歌の判断について No.289

※Q.好き嫌いでなく純粋に優れているか、という視点で聞くことは、どうすればできるのですか。

A.私の立場は、声をみることです。だから、歌としてのよし悪しの判断は、本当のことをいえば、どのように周りから必要とされてきたかということによるのです。しかし、それでは日本の場合、あまりにぶれるので、声と同じく、声を基にした絶対基準を養ってきました。特に、人を育てるときに、どういう視点をとれば、どうすぐれているかがわかるのか、そして、どう伸ばせるかで判断しているのです。
 最初に、これまで述べてきたことをまとめておきます。
・声のよし悪しと歌のよし悪し、また、ステージのよし悪しは、次元が違う。
・声のトレーニングと作品として切り出された歌は、目指すところ、ありようも異なる。
・歌といってもCDとライブは異なる。
 とはいえ、ヴォイストレーニングや発声は、歌手にとっては歌のために行われるのですから、結びついています。(ここでのヴォイトレは、歌手のヴォイトレとする)
 ただし、ヴォイトレのあり方によって、
それが歌というものの前提、基礎になることも、
同時進行のプロセスとなることも、
歌よりヴォイトレが声に関してはより高いレベルを求めることも
あります。つまり、ヴォイトレ→歌の一部、ヴォイトレ=歌、ヴォイトレ>歌、のようにいろんな関係があります。トレーナーは、このうちどれか一つの立場をとっているものです。
 私の判断評価については、声中心です。声の中に歌とみる、つまり、声>歌です。しかし、それは理想であって、現実には、何とか歌の形を整えるために声を切り貼りしてつなげていることもあります。現実の仕事は、仕事としてステージ→歌(→声)でくるからです。
 他の仕事でも、声の本質は、何年かに一度でも垣間見られたらよいといえるほどです。
 これは本人のオリジナリルな声と、作品として使いやすい声とが、未だ、日本では一致していないからです。一致しなくてもプロといえるから、いつまでもすぐれていかない要因であると、ずっと指摘してきたのです。(参考「読むだけ…」)

○歌の声

 カラオケの点数のように表面上の判断でうまくなるというのは、ピアノでいうと自動演奏ピアノの演奏です。それは、幼児や、習って2、3年の大人よりはうまいでしょう。ミスもなく、メロディ、リズムも完璧です。しかし、そのコンサートはありません。もし、イスにモデルが座っていたら、日本ならありうるかもしれません。新車発表のコンパニオンやレースクイーンの役割のようなものでしょうか。本来、ピアノのコンサートは、ピアニストの個性、演奏のオリジナリティを聴く人が観客だからです。
 バイオリンあたりになると、日本人はやや怪しいです。歌は怪しいどころか、口パクもありなのですから、果たしてどこまで歌や声や本人のオリジナリティで評価されているものやら。ただでさえ人の声とことばは、楽器の音や演奏のように客観的な比較は難しいのです。ですから、歌に限って述べることにしました。
 これを、音程、リズム、発音などの判断となると、論じるレベルが下がるので、そこはカラオケの先生やヴォーカルのアドバイザーに任せて、まっとうに歌えるというところでの判断でいきます。
 とはいえ、今のヴォーカルの大半は、シンガーソングライターであり、作詞作曲、さらに自演ですから、現実的にはアレンジやステージパフォーマンスまでの総合点となります。私はこれらのうち、声からの歌に、声からのパフォーマンスに限定して述べます。
 カバーアルバム全盛時代となりました。それらもスタンダードナンバーで実力やオリジナリティを比べるものとして使えます。

○声のよし悪し

 声のよし悪しは、どのくらいの問題になるのでしょうか。
 「ガラガラ声でカエルのよう、と叩かれた。大事なのは真実を語っているかどうかだ」(ボブ・ディラン、2014年グラミー賞のプレ・イベントにて)
 オペラ歌手の評価をするのではないから、声の美しさにはあまり関係なさそうですね。声だけでなく歌詞の内容や曲、ステージなどもトータルとした世界観、それによってアーティストたるものが決まってくるのですが、私が述べていくのはそういうところではありません。ヴォイトレをする人にとっての考え方、取り組み方、学び方に過ぎません。
 どんなアーティストからも学べるのですが、声やその使い方について、ボブ・ディランは、あまりお勧めしてきませんでした。トム・ウェイツなどと同じように、声やその使い方でなく、作品においての声の存在感、アピールとして参考になるとしてきました。
 声のよし悪しなどは、歌でつくりあげていく音の表現の世界にとっては、ツールに過ぎないといえるのです。むしろ、声として発声としてあまりよくないとしても、よくないのをアピール力として使える武器として、喉や発声の弱点さえ、長所にする例として、取り上げてきました。
 私の本には、出していなかったので、ここであげると、日本では、忌野清志郎綾戸智恵吉田拓郎、玉置浩ニ、桑田佳祐なども入りそうです。以前なら、松任谷由美中島みゆき(以上、敬称略)も入れたでしょう。

○声力と耳力

 他の例として、エディット・ピアフの見出したアーティスト、弟子や愛人として、シャルル・アズナブール、イブ・モンタン、シャルル・デュモン、テオなどは、この順で声力、歌力がすぐれているといえるでしょう。ジョルジュ・ムスタキなどは別の流れに思えるのですが。
 有名とか無名ということでないのですが、耳の肥えた国、聴き手が自立している国では、大衆の好みや支持とアーティストの実力は一致します。日本でも1960年代まででしょうか。少なくともポップスの台頭時には一致しました。
 そこではラジオとレコードが歌を大衆化させたのですから、ルックス、スタイル、ステージパフォーマンスよりも、声力が評価として勝っていた。声と歌、耳だけで判断していたのですから、あたりまえのことです。今やオペラでさえ、ルックスやスタイルの問われる時代です。耳の力が著しく落ちていくのは、当然の流れともいえるでしょう。

○考え、悟り、知る

 歌を聞いて楽しむのに頭はいりません。しかし、歌っていくには、誰しもが感覚だけでよくしていけるわけではありません。とはいえ、聴いては感覚をよくし、歌ってはよい感覚で向上させていくのは、ベースのことです。
 トレーナーとなると、プロで長年歌っている人の声を聞いて、声そのものでなく、ときに、歌、あるいは歌だけでなく歌詞やメロディやアレンジ、演奏にまで言及せざるをえないときもあります。つまり、声で解決できるのが根本的ゆえ、時間もかかるし不確かなのに対し、アレンジや演奏での解決を加えるのは、確実かつ負担が少なくなるからです。ヴォイトレは、そういう方向で使われるのが、むしろ普通といえるのです。
 今はこうで、このようにしたいからこういうトレーニングをするというところを、声のところで納得させなくてはいけないのは大変なことです。時間や練習量、その他の事由でそこまでいかないケースも多々、あります。
 その際、「今はどうなのか」をどう伝えるか、は難題です。「このようにしたい」などと好き嫌いで言っても仕方ないでしょう。むしろ、「このようにせざるを得ない」というケースも少なくないのです。将来のイメージを歌い手に描かせ、トレーニングの方向を一致させていかなくてはならないのです。新たな挑戦の場合、トレーニングの結果がどう表現に役立つかもわからず、見切り発車のときもあります。およそは、経験に基づき、そこから修正しつつ、みていくのですが。

○若いときのような声にする

 元に戻すとか回復というのは、そのときの音源があれば
・可能か不可能か、あるいは、その可能性
・それによって得られることと失うこと、もしくは出てくる問題
・どのくらいで結果が出るか、あるいは判断できるか
などについては、およそわかります。

○これからの声

 これからアーティストになっていくような人は、結果として、何かしら声を出していくのですが、それをどのように活かしていくのか、よしとするかどうか、この2つを経なくてはなりません。
 最初は状態を調整します。欠けているものがあるなら補います。どちらにしても呼吸などの条件づくりを併行します。オリジナルな声は誰しももっているので、そのうち引き出せます。問題なのは、そこからの動き、フレーズとしてのオリジナリティです。
 プレイヤーのいう自分の音とは何かということです。この音には、音声とともにフレーズの変化が含まれています。プレイヤーのいう「自分のタッチ」です。それを求めてトレーニングをするというのは、ここでのレッスンならではのことです。
 
○トレーナーとプロデューサーの判断の違い

 アーティストは、自らの練習や活動のなかで、感覚的に聴衆の求めるものを出していくものです。自らのやりたいものと人の求めるものは、必ずしも一致しません。
 トレーナーとして、私は本人のものを重視しますが、プロデューサーは、お客の求めるものを重視します。これもあたりまえのことです。
 瞬時に切り出す作品にかけるプロデューサーと、安定した高度な実力をつけていき、生涯安定してよい状態で声を出せるようにしたいトレーナーとは、ときに水と油の関係です。しかし、仕事ということでは、まずは売れてこそ将来もあるのでトレーナーも妥協しがちです。すぐそこの売り上げをみては長期的なハイレベルの理想追求に専念できません。
 アマチュアや一般の人の方が、その自由があるので、私は一時下野して一般の人と試みていました。その間、音楽業界、特に歌い手やレコード会社は、浅い声での安易な音づくりをして自らの首を絞めていったともいえるわけです。

○プロとアマチュア

 私は、趣味の人やカラオケ通いの人のことを述べたいのではありません。私は、カラオケの好きな人ほどの曲数の歌は知らないでしょう。プロの歌い手も自分の歌を歌っている分、他の人の歌や流行などを歌が趣味の人ほど知らないでしょう。
 普通の人よりは、どこかの分野について深く詳しいのがプロで、浅く広いのがアマチュアです。もとより、知ることにおいてでなく、歌うことにおいて歌手はプロであり、声を育てることにおいてトレーナーはプロなのです。要は、ここで述べたどこかをどこにとるかというのが、とても大切なことになってくるわけです。トレーナーは、そのサポートをプロに対しどこまでできるかが問われるのです。

○声で型になる

 人の感情に働くように声が導かれる、するとそれが型となり、より馴染むようになってくる。それの味わいが細かく分かれて通の人が出てきます。すると、マニアックになり、それについて行けない人が離れていく。
 聴くのがうまい人もいれば、それを語るのがうまい人も出てきます。ちなみにトレーナーには、聴けること、語れることの才能が必要です。歌い手は教えるときに歌えればよい。トレーナーは歌い手に歌ってみせるのでなく、イメージをもたせることばやジェスチャーを使えなくてはなりません。相手が低いレベルならカラオケの先生のように歌い口伝しますが、それは目的が異なります。
 クラシックというのは、そういうものを体系化しました。例えば、ABAのソナタ形式という型、構造を捉える。しかし、ポピュラーでもAメロ、Bメロ、サビなど、どんなものも型にはまってくるのですから、似たようなものです。
 ここで私が聞くのは、型に声をはめるのでなく、声で型になる、そのプロセスを歌い手が、体からの息や感覚で型の元にある本質的なもの、人の感情を動かす動かし方をとっているのかということです。
 
○歌なのかという疑問

 クラシックの評論家は、知識、考え方を基に、先例も踏まえて解釈し評価していくのですが、私は、そのときにしか関心はないのです。一声10秒でも作品とみるのです。むしろ、その型に囚われた形を守るがゆえ、退屈極まりない歌とたくさんつきあってきたのです。
 私は、声でも声が聞こえなくなってこそ最高と思っているくらいです。歌わなくてもよいところまで歌が使われたり、声が使われるようなのは、どちらかというと我慢できないのです。
 歌を愛していないと、歌に対して厳しく判断を下せないのだと思います。「歌はすべてすばらしい、歌だから」という人たちがたくさんいるのはよいことです。しかし、「それは歌なのか」という疑問をもつことがあってもよいのではと思います。

○歌の存在価値

 ある状況において、歌えない―そういう体験は、このところの日本でも世界でも少なくなかった。そういうときに、今一度、歌の存在意義を考えてみるのもよかったと思うのです。
 私がそのときに考えたのは、自由に歌っているような歌などはないということです。
 常に、歌は、ある限られた時空のなかで人間と関わって存在しています。たとえ声を出さなくとも、歌わなくとも、そういうものとしてあるのです。
 ならば、声をあげるとは、歌を歌うこととは、そこに何を試み、出そう、伝えようとするのかということです。それで伝わると、どんな声もトレーニングの次元を超えたものになります。トレーニングをしたから、それができるようになるのではないのです。そういうことからトレーニングの無力さをも感じることもあります。
 それゆえに、ヴォイトレとは何なのかを考えることになるのです。そういうものではないのでしょうか。自由に歌を聞くことができない。トレーナーを選んだときから、あるいは、歌い手を選んだときから、そうなる覚悟をしていたのでしょうか。

バイアス

 自分の生まれや育ち、そこで聞いてきた歌とそうでないものとは、受け止め方が違うのは当然のことです。仮に、その時点で聞かなかったとしても、同じ時代の歌なら似ているので、後々知ったとしても入り込みやすい。そんなことで、その人の好きなジャンルやフィールドがつくられていきます。
 とても困るのは、自分はどのジャンルの歌が合うかとか、ジャンルが別の発声や歌い方を教えてくれと、今でも少なからず言われることです。まだ、具体的な曲名とその歌い手を挙げてもらえたら、それなりに相違点を見出して言いようもあります。ただし、私は、ジャンルを認めていません。発声としてマイクを使わないものは、使うものより、声に問われる条件が厳しいとはいえます。それとて、マイクをごまかしで使わないなら、厳しさのレベルでなく、要素が違うということなのですが…。声なので届くこと、声量、共鳴については、基本の条件です。重要度が違うということです。ただ、クラシックは世界の中でも特殊に思われます。

○好み

 これまで、好きで聞いていてもその歌に飽きることもあれば、突然、あまり聞いていなかった歌が好きになることもあります。いつの間にか、ということもあります。
 この辺りの歌の分析は、分析である以上、ことばで行うので、いつも歌詞が取り上げられてきたのですが、そこは私は省きたいと思っています。さらにメロディやリズムも楽譜での解説はなされてきたので、そこも省きます。そんなものは、作曲した人の今日での優劣であって、歌い手やその声の使い方で、何とでもなるからです。何とでもしてきた歌い手の力と声に学ぶようにすることです。

○言い換えより声の力

 よく、ことばを言い間違えると失礼になるとかならないかとか、ことば遣いでモラルとか好感度アップなどいうことがいわれています。それとて、知らない人とのメールでのやり取りならともかく、電話でも会話でも、声の使い方やパフォーマンスでどうにもなるわけです。無愛想な人が、こもった声で何を言ったところで受け入れられにくいし、若くてルックスがよく、はきはきした子なら、最低のことば遣いでも周りは楽しくなったりするのです。それでも、ことばと間であって、声については、あまり触れられてこなかったように思います。
 マニュアルとしても、ことばを文字の訂正で表せる言い換えはわかりやすいのですが、声の感じは発声や動画でないとわかりにくいでしょう。さらに自分の声と違うのだから、なかなかギャップが埋まらないのです。聞いたり見たりしたくらいで直るものなら、20年くらいも生きていたら、それだけで直るはずです。
 生まれや育ちの環境からの悪影響も大きいのですが、同じように育っても全く違うタイプもいるわけです。ですから早く気づくことから深く気づくことへというレッスンが、ヴォイトレの目標です。それゆえ今回のテーマも大切なものなのです。

○通

 コーヒーをあまり飲まない人には、コーヒーはおいしくないか、体に合わないのかもしれません。昔、マクドナルドのコーヒーはまずくて、今思い出しても、起きぬけや体調の悪いときは吐きそうになりました。しかし、それを気にせずに、おいしいと飲める人も少なくなかった。コーヒーが好きな人は飲めなかった。でも好きでも飲める人もいたのです。
 昔は、日本のコーヒーはアメリカンとホット(ブレンド)くらいだったのに、モカとかキリマンジェロとか出てきて、酸味とか深い煎りとかを教わらなくても、味覚の軸ができて細かく分類できるようになっています。
 店や淹れる人によって、豆によって、同じモカでもピンキリでしょうが、それぞれに好みも出てくるし気分とオーダーの組み合わせも出てくる。つまり、少しずつ、通になってくる。その通くらいに判断ができ、淹れ分けることができないとバリスタは務まりません。
 味覚と聴覚は別なので、この例を歌や音楽の鑑賞にそのままあてはめられませんが、それでも、好き嫌いの他に、深い、浅い、(コーヒーの味ではない)通である、ない、センスがある、ないなどはわかってくるものでしょう。

○育ち

 昔は、両親、先輩や兄姉の聞いたレコードから好きになって、音楽の道で大成したという人が少なからずいました。「三つ子の魂百まで」です。わからないうちに、量として入ったものが、後々、基礎の基礎となっていることが少なくないのです。
 ですから、歌手もトレーナーも他の分野のプロと同じく、一流になった人の伝記や生涯の研究をしていくとよいでしょう。作品から入ってライナーノーツを読み、特集番組を見る。デビューあたりから辿っていくといろんなことがわかります。トレーナーとしてどうなのかは、両親、家族、地域の環境と育ちによる、というだけではないのですが、そういうなかでどんな人、どんな作品と出合ってきたのかは、押さえておくポイントだと思います。
 私は、いらっしゃったときに、好きなアーティスト、影響を受けたアーティスト、また、必要に応じて本人の声について聞きます。これはその人とその先を歩むための大きなヒントです。今のその人の声や歌がどうしてこうであるのかの裏付けになることも少なくありません。
 メンタルからフィジカル、姿勢、歩き方、行動、性格、考え方、価値観、DNAまで、声には全てが影響しています。育ちを聞くと今の問題をよりしっかりとつかむことができることが多いのです。初回から、あえて詳しく聞くことはあまりありませんが…。

○音の聴き方ρ

 私は、最初、プロデューサー、作家と仕事をしたので、自ずと彼らの聴き方を学ぶことになりました。そこで自分の聞き方の偏り、あるところに対しての、バランスの悪さや弱点を知りました。聞き方が確立するには、発声がそれなりに身についたあとも丸々10年かかりました。その後半は、ヴォイトレとステージの狭間で実習しました。
 例えば、研究生の聞き方、4、50人の研究生の後ろから同じものを聞いて比べる、10人ほどのトレーナーの聞き方、研究生やプロの歌唱へのコメントと比べて学ぶなど、まさに研究所で研究してきたことです。私の研究する場としての研究所の公開による研究の伝承こそ、レッスンよりも大きな役割を果たしてきました。
 自分の聞き方に囚われず、自分の聞き方と違う聞き方を学んでいくことです。これは一流のアーティストの歌から、特に、彼らがスタンダードを歌うときにつける変化から、それぞれのアーティストの聞き方を学べます。
 なかでも5人ほどのアーティストからは、その感覚にのっとれば、私にはわからなくとも、このアーティストなら、こう言う、このように歌うと思うとか、あたかも憑依するようなことができるようになりました。どんなすぐれたアーティストもそうして学んだはずなのです。
 
○耳を移す

 自分の聞き方が何に基づき、どういうスタンスなのかを理解すると、いくつかのスタンスにうつしてみることができます。私が今、多くの別の分野で価値観の違う人ともやれるのは、それができるからでしょう。その人とは「ここは違うがここは同じ」とわかります。すると、どこから違うかというところから深いほど学べるのです。そこに興味が尽きません。学べない人は、人と違うところを批判し、いつまでも同じところで同じことを言うだけです。
 この分野では、自分の好き嫌いだけで自分の耳の聞き方だけを絶対視している人が少なくありません。それでは、時代や別のシチュエーションにも他の人にも対応できないのです。もともと自分と異なる人を育てていくのがトレーナーです。なのに、自分と同じにしようとしているのはなぜでしょう。皆さんがそれを望むからです。そこを変えるべきなのです。
 ときおり、外のトレーナーの人が、よい問題をもってきます。そのとき好き嫌いで判断していることや、その判断レベルの浅いことをどう伝えればよいのか迷います。それでも、疑念をもって相談にくる人は、いつかきっとわかっていくでしょう。疑問にさえ思わないで同じことをくり返している人ばかりなのですから。

○音と声

 聴覚は嗅覚、触感に近いと述べました。コーヒーの例は味覚で、これも嗅覚を伴うのですが、多くの鑑賞物は視覚を介し入ってきます。対象を客体として客観視できます。そして、こちらからみて、よいとか好きとか判断します。
 以前に私が述べたように、歌やせりふでも絵や書でも、立体的(もう3Dといいます)に生き生きと生命力をもって働きかけてこないものは、少なくとも私には、芸術でありません。ただ、音や声は、もう少し絡まり具合がややこしい。よいもの、好きなものでなくとも、まとわりついてくるのです。聴覚は手で耳をふさがないと拒絶できません。視線を変えるくらいに簡単に拒めないことにもよるのかもしれません。
 店に嫌な絵がかかっていても見ないようにすればよいのですが、嫌な音楽、それも歌が流れているのは耐えられないのではないでしょうか。
 生理的なことだからです。好きな人には触られたくて、嫌いな人に触られたくない、しかし、その好き嫌いは、さして原因があるわけではありません。どうでもよいとき、鈍いときもあれば、敏感なときもあります。そんな気分で判断されるのでは歌手もたまらないでしょうが。因果な商売です。

○ビギナーズラック

 歌でのビギナーズラックには触れてきました。プレイヤーの演奏では、めったに番狂わせなど起きません。楽器に触って1年の人が10年の人よりよい演奏はできません。リハーサルで最高の人は、大体、本番もそうなります。リハーサルでの予想通りかそれ以上のときが本番では多いものです。
 しかし、こと歌い手に関しては、番狂わせはよくあることです。トレーナーは運を天に任せるしかありません。それでも、ポピュラーやジャズが、ときに、決まり切った演奏に慣れたクラシックのファンの度肝を抜くことがあります。楽器も演奏技術もよくないし、洗練されていないのは明らかなのに、感動せずにいられないものとして現出するのです。
 愉快なことに、そういうプレイヤーが、クラシックとポピュラーの壁など思い込みに過ぎないことを実証します。バランスばかりを求めて弾いたり教えたりしている正統の演奏家は、素人にそのよさを理解されないことが、よくあります。彼らにとって、そういう破格の演奏はよくないのです。彼らにとってよくないということだけです。
 
○危機的状況

 ことわっておきますが、今、ポピュラーの壁についての問題は、誰にとってよくないということでなく、どんなものでもよいということが、逆の意味で危機的な状況なのです。
 一見、よい歌い手がいない、歌がよくないと言いつつ、実のところ、すべての歌がよいという、私の両義性とも似た、いい加減な立場が二極の選択を可能にしました。その代り、その間にあるべき豊かな多様性、個人のオリジナリティをスルー、つまりは否定しているわけです。
 聞く人が「性格のいい人だから歌もいい」と思うというような正論は、認めるもなにも、人間ですからその通りでしょう、私が関わらないなら文句一つありません。しかし、ヴォイトレをしにきて、歌で世界を切り開いていこうという人がそうとなると、「今の私の歌でいいという人もいるからいい」―となり、レッスンは成り立ちません。
 健康維持、老化防止のためにいらっしゃる人もいます。そうでなかった人がそうなっているケースもあります。今の私の立場では、何であれ、続けていくのはよいことと思います。
 歌手にも認めています。うまい人が歌っているように歌いたい、カラオケの点数を上げたい―というのであれば、それでよいのです。
 私としては、この目標設定は、健康法としての歌唱、医療と発声としての研究に関わっています。ヴォイトレのど真ん中にはおきたくないと、私的に思っています。他の人が歌わないように歌いたい―これは独自の世界というのでなく、あくまで歌唱、発声のレベルで述べています。

○へたうま

 ビギナーズラックでの歌は、技術的な条件は保ってないし、くり返して歌うとすぐに化けの皮が剥がれます。1回目と同じように聴衆が堪能できる2回目ということはありません。ですから、実力というのは、2曲聞くとほぼわかるのです。他の歌はとても聞けたものでないとなるので、プロとしての歌にはなりません。しかし、プロがいつも通り安定した形をなぞっているようなのが大半の今の日本においては、アマチュア、素人にこそ、新鮮な表現力をもつ人がいるのです。
 アマチュアのレッスン、特に発表会やワークショップなどでは、まずは、その人が間違ったところに魅力、個性が出るものです。せりふや歌も、それが根源です。それを高めて感性として表現していくべきなのです。その根源にあるものがなくなったまま、声でメロディをなぞって、ことばをおいて歌といっている現状があるのです。声や歌を教える人がそれをレッスンとしていることが少なくないのです。これでは、台本通りであっても、そのせりふに掛け合いに命を吹き込んで勝負をしていくお笑いのインパクトや芸人にかなわないのは当然でしょう。

○感動を与えるρ

 私は音楽や歌で人生を変えられた、多くの人間の一人ですからよくわかるのです。まさか10代からそのまま続くと思いませんでしたが、歌は一曲3分で、人の、人類の運命を変えるほどのものなのです、と、今さらここで述べなくてはいけないのかと思いつつ述べます。
 佐村河内守氏の事件が日本中を賑わせました。ベートーベンであれ、偽ベートーベンであれ、音楽を作曲家の人生上の苦難と結びつけたところの商売であり、それに乗っかった時点で、買った方も騙されたなど言えるものではありません。
 以前、新垣勉氏のコンサートが、彼の半生のフィルム上映から始まった。もちろん、この告発者の作曲家の新垣さんと別人です。そういえば、都知事選の落選の方で有名になってしまった中松義郎氏のオフィスに初めて行ったとき、会う前に氏の半生のフィルム上映があったのを思い出します。
 ベートーベンが耳が聞こえないのにつくった曲だから、私たちは感動するのではないのです。感動商法が隆盛になって、予め決められたところで満足させて帰らすようなことで、プロデューサーが主役となったのは、別に今に始まったことではありません。
 私たちも作家もアートの製作者も長嶋茂雄さんも皆、仕事で感動を与えるチャンスがあれば活かそうとしています。歌手は、その最たるものでしょう。
 
○亡者と職人

 「開運!なんでも鑑定団」(テレビ東京)ではないが、価格に一喜一憂するのはゲームにすぎません。本当の価値は違います。ところが、トータルとしてプロデュースして、トータルとして受け取るサービスに慣れてきた私たちは、一つひとつの価値について鈍くなっています。500円なら許せるが5000円なら許せない―それがおかしくないというのは、金の亡者になっています。虫一匹、皿に入っていて店がつぶれる、そんな日本に生きています。
 つまらぬことに敏感になり、もっと大切なことの鈍感になりつつある、そのなかで生の体からの生の声を取り出す、加工せず、形もつけずに、そこに対していくのは、もはや職人技を超えて、奇跡にも近くなりつつあるのかと思うのです。
 「歌」というと「マイクは?」というところから一度、抜け出す必要はありませんか。

○トレーナーは指揮者か

 私は指揮者を何人か知っており、指揮をしてみたこともあります。有能な指揮者は、全体を時間の流れでみるとともに、部分的にチェックします。瞬間に空間としてチェックするのです。チェックというのは、私たちトレーナーと同じですが、私は一つの声を聞くことが大半です。ときおり、伴奏と合わせて聞きますが、バンドはともかく、オーケストラ指揮者は何十人もの演奏する音、オーケストラを聴くのですから、糸を紡ぐのと布を織るくらいの違いはありそうです。
 しかし、時間を止め、一人を指してことばで注意しているところでは、私たちと同じです。彼らは、歌よりは演奏が対象になることが多いのですが、その音の出る楽器を、指揮者は代わって弾いてみせるのでなく、(ときにそういう人もいますが、全ての楽器を、は無理です)イメージの言語で注意します。この辺りもすごく似ています。求める音をことばにしているのです。
 プロ相手では、楽譜の説明、表現、技巧、楽曲の説明よりは、指揮者はどのようにもっていきたいのかという曲のイメージ、構想を、個別のプレイヤーの技量を踏まえて示すことが求められます。
 本番では、ことばは使えないので、練習のやり直しの間で、かなり身体の使い方のようなことをわからせていく指示が出ます。身振り手振りで演奏のイメージを、頭より体にわからせるようにしています。それが指揮なのでしょう。
 指揮者が使ったことばを私のしているように記述して残すと、それは曲の研究に役立つのでないでしょうか。メイキング オブ オーケストラの研究です。

○例えについて☆

 レッスンの指示は、「~のように」といくつかの例えでイメージさせるのが一般的です。特に外国人の指揮者は、イメージ言語に長けているように思います。日本では、幼児にピアノを教える先生にそういう人がいます。これもヴォイストレーナーに求められる演出家の資質、ことばに関する才能や感性といえます。
 私も何度か述べていますが、ちょっとしたことばの使い方で、まったく相手の身体の動きや発声が違ってくるのです。
 例えば、息を入れて、吸って、息が入るようにして、お腹におとして、お腹を拡げて、筒のようにして、など。下記の原初のイメージも踏まえるとよいと思います。ことばは、つくられてきた理由があるのですから。
レガート つなぐ→legare縛る 結ぶ
スタッカート 切る→staccareちぎる はがす
ポルタメント すべらす→運ぶ ひきずる
ルバート 速めてゆるめる→盗む 先取りする
アレグロ 速く→快く 朗らかに 浮ついて

○歌

 「まさに歌だった」「まさにことばだった」といえるほどの歌と音楽をどのくらい聞いたたことがありますか。それがあってこそ、歌でない、音楽でないということもはっきりします。チョコなのにチョコでないとしたら、それは何ぞや…といったようなものです。
 もちろん、それはトレーニングに関わるものとして必要なのであり、トレーニングで向上しようとするものとしての必要であり、それで楽しもうとするものにとっては、必ずしも必要とはならないものです。

○本場、教養主義

 これまで歌について、本質を悟る人の不在を嘆いてきました。クラシックには手厳しい酷評をする批評家がいました。ポピュラー、歌手、歌については、語れる人はあまりいません。批評とされるものを読んでも、紹介やそれまでの成り行きなど、PRといった方がよいものがほとんどです。解説や感想なのです。
 まだ、「食べログ」の方が、素人でも30に1つは玄人はだしのことを述べています。料理については、日本人のレベルが国際的にもトップレベルというのもわかります。さらに、サービスへの不満は、そこまで言うのかと思うほど厳しく、店の責任でないものまで含まれていることも多々あります。おもてなしだけでなく、サービスの強要の風土とさえいえそうです。ただし、ここまでいくと、そういう否定的な見方が歌の世界にも入ればよいともいえません。演奏よりもホールの音響を批判するような感じです。こういうのは海外では大衆的には成立しないと思われるのです。
 歌や歌手について述べたものは、ファンかアンチファン、声については、なおさら、ここに取りあげられるようなものは、ほとんどないと思われます。
 その一因として、海外のもののプロデュースに長けてきたこと=演出に長けてきたことと私は捉えています。外国に行けて外国語ができて、他の人より早く日本にもってきた人が認められるという、そんな時代の長すぎた日本でした。

お家芸化f

 どんな歌もステージにできる演出は、向こうから学んでそれを超えたと思います。とはいえ、未だ、形として見えやすいのは形としてつくりあげているからです。私は世界中巡っているので、ディズニーシーでは疑似的なパビリオンより、最初から人工的なマーメイドエリアしかくつろげませんでした。
 ともかく、こうしたまねと応用は日本人のお家芸です。逆に歌から声の本質、個としてのアーティストの実力の方を問うと、すっかりとなくなりつつあります。
 以前は、直に影響を受けた、米軍基地や海外で外国人客を得ていた、というアーティストが多かったのに、客が日本人ばかりになって、いい加減に薄めて拡散させたようなところがあるのではと思います。ロカビリーあたりからです。あたかも、街の喫茶店がスターバックスに置き換わって、どの街の風景も同じようになってしまったように。日本人ならマクドナルドをやめてモチくえばいいなどと、もう誰も思わないのでしょう。
 音楽が殖産業と同じく、お上からの欧米の技術輸入のようになったのが、日本の歌を根なし草にするきっかけになったものです。とはいえ、唱歌、童謡、演歌、歌謡曲あたりまでの和魂洋才で、融合して日本に土着化したところは、それほど悪くなかったと思うのです。ブラジルのボサノバのように、朝鮮のハングル文字のように定着しつつあったのです。
 宝塚歌劇劇団四季は、もはやサクセスストーリーとなっています。問題は、そのためにどれだけ何を失って来たかということです。

○体、身体、肉感のなさ

 つくる―みるは、トレーニングにおいて、目的―現在、その間のギャップをつくり、そこを埋めます。ですから、みる←つくる、つまり、みる、そして、みたところまでつくる、の順となります。
 みた上でつくる人とみえないでつくる人は別です。みえない人には、つくりつつもみえるようにしていく。またみえた人にも、それがよりよくみえるように、あるいは、そのギャップの間に、もっと近くにみえる目標をみることができるようにしてあげるのが、トレーナーの仕事です。
 ヴォイトレのレッスンをしにこなくても、自ら高められる人は、自ずとつくる→みるから、みる→つくるをくり返しています。ですから、みえなくなったら、あるいはつくれなくなったらレッスンにくればよいのです。
 しかし、安易に、つくってさえいればそれでよいと思う日本の芸術教育などでは、つくっていればいつか、何かができるようにと教えています。大いなるアマチュアイズムと国民総サブカルチャーアーティスト化は、日本のよさでもありますが。
 何かは、つくればできるが、それがすごいものであるためには、天才でもない限り不可能です。いや天才ほどみることに長けているから、他の人について学ぶのです。

○受け身と研究

 20世紀になり、レコードやラジオで、プロのものを聞くようになりました。すると、これまで、音楽を素人なりにたしなんでいた人がやめてしまいました。周りの人もプロの演奏を買うようになったからです。お金で作品を買うようになったわけです。次に作品が大量生産で安くなり、いい聴衆として楽しむ音楽から音楽の総消費者化となりました。
 身の回りにある声や音楽を聴いて体が動く、それが他の人の動きとかぶさっていく、そういう中での声や音楽がなくなりつつあります。
 カラオケについて、そのよさは、消費されていくだけという経緯を述べました。
 声の純粋化は、文化規範に立ち戻るのか、解放していくのか。特定の時代、地域のものがグローバル化されていくのは世界共通です。日本の場合、戦後もっぱらアメリカナイズされたともいえました。それゆえに普及し大ヒットし、その世界を世界と一体化できたのです。

○滅びていくものf

 「なぜ時代劇は滅びるのか」(春日太一著、新潮新書)では、時代劇の凋落を、つまらなくなったTVによって1970年代後半、古臭い表現と高齢者向けのジャンルという固定観念が植え付けられたためといっています。
 もとより、伝統芸能に対して新しく出てきたのが時代劇であり、海外から入ってきた翻訳ものが新劇だったわけです。とはいえ、歌舞伎などは、まだ持ちこたえているし、韓流ものは、私も、現代ものはみないとはいえ、歴史ものは楽しんでいます。生身の人間の迫力、動きや声でもつのです。大河ドラマはみない。それは、ブロードウエイと劇団四季との差のようなものです。
「役者の新たな魅力をみせる」にも役者がいなくなりました。1990年代、役所、真田、中井、渡辺謙あたりで終わっていると、著者は言います。また、名脇役や悪役がいなくなりましたと。
 こういう批評が若い人(1977年生まれ)から出てくるのはよいことです。
 その後、人気タレントの演技力のなさ、「声は高いし細い」は作り込みのなさ、演じているのでなく、こなしているだけで、わかりやすくおもしろいに堕してしまったというわけです。ここまで、ほぼダイジェストでした。

○わかるとき

 しかし、なぜ、人は音楽、歌を聞かないのでしょうか。
 しかし、なぜ、人は歌わなくなったのでしょうか。
 人間の声とは
 生き物の声とは
 問いの尽きないゆえに、声の研究なのです。
 いつかわかるときがあるでしょう。

 出会いの意味は、一瞬にして全ての世界の構造と営みを明かすことにあります。
 そのために、声や歌を聴き続けているのです。
 あるときから全く聞き方が変わる、そのときのために。