「声と身体以前のこと」☆☆ No.294

○なぜ答えるか

 

 よく、「なぜ専門以外のことに言及したり、質問に答えたりするのか」ということを聞かれます。それは、聞かれるから答えているのですが、興味、関心があるからです。人に何かを伝えている以上、そういう内容には、私に限らず誰でも触れているのでしょう。そこで言うか、別の場で言うか、あえて言わないかの違いでしょう。

 それをあえて、公開にするのはなぜかというと、皆さんが毎日のブログを公けに開示するのと同じだと思うのです。

 その上で、こうして聞かれるとしたら、きっと声が専門なのに「声以外のことまで言うな」ということでしょうか。あるいは、専門家やプロが自分の範囲以外のことで何か言うと、とんでもない意見になりかねないからでしょうか。権威めいたものが信憑性をもってくることもあるので、ややこしいということもあるのでしょうか。

 

○公けと専門

 

 この、公けとは何か、専門とは何かについては、私もいろいろと思うところがあります。若い作家やタレントが、時事問題などに全く外れたことを言うのを見ると、彼らより、そのミスキャスティングを情けなく思うこともあります。有名な歌手や声優、あるいはトレーナー、医師が、まったくおかしなヴォイトレを勧めたり、声についての自説を述べる、これも、その影響力を考えると問題かもしれませんが。(ただ、これについては、本人たちより、マスメディア(特に、TV)の低能化によるところも大きいのですが。)

 日本人に特有のことで感じることは2つあります。日本人は、一つのことに邁進し、他のことを一切やらず極めていく職人畑の人を尊びます。それはどこの国も同じですが、反面、マルチな分野で、いろんなことをやるような人を、同じほどに評価しません。いわゆる、二足以上の草鞋のことですが。

もう一つは、いつも言及していますが、言論統制の強いこと、世間というものが個を潰すこともあり、自主規制もあります。この国は、アメリカがコントロールしていることもあり、「自由に表現できる国」と思わされていることも、わかりにくくしています。日本で政治や宗教を語る歌手や役者、タレントはほとんどいないのも、同調圧力の強さをもの語っています。

 

○専門

 

 専門家は、他の専門家との連携はかかせません。自らの限界と他の専門家に任せるべきボーダーを知っているからこそ専門家です。その専門の限界を知らないのが素人なのです。

 私は、世界、未来を見ることを学んできましたが、素人さんの声への考え方までのフォローは、なかなか難しいものと思わざるをえません。それでもレクチャーと質問の受け付けで対応していますから、かなり緩やかで寛容な立場です。初心者の質問は、大体はわかっているので、本を出し、ブログで対応もしています。

 どの分野も、最先端では、他の専門家に学ぶことが大きいものです。もちろん、これは論じてきた声、その専門って何なのかとなると、あまりに複雑、ゆえにヴォイトレに資格もないわけです。それは真っ当なことでもあります。誰が認定できるのかということですから。

 

同調圧力

 

誰もが声を日常的に使い、生活、仕事、職場、家庭でも使っています。政治にもビジネスにも、人間関係に声を使うのですから当然です。それに言及すると、私の出してきた本のように、テーマは、声の全般的な説明やトレーニングを中心に、対象はシルバー、女性、中高生、ビジネスと、分野は科学、語学知識など、あらゆる分野に拡がっていきます。それに対応するのに、声しか知らないというわけにはいかないでしょう。

 声を役立てたくて使えるようにしたい人が来る。その問題は、発声だけでなく心身のことや考え方のことかもしれません。いえ、その方が大きいことが多いのですから、社会と関わらないほうがおかしいのです。

 政治、宗教への言及などは、私一人の、そのときの考え方なのに、研究所全体や他のトレーナーも同じようにみられることもあり、自主規制がかかるということは、こういうことだと学んできました。

日本では、違う考えだから聞きたいのではなく、違うのは聞きたくない、と考えている人が多く、違う人は、もとより理解不能というようなものです。同じ考えだから仲良くなれる、一緒にいられる、違ったらそうはならない、だから、察して合わせてよ、というのが、同調圧力です。そこで一線を、大したラインではないのですが、越えるとスルーされてしまうのです。

 ときおり、素人のように地雷を踏み、タレントのブログが炎上します。それは、スキャンダルと同じようなもので、どうでもよいことです。差別用語など明確な禁則もありますが、それ以外のタブーは何なのかと思うのです。

 

○自論

 

 専門家が専門外で自論を述べるのは、一つは、一人の生活者としてです。ただし、多くのケースはその専門で成功するまでに磨いてきた知恵で本質を捉える力を期待されてのことです。

 そのなかには、知名度や人気での影響力で、ということもあります。今やタレントなどがすぐに転身できる政治家などは、専門家というのではないのかもしれません。

 今の日本で、本音、正論を言えるのは、オネエと一部のお笑い系、漫画家や作家、映画監督でしょうか。テレビのタレントなどの発言は、極めて高度な自己演出とみる方がよいでしょう。ワイドショーで世論も動く、センセーショナリズムな“マスコミ”が支配している国といえます。

 そのバックに、どこの国でもそうですが、いろんなものがあります。でも、日本ほどジャーナリズムでないマスコミは、全体主義、軍事政権の国以外にないのではと思います。また、エリート、インテリといった大衆と別の観点から、大きな視野で自分の意見や見解をもつ人、主張できる人が減ってきていると思います。

 専門家の専門外のことへのコメントは、その専門家の専門分野からのものでなく、それを通じて鍛えてきたことからの深さ、人生の処し方からの知恵ともいえます。年齢を重ねたことからの知恵もその一つですが、20代でもその語録を編纂されるような人は、それなりに、深い本質把握力や言語創造力、編集力にすぐれているのでしょう。ときに、私も、若いアスリートなど一選手のコメントにはっとさせられます。

 では、声に関することはどうでしょう。音楽としての歌にもことばがあります、ましてセリフとなると。人は皆、日常で何らかの役割を演じています。そのプロの役者=役割を、与えられたところでの、声、ことばの力は誰もが認めていたものです。

 

○話の専門、声の専門とは

 

 プロとプロになりたいという人は、能力を高めなくてはなりません。能力には、専門技能だけでなく、対人コミュニケーション能力や自己コントロール力も入ります。才能があって、それゆえか、人とうまくできない人は、今の日本社会で認められることは難しいでしょう。認められるのも仕事になるのも、専門的な技術、日常のトークやプレゼンなどの力としたら、声は両方にわたるものだけに、さらにわかりにくいのです。

 話の専門家は、例えば噺家でしょうか。でも、いつも感動させられる話をする素人もいます。ですから、噺家の専門は話、話の専門家という定義はしません。朗読家、アナウンサーも違うでしょう。話のプロ、話の専門家の定義は容易でありません。声についての定義はなおさらです。

 でも、プロになるのに声からのアプローチも一つの戦略として考えるのなら、ヴォイトレのプロという仕事もわかりやすいわけです。となると、関わるのは、心技体の技だけではありません。

 

2つの違い

 

 ある時のある空間においての即興の仕事、つまり、どこに行って何時(なんどき)でも行われなければいけない仕事は、どんな問題にも答えられるだけの力が必要です。声の仕事はそういう仕事です。それを扱うヴォイトレも含まれます。歌手や声優以上に、トレーナーは、自分の声が出ない状況に陥ってはなりません。

 しかし、本人が声で演じる歌手、声優などと違い、他人を声で演じさせるので、自分の状態よりも相手がどうなのかが問題です。相手をよくするのに、こちらの心身や声の状態がよくないのは不利なので、整えていく術をもつようになります。変な例えですが、医者が患者から病気をうつされたらだめでしょう。声を活かすなら、活かす現場、プロなら舞台、一般の人なら社会を知らなくては望まれる声もわかりません。

 オペラ歌手のオペラの響きをビジネスマンの会議で使うというのは、明らかに間違い、場違いです。しかし、オペラの練習を会議で使う声のためにするのはよい結果になると思います。この2つの違いさえまだわからない人が多いのが、ヴォイトレの現状です。

 オペラの発声は日常の声とは違いますが、声は声です。その声がオペラ歌手しか出せないというのは、楽器と同じく、練習をしていないだけなのです。話すのに声を使える人なら皆、そうなれる可能性があります。

 

○心身と声

 

 私が最初にヴォイトレを一般の人と行ったとき、何人かの若い人に、ヴォイトレよりも古武道を先に勧めたことがあります。今なら、他のトレーナーが、体、呼吸を、かなりの時間を割いて指導しているのですが、それでも、声のために心身を整えさせるという前提で、ヴォイトレより効果的なものはたくさんありあります。

 どんどんフィジカルやメンタルなメソッドがヴォイトレに加わってきたし、むしろ、それがほとんどというヴォイトレもあります。私も、当初から、下手な発声練習よりも「歩いたら声が出る」「転げるくらい腹から大笑いしたらよい」と述べてきました。

 

○日本人の声☆☆

 

 なぜ、皆さんが、他の国の声、未来の声に、もっと敏感にならないのかと思うことがあります。声は、国民の声など、意見の意味で使われることがあります。声は、メッセージ、働きかけなのです。

 日本人の声がパワフルにならないのは、日本の国民性ゆえです。コミュニケーションとは、相手を知ることに始まります。相手の心理も読めずに、うまく使える単独の声の力などありません。まして、政治、宗教、芸術に音声は欠かせません。どう人が声を獲得し使ってきたのか、研究してみてください。ただし、歴史に、書は何千年前から文字で残っていても、音声は、ここ100余年しか残っていません。

 人間的な能力や人格とも関わりますから、人間性を磨けば自ずと声もよくなります。少なくとも、よく使えるようになります。説得力の重みが増すなど、顔の表情や所作などとも通じることです。

 日本では、黙っていても伝わるところでみられるので、他の国ほど声の力が優先されていないとはいえ、声が決定していることは、論理より感情的な気質ゆえ、一般的に思われているよりも多大なのです。人は感情で動くからです。なお、声がよいから人間的な能力が高いとか、人格がいいとは限りませんから、念のため。

 

○シルバー世代の声☆☆☆

 

 私は「私に歌うのでなく、同世代や周りの人に歌うのですから」と言うことがあります。それは、トレーナーの気に入るように歌えるようになったのに、どこにも通じない歌い手がたくさんここを訪れられたからです。

 シルバー世代が音楽分野にも力をもつ日本では、この問題はやや複雑です。私の研究所でも、やむなくシルバー狙いという歌手をたくさんみています。シルバーを団塊の世代としたら、あと230年はご健在、そのマーケットは定年後、広がっているからです。

 私は、直接、彼らと仕事を行い、いろんな影響を受けてきました。彼らと今の80代と比べたこともあります。例えば、20歳のとき明治維新を経験しているのは、1847年生まれですが、さすがに50年前には死去しています。20歳で第二次世界大戦なら1925年生まれで、今、90歳、このあたりの人の人生は、もっとも変動の大きかったものと思うのです。

 それはさておき、次に、同世代より少し下、そしてさらに若い人と行動を供にしてきました。今は、半々、つまり、全世代、万遍なくみているのですが、声の能力、価値観の違いを感じざるをえません。

 

○総合領域としての声☆☆

 

 声の力を、単に声としてだけでなく、相手に対する声の働きかけ、効果、影響力と広げるなら、声は人としての総合的な能力の開発と深く結びついています。私は、歌も話も下手だという人、セールスマン、店員さん、経営者や商業人など、そのなかに素晴らしい声の持ち主をみてきました。また、何かの域の達人のような人の声は、魅力的です。語り口とあいまって、ということですが。

 ただ、日本においては、その真逆の例も多いし、この20年、声に力のある人は、少なくなりました、学者から役者まで子供っぽい声になり、日本全体が、クールジャパンとやらの、かわいい声?になりつつあるように思います。

 それは、命がけでやってきたことをアメリカに完全否定され、「命がけでやるのはよくない、あまり責任を負わず逃げ場を確保して、でしゃばらないことだ」という処世訓に陥っていったのかもしれません。

 声に関わるからこそ、世間一般の問題から、教育や環境はもちろん、世界、未来を考える必要があるのです。特に、心身の問題を大きく取り上げざるをえない今の現状では、なおさらです。心身は、毎日過ごしてるところにあり、私たちの生きている時空と切り離せないからです。日本―世界―宇宙、過去―現在―未来に、声は、またがっているのです。

 

○初心者の声

 

 「どれが一番よいメニュか?基本か?」と言われても、そういうプログラムではないのです。何をどうやったかみるのには、やっていることからスタートすればよいのです。作詞作曲の本など読まなくても、(読まない方がよいと思いますが)ことばをたくさん書く、フレーズを口ずさみ楽器で音を確認する。その、まことに頼りないスタートでよいのです。

 レッスンでも、一緒にいる、一緒に時空に存在している、そのくり返しで伝わるべきものは伝わるものです。そうならないのは、頭が働いて、受け取れない人ですが。

 未熟、かつ何もできていない、わかっていないという自覚があるなら、そこは強みです。弱みでなく強みです。もっとよくなる余地がたくさんあります。しぜんと吸収されます。

 いつも初心者と同じ、日々、初心者として、私も対するのです。「いつもよくわからない」、「不思議」、でよいのです。

 自らの内を見るべきなのに、他人とばかり比べるようになったのは、教育の悪影響なのでしょうか。

 

○わからないこと☆☆☆

 

 いつからでしょうか、「わからないからダメだ」という判断をする人が増えました。わからないところを探しては、すぐに潰そうとする人もいます。日本の芸の衰退はそこらから始まったと思います。「他の人もわからない」と言っていると安心する、多数決を求めてはなりません。

 私は、わからないから始め、わからないから続けています。わからないことをわからないと伝えています。わかりたくていろんなこともやりました。わかったことは、それで終わりました。大半はわかった気になっただけでしょうが、終わってしまったのです。

となると、わからないからよいのです。わからないから続くのです。私がすぐわかってしまうような、ちっぽけなものであるはずがありません。

 そう考えると、わかってしまうようなレッスンやトレーニングなら、大して必要ないと思っているのです。自分でやればよいと思うからです。自分一人でやれないことを知るのに時間やお金をかけるべきでしょう、というのが私の対し方です。

 ですから、わかるためにレッスンしたい人は、わかりやすいトレーナーにつけます。わかるほどに、もっとわからなくなることを期待してのことですが。

 問いがたくさん出てくるように、簡単なものが片付くにつれ、少しずつハイレベルなところで出てくるように、です。すると、自ら求めるようになっていく、独自の問いになっていく、その問いづくりに協力しているのが、レッスンなのです。人に聞くな、自分で考えろ、考えた通りにやることです。

 

○レッスンのスタート☆☆☆

 

 どこをどう聞くかで、その人の今の器がわかります。「どこを」とは、「何を」、ということです。問いが初心者レベルなら、やはり初心者なのです。

「知りたいなら、すべてそのレベルの答えを知ったらよい」というのが、このブログです。でも答えでなく、問いを一覧していると思ってくれると嬉しいです。

 答えてもらった。だからって何なんだ、何が変わった。変わっていないでしょう。ならどうする、に早く行かせたいのです。親切すぎるのがよくないと思いつつ…先をみるように、と。

 でもあらぬ方向をみている人が結構、多い。みても気づいていない人も多い。答えがどこかに落ちているものと思っています。誰かがくれるもの、お金で買えるものと思っているのです。人の答えなど使えないのに、暗記という、まね学習を勉強として育てられてきたからそうなるのはわかります。同情もします。しかし、社会人になってまでカンニングですか。先生もまねしなさいと言う。それもありですが、それは深まるためで、メニュや方法を収集するためではないのです。 

 最初はわからない、あたりまえです。最初のレッスンで「わかりました」「できました」と言われるとがっかりもしますが、この「褒めて伸ばす」風潮全盛の世の中で、否定するのも大人げない。まずはレッスンにしなくては、と思うのでスルーしています。

 「わかった」とか「できた」を褒めるって、そもそも、上下関係への従属の確認でしょ。って鋭すぎるか。それは、「わからない」「できません」となって、本当のレッスンがスタートするのです。

 

○三本立て☆☆

 

 二人以上のトレーナーのメニュで少しでも多くに気づくよう与えているのは、なぜでしょうか。「全てをいつかできる」ようにするため、そのときが来るようにするために、今から「全てをすぐにできないこと」を知るためにやってもらいたいのです。真意はそこですが、それではもたないので、「自分に合ったもの、ピンときたものを選ばせるため」と言っています。できたら、自分なりに考えて、アレンジしてやらざるをえなくするため、創造能力、創意工夫の主体的な態度を養うためです。

 昔は、一フレーズで1時間、それを1か月みたときもありました。その分、何十曲も一流のを聞かせました。1つのメニュなら、本人が工夫せざるをえなくなるものだったのです。

 今は、そんな悠長なことでは、皆さんがもちません。どんな情報も、ほとんど時間もお金も使わず、手間もかけずに得られます。なら、メニュも私のでなく、他のトレーナーのをもたくさん与える。たくさんなら、本人が考えなくてはいけなくなる。選んでいるうちに自分で自分のメニュをつくっていく、そのチェックを受ける、それがレッスンとなります。

 それさえ面倒なら、最初はやったところをやった時間のままくり返せばよいでしょう。こうして、この三本立ての体制になっているのです。とにかく、自分のフィードバック体制を確保していくのです。

 

○総合力としての声☆☆

 

 ヴォイトレは声のトレーニングですが、道ということでいうと、もっと総合的なところへ開花していくのです。

 声は変っていないのに、本人がとてもよくなったと喜んでいる、そういうことは昔からよくありました。私が間違っているのかとも思いましたが、それで正しい、つまり、私の判断がどうであれ、本人も周りもよいとなっていたら、何ら文句もないわけです。それが声に実現していけばよいのです。

そのためにメニュもレッスンも、トレーナーさえ消えなくてはいけません。自立して自力がなければ、その先は通じません。その人にメニュやレッスンやトレーナーが残らないように伝えなくてはなりません。

 なかには声と、もっと別のことでうまくいくようになる人も少なくありません。私自身、他人と異なるのは、ある時期、徹底して声に専念しただけですが、それで声以外のこともいろいろ叶うようになりました。他のことは、声にヴォイトレにかけた時間や量などからみると些細なものです。ここを語ると長くなるので、拙書「読むだけ…」を参照してください。

 

○声楽とヴォイトレ

 

 声楽家は発声、共鳴の職人ですが、日本のケースでは、まだまだ地に足がついていない状況です。この点は、深く足を下ろしたままの邦楽よりも劣ります。しかも、そこに教養主義みたいなものがあります。歌舞伎のように、そこらのおばさんが気軽に見に行って楽しんでいない。時代の要請でそうなってしまったところはあるのですが。トップダウンや成り上がり的に世間と切り離されると、他の人がやらないこと、できないことをやって何かができている気分になっていきます。それはそれでよいのですが、その気分とは優越感、他人との比較にすぎません。外国から与えられたまま、特権階級みたいなもので、本来、絶対的なもの、芸術というものの厳しさからみると、甚だ、逸脱しています。

 練習曲も形だけで伝わらないのです。でも、声はある、共鳴はする、他人にわかる、素人ではない。本来、そこからスタートなのに、そこで歌へ舞台へと思っている、それは闘うのでなく逃げているのです。外国語の勉強の発表会のように、といえばよいでしょうか。

 

○接点としての研究所★

 

 私が生まれるより前に、声楽という発声プログラムは、すでに世界中で多くの人に長期にわたり実証されて成功していたのです。その実績は認め、使わせてもいただく、ノウハウも人材もあらゆるリソースを通して、です。でも、それが経験主義として固まってしまい、今の世の中や他の仕事の人に通じない、合わない、となれば邪魔になるようなところはいりません。そのコントロールをして、私は研究所で機能として使っているのです。

 声楽を、一方的によしとして使っているというのでなく、この時代の日本に接点をつけているのです。共同作業で未来へつなげていく。

 例えば、ドイツ語やイタリア語を覚えたからといって、日本の生活で、それができない人に「私はしゃべれますよ」と言っても何の意味もないでしょう。それを学んだために、日本語も聞きやすくなり、好感をもたれるというならよいでしょうが、大体、逆でしょう。となると、キャリアを言うだけ野暮です。となると、日本人は、イタリア語研究会とかを別につくって、そこで話したり教えはじめたりしがちです。

 私はそうはしたくないのです。どの言語を学んでもよい。その国の人と生活したり、その国に行かないなら、その学んだプロセスの発想や能力を、今の日本でどう活かすかでしょう。その方が楽しい。

 勝負事や昔にこだわるとスランプになります。できていると思っているからうまくいかないと悩むのでしょう。

 声やヴォイトレなどを全くしていなくても、素晴らしい声の人がいっぱいいます。イタリア語を10年学んでもイタリアで生きてきた人に敵わない。でも日本語を知っていて外国語を学ぶことで、向うの人が敵わない何かをもつこともできる。なら、日本語をもっと学ぶことを忘れてはいけない、というものでしょう。

 

○調整☆

 

 専門家が必要なのは、むしろ専門外のこととの調整の能力なのかもしれないと、よく思うのです。専門のこと、時間をかけてきたこと、自分ができることの方が案外、できているということで、勘違いしてしまう。

 できているとみられると、人に教えることを求められます。自分でできているから人に教えることができるというものではない。人を教えるとなると、いきなり、理論や用語などの問題にあたります。そこで本を読んで、一夜漬けで使う。プロ本人ができる人ゆえにやっていなかった、一般的なトレーニング法、マニュアルメニュなどを使い始めます。すると、その辺りでは、スターのようだった人でも、思いっきり素人並みの対応であったりします。

 歌い手の行っているヴォイトレをみると、大体がそのようになっているように思います。一般の人を相手にするには、よほど一流でなくては、本当には通じないのです。日本では、その人の過去のキャリアで信用されるから、本人も相手も気づかないからよいとなっていますが。

 私の本でプロになれたのでないのに、教えるときに私の本をそのまま使っても、よい教え方ができるわけがありません。他の分野なら、そこで私に確認してから、少なくとも会ってから、人に教えるというものでしょう。声の分野は、日本では教えることに未熟なのです。未だオペラや野球、サッカーの輸入の時期と変わりません。

 

○古きよきものと科学的なもの★

 

 ここでは、一般化された知識や、これまでの教え方に囚われないために、いつも最新でありたく思っています。最新だからといって、家電やロボットではありませんから、最高ということではありません。

あらゆる仕事の分野の人が来るので、時代に対しても最新でないと対応できないからです。だからといって、若い人だけにしたら、組織としてよいことにはなりません。絶対に人数と年数の経験の豊富な人が必要です。ITのようにはいかない。ITもベテランなしに、進化はできません。

研究所のトレーナーは、舞台の経験と実績だけを頼りに、自分の活躍を担保として指導している人とは、本質的に違います。

 一般的な、オーソドックスなものも混合混在させる経験の継承を目指しています。古いものからも、学べるものは、どん欲に取り入れることです。古いものの方が淘汰されてきた年月での質で、新しいものよりも学べます。ただ、そのまま使うからおかしくなるのです。

その「おかしい」は、権威に対抗するのに科学などが使われることなどもです。私からみると、とんでもなくおかしいレベルでやりあっているのです。そこでは、経験主義以上の誤解を与えています。

 要は、科学的といっても、声の研究ではなく、異なる専門家の理論やデータを強引にもって並べているだけです。それを自ら使ってきた私が言うのですから信じてください。

 声には生理的、物理的…、いろんな側面があり、一人の専門家のデータでは何ともなりません。まして、権威者の一人のことばなど。声を使う相手から考えるしかないのです。

 

○仮説として考える

 

 プロになる人には、声を壊しでもしなければ、その実力をつけるのに医者のような知識は要らない。もちろん、プロになってからの声の管理などには使えることもありますが。

 医者のヴォイトレは、リハビリです。それは、マイナスからゼロに戻すものだということです。

 本、理論や知識の世界と現実は違います。研究するのは、意味がないわけではない。科学的というのは、この分野ではあまりに未熟なものだから、役立たないということです。「ヴォイトレで理論好きな人と話が合うくらい」です。そこを中心にし、それによってもっと学べることを妨げ、下手に知っているがため上達しない、というどこにでもいる困った人にならないために、アドバイスをしているのです。

 研究、理論、科学というなら、仮説として考えること、そうして読むとよいでしょう。私は、ここの膨大なQ&A集も、答えでなく問いのつくり方を学ばせるものだと述べてきました。

 

○トレーニングする☆

 

 筋トレで速く走れ、重いものを持ち上げられても、発声とは関係ない、確かにそうでしょう。でも、歩くことにも荷物を持つのも疲れるような人が、体力をつけようとしないとしたら、それは大いに発声の上達を妨げます。

 私が否定するのは、強化といって繊細さ、丁寧さが消えてしまうケースだけです。☆

でもその繊細な能力を増すために強化するのです。強化というのは、筋肉の強化のためにするのではない。ですから、二極で考えるのはおかしいでしょう。

 雑に荒々しくなったら、それを元に戻してチェックしてみるとよい。そして、より繊細で丁寧にできるようになったかということです。そこを確認しなくては、実践に使いようもありません。

 かつての、よい状態に戻して、終わりでよいのでしょうか。守りに入っては、いずれ実力は落ちていくのです。しかし、強化しようとしたら、声は雑に荒くなるからダメと思う、軟派な輩が多くなりました。やってみてダメを心配する前に、元にもどしたままでは、新たに何もやっていないのと同じと思ってください。そこを超えるために工夫して行うという発想がないのでしょうか。つまり、将来に獲得できる大きな器のときにはどうあるべきか、というイメージ、ヴィジョンが欠けているのです。それなら、そこにトレーニングなどということばを使わないでほしいものです。

 

○よくある問題☆

 

 あるトレーナーのレッスンで、声の状態が悪くなり、次のトレーナーのレッスンが丁寧にできなかった。稀にそういうケースがあります。即効的な解決は、2番目のトレーナーだけにして、丁寧なレッスンを行うことです。それは、今の日本の声楽家やヴォイストレーナーが、何より優先するローリスク中心の考え方です。

 で、23年経ったとき、同じシチュエーションを与えてみて同じ結果だとしたら、どうでしょう。そのときには、最初のトレーナーのレッスンで声の状態が悪くならなくなったとか、次のトレーナーのレッスンでは丁寧にできるように戻せたというようになって初めて、実力がついた、器が大きくなったといえるのではありませんか。なぜなら、同じシチュエーションで最初からそのようにできる人もいるからです。

 

○目的

 

 声の出方(声帯)の状態だけからみてメニュを与えるのは、医者や言語聴覚士なら必要なことでしょう。しかし、体を変えて呼吸のコントロールの力をつけるのに、深い呼吸を最初からコントロールできないから、大きな呼吸を必要とする、大きな声を必要悪で使うこともアプローチの一つです。これは、大きな呼吸が深い声に変わることが目的で、大きな声が目的ではありません。

 でも、ヴォイトレで出せる声より大きな声は、本番でうまくは使えないので、大きな声もある方がよいのは、言うまでもありません。(この前提がすでに今のヴォイトレ、今のトレーナーにはなくなっているのですが)大きな声は使わないというのと、必要がないというのは、全く別です。使えなくて使わないのと、使えるが使わないというのは、大きな実力差、表現力の差になるからです。

 

○プロセスの組み立て☆

 

 一方で、呼吸のことで喉や発声に負担をかけないようにする呼吸法や呼吸のトレーニングもあります。それを体や喉の弱くなった最近ではよく使います。でもこれは、筋トレと同じ、部分的に切り離した強化へのアプローチです。

 これだけで声が大きくなるなら、アスリートなら、レッスンしなくてもよいはずです。アスリートは、大体、大きな声が出るし、声も鍛えられています。それは呼吸トレーニングでなく、大きな声をたくさん出してきたからです。

 つまり、発声での呼吸は、呼吸単独のトレーニングだけでは身につきません。それは、いつも高い声などについて述べているのと同じことです。

 とはいえ、プロセスを組み立てられたらよいことで、どちらがよい、正しい、間違いというのではありません。人や期間によって違う。アプローチとして方向が違う。そこを丁寧に繊細にすべきなのです。

1. 大きな声を出してみる。

2. 限界になれば、呼吸などの別のアプローチをする。

3. 2つの結果を出して、合っていたのなら、この順に並行して、その強化の度合いや練習時間を変えていく。

 無意識に、しぜんと楽に、気づかないままに上達していくのが理想です。誰しも考えることですが、上達というのは、そこにできるだけ早く、というのが入るから、さまざまな要因が出てくるのです。

 

○自明のこと☆

 

 声を丁寧に小さく取り出していっても、丁寧に丁寧に大きくしたら、より伝わるようにできます。でも、時間がすごくかかる。声楽家の言う、「呼吸だけで10年」が待てますか。それだけならよいのですが、これまでに長く、20年以上生きてきて、他の人よりもそこができていないとしたら、そこをみても、このまま続けても大して変わらない、と思えませんか。

 教えているトレーナーは、長く続けてきて、でできた人が多いから、そこがわかっていません。他の人を何百人と10年間以上みたら自ずとわかる。でも、そういう人は少ないから、この自明のことにも気づかない。

 私は、お笑い芸人の声力の優れていることを例に出してきました。彼らは10年以上、かなりの声の量を出しています。あるいは歩くこと一つとっても、人によってかなりの差があることを述べてきました。

舞台で60分、声を使う人が、毎日の生活で60分も使っていなければ、使えるわけがない。使えるとしたら、かつて、それ以上に使っていた日々があったからです。そこで使い方も心身で覚えた。でも、体が衰えると、そのときほどできなくなります。

 

○しなやかに☆

 

 毎日300歩しか歩いていない人が、どんなに楽に歩ける方法を教えてもらっても、毎日300歩しか歩いていないでマラソンに出られるわけがない。仮に、完全脱力した理想発声とやらを学んでも、歌やせりふは、そこから離れた声を使ってしまうこともあるのです。

 その点は、声楽家の方が恵まれています。「話をしたら歌えません」というようなレベルでさえ、守る術も使える環境も、あるといえばあります。だから、日本の歌はよくもならないのでしょうか。

 丁寧に、完全にコントロールするのは、パワーのためなどと考えることもなくなってきたのでしょう。表現でなく歌となること、歌いこなすことが目的ならそうなってしまうのでしょう。

 鍛錬と調整(条件と状態)の関係で、同じことを以前述べたことがあります。大きな声は、小さな声を繊細に使うために、小さな声は大きな声を無理なく出せるためのトレーニングとなります。声でなく感覚や呼吸を含めた体づくりのため、です。<早くと不自然>という問題も絡めました。

頭の中がまとまりましたか。よけいに混乱した、それはそれでよいのです。声も、呼吸も、知見も、感じ方も深めてください。氷のように表面が固まらないために一石を投じているのですから。水のようにしなやかになってください。

 

○イメージの必要性☆☆

 

 イメージが必要なのは、イメージしないと先に出られない、怖くて守りに入ってしまうからです。つまり、イメージしなくても何らかのイメージしてしまう、それがマイナスになりかねないのです。そこで、イメージをプラスにもつことを勧めています。プラスになければ具体的に、でもよいです。

 これは、考えることについても同じで、考えが頭の中で切れないと悪く考える。なら考え尽して切るか、あえてよい方に考えるようにします。悪く考える人は、結局、悪い結果を招くからです。

 よくないことをしたり、よくないことばを使うと、よくないことが起きます。そして、ことばとイメージが矛盾するとき、イメージの方が勝ってしまうのです。

 

○高く深く長く

 

 先生が管理していくと、生徒はいつまでも生徒、人もスケールが小さくなって、表現としても破たん、いや成立しなくなっていきます。それぞれが自立して、自ら判断し、よい結果を出していくような組織の方がよいのです。バラバラになると全体としての力は弱くなります。軸を一貫して、それぞれが結果を出せるようにする。その結果を、ここでは、「早く」でなく、「高く深く」においています。

 次に「長く」これは、たくさん入っては、たくさんやめていくスクールの運営などと逆ですが、そういう体制でないと長いスパンで人は育たない。

反体制的な人も、協力的でない人も、今ではなく、先の可能性においてウエルカムなのです。これを高度化すると、先を待てない人が接してこなくなるという自浄作用も出てきます。

 

○練習して喉が痛いとき☆

 

 痛みは警告です。休ませて回復させなくてはいけません。そして、その原因をつかんでいくことです。対処をして、結果をみます。記録して、次の同じような場合に備えます。

 それを、最初から人任せにして、例えば、薬などで抑えると、正しく把握しにくくなります。

 人の話をよく聞かない人は、自分の身体や喉の症状にも鈍いように思います。体育会出身の人などのなかには、上司、先輩に服従する習性があります。きちんと聞いていないが、周りに合わせて凌いでいく。それが自分に合わなくなると破たんしやすい。自分の身体の受け入れ状態をチェックすべきなのに、しないからです。

 

○リスクをとる☆

 

 身体を早く変えようと時間や量を増やすことで、すごく効果の出る人もいます。反面、リスクが高くなる。トレーナーは、そのリスクをみて調整する役割があるのです。それをリスクを取りたくないから、最初からリスクなしにしましょうとするのは、どうでしょうか。

 医者であれば、治る見込みのない難病の人や危篤状態の人を最初から断る、ということになります。命に別条のない人だけ引き受けて、絶対に「あの医者は安全」という評判をとる人もいれば、高いリスクのある人を引き受けて、ときに死なせてしまう名医もいます。

それで他の人も手腕が上がったり、後世にノウハウがもたらされる、そういう勇気ある人、挑戦する人こそ必要なのではないでしょうか。☆

 

○目安とスタンス☆

 

 痛いこと、声にならないことは、よくない発声と同じです。それがダメなのでなく。何かを変える必要があるという知らせです。トレーナーやそのメニュが悪いとはかぎりません。使い方が悪いとか、合っていないこともあります。例えば、体調や睡眠などが原因のこともあるでしょうし、同じメニュでも量や時間、扱い方で大きく変わります。

 私がもっとも驚いたのは、ただやるだけであるべきことが、「早く」とか、「たくさん」とか、「強く」とか、何か数えられるものが目安になっていくことです。「充実した」とか「疲れた」とかいう目安もあります。そういうことより、「ゆっくりに」とか、「メニュの間に休みを」とか、いうことで、全く違った結果になるものなのです。

 変えてよい要素は、そのメニュの応用としていくつもあります。なぜ、やりやすいところからやらないのでしょうか。音の高さ、長さ、大きさ、母音…。それは、しっかりとフィードバックしていないからです。

 CDで行うと、CDに合わせてしまう。トレーナーに合わせるのは、最初は仕方ないのですが、そこから自立してトレーナーを使っていく。そのスタンスがないと、理想の声に至りません。

 仕事に合わせて、表現に合わせて声は乱れます。そこでは声を大切にできないゆえにレッスンがあるのです。そこで声を大切に扱わなくてはよくないことでしょう。

 

Q.何に興味があるのですか。

A.人にとって声は何なのかということです。声によって人生は、人はどう変わるのか。声から宇宙や人類、人間の存在理由を知ること。声の共鳴、共振、共感、共時性。声と宗教、芸術、生活、社会など神羅万象に至るので、述べきれません

 

Q.プロと専門家は違うのですか。

A.プロとは、職業という意味が強いと思います。専門家でも求道者のような人もいます。プロとは、クリエイターとアーティスト、職人と芸術家など、いろいろと区別は考えられているようですが、私には関心ありません。

 

Q.声、ヴォイトレの魅力とは何でしょうか。☆☆☆

A.心身の支えが必要なので、頭よりも体で覚えることで深められることです。声というものは、外に表れる現象として捉えられるのでわかりやすいともいえます。喉の声帯の振動の心身から時空へ延長します。他人の鼓膜を振動させます。そして、広く伝播します。スポーツ、武術のように、頭、息などよりもずっとわかりやすいのがよいと思うのです。一瞬で実力がわかるのです。

 ラジオとレコードの時代は、もっともわかりやすかったですね。それで歴史が変わりました。

 声は、その人の成長に結びついています。頭のよし悪しでなく、生きるものとしての深さが表れます。顔や所作もそうでしょうが、声はよりストレートでもあり、隠れてもいます。人の魅力であり、能力です。

 

Q.KYにうまく対応したい。

A.声からの対応もあります。声で相手を読みつつ同調していく。声を投げかけ、反応をみるなど。仕事や生活で大切なことは、笑顔や声かけです。それで、知らない人にもアイスブレークできます。そのうち、声を使うのでなく、あなたの雰囲気で、しぜんと溶け込めるようにもなります。

 ヴォイトレでは、実際のステージングを想定するとよいです。スタンスということで立ち位置や立ち振る舞いが身についていきます。しぜんと本人が本人らしくなると対応できていくものです。ただ、一般の社会のように皆が、他人を演じようとしているところでは、演じる方へ動かされます。そこをよしとするかどうかはあなた次第です。

 

Q.不調になることはないのですか。

A.声だけをみると不調だらけです。未だに完成、実現とは程遠い、未熟なのです。しかし、声だけで生きているのでないから、そのときは、どこかで何か別の事でも調子がよければよいと、あまり気になりません。私自身は、声で競うところにいないからです。でも声で仕事したり、生活をしています。こうして述べているのも、小説やエッセイではなく、声のことなのです。それをどう捉えているかは自由です。

 

Q.歌ったり朗読したりしないのですか。

A.そこはそのプロの仕事です。私は、何でもやろうと努めている方ではありますが、なんでもできるわけではありません。ここに来ている、その道何十年の人たちを前にして、そんなこともできません。私が今のプロの歌や演技をどう思っていたしても、がんばっている人に文句を言いません。共に最大限に変えていける可能性について追求しているということです。

 声からみて、云々と言っても、それはこちらの価値観です。もっとレベルが高くなり、がんばれるために、レッスンや、こういうアドバイスが役立てばよいわけです。

 

Q.トレーナーは、プロよりうまくないのですか。

A.歌うとか語るというのは、比較するものではありません。声は顔のように、正しいや間違いはないと、私は述べてきました。そして、お互いに与え合い、研究しあってwin-winに関係を築ける人たちと声を通した関係を保ってきたのです。

 最近は、世の中、lose-loseになりたがる人が多いのでしょうか。人生を負け組とか勝ち組と考える時点で、あまりに浅いことでしょう。満点から減点していくカラオケの採点のような価値観はもたないことです。