。それを身につけるために体やフォームを準備していくのです。
 いや、現実には、完全には身につかなくても今よりもずっとよくなるように、よくなり続けているようにしていく基本こそが大切なのです。基本も必要とされる程度によって変わるものなのです。その習得を妨げる要因が、自己評価、自分で感じてできているという判断になっていることも少なくないのです。

○自分の声

 みるのとやってみるのは全く違う。わかるのとできるのも違う。基本を、人に教える前に、まだまだ自らも基本ができていないと考えるのが、人に教える資格をもつ人の謙虚さというものです。
 その点で、本当の声、本物の声、自分の声、本来の声と、安易に言うのも危険です。また出していて心地よい声、充実する声というのも、そうでないものよりはよいというだけで用心すべきものです。
 人が評価した声、評価してしまった声、そこまで疑っては元も子もないといっても、声ほど気分や状況や関係で左右されるものもないでしょう。聞く人にとっても同じことです。トレーナーも人間ですから、聞き方も並みの人よりすぐれているとしても、絶対ではありません。出すことばかりに専念して、まともに聞くことのできないのもいるわけです。

○声の実感・快感

 声の実感や快感をどう捉えるかは、スポーツや武術のように傍から評価しにくいものであるだけに、大変に難しい問題です。レッスンとしては、実感して快感であってほしいとは思いますが。
 まして、声でのインパクトとバランスは、相反しやすいものです。聞く人は、バランスをとりつつもアンバランスを欲しているし、インパクトを喜びつつも安定を望んでいます。歌う人やせりふを言う人も同じです。それをどのように合わせ、ずらすのか。この組み合わせと音や声との関係だけでも、こうして展開すると膨大な論になりそうなので、今回はやめておきます。

○我と不足

 我の出ている話、歌は聞き苦しいものです。自意識は必要ですが、それではその人のものであって客のものにならないのです。つまり、価値、作品、商品の受け渡ししかないのです。いくら声を出しても届いていないのですから続いてはいかないのです。
 でも、一つ二つの作品なら、個性的でしょうし、おもしろいときもあります。ですから、そのリピートで、それ以上に作品を続けて飽きられる理由から改善するか、根本から変える必要性を知ることです。大体は、一本調子で展開パターンが少なく、絶対的な強み、オリジナリティが乏しいのです。
 今の自分のままでは決してできないことを知り、そこを突き詰めていくと基本のレベルは上がっていくのです。
 レッスンは基本を身につけるというのでなく、基本のレベルを上げていくと思う方がよいでしょう。トレーナーはそれをわかりやすい形で明示すべきでしょうか、そこも難しい問題です

○外と内

 メニュや方法に私が否定的なのは、大体は、それが外にあるからです。内に入れば、もう基本ということをいうこともなく体で取り込まれているから、ことばはいらないのです。
 優れた人たちが現実に対応しようとすると、外界に体が対応するのです。身につけた共通要素が基本というとするなら、現実や周りの状況が変じたら、基本も変じて応用されるとみてよいでしょう。
 天才肌の人は、感覚からもっともよいフォーム、体、声をつくりあげてしまいます。ただ他の人はそうはならないのですから、基本を使い、応用していきます。
 トレーナーも、チェックのときに基本というのを持ち出すと、指導のよりどころになるので便利です。しかし、チェックしてここがよくない、足りないからやるというのは、必ずしも合っていません。本当の型や基本は、マニュアルと対極のものなのです。

○トレーナーと違う声

 自分の感覚で正しいのに、トレーナーは違うと言う。
 トレーナーは正しいと言うのが、自分のではピンとこない。
 これらは、ときたまみられることです。私のところは2、3人のトレーナーが担当しているので、珍しくも、そのことを検証する機会をもてるのです。
 それはどの声が正しいかでなく、トレーナーの判断の違いがどういう価値観に基づいているかということです。このときに、私なら「トレーナーに合わせるように」とは言いません。トレーナーの方が経験も耳も肥えているとしても、です。
 ここで正しいと言い張ることを認めたうえで、その根拠を問います。質問するのでなく本人が何をよしとしているかを声そのものでみます。よほどの人以外は嘘ではありませんが、よいとか正しいという声の範囲が定まっていないと、自分でわからなくなります。
 困るのは、くせ声での快感や個性的という実感です。高く出したりハスキーに聞かせるようにしてつくった声です。大体は体で支えられていないものです。そういうときは、その柔軟性の応用力のなさを問います。しかし、それを使えないというのではない、むしろ、区別です。
 どれでもよいと思いつつ、柔軟な声に絞られてくる時間を待つ方がずっとよいのです。急かされない限りでは、私はゆっくりと何年も待つつもりで対しています。ただ、聞くだけ、それでも声は育っていくのです。

○主体性のある声

 トレーナーの教えに合わせていくのでなく、自分を出していくとトレーナーによく聞こえていくというのがよいと思うのです。
 自ら出てくる声より周りが求める声、これには日本人ほど気を使っている民族はいないかもしれません。 
しかし、もっとも大切なことは、声なのですから、学ぶにしても主体的であることです。
 憧れから入る世界は、自分の声を否定した人が、他人に合わせたがる傾向が強いので尚さらやっかいです。まして、ステージは普段の自分から化けるのですから、そこで自分に向き合う暇などありません。だからこそ、素である自分、その体、感覚で、声に向き合う場、時間、空間を必要とするのです。
 声は体だけでなく空間に響いているのですから、体=宇宙なのです。

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