声道 No.288

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○精神の力

 声はいうまでもなく、どんなスポーツやアートよりも実用的です。それゆえ、精神的なものを求めるのもあざといので、私は道とは言ってきませんでした。戦いや遊びがスポーツやアートになったように、声もまた、そうなってきたと思うのです。剣道、柔道ほかの武術も、武道となったところでその中に入るでしょう。声明などに代表されるように、神事としての性格を併せもちます。弓道流鏑馬、古武道などとも似ている気がします。宗教儀式としての声は、体で発するものでありながら、体を超える精神によるところが大きいのです。声における精神力の大きさは、並みならぬものがあると思います。
 それをリアルに知ったのは、美空ひばりの復帰、東京ドームのコンサートでした。普通の人の半分もない呼吸機能で35曲歌い切り、その後まもなく、旅立ちました。それは、焼身自殺した高僧の、火中で姿勢が崩れないのにも似た精神の、肉体、物質に対する勝利というものでした。これが、ごく一例、天才の成す技としても、です。
 
○精神の形

 多くの歌い手は、加齢と共に声量や技術も衰えます。スポーツにも似た限界、引退があります。その是非は問うても仕方ないでしょう。復帰した人も多いし、それも、それぞれの人生なのです。スポーツでも40代の現役の選手は珍しくなくなりました。スポーツにもよるでしょうが、それだけ体の管理や技術を支えるツールの発達などがあったのです。しかし、何よりも思い込みからの脱却が一番なのです。ここでも精神が体を超えるといえます。
 となると、体よりも精神を鍛えなくてはならないとなるのですが、体力なしにメンタルを強化するのは難しいものです。体の方がシンプルなので、そこから入るのが一般的です。
 精神修行として歌ったり読みあげるのは、あまりに日本的です。
 ストレス解消やリラックスのために声を出すというのは、健康な使い方でしょう。使い方というと、カラオケもまた声の使い方です。しかし、声そのものは、使い方ではどうにもならないものとして分けてみると、案外と精神そのもののリアルな形が声にみえてきます。
 気分で表情も声も変わるでしょう。声のコントロールは感情のコントロールです。それは呼吸のコントロールによることは説明がいらないでしょう。ですから、人の説得にも、実際に会って声をかけるようにしているということです。

○精神のレベル

 戦いは、敵と対峙しているようであって、常に自分のものとの対峙であるのは、スポーツでよく知られていることでしょう。すぐれた選手、達人などは、相手が誰であれ、自分のベストを出せばそれでよいと思っています。まずは、それが前提です。なかには、本番でベストが出せなくても優勝できるようなダントツの選手もいますが、それでは、本心で満足できないでしょう。
 スナイパーは敵の急所に赤外線が当たればOK,ロックオン、射程距離に入ったらあとは方向だけ定めればよし、声に似ていますね。
 声にも距離と方向があるのです。それはイメージとしてのことで、実際は音波なのですが、ただの音の波とは明らかに異なります。そうならなくては、人の耳には音として聞こえても、意味は伝わりません。
 声には伝えようとする意志が乗るし、聞きたい意志をもっている人との間で成立するのです。それを超えて、成り立つ、そのときがアートになるのだと思います。それは精神のレベルによるのだと思います。
 
○声の凋落

 歌が、歌詞やアレンジでしか違いが出せなくなってきたのは、メロディ、リズムのすべてのパターンが出尽くした、とは言わないまでも、かなりの部分は使われてきたということがあるでしょう。声も変化させるのにも限界があります。同じ声、フレーズでの変化、それらは、人のことばが人の心に働きかけているうちは失われることがないと思います。とはいえ、そのピークとしてあった歌やせりふが、ただのダダ漏れとなっていくとしたら、求めてまでは聞かれなくなります。
 それは、下手な朗読や漫才を聞くとよくわかります。時間とともに退屈、マンネリ、不快になってきます。そういう声での、会社や家庭、仲間付き合いになっているのでしょう。何にしろ、パーティのような会話文化や討論などの対話集会の成立しにくい日本ですから、当然のことでしょう。私は、日本人としてそれを悪くない、いや、誇るべき平和な日常だとも思っています。声が役立つときは危険なときですから。かといって、声を上げる能力を失ったら、それは怖いことだと思っています。

○中心の確保

 発声の理想の状態も、結論からいうと、ゾーンに入った感覚です。我が消えて自分が世界、宇宙の中心という神の媒介のようになった至福感であり、そこに法も術もないのです。それは、使えるようになるために使うもので、使えた時には消えます。消えないと困るのです。
 声は、出して出せないものより、出していないのに出ているものとなるのでしょう。それを得るためには、考え方でなく感覚と体が必要です。それは、私がフォームと言うものです。構えといってもよいでしょう。
 呼吸法は呼吸として発声法に組み込まれ、発声法は発声として共鳴していくのです。そこでの境はなく、同時に生ずるのです。そこで意識は無となり、感覚と一体になります。その一連の動きを邪魔しないようにするためにレッスンがあるのです。なのに多くのレッスンは、逆に感覚と意識を分けてしまうのです。もっとも気をつけるべき点の一つです。

○なくすこと☆

 喉をならすのでなく、なっているとしぜんと呼吸も長く使えます。だから「ならすな」というのです。「喉を開ける」これもイメージ言語ですが、そこで「締めろ」というトレーナーもいます。まったく逆のことのようですが、私からすれば、同じことです。喉はあるのですが、それを「ないものと思え」というのも同じです。
 健康でなくなると体がそれを意識します。痛みがあると体の存在を知ることになります。風邪で喉が痛いときに喉があるのを知ります。すべてあるのは、調子のわるいときです。ですから調子がよいときは消える、意識できないのがよいということです。
 喉も顔も体も呼吸法、発声法、声も歌もなくしてしまうのです。なくせといっても、なくならないのです。そこで意識して、存在を確認します。それがレッスンであり、トレーニングのプロセスです。その後に意識をなくす、なくなったときによしとするのです。

○知らずに知る

 知らずにするというのは、頭で知らずにということです。気づかないうちにできるようになるということです。それならば、頭が邪魔しないようにする、次に体が邪魔しないようにする。逆の順でもかまいません。理想的には同時にそうなるとよいのです。
 ヴォイトレなどをしない方がよいと、ヴォイトレを否定する歌手や役者がいます。それは、こういう意味では、とても正しいのです。そういう人ほど、もし実力者であるなら、ヴォイトレをその名を使わずヴォイトレと思わずにしっかりと行ってきたし、多分、今も行っているわけです。
 理想的な発声をしていたら、深い呼吸ができるようになります。例えば、本当に全身全霊で歌えていたら、ヴォイトレはできているのです。
 そうでないほとんどの人が効果的に強化するのに、筋トレやコアトレのように、そこだけ取り出すヴォイトレがあるということです。そのように絞り込んで集中しないと、普通はなかなか、これまで以上の力をつけられません。ピアノで難しいパッセージだけをくり返し、指を動かすようなことは、パッセージの練習でなく、それに対応できる感覚と体(指など)のためのトレーニングということです。それでは雑になるから練習曲があるのです。全体の流れをリズム、テンポも外して20秒くらいでベースの音やコードだけでさらえる練習が基礎トレーニングによいのです。

○プロのヴォイトレ

 私は、他の人のトレーニングをお手伝いしているうちに、歌、声のなかに何本もの線がみえてきました。あたかも、初心者のとき、歌い始めは何も聞こえず歌い、そのうち、ピアノにのって歌えるようになり、しばらくして、バンドのそれぞれの音やトータルのサウンドが聞こえてくるかのように、です。我ながら鈍いのですが、そういうプロセスがあったおかげでしょうか。歌一曲のライン、Aメロ、Bメロ単位のブロックのライン、1フレーズ(ブレス)単位、そして1小節のなかと、4つくらいは同時にみたり、切り替えしてみたりできるようになっています。
 メロディ、リズム、ことばという3つでは、歌のトレーナーは皆みているはずです。ただ、そのために声をみなくなっているのは、よくある話です。
 音楽の3つの要素を正しくする。つまり、楽譜通りに歌えない人ばかり教えると、もう、正しさを100点として、そこにいかに近づけるかがレッスンになります。
 プロとやっていると、そこは超えて、歌唱力、その解釈と表現に集中できます。さらに、一流に対して、声そのものの問題にも入れるのです。そこでも、音楽、歌、声と3面からアプローチしなくてはならないのです。
 ですから、CDだけもってこられてもレッスンが成り立つのです。ある歌のレッスンでは、1か月でもっともよいテイクだけ、あるいは、最も悪いのを持ってきてもらいます。前者はコメントですべてのこともあります。後者はそこからのレッスンです。

○思いっきり

 「無理に出すから痛めるのでなく、中途半端に出すから痛める」というのは、メンタルの弱い人はわかりにくいことです。恐れてやると怪我をしやすいのと同じです。メンタルが声を引き出す、心身一体でこそ、超えられるということは、どこかで経験して欲しいものです。
 昔は、役者などは養成所でそういった体験を、よくも悪くも全身全霊で声に対して試みて、何か出せた経験からスタートしていました。なかには喉を傷める人もいましたが。6割はそうならずに、こつをつかむ体験となりました。
 うまくいかない人は、イメージかメンタルかフィジカル(喉)に問題があったのです。それを知って、そのままには続けないで、無理せず丁寧に練習を重ねていったらよいのです。上位の2割の人との心身の差を詰めていけたら、次にそこにワープする経験を積める可能性が出てくるのです。
 
○究める

 声の使い方としては、ピアニッシモや丁寧さから教えるのが今の風潮です。それは喉を壊した人へのフォローとしてもあるべきです。あるいは、自主トレで声を酷使しすぎている人へのレッスン内容です。
 レッスンのときしか声を出さない人には、そういうものは歌のためのバランス調整にしかなりません。一時間しか歩けない体力の人にサッカーを教えているようなことで、そういうレッスンもあり、とは思います。しかし、普通の人なら、がんばれば、いつか10キロは走れるものです。75歳くらいまでなら容赦しなくてもいいです。あくまで例えで、10キロ走れても、声とは別なので無理に走らないでください。
 大きく出せるからこそ、小さくも使えるようになる、それが原則です。いつも述べているように、一見、誰でもできるものにみえるものほど、究めていくのに難しいのです。中音域やアの方が、中級者レベルでは高音域やイ、ウでの発声よりも、次に難題となるのが普通です。

○体を使う

 知性や理性、悟性でつかむものは、形です。体を使えば土壌ならしはできます。耕すことの毎日から、いつのまにか芽が出て花が付きます。そのときに、何の花か、どのような美しさや大きさかは知らなくとも、そのときに種がどこからか入っていたとわかるというものでしょうか。花を夢みることよりも、大切なのは、土を耕すことです。

○ゾーン

 ゾーンとは、ある時間のある感覚で、それですべてであるという決定的なものです。それを得た人、感じた人、みたけど逃した人、少なくともその存在を知る人は、こういうものを理解できるでしょう。
 読まなくてもわかっているから読まなくてもよい。わからない人は読んでもわからないから、読んでも仕方ない。なのに、なぜ、述べるかというと、わかった人が確認してみるためと、まだわからない人が、そのときにこれだとわかる、あるいは自分でわからなくても、誰かにそれだと言われたときに否定してしまわないためです。「こんなものは、違う」とこれまでのレッスンや自主トレーニングなどでの観念やイメージによって判断しないためです。
 
○つかむ

 まったく異なるから、次元が違うのだから、必ずしも、真実の声は瞬時にわかるとはいえません。全体を完全につかんだときならともかく、部分的にそのきっかけだけが来るかもしれません。私は、そのときに見逃したり気づかなかったり、それだと言っても、そんなはずがないと思ってしまう人も見てきました。指摘しても気づかない人もいます。
 勘を磨いていくこと、そして、いつかのときに備えてください。
 
○よい声とは

 よい声について、発声ではよく言われている次の例が具体的でよいかと思います。
1、 自分では大きく出していない、よく聞こえない声がよい。
2、 響いていない声、自分にきれいに聞こえない声がよい。
普段の練習の目的とは全く別のことが、ここでは言われています。1はとても小さく、2はとても大きい声のように思います。しかし、これは同じ声なのです。いつものあなたの声と次元の違う、レベルアップした声なのです。本人が気づかないゆえに出さないし、目指さないような声です。そのため、自主練習中には、ほとんど気がつきません。一人では身につかない声こそ、求められている声なのです。声楽の人はこれをマスケラということに当てはめてみてもよいでしょう。
 
○声の芯とパワー

 これまで自分に大きく聞こえていた声は、喉で内耳に響いてうるさく、外には拡散する生声やこもり声、だんご声です。その判断こそ、よくないとされるほとんどの声からの脱却のポイントです。
 鐘をきちんと叩けば、強くなくとも、その響きを邪魔しなければ、遠くに響くということです。理屈では、初心者でもわかることです。しかし、実際にといえば、ほぼ間違えてしまいます。きれいにバランスがとれて共鳴したように思う声は、小さな部屋ではよく聞こえるが、大きなホールでは全く遠くへ届かないというものです。拡散しないようにまとめ、絞り込んでいると効率はよいのですが、そこでパワーまで抑えてしまった結果、おとなしく落ち着いただけの声になってしまったのです。日本人が、よく誤解して目指してしまう声です。困ったことに、教えている人がそれを勧めるわけです。でも、それも一理あるのは述べてきました。
 響きを邪魔しなければ強く奏でる方が届くことを忘れているのです。いや、もはや指揮者も含めて、経験してきていないというべきでしょうか。
 トランペットなども、小部屋でうるさく汚いほどの音の方が、広いところに出るとぐーんと伸びて、ただ美しいだけでなく、心に響くものになるのです。例えとして適切かどうかわかりませんが、ジャストミート打法であり、ホームラン打法であるというもの、それを目指すことです。

○流れ

 「自分はもっている」と言える人も、ときたま、いるようですが、フォームづくりまでは、プロセスとして用意します。決定的なものとして、つかみ直すのには白紙で臨むことです。本当の意味を知るのに、いつも邪魔するのは、頭、思い込みや偏見、固定観念です。水泳なら水にのる、スキージャンプなどでは風にのる、みたいなことです。フォームづくりで、一所懸命に心身に働かせるのは、その大きな流れを自らに引き寄せるためです。流れに逆らって力をいくら使っても、尽きてしまうだけです。音楽、歌もまた、流れなのです。

○悟る

 発声に限らず、悟ることの難しさは、いくら説明しても伝わりません。無意味で空しいものです。ことばにすることで、批判的、理屈となり、独善に堕ちるからです。自ら得るよりも、他人に説明して理解させる方が難しいものです。
 具体的な方法は、いつもいくつも挙げています。それが理論的や具体的ゆえによいとは思わないようにはなったでしょうか。いつも、どう自分に使うかだけが大切なのです。そこをまずは注意するべきです。
 そのために、批判的な態度をなくすこと、没入すること、無私へ到ることが求められます。それは瞑想のようなものかもしれません。とことん体験していくしかないのです。どう身につけるのかの前に、どう味わうのかです。
 教えないこと、そこで理論的であろうとしないことが、教わりたい人、理屈で考えたい人への誠意ある解答だと思うのです。
 
○捨てる(呼吸法について)

 こつを得たい、それもまた邪心です。リラックスしたい、そうできない自分を感じているのでは、どうしても固まってしまうだけです。それを捨てるしかありません。
 それらは呼吸を深めることで、自ら解き放っていくのです。深く吐けるようになるためには、深く吸えるようにならなくてはなりません。深く吸おうとすると固まってしまうのですから、まずは長く均等に吐けるように時間をかけていく、それが呼吸法というものです。
 勢いよく吐いて体を使うのも悪くありません。しかし、そこは呼吸筋の鍛錬、つまり、体のへ刺激を与えて変えようとしているのです。その必要度を上げて、ギャップをつくり、次に埋めていくプロセスをとるのですから、そこは、しぜんになるまで続けていくしかありません。それもまた、捨てるということです。
 
○荒療法

 ギャップを無理に埋めようとしても却ってうまくいかなくなります。日常に呼吸を意識しなくてはいけないのは危機的な状況ですから、そこで歌えるわけがありません。その拡大版をトレーニングでセットしているのです。それは、無理を承知で無理な状態においているのです。
 これをしぜんに長い年月をかけて発声を習得してきた人や、そういう基礎もなく活動している人がみたら、やらない方がよいと思うのは当然です。その意見に賛同するなら、やらなければよいのです。荒療法はリスクもあります。しかし、待っていられないなら、挑むのも一つのアプローチです。リターンは、人によります。でも、体と呼吸は強くしないと扱えません。この強くということを誤解しないでほしいのです。
 
○シンプルに

 いくらいろんなメニュや方法を寄せ集めて試してみても、一貫した方向とプロセスがみえていなくては、そこまでは大して役立ちません。役立たないから不要ではありません。すぐに役立たないからこそ、本当のトレーンングン尾です。トレーナーはそれを手助けします。
 トレーナーを次々と替えていては同じことです。私は、そのすべてをみえるポジションでトレーナーの方法やメニュ、組み合わせをみています。もちろん、やらなければ変わりません。シンプルに、それだけです。
 
○習得するとは

 トレーナーの方法でよくなったからと、それを過大に評価しては依存になりかねません。教えるのでなく、本人が自ら体得したようにしていかなくては、本人のものになりません。時間はかかる、それで、できたとしてもトレーナーから離れると、本人のものになっていないことになりかねないのです。

○呼吸

 呼吸が深まっていくと、すべて解決するとは言いませんが、呼吸を深めることは切り離せないところです。呼吸で声は出しているのです。
 声楽家は共鳴のプロと言いましたが、一流の声楽家は、紛れもなく呼吸のプロです。呼吸によって発声も共鳴も習得の土壌ができているといえます。
 ここにバレリーナやダンサーやパントマイムの人が、ときおりみえます。発声でなく呼吸の勉強にいらっしゃいます。呼吸には精神力もリラックスも、あらゆる問題の解決のヒントが隠されています。酸素が血とともに全身にいきわたるのを待つように、です。
 呼吸法や呼吸のトレーニングが、あまり役立たないように思われるのは、すぐに成果に結びつかないこと、それどころか、一時、バランスを崩すことがあるからです。
 いい加減な歌やせりふ、発声などはできないようになるから、今のままがよいとか、少しよくなればよいくらいに思うなら、ラジオ体操の呼吸法くらいでやめておくことです。根本的に変える必要もないなら呼吸法などをやっても何にもなりません。そういう人が少なくないのも、そういうものかとも思います。

○プロセスと成果

 呼吸については述べてもきりがありません。例えば、今、最大限の力で持てる重いリュックを持ち上げるときに、呼吸は変わりますね。体の使い方も腰の入れ方も変わるでしょう。それを持って歩いたり走ったりできませんね。でも、力のある人は、軽々と、あなたがハンドバックを持つくらいに、それを扱えますね。それを持って踊ることもできるでしょう。トレーニングとは、そのギャップを埋めるために行うプロセスなのです。
 すでに変わった呼吸では、声は自ずとコントロールされますが、変えようとしている呼吸や変えつつある呼吸ではコントロールできないし、うまく声にさえならないかもしれません。寝起きにすぐ歌うのは、難しいのに似ています。しかし、プロセスを結果としてみてはなりません。結果を出すまでのプロセスなのです。
 
○小さな質問

 こういう大きな流れ、プロセスからみたら、次のような質問は、ほとんど意味を成しません。なぜなら、疑う時点で効果がないし、効果は続けていくことでしか出てこないからです。
 ・息は吐き切るところまで伸ばすほうがよいか。
 ・息を吐いたあと止めた方がよいか。
 ・声(ハミング、息の音)を出して、吐いた方がよいか。
 ・息を吸うトレーニングも必要か。
それぞれ、質問の出るレベルにおいて、いろんな考えがあります。私のところのトレーナーもそれぞれに応えています。状況をみて、よし悪しで答えて、それなりの理由をつけることもあります。そう思って答えるトレーナーもいれば、迷っても仕方ないので迷わないように先に進めるためにアドバイスするトレーナーもいます。
 上の質問について、私は、yes でもnoでも、理由とともに答えられます。また、その結果のメリット、デメリットも言えます。といっても、それも一般論としてのことで、相手とその目的を定めなくては、ほとんど無意味です。と思いつつ、自分とトレーナーの勉強のためにトレーニングをしている人の疑心暗鬼を晴らすために、カウンセリングとして答えているのです。
 
○特別な呼吸法を知りたい

 呼吸は、あらゆるもので扱われているので、呼吸法もメニュもやり方も集めたらきりがないでしょう。特別な方法もたくさんあります。大体、特別というのは、無理ということで、ハイリスクと思えばよいのです。一人で取り組むと、ハイリスクかローリスクローリターンで重ねます。くせだけついて、抜け出せなくなるかもしれません。発声のためなら、自主トレよりはレッスンを受ける方がよいわけです。
 身体がわかってくると、そのトレーニングをやめるあたり、つまり、捨てるところでは身に付く方向にいっているものです。それも踏まえて、何をやってもよいということです。
 
○ふしぜんの理由

 「早くしぜんになるためにふしぜんなトレーニングをする」といつも私は言っています。
 しぜんになったとき、トレーニングは日常ということで置き換えられ、消滅していくのです。少なくとも、トレーニングのままに出してはいけません。
 これはトレーニングということばを技術に替えても、同じことです。しかし、努力やテクニックだけをみて拍手を送るようなところでは勘違いされやすいので困っています。技術を教えて欲しいとか、ハイテクニックを使って歌いたいという人も出てくるわけです。

○一つになる

 どんな方法、メニュも、とは言いませんが、基礎ということで行うものなら、やがて声は一つの大きな動きとなり、流れるように柔軟にしなやかに結びついて一つのまとまりとならなくてはなりません。そこでそうならないものは、現実に使えませんから省いていくのです。
 歌やせりふの中心で声がコントロールできない、バラバラになり両立もできないからトレーニングするのです。もちろん、目的が高かったり、早く身につけようとするのには無理がきます。無理とは、トレーニングそのものが無理なものなのです。
 なのに、「トレーニングするとしぜんでなくなるかもしれない」とか言う人がいるのは、おかしなことです。「トレーニング」も「しぜん」も定義して使うこと、そうでなければ、「しぜんでないようになってないと悪いのか」「歌もせりふもしぜんなはずはないではないか」のような反論もくるでしょう。こういう人は私の「トレーニングは部分的、意識的であり、それゆえにトレーニングにすぎない」というような説明を読んでください。
 一つのプロセス一つの体、一つの声を分析して、それぞれのチェックや調整、あるいは、強化をするのがトレーニングです。直前に筋トレしてから、バッターボックスに入る人やPKを蹴る人などいませんね。
 
○オンとオフ

 スポーツのオンシーズンとオフシーズンにも例えると、オンで力を発揮するのにオフでジムに通います。
 特にトレーニングをせずに、それなりに必要な要素を取り込めてきた勘のよいアーティスト、特に20代までが全盛だった歌い手のような人には、そうでなかった人のことがよくわからないと思います。自分のことも把握していないからです。身についていったプロセスがみえないのですから無理もありません。これはステージでなく、声についての話です。そういう人の話を聞くと「それでは、試合だけやっているのが、スポーツ選手も一番力がつくのでないですか」と言いたくなります。仮に、そういうスポーツがあるとしたら、会社に行っている人のサークルとか、学校の授業のなかのスポーツのレベルでしょう。高校の課外クラブでさえ、今や特別な基礎トレーニングをするのです。
 でも、何をもってトレーニングというのかは、いろんな見方があります。アーティストですから、ステージや作品をつくり続けること、そこに、みえないけどトレーニングが含まれていたらよいのです。しかし、その人はそれでよいというのと、教える相手がそれでよいのかは、別のことでしょう。

○深める

 くり返すまでもありませんが、単独での「正しい声」「正しい発声」「正しい呼吸」などはありません。すべては、どう使えるかの程度問題です。ですから、私は「正しい」でなく、「深い」を使っています。トレーニングは深めていくプロセスです。
 どこまで必要かは、その人の目的によります。とはいえ、ギリギリ使えるよりは、余裕がある方がよいに決まっていますからハードめにセッティングします。つまりは、ふしぜんをわざと求めるのです。
 仮に、歌に対応しうる体というものがあったとしましょう。これはローレベルでは誰もがもっています。音痴の人でも声が出るなら歌える体です。それでは、ハイレベルでプロ(ここでは、本当に声だけとしてみるのですが)として歌える体、そして、誰が聞いてもプロとして通じる歌える体-となると、オペラ歌手とか邦楽の第一人者のように世界レベルの最高のヴォーカリストの体が、感覚も含めて、その条件ということになります。そのように仮定して、トレーニングをセットするとはっきりしてくるのではないでしょうか。
 
○高める

 ヴォイトレは、「高い目的に強い必要度をおかないと大して使えない」ということです。その必要度は、これもアスリートで例えます。オペラ歌手やアスリートの例を出すのは、今のヴォーカリストでは定義できないからです。
 世界レベルのサッカーの選手は試合で10キロ走る、その体力、筋力をトレーニングのわかりやすい基準の例とします。すると、ただの10キロの体力では無理です。動きも変化するし、猛ダッシュもあるし、15~20キロ走るのが最低限とみます。一試合90分、休憩があるから10キロで充分という人もいるでしょう。でも、延長になるかも…。15キロ走れないなら、ゴールキーパーしか可能性はないと思います。日本のサッカーを楽しんでいる人のどのくらいかはわかりませんが、仮に、シュートやドリブルのテクニックが最高でも、この体力なしではノミネートされません。そして、次の段階で、1ゲーム8キロしか走らないのに得点に絡むメッシの動きに学ぶようにするのです。

○地力

 毎日のサッカーの練習でしぜんと20キロ走っているという人や陸上の長距離の選手から転向した人は、トレーニングはいらない、小さい頃から毎日10キロ走ってきたような人も、その日常をキープすればよいことでしょう。つまり、プロの体があるからです。
 それがない大多数の人が身につけていく必要があるのが、トレーニングの目的です。20キロを目指しつつ、5キロ、10キロでも、今よりよくなれば、それだけプレーに有利になるのです。
 体が資本なのは、皆よくわかっていらっしゃいます。しかし、体づくりについて、スポーツでも長い歴史のなかで改良されてきました。一方、アーティストは、表現や媒体なども変えてきたゆえに、改良の歴史は浅いのです。
 でも、声以前に、人前に90分立ち、動くだけでも相当の体力はいります。つまり
1、 手の付けやすいところから力をつけていく。
2、 目的に対して必要な使い方の優先順位をつける。
これは、人生の時間の使い方の優先順位になります。若いときは、目的がわからなくて、その必要も絞り込みもできないから1、一方、大人は人生を逆算するとしたら2をメインにするとよいということでしょう。ここでの体力とは、そのまま声力、呼吸力などに置き換えてもよいと思います。

○鍛える

 トレーニング自体、無理をしていると思えば、その抜け方もわかります。「リラックスしようとがんばっているのですが」それではリラックスできませんね。こんなふうに逆のことをしてしまうことも少なくありません。
 しかし、こういうことは、対立しているようで、長く続けることで自ずと解決します。慣れによって、しぜんと止場、昇華するのです。なぜなら、がんばらない、力を抜いた、で、リラックスできないゆえにがんばってしまうのですから。がんばってがんばって、力を入れて入れていくと、いつかはいつかは、がんばれなくなり、力が入らなくなり、その辺りでいつしかできるようになっているのです。
 これは、昔のフィジカルとメンタルを重視したスポーツのトレーニング法のよさです。1000回スイングすると力が入らなくなって、もっともしぜんで理想的なフォームになる。ポップスもプロの歌い手の大半は、そんな感じでうまくなったと思われます。これも、合う人にはよい方法です。
 しかし、プロになれた人が言うのと同じことをして、プロになれない多くの人をみていますと、よほどのセンスやイメージがないと、結果として、理想に辿り着けません。そういうときは、プロでなく、さらにハイレベルの一流に学ぶようにするのです。
 
○レベルの向上

 カラオケの人の歌のうまさは、あるところまでは練習量での慣れです。その後は、時間と上達が比例しないのもわかっています。つまり、年齢と練習量に対し、キャリアや実力は別になっていくのです。
 疲れるほどのトレーニングでも精神を乱さず、集中力をつなぎ、フォームの把握にとことん厳しかった少数の人だけが、いつしか脱力できてよい結果を残します。しかし、そうでない大半の人は脱力して崩れたフォームになっていくからです。そうなる前にコーチがストップをかけた方がよいのです。
 バッティングセンターの使い方として、4球みて1球打つ。歌も10回聴いて1回歌う。これは量の時代から質へ入るレベルのときにアドバイスしています。つまり、何十球打ったとか、何十曲歌ったという量と時間だけでの充実感、満足感で終わることを戒めるのです。目的を間違えないことです。大切なことは、今のレベルをどう上げるかです。
 となると、コツや技術ではなく、呼吸が全ての根源です。それが未熟かつ浅いものになったがゆえに歌は力を失いました。お笑い芸の一部の人は天下をとったのですが、それは、ネタの力だけでなく、まさに声力、深い呼吸の力なのです。

○下位の呼吸

 呼吸をよくすれば、全てが解決すると思って始めるような呼吸法はよくありません。私は、本を書くのに、体―呼吸―発声の順で進めましたが、唯一、カラオケの本だけステージから始めました。
 レッスンは、体や呼吸から始めません。歌やせりふ、フレーズを聞いたり、声に出してみて、そこでうまくいかないところをみていきます。およそわかったら、発声のなかで呼吸をみます。呼吸だけのトレーニングは、その後に触れます。
 多くの人が呼吸(法)を身につけられないのは、その必要性を頭でしかわからないからです。頭でわからないから本やレッスンで学ぼうとして、メニュや方法を調べながらやっています。最近では生理学や解剖学までも学べますから、そういう周辺のことばかりに気を使っているわけです。伝わらないのは、できていないことを知るプロセスがないからです。
 大切なのは、必要性を体でわかることです。体で足りないととことん思わなければ、変わりようもありません。なぜ、すでに“正しく”生きていてしゃべっている、充分にしぜんに一体として使えている呼吸が変わるのでしょうか。腹筋トレーニングの上体起こしなど腹筋と呼吸トレーニングの関連については先に述べました。筋力は大切ですが、それだけで声に結びつくのではないということです。(「論点」参考)

○上位の呼吸☆

 筋トレなら、不足がわかりやすいから、若干の考え違いはともかく、アプローチとしては悪くないのです。体で不足を知るから体が補おうとして力がつくからです。
 私は、相手のことが相手よりもずっとわかっています。しかし、こちらから「呼吸法が必要ですからこのようにやりましょう」とは言えないのです。なぜなら、実用性を本人がわかってこそ効果となるからです。
 むろん、若い人には、息吐きトレーニングをランニングのような意味で勧めておくこともあります。わからないままに過ぎてしまう時間は活かしたいからです。
 呼吸法で身につかないのは、やり方だけをやっているからです。呼吸法のメニュだけをやっているからです。声や呼吸を深めるために呼吸法を使うのであって、呼吸法をマスターするのではありません。それでもやった方がよいのでやってください。
 発声が歌によって音楽性を保った動きになるように、呼吸もまた、上位のイメージによって声に使えるように身につくということです。
 ときに呼吸はよいけど、声に結びついていない人が大勢います。日常の声では、ほぼ全滅ではないでしょうか。そこで芯や共鳴の話をしているわけです。
 本当は、呼吸の必要性を声から感じる、その結びつきをいかに感じるかによるから、レッスンもあるわけです。呼吸、発声、共鳴と、トレーナーが、先に答えややり方を与えてはいけない代表例として述べてきました。

○本当の難しさ

 脱力からシンプルにしていくことを知っていくことです。しなやかでも強い水のようなのが理想です。岩を穿つ雨粒のように、水は一見対立しそうな二つの性格をもっています。二極化と私が述べた日本の状況は、同時に二極を統べていこうとする私のトレーニングの本質を表しています。
 達人は、簡単に難しいことをこなします。普通の人には同時にできないこともやってしまいます。器が大きいと別々にならないのです。しかし、普通の人は一方しかみえないのです。その一方だけでも難しいと思ってください。何よりも、本当の難しさに気づくことが難しいのですから。

○開き直る

 うまくできないことや失敗は、気にせず、開き直っていくことです。悩み抜いても悩みは晴れないのですから、明るく振る舞うことです。そうでないと、悪循環に陥ります。自滅しかねません。その底から自らを根本的に変えるルートもあるので、最悪の場合でも心配することはありません。
 深めていくことを妨げる助言はしたくないのです。努力、苦労、一見すると大きな無駄から態度や構えといった大切なものが現れてくるからです。
 ですから、どうするべきか、何をするべきかでなく、するべきことをする、それでよいのです。することをしないから、そういう迷いが出るのです。それが台無しにしてしまうのです。

○ノウハウの浅さ

 大体において、頭を使うと、ものごとは2つに分かれてしまいます。そして、その間を行ったり来たりして迷うわけです。高く出すと大きく出ない、大きく出すと丁寧にできない、小さく出すとピッチがゆらぐ…。すべて、本当はそこでの問題ではないのです。
 理詰めで考えて、その間のメニュをつくることもあります。A―Bの間にたくさんのメニュを詰めて、ギャップがなくなるように埋めていくのはわかりやすい解決法、つまりノウハウです。私もいくつか紹介してきました。
 しかし、本当はA、Bは対立するものでなく、解決もその間にあるものではないのです。でも、早くカバーしたければ、それも一つの方法です。本当は一時しのぎの処方で、根本的な解決にはならないことが多いのです。
 すぐに、どちらかをよい、どちらかを悪いと決めつけてしまっていることが少なくありません。発声として、アはよいが、イがよくないなら、アとイを混ぜたような音を間に入れて詰めていくとよいというのは、A-Bの間を詰める処理法です。しかし、本当にアがよければイもよいのです。アにこだわったら、イもよくなるのです。あまり違いにこだわると、失敗やミスを恐れることになります。すると、構えもフォームも呼吸も浅くなり、最低の条件を満たせなくなり、できなくなるのです。
 
○悪い頭☆

 頭を悪く使うと悪い頭になります。悪い頭のときは使ってはなりません。頭を使わないのがよい頭です。頭をよくしようとせずに悪い頭を使わなければよくなります。
 うまくいくと信じなくてはうまくいきません。何事も、うまく活かさないとうまくいかないのです。うまくいくように活かせるのは、その人の実力です。うまくいくところをしっかりとやるからです。どんなことも、どんなものも、どんな人もうまく活かします。
 うまくいかないのは、その人の考え方です。うまくいかないところばかりやっているからです。どんなことも、どんなものも、どんな人もうまく活かせないのです。それは、そういう人の言うことを信じるからです。類は友を呼びます。朱に交われば赤くなります。
 とはいえ、あまりうまくなりたいなどと思うと、それもまた邪心となり、フォームが崩れます。
 トレーニング中は、あえて、明るくする。それは本番のステージのリハであるからというよりは、ステップアップのための前向きな態度を維持するためです。

○あてる

高い声に届かせようと、あてようあてようとするとあたりません。仮にあたっても、大してよいものではないのです。魅力的な声でも、表現できるキャパシティのある声でもないからです。カラオケなら届けば充分です。
 ただ、あたればよい、あたったら次にいけるように考えるのは違います。それは、高い声コンクールとか、大声大会の目的にしかなりません。あてるのでなく、あたる、いや景品狙いの射的ではないのですから、あてるというイメージもどうなのでしょう。響かせるとか、届かせるとかも、あまり使いたくないことばです。
 要は、部分的で意識的であるトレーニングだからこそ、意識的にセットをしたあとは、できるだけそうならないようにすることが大切です。より深く絞り込むことで、部分的に意識を解放するのです。

○出しながらチェックしない☆

 前に高速道路の走行中に横や近くにいる人を確認しても仕方ないようなことを述べました。できるだけ先をみるようにと。
 声を出しながらチェックするような人がいます。声は出したらもう出てしまうのです。出し終わってから反省するのはよいですが、チェックしようと頭が働いた時点で、すでにそれは違っているのです。途中で止めて、自分でチェックするのは、高度すぎることです。録画でトータルをみて部分的にチェックするならともかく、同時進行はあまりよくありません。そもそもチェックとトレーニングは別の目的なのです。☆

○待つ

 トレーニングとして、無心に集中する。そうしないと、全体、全身が働けません。その前にどういう目的でどのくらい何をするかということをセットしておきましょう。そして、その結果、次をどうするかということです。
 トレーナーが適切なメニュをくれるのなら、無心に淡々とこなすのがよいでしょう。あまり、できないところを狙ったり、上手くいかないところにこだわり、そこばかりくり返すのはよくありません。中途半端なやり方でのカバーを覚えてしまうと、抜け出せなくなります。それはステージでの特別な技か非常手段です。それをテクニックなどと思ってはなりません。
 芸事には待つしかないということがあります。待てることが才能なのかもしれません。考えること、聞くことも回答も不要、下手な考え休むに似たり、と言います。

○質問する

 質問する人のなかには、質問で解決しようと思っている人が少なからずいます。体で何かをマスターしたという人生経験をもたない人にとても多いです。学業優秀、特に暗記反復での成績のよい人などは、そのことを疑いません。
 私が質問を受け付けるようになったのは、質問と回答のやり取りでの、あまりの不毛さからです。現実にカウンセリングやレッスンでは、コミュニケーションの場として、ことばを交わすこととして大切に思っています。メールなどでは、ほとんど役立たないと知った上で、それを知らしめたくて応じているところもあります。ですから、本当にすぐれた先生はそんなことはしません。それで片付くと思うべきではないのです。
 
○「トレーナー共通のQ&A」

 トレーナーに同じ質問に答えてもらう「トレーナー共通Q&A」というのを、好評につき連載しています。私やトレーナーの勉強にもなります。
 私のところのどのトレーナーも、文章だけで答えても誤解が広まるばかりと知っています。しかし、答えなくても、皆、迷ったり悩んだりして考えるのなら、先に答えを知ってしまうのもアプローチの一つとして選択の枠を広げているのです。誰かの1つの答えを信じたり疑ったりするくらいなら、たくさんの解答例から自分で考える習慣をつけた方がよいからです。
 私も、他のトレーナーの答えを聞いて、それを信じてしまうくらいなら、そんなものは100のうちの1つにも過ぎないということを示すのも新鮮だと思いました。そこで、わざと比較するようにしたのです。その結果が、同じ問いに対する十数名のトレーナーによる十数個の答えです。
 これを十人の相手に対して、とするなら10×10で100の組み合わせができるでしょう。いや、1人に1人のトレーナーが1つのやり方ということではないので、もっとあるでしょう。それよりは、レッスンでの手取り足取りの方がリアルです。

○没入

 声にこだわるなら、生涯、いやとりあえず、今日の一日は、声のことに没入しなくてはなりません。我を忘れるほど集中できたときに、ようやく準備ができるのです。この状況をレッスンでつくるのは並大抵ではありません。プロは、瞬時に切り替えることができるゆえにプロです。
 レッスンというのは、どうしてここまで相手の声、声の裏までみえるのだろうとわかると、自分が受けていたころを思い出し赤面する思いです。しかし、集中していたので、自分を恥じても、何も恐れはしませんでした。そのくらいでよいと思うのです。恥をかきに来るのがレッスンだからです。
 
○記録する

 私は、ノートをつけていましたので、生徒にもノートをとり、トレーナーへレポートを出すように勧めています。いわゆる日本人に合った勉強法だからです。それに囚われると、形だけになりかねないのですが、長い眼でみて、今よりも先のために、いつかのためにと、考えました。
 先よりも今というのなら、今に専念すればよいので、ノートをとりながらのレッスンは勧めていません。ただ、レッスンの後に思い出さないと、1回のレッスンは1回で終わります。全日制ならともかく、週1、2回のレッスンでは、それ以外の日々の方が長いし大切です。記録は、いつか役立ちます。

○静かなレッスン☆

 リラックスしたら何でもできます。多くの問題は、体のリラックスであり、心のリラックスが前提であるのに、それが伴っていないことです。むしろ、心、メンタルから体が解放されるべきです。
 アーティストにたるみは不要です。常に強度の緊張、プレッシャーが伴うのです。緊張をなくすのでなく、それを楽しむことをリラックスといっているのです。
 静かなレッスン、本当によいレッスンは、とても静かです。沈黙の中で、スタジオ内も心の中も真空のようになります。どんな周りの条件にも影響されなくなっていくのです。とても心地よく感じられます。私は、そのために、けっこうゆっくりとしたレッスンを取り入れています。
 
○型の自由

 訓練とは反復のことです。上達とは、それが重なっていくにつれ色づいていくようなものでしょうか。ただ、色づくなかにも、褪せるのも変わるのもあります。鮮やかに発色し続けるには大きな情熱がいるのです。
 日本の芸道は、師の模倣中心で、説明や質疑応答のないものでした。長い時間を経て、師の模範から型が体得されると、逆に、初めは堅苦しかっただけのものが、いつ知れず自由な表現のためになくてはならないものになってくるのです。マナーや礼儀作法とも似ています。今でも、あらゆる職の高度な技術などでは、こういう伝授で行われているのです。

○背景・バックボーン☆

 才能があるという自信などは、才能のある人たちとの仕事をしていくうちに消えてしまうものです。才能でなく、誰よりも時間をかけてやってきたからできるという、あたりまえの理由をつくる。やってきたからという理由なら、やっていけばできるようになるという自信にもなります。足らないものに気づいて、何らかを補って、創り出せるということが実力です。
 アーティストなら、自分の正統性を主張したくなるものです。私はこれだけのことをやってきたから、これがよいとか、目指すべき目標と本人が歩んだ、いや、歩まされたものを、他人に押し付けるときに間違いが生じるのです。過去のノウハウは、過去のものとすべきです。
 その正統性は、アーティストのものではなく、アーティストたらしめたもののおかげですから、学ばせるべきものは、アーティストその人の人生や、やり方ではありません。アーティストを通じて、アーティストたちの後にある、大きな力、それに触れさせ、そこからの力を活かせるようにセットすることです。背景・バックボーンを整えて保つことなのです。
 ベテランの船乗りだって、弟子には自分の育ちや戦果よりも、海のそのものを知らしめるようにするでしょう。
 
○超える

 師は弟子がわかると述べたが、弟子は師を読めるようになって初めて、師を超えられる可能性をもつのです。こうした以心伝心は、日本に限ったことではなく、偉大なことを成し遂げた人たちの間ではあたりまえのことです。
 そこでは、あたりまえでないことがあたりまえになるプロセスをどうとるかなのです。自分を学ばせるのでなく、自分の背景を学ばせる。自分のようにするのでなく、自分を超えることを学ばせようとする指導者は、日本にはほとんどいません。一方、学ぶ人が学ぶべき師を選んだり判断するようになって急に衰えました。そうすると、自分の理解のレベルの人しか選べないからです。

○技術とノウハウの壁

 トレーナーの中には、とことん技術論に入っていく人がいて、ここにも、たまにいらっしゃることがあります。そういうときは、せっかくなので、いろいろとお伺いします。私は、本当のところ、知にはあまり興味がないのですが。
 そういうことはトレーナーに話を聞いて頭に入れておくようにしています。他のトレーナーに聞かれたときに、誰々はこう考えているとお答えするためです。
 技術で乗り越えようとすることは、正しく学んでいこうとすることを強いることになります。自らに自らが強いるのですから悪いことではありません。ただし、他人を教えるとしたら、他人に強いることになります。これは、気をつけるべきことです。
 ともかくも、「他人のノウハウは使えない」からです。使うにはその人がそれを開発したくらいの手間がかかるのです。それなら、自分で開発した方が、自分にとってもよいのです。他人のノウハウを得た上で、自分流のアレンジをすると2度手間になるからです。多くは、ノウハウを吸収しきれないうちに終わります。そこで、私は、ノウハウでなくその生み出し方をこうして伝えているのです。
 
○目標にしない

 技術は、質問したり議論したり、自問できるからよくないのです。それを拒むもの、みえない技術ならそれはよいと思います。トレーニングがトレーニングとわざわざ別に言われるように、技術もまた技術と別に言われるところでよくないのです。技術でみせた、とは、本当の達人ならしぜんにみえたとなるのであり、技術がつきまとうなら二流ですから、目標にとるに値しないのです。
 わざわざ目標を落とすことはあるまいと思うのですが、一つ使えるとしたら、最悪のときやうまくできないもののカバーテクニックです。
 
○本技と余技

 正直に失敗してよいのはレッスンのときだけで、客の前には出せないのです。そこで、カバーテクニックは、プロの商売道具として、このご時世では必要です。ですから、私も、余技として、いろんなテクニックをやっておくことには反対しません。
 しかし、それは中心として学ぶべきもの、基礎となるべきものとは違います。その区分けがつかず、それを自分の実力やテクニックと思っている人が多くなってきたので困っています。客が、そういう技術を喜んだり、ブラボーなどと言うからよいと思ってしまうのでしょうか。どうもファンサービスと割り切っているようにみえないことが多いのですが…。
 歌がうまくいってもいなくても、客の評価も本当はどうでもよいことです。オリジナリティ、その感覚、それをきちんと剥き出すことに専念してもらいたいものです。
 なのに、カラオケのエコー全盛で、歌手自身が、それを隠すことを歌と思うようになってしまいました。そして、その人の歌の力というのは激減したように思います。

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