最新ヴォイトレ論 読み方と学び方☆ No.291

○どれを読むのか

 

 ときに、私の「本やサイトに述べたものを全て読んだ方がよいのか」と聞かれます。聞かれた時点で、それは読むのを迷っているのだから「無理することはない」という答えになります。私の知らないところでも読む人は読んでいるし、読まない人は読んでいないのですから、ご自由にというしかないのです。

 読む人は、書く人よりは時間がかからないのです。というと、私が一冊書くよりも多くの時間をかけて、私の一冊の本をくり返し読んでいる人もたくさんいたのを思い出します。「全てを読まなくても、どこかをくり返し読むのもよいのではないか」と言われたら、これも「ご自由」になのです。

 そもそも私のものくらいで膨大というのなら、全くもって精神力が足らないのです。少なくとも今の私の日々くらいには、声というのを考えて表現していく生活に励んでほしいと思うのです。

 ちなみに、私の本は、問いです。私に問うのでなく、あなたもそれを参考に、自ら問いをつくって欲しいと思って述べているのです。もっとよい問いを、ね。

 

○最高のレベルからみる☆

 

 まず、最高レベルのスタンスをもって述べていくとします。すると前提として、「日本ではヴォイトレは失敗している」といえるわけです。☆

もちろん、私の自論ですから気にしないでください。この50年、世界のグローバル化は進み、本当に価値のあるものは、世界に進出し、日本人とてトップレベルになっています。が、声は、残念ながらそうなってはいません。

 声のトレーニングをどの分野にとるかは、人によって違います。主として、私の関わる範囲では、クラシックからポピュラー、邦楽から役者、声優、そしてビジネスです。そのあたりの芸や仕事上でみるに、むしろ、声の力はトップも平均レベルも、日本では、明らかに落ちています。

 

○日本の声のレベル

 

 声楽家やミュージカルなどでは見解はいろいろあると思います。平均レベルは高くなって楽しめるものになったと言う人が多いのですが、確かにそうでしょう。どちらかというと総合的な演出力のアップと、ややうまい人たちが集団としてみせているだけで、個としての声の力に限ると、まだまだでしょう。そもそも、エンターテイメントと芸の判断は異なります。

 それならJ-POPSやアニソンなど、初音ミクも含め、ヴィジュアルの方が世界に進出しているといえます。まして、国際的スターについては、アジアにおいて遅れをとるようになりました。

 否定する人がいたら、それはそれでよいと思います。世界と対比する必要もないという立場もあるでしょう。ただ、声に関しては言語と異なり人類共通です。ゆえに、そういったガラパゴス化しているなかでの見解でよいのでしょうか、考えてみてください。

 

○ケアからキュアへ

 

 始めた頃、「ヴォイトレがうまくいっているのは日本ではお坊さんだけ」と言っていましたが、最近は、お坊さんも声を壊してくる、と関西の声の治療の第一人者の方が述べていました。

 うつ防止やストレスの解消に、代替療法やヨーガのようにヒーリングとして使われているのは効果があるといえます。私もリハビリ関係に、いろいろと関わるようになりました。

 15年ほど前に「多くの人はヴォイトレよりフィットネスジムへ行くべきだ」と公言していたのが、現実になってきました。ヴォイトレも、うつ病防止、アンチエイジングとして、口腔ケア、認知症防止などの施術レベルで広く普及しつつあるのです。そういう調整、私が思うに医者やST、あるいは心療内科や精神科などで行うことが、私たちのヴォイトレの仕事にも入ってきたのです。そういう人たちはヴォイトレで効果を上げていると言うでしょう。それは本当であり、私どももそこに関しては、ときには医者の紹介を受け、それに近い設備にしてセンサーまでも使っているのです。が、それにしても、ケアはともかく、キュアはメインでなかったはずなのです。

 

○辛辣にみる

 

 案外と、ヴォイトレを受ける人と一緒に、ヴォイストレーナーが熱心に読んでくださって、ときに感想や質問をいただくので、ときどき、まとめてお答えしています。

 私は、個として他のヴォイトレやヴォイストレーナーを否定しているのではありません。むしろ私こそ、自分以外のトレーナーとの共同作業を最大に最長にやってきているわけです。しかも、よいとこ取りの共同作業のできる組織として運営しています。そして、こうして述べるほど自己否定になっていくのです。自分のことばが自分たちに突き刺さるのです。

 この分野は、うちのトレーナーも含め、誰でも自己肯定でやっています。私一人くらいは足元を、今の日本の声の状況を辛辣にみるのも必要に思います。

 ここで、一言で両断したものの根拠なども、これまでに述べています。「昔はよかった、今はだめ」の年寄りの口ぐせにならないように、客観的な事例とともに述べているので、ブログなどをご参考に。

声だけでなく、その背景にある日本人の聴く耳や、世界の人の声について、また、21世紀に入っての日本人の価値観の変容についても、広汎に触れてきたつもりです。

 

○関連のデータ☆

 

 探すのは大変でしょうから、思いつくままに、今、頭に入っていることで、これまでに述べたものを挙げておきます。いくつかの問いに対しては、次のなかに答えがあるでしょう。(直接、このタイトルでアップしているのでなく、触れているということです)

2014年、紅白での「アナ雪」の比較

・目の日本人、声の西洋人(欧米ほか世界)

・日本人の視覚優位とヴィジュアル化での世界進出

・声を使わぬ生活、声を出せぬ体へ、音声表現の不要化

・日本人とハーフ、帰国子女、留学生の比較

・文明開化、大正ロマン、昭和前期の大人の文化と平成の子供の文化

・邦楽と声楽・洋楽の共通ベースとしての声

・アニメ、声優、役者、歌手、タレントの個声の消滅

・悪役声、ダミ声、男性声、鋭、太、低、強(大)の声の風化

特に役者、特に若い男性での欧米、中韓との比較

・日本人の顔、体型、食生活の変化

・日本人のフィジカル、メンタルの弱化

 

○レッスンスタートでの差

 

 まず、全く今まで声として出したことがないケースなら、これは声で出してみればよいのです。それを初心者といえなくもないのですが、声の場合はやや複雑です。というのは、その年齢まで声として使ってきているからです。ピアノのような習い事と異なり、生まれたときから使っているからです。同じ年齢の初心者でレッスンが初めてという人たちの中でも、これまでの育ちのなかで大きな差がついているから、さらにややこしいのです。

 1.素質、2.育ち、そして、3.フィジカルの力、4.メンタルの力もかなり違っています。

 以前、ここにレッスンにくる人は、ハイレベルとローレベルの人の分かれると言ったように、声やことば、歌は日常的に接しているものなので、中レベルの人は問題に感じないのです。しかし、誰もが声もことばも歌ももっとよければよいと思っているのです。それは、そのときの優先順によるわけです。ときとして、声が絶対的でない分野からくる人に、とてもハイレベル、かつ勘のよい人がいます。

 

○歌の声

 

 トレーニングとは、器を大きくするためのものです。ある問題Aがあってそれをできるようになりたいと思う。そこは何でもよいわけです。大体は、Aをうまくいかなくする問題Bがあります。それらが矛盾する問題となると、そのことに関して、いくつかのスタンスがとれます。

 声はことばで使ってきたが歌で使ってこなかった人は、高い声が出ない、というのも、まず出してきていないのです。歌の第一の特徴は、話すよりも高い声域を使うことです。

 昔は、第一の条件は、大きな声だったのです。それは日本では、かなり早くからなくなっていき、いつのまにか、声域と優先順が入れ替わりました。マイクが補助するからです。

 研究所には、マイクを使わない声の仕事の人がたくさんいらっしゃいます。☆

これはヴォイトレもまた、マイク前提で行うところが多いということの裏返しです。

 高い声を出してきていない人には出させたらよいのです。しかし、レッスンにくるのは、うまく出せない、出し方がわからないという人です。しばらくは、高い声を例にしますが、この解決法をここで述べたいのではありません。ほとんどは自己流で出して、うまく修正できないというケースなのです。その場合、いくつかのポイントを与えて高い声を導くことになります。しかし、ここで大切なのは、うまく出せない、では、うまく出せるとはどういうことかということです。

 

○本当の目的

 

 三人の煉瓦職人に「何を作っている」と聞いたら「壁だよ」、「家だよ」、「街だよ」と答えたというような話をしたことがあります。ここからは、本人の目的と方法と、それを教えるトレーナーのスタンスについてです。

 目的が、高い音にともかくも届かせることなら、普通の人でも、45オクターブは出ます。(歌はなぜ2オクターブ内なのかについて述べたことがあります)トレーナーが「誰でもそのくらい出せます」と声域を拡げることだけを教えるなら、あなたもその日のうちに3オクターブくらい出せるでしょう。

 もちろん、歌ですから歌える声であることが必要ですね。では歌える声とはどういう声でしょう。その高さにギリギリ届くところ?ピアノでいうと、両端のキィでは、ピアニストでもあまりよい演奏は期待しにくいでしょうね。

 研究所ではその基準を、一応、声楽でとっています。といっても、声を出す支えについてで、オペラで通じなくてはいけない、というレベルでは必要ありません。発声において、確実にリピートできて、しぜんな共鳴を伴うのが基本です。大きくも長くもでき、メロディやリズムも発音も対応できた方がよいということです。このあたりは質の問題です。

 

○プライオリティ

 

 単に、音にあたればOKとする人もいます。私のところでも相手によってはOKです。アイドルグループや結婚式で一回だけ歌うために、とかならOKです。マイクを使って誰でも早くできるやり方を選びます。

 トレーナーは全体をみた上で、その人の望むものを与える、そのときに時間や費用といったものに対する効果も考えます。

 本当は、研究所では、そういうふうに効果を考えないのを理想、本質としています。「誰でも早くできる」というのは、すでにその目的自体が、芸や芸術としては、大して価値のないものを目指しているわけです。一生かかって自分の声に対して育てていく、世に出せる力をつけたり、深めたり、ケアしたりするのとは違うわけです。

 

○習得は順番通りにいかない

 

 ざっと大雑把に考えるだけでも、

 1.ある高さに声をあてる、届かせる、2.歌に使う高い声にする、3.歌で高い声をこなせる、4.歌で高いと思わせずに出して表現できる、5.人がうまいでなく感動する、6.その人の世界を支える、7.基本を身につけつつ安定させる、8.確実なだけでなく進歩していく、9.未知の可能性に挑む、10.ケアと維持、調子が悪くても出せるしフォローができる。

 このように、いろんなレベルがあるのです。では、早く123と進めばよいのかというと、迷うのです。順番通りの人は、12年で1から3くらいに到達して終わりです。本当によい歌い手は、13はなく、106と入ります。15は同時に成り立たせるのです。

 

○途中レベルでの完成

 

 誰しも、順番通りに行けばよいと思うし、トレーニングすると順番によくなると考えるのではないでしょうか。そこが落とし穴というのを指摘してきました。人によっては、私が思うにかなり限られた人ですが、順でいけるのですが、そういう人の大半は、レッスンにこなくても途中までは自力でいけるのです。

 レッスンに来る多くの人は、この第一のところで引っかかっているのです。聞き方や声の感じ方、見本からの学び方とともに、自分の問題、何が限界をつくっているのかに目を向けなくてはなりません。さらに、先のように、目的の順に項目を立ててチェックしてみることでしょう。

 この途中のレベルまでは、声や歌の問題としてあがってこない人、大して恵まれていないのですが、日常やカラオケでは、周りからできていると思われる人に多いのです。下手ではないことで下手な人からうまいと思われてしまうのです。途中のレベルなのに完成してしまう、つまり、限界が来てしまうのです。

 レッスンに絡めていうと、スクールなどで、トレーナーになることを推されるような人に多いのです。そういう人は、よくこちらにいらっしゃるので、よくわかります。つまり、器用なので、一見、うまく教えるのに向いていると思われてしまうのです。私の経験では、どちらかというと逆なのですが…。

 

○プロとアート

 

 トレーナー自体、ヴォイトレの途中で挫折というのならよいのですが、自分は歌えてしまっている、完成できていると思っているのです。だから他人に教えられると思うのです。

 ここは批判でなく、「日本でヴォイトレが失敗」、いやまだ啓蒙期ということの論で述べています。それは、個人でなくヴォイストレーナーという職が失敗ということなのです。

 日本でヴォイトレは一般化し、普及し、成功と思っている人には、何も私からは言うことはありません。「教えていた人が喜んでくれた」「うまくなった」で成功というなら、そこで充分という考えもあります。ただ私は欲張りです。その結果の声やその歌で感動できなければ、全くもって足らない。失敗ということばはやめたときですから、まだ自分に対しては使いたくありませんが、少なくとも、これまで現状で満足というレベルでやってきませんでした。生徒さんやクライアントよりも、まずは自分の問題として、今もそれは抱えています。声そのものの完成へのプロセスとは、芸術的な使命感です。ただ仕事としては、歌手もトレーナーも、声単独でなくトータルの中で問われるものだから、相手の求めに応じられたら許されるともいえるのです。そこに私は甘えたくないのです。

 

○基本のレベルと演出での錯覚☆

 

 先に求めるレベルが、後ほど基本に関わってきます。基本とは一流のプレーヤーが共通してもっていて、そうでない人がもてないもの、一流のなかでもその差がかなりある。と、基本を定義してきました。多くは初心者が、最初に習得するのが基本というところですから全くもって異なります。

 目標や必要度をあげなければ、声は曖昧で大して客観的には評価できないからです。呼吸法や腹式呼吸でも10年、30年、一生ものという人と、30分で身に付くという人は、言うまでもなく求める世界もレベルも全く違うのです。

 また公開セミナー、ワークショップ、一日とか一時間の体験レッスンで問われるものも違うでしょう。恐ろしいことに、そういう短期での効果を問われる場に出ると、トレーナーは演出家になってしまうのです。あたかも素人をTVに出させるときの演出のようなことに長けてきます。スクールの体験レッスンなどで、力のあるトレーナーもその類いです。

 研究所には、レッスン歴5年などあたりまえ、10年、20年という人もいるのです。そのキャリアは声に紛れもなく出ているのです。そこと音楽的才能とは別のことなのですが。

 また、ライブやイベントをスクールの仲良しサークルでというのでは、1020年というものの意味が違います。ここはイベント、ライブ、合宿、公開セミナー、ワークショップをやめました。ここにいる人の目的は、声と表現の探求なのです。

 

○可能性か限界か

 

 最初のやり方の固定、偏見や思い込みが後の障害になる、これこそが基本の大切さ、応用から入ることをよしとしない理由です。しかし、より大きな眼でみれば、全体も自分もみえないのだから、最初は、目一杯、応用、つまり実践してみる、そこで、試行錯誤してみるとよいと思います。大したことのできないうちは、間違っても大した深手にならないのだから、大きくみて、思いっきりやってみるとよいといえます。他人に一方的に教わるのでなく自分で行って失敗すること、限界を知ることが大切です。

 自らの可能性の限界に気づくと課題がみえてきます。基本の必要性が何たるかが具体化してくるのです。そこまでに3年かかってもよいのです。

 その上で、私はどんなレッスンでもいろいろと受けることを勧めているのです。ただし、それも、依存せずに早くそのレッスンで自分の限界を知って、常に基本の必要性を突きつけられていて欲しいからです。

 

○秘法、ノウハウのレベル

 

 例えば、声などであるレベルに到達した人やトレーナーには、「最初は(誰かに教わって、自己流でやっていて)すべて間違っていた」が、後で「誰かに教わって」とか、「自分で気づいてやり方を編み出して」解決したという、いかにも何かしらの秘法、ノウハウがあって、それを自分がもっているような売りのトークを使う人が少なくありません。それは、今の力がどうで、自分がどこにいるのかということの客観視能力のなさをアピールすることになりかねないのですが。

 早く何とかしたいという人は、そういうストーリーに簡単にひっかかります。秘法、ノウハウを教わって一気に大変身したいと思うからです。しかし、12年で少しうまくなっても、そこからは声の力も伸びずに終わるのが大半です。そして、それは自分の才能とか素質の限界と思うようになっていくのです。

 その証拠は、いつまでも習った人が教えてくれるトレーナーのレベルにもいかないことです。そういうトレーナーの多くは、若いときの成功者です。若いときに歌っているときの方がずっと声もよく歌もうまく、トレーナーになってその力がキープできない人、つまり、本当なら、提唱するトレーニング法があたっていればさらによくなっているはずなのに、です。ファンだった人は気づかないのかもしれませんが…。ともかく、個々のことで述べるときりがないのでやめます。

 

○プロセスとバックボーン

 

 私の理想からいうと、これも、これまでのサッカーの例でくり返しますが、最初は、育ち、というと幼年期、自由におおらかで街の中でサッカーを蹴っていた。次に、基礎でジュニアチームで、そして、応用でプロチームで、とはいえ、どれも求められるレベルの違う基礎の基礎づくりが必要です。

 最近の日本人にないのは、育ちのなかでのボールとの戯れです。いわゆるフィールドやルールがない中でのボールとの触れ合いの時間です。無駄に無謀と危険との貴重な時間です。

 国が豊かになるとストレートプレイはなくなります。これは危険を伴うので、日本では「街や公園でボール蹴るな!」です。しかし、そこの経験で、後のファインプレーの発想や勇気が出るのです。これはリスクを伴うのですから…。これが単なるプロでなく一流の選手になるための本当のベースなのですが。

 

○無法エリア

 

 トレーナーからは、「その出し方やめなさい」と言われるような発声も含め、ベースのときにいろいろと試みていること、それによって大きな器をもっていることが、単なる歌い手というより、アーティストには必要です。何よりも、感性と世界観なのです。

 研究所で私が最初に気づいたのは、「無法エリア地帯が必要」ということでした。つまり、ストリート、もしくは荒地です。役者が育った時代は、背後に有無をも言わせぬ世間と養成所があったのです。日本の村の祭りや民謡酒場みたいなものです。そこが地力のバックボーンとなっていたのです。学校のように上から下に教えるのでなく、現実の世の中のように、あらゆる要素を集約する場が必要だったのです。

 

○やり方とうまさ

 

 最初にやり方から入ると、やり方として残るから、あとの障害になる点、いや、障害とわからなくなる点でよくないということです。取り除くことをあらかじめ考えていたというなら別ですが、それはそれでよくはないでしょう、計算づくになるからです。他のところを悪者にしてはよくないので、ここを例に述べると「ブレスヴォイストレーニング法や研究所のやり方でやろうとするとうまくいかなくなる。しかし、他のところのやり方ではうまくいく」とします。これは、なまじ嘘ではありません。そういうときのうまくいくとは、バランスのことです。バランスというのは、欠点を隠すことです。うまくいくのは、うまく欠点を隠したということです。それをレッスンの目的と思う人ばかりになりました。それは一時のプロセスとしてはよくても、最終目的のプロセスからそれてしまうのです。

 

○すぐ直さない

 

 本当のレッスンとは、わずかな欠点をも拡大して取り上げ、本人に突きつけることです。そこですぐに直せるというのは、隠している、ごまかしているにすぎません。直せるようなものは、直しても大して何ともならないから、放っておいてよいのです。

 それは、器が小さいからです。器が大きいと強みが出ていて、欠点さえ個性になるのです。

 一流やプロで長くやっている人を思い浮かべた上で、トレーナーの声と比べてみるとよいでしょう。それは応用と基礎の違いを知るにも有効です。そう思える声をもつ人など、ほとんどいません。海外の一流のトレーナーについた日本人も、声そのものなく、彼の名でPRしているとしたら、その方法やメニュをまねて売りやすくしたいだけです。

 10年も経つと「他のところでうまくなった」人のうち、何人かは、ここに戻ってきます。うまくなったことなどに価値がないことがわかるからです。それも一つの学び方です。

 

○うまいということ

 

 「うまくいった」と「うまく歌えた」とは違うということです。とはいえ、私にとっては、目指すべき目標に足らないことで一緒です。

 高い声が出るやり方、これは声を小さくすることなどで高いところへバランスをとり届かせる、あてる、その形で再現できるように慣れさせる、など、さまざまなノウハウがあります。やり方でやるとは、わかりやすくいうと、くせをつけるということです。ですから、声を小さくすること以外にも呼吸や体がより使えないなど、マイナス面がたくさん出ます。

しかし、声域しか興味のない人には、あるいはそこに関心がいっているうちはみえません。いや、どうもずっとみえない人の方が多いようです。(TVにあったヴォイトレの方法に関して、以前同じことを述べました)

間違っているのでなく、その目的に早くたどりつきたい人が、そのようにしたのですから正しいのです。私の嫌いな「正しい」が出たことで、読んでいる人はこれがよいことと、私が思っていないとわかるでしょう。でも、あなたがよいなら、それでよいのです。

 

○正しいを求めない

 

 器を広げるのには「正しい」を求めなくてよいのです。そして、いろんなトレーナーと可能性を広げていく、器も広げていく、そのために一人ででたらめにやると、却ってくせがつきワンパターンとなって、固まり狭くなります。

 まず、どんな可能性があるかを、目一杯模索してから、より可能性のある方へ絞り込んでいくのです。いろいろやってみることがよいのは、今の自分の器を知るためです。最初から「正しい」を求めてはよくないのです。今の限界を拡げる前に決めつけてしまい、可能性を狭めていることになるからです。今の「正しい」で通用するくらいなら、ヴォイトレは不要です。より高い目標を求めていくと、自ずと正されてくるのです。

 

○胸の声☆

 

 「この声がよいからこうしなさい」の前に、どれだけの声が、あなたにどのようにあるのかを体験してほしいのです。歌とかステージでということでなく、あなた自身、その体から出せる声のマップを広げていくことです。

 そこで私が提唱したのが、「大きく、太く」です。胸声に批判的な人はここだけをあげつらうのでしょうが、それは当時の、体に宿らない口先での声を、皆が高さだけを求めて追っていたことへのアンチテーゼでした。それこそバランス調整ばかりを言う人たちよりも、私こそがバランスを考えていったということになりますまいか。

 それを歌や表現して使うということでなく、声として出していく中で、呼吸、体を広げ器を広げて、全身で声を出すことを身につける、その上で、使わないなら捨てたらよいと言っていたわけです。どうして使えもしないハイCより上の声から目指して練習するのか、私は今もわかりません。

 そのくらいなら、使いもしない1オクターブの下の声を、(これは歌に使わない、日本の歌では使われないだけで、使えるし、外国人は使っているのですが)試みるのは大いに意味があるのです。下手に使っていない分、しぜんで、荒れたり、くせがついていないから、とても可能性があるのです。

 男性が、ファルセットや裏声でヴォイトレするのと、声域は全く逆ですが、離れていることでは同じことです。普段の発声から離れているから、柔軟性を取り戻すきっかけになるということでは同じなのです。裏声と同じく、低い声は、人によっては、より声帯の理想的な使い方にアプローチできる域です。まさに革命的な発想ですが。一部の声楽家はこれで大きな効果をあげています。地声ですから、声帯がきちんと合わさったところでのコントロールを学べるからです。ここをトレーナーの多くは苦手として、また喉声だと勘違いしているのです。そのあたりの経緯は、私の本(「読むだけ…」)に詳しいです。

 

○地声と高音

 

 日本人の国際的な俳優のもつ声で、私が、日本人の声楽よりは、役者の声をより評価したこと、それゆえ、声→せりふ→歌、日常レベルで、せりふも歌も同じ処理をすべきことと思ったのです。

 このときには、ハイCなどは念頭になかったのですが、ペットインヴォーチェでマスケラを、直接、頭声をあてようとするよりも胸声からの瞬時の自動切り替えをもってアプローチすることでマスターした日本人の何人かのオペラ歌手に会って納得できました。ハイトーンといえど、理想的な発声の延長にすぎないのです。それは、邦楽での名人の地声中心から高い裏声への変換のレベルの高さ(詩吟など)にも共通しています。少なくとも、今の私にとっての基礎というのは、欧米人のまねでなく、邦楽、日本人の発声にそのまま通用するレベルの深さなのです。

 

○大声と高い声

 

 「大きい声でないと高い声では出ない」というのは間違いですが、だからといって、「高い声は大声では出せない」とはなりません。歌唱での声に限らなくても、そういうことです。このあたりは世界中のヴォーカルを聞けばわかります。もちろん、大きいと高いは、声帯を介する声の場合、比例はしません。

 「高い」というのもどのあたりか、また、「大きい声」も、シャウトやドラマティコテノールのようなのは、どうみるのでしょうか。それこそ、大きな声、輝く声だと思いませんか。このあたりの声の存在を、いつからスルーするようになったのでしょうか。

 

○ノウハウから抜ける

 

 ただでさえ、目の前の生徒という狭い分野でだけ経験を積み、さらに視野が狭くなると、現存しているものさえ認めなくなる人もいます。それは、専門的でなく自分が都合よくみているだけです。高い声も低い声も出せる人、あるいは、声量を損ねずに高く声を出せる人が、トレーニングを語るのなら、嬉しいことなのですが。

 高い声-大きい声を同じ器のなかでバランス調整するのは、確かにノウハウ、やり方の可能性です。ですから、私たちも使います。

 しかし、トレーニングを、器を大きくすること、両立できるだけの器をもつこととしている私たちには、目先、方向を変えただけのアプローチでは、地力、器は変わっていないことを知っています。つまり、マイクなしでは使えないとわかるのです。(しかし、日本の歌手、声優、アナウンサーなどの、マイク前提のヴォイトレを否定しているわけではありません)

 その結果、いつも調子によって左右されることが続く、それを固定すると、くせになっての限界が、特に声量に出ます。次に、くせで固めて安定させたはずのコントロール力にも出てきます。流れが悪くなったりかすれる、何よりも同じ響きでノンビブラート、あるいは、メリハリなく一本調子となります。今の歌い手の多くが、ノウハウでそうしてきたために陥っている同じところに行くと、ずっと述べているわけです。

 

○強い喉

 

 多くの人は全身から声を出したいのではありませんか。ですから、幼年期に、あるいは、赤ん坊のときに大声で出していた、そこへ戻り、声域も考えずに全身での声を取り戻す-そこまで基礎に戻るのが本当のしぜんでしょう。

 ところが、最近の問題は、戻るところの経験がないことです。ですから、全身で声を出すことの体験からして欲しいのです。

 うまいも正しいも、しぜんでなく深くありません。メリハリ、踏み込みは、本来、話声域として日常で覚え、使っておくことです。それがないので、低い声域で共鳴するベースづくりが必要となるのです。強い喉といっても、声を強く出してつくるのではありません。かといって、喉に全く負担のかからないやり方で回避しているのでは、強くはならないのです。

 

○声の器☆

 

 声の器を大きくするにも、いろんな考え方があります。私は、ときに声を要素として分けてみます。4つくらいに捉えています。1.声域 高―低、2.声量 大-小、3.音色(共鳴、倍音)、4.時間、長さ 長-短、それを支えるものとして1.体、2.息、3.発声、4.共鳴というのがあります。

 器として、1.いまどのくらいもっているのか、2.どのくらいになれるのか、3.どのくらい必要なのか、どこまでの範囲を器というのか、などは、個々でなくては伝えにくい問題ですが、私は、器を大きくする可能性を考えています。

 

○プロの限界☆

 

 プロには、プロとしての声が必要ですが、それは、第一に再現性に支えられています。言い換えると、確実性、つまり安全性であり、バランスです。今の日本のステージでは、プロとして長期に数多くのステージをこなすことを考えると守りに入らざるを得ないのです。レッスンでは、そこをしっかりと固めた上で、次にどのように進めるのかを相談します。今の活動にリスクをもたせるのは第一に避けることだからです。ステージでの声とともにヴァージョンアップ、クールダウン、そして不調時の調整までフォローします。

 

○正確さのために

 

 個性(個声やオリジナリルのフレーズ)を出していくには、そこでは遅すぎるともいえます。プロになる前か、プロとしての形が定まったときに器を考えるのがよいと思います。しかし、現実には、プロになるとともに、より安定した歌唱を求めていらっしゃるので、声楽ベースの補強で対処することになるわけです。トレーニングでは再現性を無視すると雑になります。表向きを整え、付け焼刃のバランス、安定のためでなく、より厳密な再現性のために器を大きくすべきなのです。これは、どこまでの深さと正確さで同じように出せるかです。私の使う「正しい」というのは、厳密に正確でない甘いレベルのこととして述べてきました。

 

○ミックスヴォイス☆

 

 声の高さ、大きさ、それぞれに見方(基準、判断)が違います。高音では、歌唱によって発声を変えることもあるので、私は、基本は、地声の1オクターブくらいを主にみています。

 高低2つ、中心となる声がある人もいます。地声、裏声ならそれぞれ別に中心を考えます。ミックスヴォイスは、よほどよいケース以外、ベースの力としての目的、基準に入れない方がよいです。高低の発声のレベルでは、柔軟に変るべきものとしています。再現のためには、嗄声(かすれる声)は、原則としてよくはありません。

 

○無限の声☆

 

 私が求めるのは2時間でも8時間でも使える声ということです。発声法でなく声です。となると、体力、精神力の方に限度があるでしょう。

 ですから、トレーニングのメニュなら長くて5分のくり返しでよいでしょう。10分続けるとかなりの人以外、雑になるのです。それで、10分くらいでのいくつかのスケールメニュとします。

 

○次の器

 

 1.今の器の確立、2.次の器の獲得、そこで実践した分、広がる可能性も早く尽き、やがて限界になってきます。今の器で、調整しつつも、次の器のためのトレーニングをしていくことです。それで調整の度合いがより緻密、確実になります。そして、次の器もしぜんと今の器となっていくのが狙いです。

 やがて、その限界の外に応用された器というのがきます。その先は、本当に使える器の外ですが、使う必要が出てくるときのために備えておくのです。☆

 そこも、何とかできるというのと、かなり無理というのと、絶対できないというのに分かれます。

 

○器の分離☆

 

a.基礎 今の器 

b.器の応用

c.器の外 c1.何とか c2.かなり無理 c3.できない

 これは声域のことでなく、質のことを言っています。

 発声のできていない歌い手は、a、bがなく、くせで歌っているのです。

 これを流用して高い声の出し方でみるとします。大半はa、bも無視して、c1をc2かc3からもってきているのです。つまり、a、bに手をつけていない。少しは変わりますが、基本はいつまでも身につかないのです。45年もやって身についたと思っている人は、その先の可能性がないとなる。これは初心者よりもよくなっていないのです。この国では、初心者の大半もそうなっていくのです。どうして伸びていくのかよりも、どうして皆、伸び悩んでいくのかを学ぶ方がよいでしょう。☆

 これを、音感、音程や高音で例えていうとわかりやすいでしょう。器の外のcは一つの音を聞いて何とかそれにあてているレベル、bはメロディのなかで多少ぶれても間違えはしないレベル、aは声を出したらすべて最高に心地よいピッチしか出てこないレベル、となると、c.アマチュア、b.プロ、a.一流のレベルというようなものです。

 

○方向性

 

 方向として、名人、師匠、先輩などを追うことの是非を述べてきました。最初は上を目指していくとよいのですが、いずれ個人的資質での限界が出てきます。そこからは、一時止めて、上でなく、どの方向にどう伸びるかをみます。そこから、丸や正方形としての拡大、膨張でなく、楕円や長方形のように、方向をもって器を広げていくのです。ところが、ここで歌手なら、大体は、一方的に声域や音程が優先されてしまうのです。

 声優さんなどでは、先述のb(器の応用)の中、あるいはc1(器の外)くらいで7つくらいの声を使います。仕事ではa(今の器)の自分のど真ん中の声は使えないこともあります。しかし、私はaを拡大してのbとして、オリジナル、自分の声、本当の声というのを想定し、b、cの声を使っても、aに戻すクールダウンを課しています。

 aは、何時間どう使っても大丈夫の声、bは、制限のある声、cは、リスクのある声です。ここで、やり方でやる人は、cが問題と思ってcばかりやるのです。が、基本はaをやることです。そして調子のよいときにb、cの応用をしてみること。それが仕事から声を守ることになります。できたら、表現や、作品をaの範囲内で行えたら理想です。

 私が外国人の歌手をみて、羨ましいのは、aが日本人のbよりも広く、そこで歌まで処理できているからです。これは結果論で、本当はaで歌うものなのです。☆

 向うから輸入されてきた声域に追いつかせようとしているままの日本人、声優やミュージカルはともかく、ポップスやカラオケでも、個性より、まねをとりたいメンタルを何とかして欲しいのですが…。

 

○順番

 

 先に、順番ではいかないと述べました。高い声からの順番でうまくいくのなら、すでに日本にはグラミー賞はおろか、ブロードウエイでも、オペラでも世界的スターが生まれているはずです。むしろ、遠ざかっているように思えるのは、なぜでしょうか。ノーベル賞とか、アカデミー賞とか、オリンピック競技とか、向うびいきの向こうの土俵での戦いではないもので世界に出ていくというのなら別ですが…。

 声だけのせいではないともいえますが、声については、もっとよくないようになっているというのが正直なところです。

 

○お笑い芸人

 

 歌手やタレントよりも、お笑い芸人の声の方が声量も個性も出ているという昨今、そこに学ぶのが、声を出せるようになりたい人の正攻法です。私は、ずっと前から黒沢映画の役者→お笑い芸人と述べてきました。なぜ、彼らが歌も役者も、MCも声優、ナレーターもできてしまうのかも述べてきましたね。

1. 徹底したネタ(台本)での発声、読み合わせの組み合わせ、メリハリ、大声

2. ものまねでの声のあらゆる使い分け(表現、所作、声色、間)

3. 舞台、笑いという観客のシビアな反応と一流、ベテランとの比較、縦社会の序列あり

 お笑い芸人は、歌い手よりもはるかに身になる、そしてシビアな状況での声の鍛錬が積めているのです。何よりも、まずは絶対量なのです。

 そこでの問題点として、大きい声、太い声、張りのある声、強い声が出ない、喉を痛めやすいことは、すぐに差としてわかるからです。

 

○わかるということ☆

 

 ものごとを捉えるときに2つに分けてみるのは、納得のしやすい方法です。言うまでもなく、わかるは分けるからきたことばです。もちろん、わかることができることではありません。わかること自体は悪いことではないのですが、わかると思うことによって分けてしまったことを忘れてしまう、どちらか一方だけにしか目を向けなくなりがちです。

 私はいつも、わかることとできることとは違うと述べています。わからなくなくともできることがよいのです。

 つまり、わかりたいから人は分けるのですが、分けたときに一方に偏り、他方を忘れてしまう、あるいは、無視したり遠ざけてしまうのです。そうすると、奥行きがなく、深められずに、結局は、大したものにならないのです。つまり、器が大きくならないということになります。ですから基本が身につかないのです。

 

○「ヴォイストレーニング基本講座」とカラオケ

 

 例えば、拙書の、「ヴォイストレーニング基本講座」(シンコーミュージック)とカラオケの本とでは、私のスタンスは同じでも、述べる方向が逆でした。それは、一方が正しく、他方が間違いというのではありません。一方が浅く、一方が深いということでもないのです。拙書のカラオケの本は、応用から入り、基本講座は、基本から入ったのです。つまりは、基本から応用か、応用から基本ということで、トータルとしては、同じことです。どちらの本も、本来は、基本と応用を行き来をしながら深めていくのです。

 何か根本的に違うのかというと、すでにもっている器のなかで調整していく、つまり、使い方によってならしていくのがカラオケ、今の器をこれから大きくしていくのが鍛錬です。体感覚を大きく変えていくのが基本講座での歌手、役者へのアプローチです。

 

3冊の基本書と声の本質

 

 考え方の法則を、ルールのようにまとめたのが、「ヴォイストレーニングがわかる!Q&A100」(音楽之友社新書)です。私の10年超の経験をまとめた「ヴォイストレーニング基本講座」(シンコーミュージック)の初版から10年ほどかかりました。そこで考えるだけでなく、その実践でのプロセスや効果まで入れて、ほぼ完成させたのが「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」(音楽之友社)でした。さらに10年ほどかかりました。

 それは、このように説明するのに時間がかかったのであって、ニュートンのプリンピアのようなものです。比べるのは大それたことですが。リンゴが木から落ちたのが、地球に引っ張られたということは、直感として見抜いたのです。誰しもリンゴが木から落ちるのは知っているのに、その本質をみようとはしなかったのです。そのニュートンよりもずっと早くコペルニクス的転換をして見抜かなくても実践できていた人はいました。

 つまり、すぐれた声の使い手は太古の時代からいたのです。それは、この100年に関しては、音源でも聞くことができます。世界中の一流レベルのもたくさん残されています。

 

○否定

 

 一流のものがありながら、本質を捉えられないのは、直観力が衰えていることもありますが、元より、声の場合は、聴く耳の力のことです。聴力でなく、聴きとる力です。声の効果がどこまでわかるかという文化としての国の民度、生活の問題、つまり受け手のレベル、対話なら相手、芸なら観客のレベルとして、問われているのです。

 このレベルも、わかりやすく述べようとすると分けてしまうので、用心しなくてはなりません。それは「秀でている-劣っている」の対比でなく、好き嫌いとか、価値観の違いとされてしまいがちです。スポーツのように同じ土俵や共通の制限がないから、ジャンルとか時代によるとか、ひどいときは個人の趣向、好き嫌い、とされてしまうのです。

 トレーニングで基本を身につけるというのなら、そこで最高レベルのものを定義しなくてはプロセスが成り立ちません。一流のもつ共通項や、そのバックグランドをみるのです。それをしないで、一流の人や身近な見本をまねるだけではよくなりません。早くできるようになったつもりでも、それは、できる人と似ているからに過ぎないのです。でも、周りもわからないとなると、それがもてはやされます。そうして、少しずつレベルは低下するのです。

 今の日本では、こうした本質論を展開していくのに、「日本人の声は世界に劣っている」という前提から述べなくてはいけない分、やっかいになりました。

 

○前提

 

 ここでいう前提とは、基本のようであって、応用のことなのです。つまり、「カラオケ、そこでみるなら欧米、いや世界の人と日本人は同じように歌えているよね。素人でも99点出せる日本人はたくさんいる」となります。

 つい、20年ほど前ならカラオケで外国人が歌うと、日本語のイントネーションはともかく、その声では圧倒されていたものです。声量や共鳴のパワーです。30年ほど前までには、映画音楽の特集などで日本の声楽家が、その違いを見せつけることもありました。

 それでは、その声に、日本人が世界レベルの到達するくらいに実力がついたのでしょうか。ここでそうだと言う人はこの先は読まなくてよいです。世の中には、いろんな考えがあります。そこを掘り下げて述べていくと、さらに本一冊くらい必要になるし、これまでもいくつかも例は出しています。知りたい人は「トレ選」のバックナンバーの中にたくさん言及してあると思います。

 

○結果として

 

 私は、他のトレーナーについて語りたいわけでもないし、他のトレーニング方法について否定したり、そのことで自己肯定したいわけでもありません。トレーニングということを取り上げるのに、トレーニングしている人の現状に触れないわけにいかないので、必要最小限、述べてきました。

 いわく、どのトレーナーのやり方も考え方も正しい、間違いもない、目的、レベル、相手によって異なるから、外からあれこれ言えないということです。また、本人の満足度と上達レベルというのも必ずしも相関していません。

 

○現場対応のレッスン☆

 

 器を大きくすることを旨としてトレーニングとしている研究所ですが、よく例に出すのが、レッスンの受講者で「3か月後の結婚式で歌うウルフルズのある一曲の、一番高い音が出ないから教えて欲しい」というのに対応した経緯です。公共放送関係者の紹介でしたが、その方法やプロセスは、まさに「カラオケ上達法」なのです。でも、考えてみれば、プロへの現場対応も似たようなものです。

 その内容を簡単に述べますと、第一にリラックスとパフォーマンスです。メンタル、あがらないこと、パフォーマンスでの見せ方、マイクの使い方とステージのことと、外側から入り込みます。次に歌です。声域、そして発音やメロディ、リズムの正しさ、最後に声、そのための発声や柔軟です。

 

○歌以外での対応力☆

 

 私のところには早くから歌以外の人がたくさん来ました。外交官、弁護士や企業のトップセールスマン、それに役者、声優、語学教師、噺家、芸人、邦楽、今と違って他に行くところがなかったというという先行の利はあったのですが、私も元より自身を歌の専門家とは思っていません。(歌の専門家は歌手ですが、歌手に関しては、必ずしも歌の指導の専門家といえるわけではありません)

 少なくとも世界で売れた歌をもっていたり、そういう人を育てているトレーナーは、欧米では何百人もいます。そのレベルやキャリア、実績とは比べられないからです。もはや日本一とかで比べる時代ではないのです。

 今や、ポップス歌手よりも声優、役者、お笑い芸人が多かった時期も経て、邦楽や噺家、一般の人、声の弱い人になりました。つまり、研究所が歌手以外にすんなり対応できてきたのはどうしてかということです。そこには基本があった、求められる声が宿りやすかったということなのです。つまりは、いろんなヴォイトレのなかでも声そのもののヴォイトレがあったからです。

 

○若手の伸び悩み☆

 

 ここでは、ステージ実習やオーディションを目指す人でさえ、ほとんどのケースではマイクを使いません。(本人の希望で決めていますが)

 マイクのないところで声をみる、これだけで、カラオケを使って教えるトレーニングと違ってきます。(実際は、ステージ実習やマイクを使うカラオケ指導もしています)

 カラオケにも最近はヴォイトレが入り、マイクを使わないトレーニングも行われているようですが、これまで私の述べてきた12年で12割うまくなって(なかには3年で3割くらいうまくいく人もいますが)あとの10年はそのまた12割くらいしか伸びないか、却って衰えているのは、なぜでしょう。

 声についてのことは、歌がうまく聞こえるようになっていると気づきにくいのです。☆

 それは、今の若手のプロ歌手(といっても私からみると、ここ30年くらいの傾向ですが)デビュー後のプロセスと似ています。下手な時期がない、荒削りな時期がない、最初からうまく歌ってしまっているのです。ということは、客もヴォイストレーナーも、その傾向にどっぷりつかっているということです。

 

○歌のトレーナー

 

 案外、私の述べていることを読めるのは、今や60歳代以上のトレーナーやポップス以外の声の仕事に携わっている人ではないかと思います。

 歌手は、お笑い芸人よりも声が使えなくなってきているのです。才能は客のいるところ、稼げるところに集まります。歌という分野だけで声をみてこなかった私からみると、歌のヴォイストレーナーは、ヴォーカルアドバイザーであって声そのものを扱い切れていないのです。それは、ヴォーカルアドバイスとしてヴォイトレを定義すればよいのです。邦楽や他の分野に対応できるトレーナーはほとんどいないからです。もちろん、姿勢や発声法で教えることはするでしょうが、根本的にトレーニングで声を変えられるかということです。でも、その必要性がない方が多いのですから、これも愚問かもしれません。

 

○カラオケの点数

    カラオケの点数を上げる目的であれば、そのトレーナーは、結果として、私がカラオケの本で述べたプロセスや価値観をとっています。そこで私と対立や矛盾するところは少ないでしょう。研究所にも、ここ10年は、それに近い目的でくる人もいるので、そこへ対処できるようにしています。カラオケ、ハモネプ、合唱などはポップスでもミュージカルと似て、声楽のトレーナーが向いていると考えています。

 歌手もトレーナーも世につれ、です。カラオケで日本人の歌がよくなったのでしょうか、声が伸びたのでしょうか。カラオケの普及の効果は、IT化とも重なって、聴くだけの歌を一般の人に取り戻したといえます。しかし、その普及が層の厚さとなり、すぐれた芸として表現としての歌や声を生み出す土壌とは、なってはいないようです。

 

○カラオケでの優先順

 

 声量と声域の問題に移ります。わかりやすいのが声域、カラオケでは1オクターブと23音くらいの調整をすればよいとなります。「高い声に届かない」は、もっともわかりやすい問題です。採点機があるので音高、音程も次にわかりやすい。リズムもメロディもです。この3つがセットでカラオケ上達トレーニングです。

 そのために呼吸法とか腹式といっても、それは柔軟に体をほぐすところの延長上として扱われているにすぎません。喉のリラックス効果を目的にしているだけです。

 プロの声、プロの息といっても、深さのレベルは問われません。それを問うとまとまるのが遅くなるからです。上達が遅れたり、一時的に下手になったりします。それを避けて、トータルとして早くバランスをとりたいというのが、カラオケや今のヴォイトレです。

 

○プロとカラオケ

 

 何百曲もレパートリーがある人でも、歌は、それ以上、うまくなっていない。それは、声から伸び悩んでいるのです。発声よりは、イメージと呼吸によることが大きいです。99点をとっても感動させる歌にならないのです。プロにもなれないのです。ただ日本のプロ歌手ということなら基準やレベルが、声からはもはや定められないので、そこには触れません。

 トレーニングとして器をつくるなら、大きい方がよいし、余裕のある方がよいのです。声域も、余裕のある方がよい。とはいえ、1オクターブ半歌うのに2オクターブあればよいし、現にそういう人は、カラオケレベルならキィを変えず原曲で歌えるし、2パターン(1オクターブ異なって)で歌っていることもあるでしょう。

 ちなみに、カラオケでの歌の退化について、私は、カラオケBOXの登場で身内だけのクローズ空間になったときと、自分のキィ、テンポでなく原調に挑戦になったときの2つのみえにくい時点をあげています。

 

○正すか深めるか

 

 歌の3要素は、メロディ、リズム、歌詞です。それぞれ外れたらわかるから、それは間違いとして正しやすく、レッスンがしやすく、トレーナーやプレイヤー(伴奏家)の仕事として成り立ちやすい、のは述べてきました。かつて、多くのケースで、作曲家や伴奏家(ピアノの弾ける人)が歌の先生だったという理由も以前述べました。トレーニングというより、ステージへの調整に近かったのです。

 音の高さは唯一、声において確かです。ピッチ(音高)は測れます。耳でもピアノでも正しいか間違いかがわかります。ただ、正しいよりは、深いというレベルの基準があるのですが。高い声に届いていないというようにみると、届かせるのが目的となります。困ったことに、届いている声はよしとなります。

 それに対し、声量や声質(音色)はわかりにくいです。つまり、分けたときに無視されやすいもの、と述べたことを思い出してください。

 当時でさえ、そういうレベルでのヴォイトレのなかで、声量を優先していたのは、皮肉なことに、今のここのパートナーをはじめとする声楽家です。声は届かなければ、働きかけもよし悪しもないからです。その歌声を認められなかったのは、私の声=歌へのこだわりでした。

 

○声量と共鳴

 

 声量は、カラオケでは、エコー、ポップスで導入されたマイクがもっとも助けてくれるものです。リヴァーブ効果、それに加え、フレーズでさえ、ビブラート効果でつなげます。どんな下手な歌も、小さな声量でもおかしくないようにバランスをとってつなげ整えてくれます。丁寧に音さえあてていくとつながる、それが歌も声もダメな日本人の開発したカラオケという魔法の道具なのです。歌やステージをヴィジュアルに絞った装置ビジネスにしてしまったのも日本人です。

 マイクを使わなければ声があるかないかはよくわかります。しかも、大きな声は、武器です。無限とはいいませんが、大きく出せる器をもっていながら7割も使わず、底をみせないのがプロたるゆえんでしょう。つまりは、声量と共鳴は奥行きがあり、深いのです。たからこそパワーとなりうるのです。日本人が世界レベルにならないのは、ひとえに、このパワー、インパクトの不足です。

 

○みえない深さ☆

 

 歌の前に声、「アー」という一声、これをお笑い芸人ほどにも今のプロ歌手はもっていないのです。また、問われてもいないのです。それくらいでは、自ら歌う楽しさを知ったカラオケ好きの客が、歌手のファンとして増えるわけはありません。

 誰でも歌える、ならお金を払って観に行かない。その人たちしかできないからこそ、お笑いも人が観に行くのです。プロになるのに必要なのは、この、一見みえない深さです。それこそが、私の述べてきた器です。

 ただし、歌に世界観があれば、歌のくせもオリジナリティとなります。それを欠点として取り除くのかは、慎重な判断を求められます。私なら、こういう場合、歌唱とヴォイトレの距離を明示します。

 

○歌での甘え

 

プロしかできないこと、それが声に基づくもの以外になってしまったのです。アイドルやコミックバンドなどのようにです。もちろん、亜流はいつの世にもあって、それは本流があってこそ、だったのです。

 作詞作曲、演奏、ステージパフォーマンス(ダンス)はハイレベルになりました。日本人の客にわかりやすいからです。

 声が大きいというのが、プロになれる条件ではありません。それは、器の一要素です。条件はむしろ声質、音色、歌やせりふならフレーズ、そこでのオリジナリティです。

 歌という「自分の声」「ことば」で、オリジナルのように思われてしまい、通じてきた甘えのつけが出てしまったのです。楽器レベルの確かな音色(タッチ)とフレーズ(自分の音、音の流れ)の必要な音楽になっていないなら、国や時代を超えられるわけはありません。ブロードウエイやグラミー賞、別に、もう欧米の基準を絶対にしたくないので、それはいらないとしても、中国、韓国、インド、アフリカなどにも敵わないというのが現実なのです。

 

○まとめ☆☆

 

 声が出て、しゃべり、感情によって叫んだり、怒ったり、泣いたり、それのくり返しを歌の成り立ちの前提というのなら、声量はいりません。しかし、体からの息を伴わなくては生きた表現にはなりません。声量は、そこでのメリハリで定まります。

 日本人には邦楽でみるくらいの1オクターブくらいがしぜんな器ともいえます。それ以上使いたければ、アスリートのように器を大きくすることです。カラオケで他人のキィに合わせているようなのは、ただのゲームなのです。

 例えば、ですが、平原綾香さんらの歌の変遷をみても、パワーから癒しになってきています。(~ら、とつけたのは、例えば、紅白出場あたりのデビュー時と5年後を比べられる最近20年の歌い手でみると、ほぼ当てはまるように思うからです)最初から声力のない人は別、男性よりは女性によく当てはまります。

 今や、基本を求めると、売れませんとは言いませんが、日本で感度のよいプロ歌手は、結果として売れる作品、そういうステージによっていきます。そのなれの果てが、今なのです。一方、一流の歌い手の声と歌唱は、派手でもおもしろくもなく、まじめにすごいものなのです。

 芸人の感性が、広い世界にでなく、身近な人にあわせると、結果として、その人はよくとも、その分野は滅ぶ道を辿ります。母性に加え父性もあってこそ存続するのです。

 

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○トレーナーの成長

 

 日本においても、声のベース、体-息=声-共鳴までの器づくりにおいて、できているのは、邦楽(詩吟、声明などを含む)と声楽家です。演奏や歌については、それぞれの流派や価値観、何よりも時代と場と客の好みもありますから、今は除外します。

 一括りにしてもピンキリ、一人ひとり、かなり異なりますが、声でみる。次に、トレーニングをするものとして、他人にそのプロセスを共有できるかということでみる。

 となると、共鳴のところで、邦楽は分野別、流派別があって、長唄くらいでみないと、なかなか難しいでしょう。研究所では、分野を超えて基礎を教えるという必要がありますから、なおさらです。

 声楽家でも、演奏レベルではなくトレーナーとして、声の基礎を声楽志願者以外の人と共有できるかというと、なかなか難しい状況です。研究所でもしっかりと対応できるまでに、トレーナーは3年くらいはかかっています。

 早く力をつけたければ、難しい相手とやることです。プロや一流の人がくる一方で、医者から紹介された、一般の人よりもハンディのある人もくる研究所では、そこにおいて、とても恵まれています。早く苦労し失敗する経験を積めるかです。他のトレーナーにもフォローされつつ、ゼロからやり直すくらいでこそ、初めてそれまでの経験も応用されていきます。そして相手に応じて用いることができるようになるのです。そこに以前に学んだことも加わって、その人の中でそれなりに体系化していくからです。

 

○誰がふさわしいか☆

 

 自分だけが正しく、できていて、他の人の教え方は間違っていると思い、研究を怠たるトレーナーには、現実として、生徒がつかなくなります。これは、演奏面で少々評価されている人(特にプリマドンナタイプ)に多いのですが、教える力が伸びません。自分が教えられたことと自分がやってきたことが絶対のあまり、今の時代や、多彩なニーズに対応できないのです。

 ここのレッスンに来る人の多くは、オペラの歌手の基礎のそのまた基礎にあるもの(体、呼吸、声)が欲しいのであり、オペラ歌手になりたいのではありません。オペラ歌手以外でも、音大や先生の違いで悩んでいる人は、是非いらしてください。お互いのノウハウを共有していく場で一緒に研究しましょう。

 日本にも少数の優秀な人はいますが、欧米をみると、本当に演奏家もトレーナーも大した人が、相当数いるものです。かといって、彼らが日本人にとってもよいレッスンができるのかというと別問題です。それがよければ、そういうトレーナーと私はここで行っているからです。(ここが30年、続いているのは、世の中のニーズに対応してきたからにすぎません。必ずしもそれがよいとも思いません)

 外国人のトレーナーに教えられても、日本人が楽器のプレーヤーのようには、第一線に出られない。はっきり言うと育っていないのです。それは、なぜなのかが問題なのです。なかなか、教わったことが体現できている人は少ないものです。

 

○配分か積み増しか

 

 声について、自分の体から考えること(この体には感覚も含みます)そして、人間の体から考えること。世の中のすべてのものは、声についての見本、参考になるのです。

 器を論じるとき「基本講座」の方の例を出し忘れました。そこには、器が10なら声域に5、声量に5使っていたのを、レッスンで声域8、音量2にしてしまうようなことを述べてあります。

 しっかりした声が1オクターブも出ないのに、高音を出せるようにしたら、声量が高音だけでなく中低音も減じるのです。それは、バランスを正方形から上下へ長方形にしたようなものです。器は大きくなっていない、まして、カラオケレッスンでは、三角形にして器を小さくしていくみたいなものでしょう。それでトレーナーもうまく教えたと思い、歌い手もそれを望んでいた、のですから、それはそれでよいこととしておきます。ここでも、それを便宜的に実践してもいます。

 ここで高音はともかく、中低音のときに今まで以上に声量が使えなくなり、ことばやパワーが減じている、ですから、できたというのでなく、そういう使い方を学んだこととして把握しなくてはいけないのです。なのに、トレーナーはその声量では高いところが出せないから抑えるようにさせます。それは、声域のために大切なポイントです。しかし、そのこととその声量(共鳴を含む)でその音が出ないのとは違います。本来、優先すべきは声質なのです。

 全体を鍛えて16の器になれたら、声域8、声量8でバランスがとれるのに、その必要性に気づかない。それどころか、さらに声域9、声量1にしていくのが、ほとんどのレッスンということです。

 それなら、声域2、声量8にしてみると、よほどはっきりします。半オクターブもなければ、次には自ずと声域に向かうので、いつか16になる。器が大きくなる。これが、かつてプロが育ったプロセスです。そして、当初の私のアプローチでした。でも、表面しかみない人、急いでいる人は、声域が狭くなると、下手になったとか出し方を間違っていると思うのです。

 先にパワーを減じてバランスをとって、きれいな形を創りあげると、後からパワーやインパクトをつけるのは難しいのです。だから日本人の歌い手は表現に踏み込めない、声ではみ出せないのです。

 

○鈍さとセンス

 

 急いで体や息の力を使って大きく声にしようとしたら、喉に負担がかかります。声を潰すリスクも出ます。一時、こういう方法が、指導者や若い人に否定されたのは、そのリスクのせいですが、それは自主トレでの無理な追い込みが、ほとんどの原因です。休みを入れない、長時間行う、疲れているのを回復させない、疲れるのを効果と思う、など、ある種の鈍さからくるものです。

 ですから、表現から学んでいくこと、一流の作品に触れ、音楽的なセンスを磨いていくことが大切なのです。きちんと出している声は心地よい―という出口をみていることです。トレーニングはそのことを踏まえて行うものです。トレーニングのためのトレーニングではないのです。理論が間違っているから、それを証明するために声を悪くしてやろうみたいな無駄をすべきではないのです。

 私は、一流の中で見本にしたい人と、一流でも見本にとるべきでない人についても言及しています。(「読むだけ…」)もちろん、学ぶ人の資質によって個別というほどに異なるので、レッスンの他にカウンセリングしているわけです。

 

○現状適応のレッスン☆

 

 すべては活かすためのトレーニング、そして、活かしていくプロセスです。自らそれを否定する、そういう人が、いつ知れず出てきたときがありました。私のところは、複数で教えていましたが、今ほど役割分担をしていなかったために、他にセカンドオピニオンを求める人も出ていたのです。他のところのトレーナーなどに注意され、元に戻すような人も出てから、私は、複合的な戦略、ここでも、最初からカラオケ目的もあり、ということに切り替えたわけです。

 それで、私のブレスヴォイストレーニング法と研究所のいろんなレッスンを分けているのです。どちらにしても、一人のトレーナーや一つの方法が万能ではないからです。確かに一人ひとり違うので合うも合わないもあります。(付言すると、セカンドオピニオンで因果関係のない第三者の意見、というのは、メインのトレーナーを否定するのでなく、フォローでよりよい関係をつくる役割なのですが)

 もちろん、日本の歌や歌手の変遷がその背景にあります。声域優位の考え方は、ここでも入れざるを得ません。歌い手なら、これまでの声域キープは、ほぼ絶対条件となります。カラオケはともかく、音大受験生、合唱団、ハモネプ、ミュージカルオーディションなどに対し、声の深みやオリジナルのフレーズなどを追求するには、あまりに時間がないのも問題です。また、プロなどでステージを現に行っている人には、リスクも最小限にしなくてはなりません。

 声とその周辺で、癒し、キュアとケア、マッサージのような役割を求めて来る人も増えました。ヴォイトレも、そういうケアのものとなり、トレーナーもそういう調整、回復役となってきたのです。

 一言で言うなら、マッサージをどんなに受けても、それでプロのアスリートになれない。そんなこともわからない時代になってきたのです。でも、自分が気持ちよくプレーできたら、それでよい、そういう考えもあってよいと思っているのです。

 

○ギャップの拡大

 

 声や歌は習うものではありません。日常に触れているものから身につけていく母語ダンス(踊り、舞い)のようなものでありたいのです。幼いときから声や歌に親しんでいたら、あるレベルまで行くので、トレーニングはさらに、その上を目指すものとしてあったはずです。

 ところが今や、社会人になって、どこかのスクールで挨拶や敬語を学ぶようなものと同じになりつつあります。30年前から、私は、日本人は演劇を学び役者のレベルになって、他の国(当時は欧米と比べていましたが)の一般の人並みになると述べていました。今や、そのギャップは広がっています。育ちのなかで声を使わなくなり、仕事の日常生活でも、こんなに静かになり、一方で、音への完成度は鈍ってきている。頭でっかちになって、視覚、眼でっかちになっているからです。

 

○原点に戻る☆

 

 歌手よりもものまね歌手の方が客を呼べて食べられる―これは歌手に歌の力、声の力が落ちた、ものまね芸人の力と想像力が上がっただけでなく、まさに歌そのものの力が落ちたと認めるべきことなのです。

 初回に、体から声の出ている人をみることも少なくなりました。トレーニングは、さらにその上にでなく、一般レベル、人間として必要なレベルの声の獲得になってきています。なのに、相変わらず歌のヴォイトレだけ、何オクターブ出すか、どこまで高い音が出るか、点数がどこまで上がるかと、個性とか、その人の中心の声とは全く別のゲームになっているかのようです。

 もはや、トレーナーはヴォーカルアドバイザーやカラオケアドバイザーでなく、ヴォーカロイドアドバイザーになっていませんか。それを必要とされる現実もあるので、私は、それはそれでよいと思っています。私はともかく、研究所ではそういうニーズにも対応しています。基礎があれば応用できるはず、という難しい問題にトレーナーも取り組んでいます。

 何よりも芸術は、医術であり、宗教でもあったわけです。これからも、この日本に対し、よりよく多くの人により深く役立つ研究とレッスンの場を提供し続けたいと思っております。よろしくおつきあいください。